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新潟、東北、北海道はものすごい雪になっているようです。毎日、屋根の雪下ろしをしなければ、家がつぶれてしまうそうです。ここで「ヤーネー」と言ってはいけないんであります。小樽の小栗先生から写真添付でメールが送られてきます。先月末のメールです。「今回は、あ〜疲れた、の巻。10年前の、小樽が陸の孤島になったと騒がれた豪雪に次ぐ雪です。すでに小樽の平地部分で130センチ近くの積雪です。吹き溜まりは、所によっては2メートル近いです。除雪が追いつきません。♪雪やこんこ、あられやこんこ♪なんて歌ってられません。我が家の犬も外に出たがらずにソファーの上でネコのように丸くなってます。これでも小樽市内です。心臓麻痺を起こさないように頑張ります!以上。」雪国では、礼拝の前に、入り口や駐車場の除雪をしなければなりません。きっと、大仕事であり、一汗かいてから、説教になるのかもしれません。関東では、何も苦労しないで、礼拝を始められることを感謝するしかありません。申し訳ないです。
1.私たちの推薦状
私たちのまわりにも色々な推薦状があります。転院するとき、お医者さんが患者のために推薦状を書いてくれます。推薦入学のできる学校は、試験を受けなくても推薦状でほぼOKです。出身校が「この生徒は学力面、生活面でバッチリです」と太鼓判を押すわけです。ま、本当にそうだったかどうかは、入ってみてから分かるわけですが…。入社するときも、有力者の紹介状や推薦状があればグッドです。このように推薦状は、その人を保証する効果があります。当時のキリスト教会においても、預言者や伝道者に対する推薦状があったようです。なぜなら、偽教師や偽預言者が教会を荒らし回るというケースがあったからです。パウロもテモテやテトスに推薦状を持たせて教会に派遣しています。ところで、ここで問われていることは、パウロ自身、だれから推薦状をいただいているかであります。コリント教会内では、パウロを使徒として認めていない人がいたようです。「教会に出入りしている伝道者のほとんどが、推薦状を持っているのに、パウロは持っていないじゃないか」という訳です。ある人たちは、エルサレム教会にいるペテロなどの大使徒たちの推薦状をあてにしていたのかもしれません。それに対してパウロは何と言っているでしょうか。Uコリント3:2-5をご一緒にお読みいたしましょう。「私たちの推薦状はあなたがたです。それは私たちの心にしるされていて、すべての人に知られ、また読まれているのです。あなたがたが私たちの奉仕によるキリストの手紙であり、墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれ、石の板にではなく、人の心の板に書かれたものであることが明らかだからです。私たちはキリストによって、神の御前でこういう確信を持っています。何事かを自分のしたことと考える資格が私たち自身にあるというのではありません。私たちの資格は神からのものです。」
パウロは「私には推薦状はいらない。コリント教会の存在こそが、私の推薦状である」と言っているわけです。なぜなら、パウロがコリント教会の生みの親であるからです。使徒18章を見ますとわかりますが、パウロはアテネからコリントにやって来て福音を伝えました。主は幻の中で「恐れないで、語り続けなさい。…この町には、私の民がたくさんいるから」と言われました。パウロは1年半そこに腰を落ち着けて、神のことばを教え続けたわけです。コリントの人たちはまさしく、パウロたちの奉仕による実でありました。だから、石の板ではなく、あなたがたの心の板に書かれている御霊による回心こそが、私の推薦状だというわけです。しかし、私はパウロは偉いなーと思います。なぜなら、コリント教会はパウロが創設した教会の中で劣悪の部類に入っていたからです。コリントという港町の影響もあるかもしれませんが、性的な罪が教会内に入り込んでいたでしょう。哲学を半分かじった人は、私はパウロよりも、アポロの教えが良いと言う人もいました。人々が争い、裁判沙汰になる始末です。パウロは「あなたがたこそ私たちの手紙です」と言ってはいますが、よっぽど愛がなければそんなことは言えません。だって、パウロが疑われるからです。「え、使徒パウロがあの教会を創設したの?それなのに、何故あんなひどいクリスチャンがたくさんいるの。ありえなーい」と馬鹿にされたでしょう。それでも、パウロはコリント教会は、私の推薦状そのものだと言ったのです。私はパウロの中に、本当の親の愛があると思うんです。本当の親であれば、子供が酔っ払って暴力して逮捕されても、「私の教育が悪かったのです」とわびることができます。
しかし、世の中の会社を見ますと、パウロのような態度が滅多に見られません。銀行とか自動車会社の社長は、「社員がやったことです。私は知りませんでした」などと言います。先日、テレビで「デート商法」をあばいている番組がありました。若い娘が人々を誘って、高い宝石を買わせる「デート商法」です。記者が本社をとつきとめ、乗り込んでいきました。社長は「販売目的をちゃんと説明しろと指示したのに。お前は降格だ!」などと社員に言っていました。ま、お芝居をしていたわけです。では、教会の牧師はどうなのでしょうか。「牧師先生は学問があり、すばらしい人格者だと思いますが、どうして教会がさえないのですか?」「いやねー。まず、この地域が悪い。それに教会に来るのが粕ばっかり。どういう訳か神様は弱い人や病気の人しか送らないですよねー。本来なら、もっと知識人や有力者が来ても良さそうなのに」。しかし、雇われ牧師とか、腰掛けの場合は、赴任先の教会をそのように言うかもしれません。いや、口では言わなくても、心の中で「もっと、私にふさわしい教会があるはずだ」と思うかもしれません。「私が牧している教会そのものが、私自身です」と言えたら良いですね。あるいは、「私を見る前に、教会員一人ひとりをご覧下さい。みんな輝いているでしょう。彼らは私とではなくイエス様と共に歩いているんです。信仰も能力も品性もみな私以上ですよ」。アーメン。虎は死んで皮を残すと言いますが、牧師が死んでもセル教会が残れば本望です。日本のある教会は、牧師先生一人でもっている教会もあります。そういう教会は、その牧師が引退したら、散り散りバラバラ「赤城の山も今宵い限り…」になるかもしれませんね。私はできれば、そういう教会は作りなくないと思います。そのためには、自分の牧している教会を「私の推薦状です」と誇り、運命を共ににしていく必要があると思います。そういえば、先週は、神奈川県の座間市から本籍を亀有に移動したんです。18年前、座間の大川先生から、「ま、3年か5年くらいがんばってみなさい。一生そこにいなくても良いから」と言われて来ました。私も家内も、ここに根を降ろすとは思っても見ませんでした。本当に不思議です。
きょうは洗礼式があります。教会によってはバプテスマを受けた人に「証明書」を発行するところもあるようです。「私は○○教会で洗礼を受けました。私はクリスチャンです」。果たしてそういう証明書が必要なのでしょうか。本当の証明書とは、その人の生き方であります。その人の信仰、その人の生活、その人の人柄こそが証明書なのであります。しかし、中には、「教会の面汚しだ」と呼ばれる人もいるかもしれません。しかし、神様はイスラエルに対してどうおっしゃったでしょうか。主は「ヤコブの神と呼ばれることを恥としない」と言われました。ヤコブは人を押しのけるような狡猾な人でした。ヤコブの子孫、イスラエルもろくな民ではありませんでした私もものすごく狡猾でろくな者ではありませんでした。しかし、主は「ヤスの神と呼ばれることを恥としない」のであります。新約聖書では、イエス様は「彼らを兄弟と呼ぶことを恥とはしない」(ヘブル2:11)と書いています。「あれでも牧師?」「あれでもクリスチャン?」と人から呼ばれたとしても、イエス様は愛し続け、決して見捨てないのであります。イエス様を3度も知らないと言ったペテロも、イエス様の真実と愛に触れて男泣きをしました。パウロ自身も、「キリストが私をこの務めに任命して、私を忠実な者と認めてくださったからです」(Tテモテ1:2)と言っています。「かつては教会を迫害した者であった。それなのに、イエス様が任命し、忠実な者と認めてくれたので、私はそれに答えたい」というのです。あなたは、だれの証明書、だれの推薦状が欲しいでしょうか。イエス様お一人で十分ではないでしょうか。
2.文字は殺し、御霊は生かす
3:6-8「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格をくださいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。もし石に刻まれた文字による、死の務めにも栄光があって、モーセの顔の、やがて消え去る栄光のゆえにさえ、イスラエルの人々がモーセの顔を見つめることができなかったほどだとすれば、まして、御霊の務めには、どれほどの栄光があることでしょう。」「文字は殺す」とはどういう意味でしょうか。パウロは自分の務めとモーセの務めを比較しています。モーセは石に刻まれた文字、つまり律法に仕えていました。しかし、律法は人を救うことはできません。律法は「あなたにはまだ罪がありますよ」と罪を指摘する尺度であります。使徒パウロは一生懸命、律法にかなうものになろうと努力しました。さんざん努力した結果、「私を殺し、私に死をもたらす」(ローマ7:11-13)と言いました。正確には、律法自体は悪くはないが、私たちのうちにある罪がそうさせるんだということです。ですから、この地上でどんな正しい人であっても、律法にかなう人など一人もいません。律法はどんな小さな罪でもあばくからです。かつて、ユダヤ人の教師で議員であったニコデモがイエス様を訪れたことがあります。彼は昼間ではなく、夜こっそり訪ねたわけであります。夜の訪問者であります。彼は律法をよく学び、それを実行したことでしょう。その当時、人間的にはニコデモほど立派な人はいなかったかもしれません。しかし、イエス様は「あなたは新しく生まれなければ神の国に入ることはできない」と言われました。イエス様は、律法を行なうのではなく、御霊によって新しく生まれなければ救われないとおっしゃったのです。では、パウロの務めとは何でしょうか。パウロは新しい契約に仕える者、御霊に仕える者であります。どういうことかと申しますと、イエス・キリストがご自分の行いと、ご自分の死によって、律法の要求を全うしたのであります。新しい契約とは、いわば「キリストの血による新しい契約」であります。つまり、十字架で死なれたイエス・キリストを信じるときに、その人は罪赦され、御霊によって生まれ変わるということです。パウロの務めとは十字架のことば、福音を宣べ伝えることでありました。福音を聞き、それを受け入れた人は、新しく生きることができるのです。まとめて言いますと、文字に仕えるとは律法に仕えることであり、御霊に仕えるとは福音に仕えることであると言うことです。
さて、私たち説教者も御霊に仕える者、福音に仕える者であります。ところが、新約の時代に生きていながら、いまだに文字に仕えている人がいます。確かに新約聖書から語ってはいるのですが、福音ではなく律法を語っているのです。しかし、本来ならば、旧約聖書から語ったとしても福音を語れるはずなのであります。それでは、なぜ、命をもたらすはずの聖書からわざわざ、死をもたらすようなことをしてしまうのでしょうか。日本の教会が自問自答しなければならないことは、文字として語っているか、それとも福音を福音として語っているかであります。ある韓国の先生は、「説教後、教会員がニコニコして帰るとはとんでもない」と言ったそうです。「どうしてですか?」と聞いたところこう答えました。「聖書からみことばをストレートに語るなら、聖徒たちは罪を示され、胸をたたいて悔い改めるのが普通である。だから、説教後、聖徒たちが『罪人の私をあわれんでください』と泣きながら帰るのが本来の姿である」と言ったそうです。ですから、その教会は礼拝に来る前はニコニコしているんですが、帰るときは皆うなだれて帰るというのです。ある人たちは、説教は厳しくないと物足りないと言いますが、本当でしょうか。
私は人が説教を聞いて死んでしまうのには、2つの原因があると思います。1つはキリストの十字架、キリストの贖いが説教の中心でないからです。どんな厳しいみことばであったとしても、キリストの贖いを通すならば、そこには命が流れます。その命はイエス様から来る恵みであります。人を生かすのは、「○○しなければならない」という律法ではなく、恵みであり希望なのです。人々は希望を必要としているのです。私も神学生の頃、先生方の説教を何度も聞きましたが、終わった後、なんだか肩がずっしり重いという体験をしました。そのときは何故なのかわかりませんでした。しかし、今思えば、そのメッセージの中に、「○○しなければならない。聖められなければならない。献身しなければならない。伝道しなければならない」という、「ならない」が多く入っていたからではないかと思います。「しなければならない」は、ある種の律法であります。そうではなく、「主の助けによってできるんです。主が語らせてくださるんです。主の恵みによって聖められていくんです」と言えば、「ああ、そうなんだなー」と軽くなります。もう1つの原因は頭だけ、あるいは口先だけの宣教であります。そこには御霊が参与していないのです。説教にはとても学問的であり、説教学的にも申し分のないものもあるでしょう。いっぱい本を読んで研究したはずなのになぜでしょう。おそらく、その説教は、研究発表の場になっているのではないでしょうか。大学の講義ならまだしも、講壇がそのような自己満足の場になる恐れがあります。イエス様の時代、律法学者たちがそのような説教をしました。多くは借り物で、「昔の人はこう言った、ある有名なラビはこう言った」というものでした。しかし、イエス様は神様から聞いて、「私はこう言う」とおっしゃいました。人々はイエス様の教えに驚きました。というのは、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからです(マタイ7:29)。つまり、私たちが語ることばは、説教でも宣教でも構いませんが、聖書を通して、神に聞く必要があるということです。聖書のみことばを語っていれば良いというものではありません。真理の御霊を通して、「今の私たちに何を語りたいのですか。しもべ聞きます。主よ、語りたまえ」と聞く必要があるのです。このことを瞑想とか黙想と呼んでも良いかも知れません。とにかく、書かれた文字ロゴスではなく、今、神様が言わんとしているレーマをいただくということであります。私も経験したことがありますが、神様から聞かないで語ったときは、非常に空しいです。確かに肉の力で頑張ったけれど、御霊が流れていかなかったなーというときがあります。
皆さんは私のようにこうやって講壇で語る機会はあまりないと思います。だからと言って、皆さんが御霊に仕える者にはなれないということではありません。やはり2つのことがあると思います。まず、人々に対して「あんなひどい人はいない」「なんてことするんだ赦せない」と裁いたことはないでしょうか。これは自分が律法を手にして、他の人を罪に定めている行為であります。これこそ、文字に仕える者であり、死に至らせる務めであります。私たちはいつの間にか、モーセの石の板をふりかざして、しまうのではないでしょうか。私たちは御霊に仕える者として、そこにキリストの十字架、キリストの贖いを置く必要があります。贖いを通して見るときに、「ああ、主よ。あの人を赦してください」と祈りが出てきます。そして、キリストを通して見るときに、「ああ、主にあって麗しい兄弟姉妹だな」といとおしくさえなるのです。キリスト抜きで見ると、「ああ、憎たらしい。イヤなヤツだ!」となるんです。しかし、キリストを通して見ると、あわれみの心が生まれてくるのであります。どっちが良いですか。律法を振りかざす方ですか、それともキリストの贖いを置く方ですか。私たちはキリストの贖いによって、神のあわれみを受けた者です。そうであるならば、だれに対しても、どんな時でも、十字架が必要であります。もう1つは、「○○しなければならない」という律法を自分や人に言うということであります。人に言えば、お説教になります。私たちは目下の人や子供に対し、どうしても律法的になってしまいます。私も子どもたちに「礼拝に出ろ!」と強要してきました。しかし、今は、ほどんど言いません。そうすると、子供たちは礼拝に出てきません。ま、これもまた問題です。しかし、イヤイヤ礼拝を守るよりも、イエス様を心から愛する人になってもらいたいと祈っています。家内はしょっちゅう風邪をひいています。それで、私は「信仰がないからだ」とか「たるんでいるからだよ」と言ったことがあります。今も、言っているかな?これも、御霊に仕えているとは言えないと思います。同じ言い方でも、恵みをもって語るのと、律法で言うのとでは違います。
ガラテヤ書5章には御霊の実が記されています。これは、御霊によって生きる人の特徴と言って良いでしょう。「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」とあります。自分は、一見正しいことを言ったつもりでも、「愛や親切や善意があったのかな?」と疑いたくなるときもあります。正しいこと、真理はとても重要であります。真理は、神の律法であります。神の真理、律法だけでは人は死んでしまいます。真理だけではなく、御霊の実が伴っているかということも忘れてはいけません。真理は人を切り分けます。そして、御霊が人を再生させるのではないかと思います。イエス様は「恵みとまことに満ちておられた」とヨハネ1章に書いてあります。イエス様は真理も確かにあったのですが、同時に恵みにも満ちておられました。人が本当に生きるためには、真理だけではだめです。恵みも必要だということです。「主よ、私たちに真理を示してください。真理と同時に、恵みも下さい」と祈りたいと思います。
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