「自分を頼らず」        Uコリント1:8-14

2005/01/02 鈴木 靖尋牧師
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 新年明けましておめでとうございます。昨年は台風や地震など、自然災害の多い年でした。最後の最後に、スマトラ沖の大地震があり、7万ぐらいの人たちが亡くなりました。CCMN(セル教会宣教ネットワーク)では、インドネシヤとスリランカの教会の経済的な必要のために献金を募っています。緊急に必要としているもの。食物(乾燥したもの)、飲料水、薬品と医療チーム、衣服、ベッド(マット)、シェルター、防虫剤、粉ミルク、倒壊した家屋を再建するための資金も必要です。水が汚染されているからため、赤十字は、下痢とマラリアが広く発生するとの警告を出しています。香港のセル教会から今後継続的に救援チームを派遣し、彼らを通して現地の教会に直接献金をできるようにしたいということです。本日の礼拝献金は、「スマトラ沖地震献金」としたいと思います。しばらく、自由献金箱をご用意しておきますので、よろしくご協力をお願いします。本日のメッセージは、前半がUコリント1章から、後半は新年度のヴィジョンについてお伝えしたいと思います。

1.自分を頼らず

 使徒パウロはエペソからコリントの教会に手紙を出しています。パウロはエペソこそ、小アジヤの宣教のために戦略的な町だと考え、3年間とどまっていました。しかし、同時に様々な迫害が起こりました。エペソはアルテミス(ダイアナ)の神殿があり、人々は魔術や偶像礼拝のとりこになっていました。多くの伝道の実も結びましたが、最終的には大混乱が起きて、パウロは出て行かざるを得ませんでした。パウロはエペソで受けた苦難を8節と9節で述べています。「兄弟たちよ。私たちがアジヤで会った苦しみについて、ぜひ知っておいてください。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危くなり、ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。」パウロはあまりにおも迫害がひどいので、死を覚悟したと述べています。しかし、パウロが受けた苦しみは益になりました。どんな益でしょうか?「これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした」とあります。パウロは、自分は死んじゃうのではないかというギリギリのところで、重要なことを発見したのです。それは、自分自身に頼らないで、神様に頼るということであります。

 クリスチャンであっても神様に頼るいくつかのレベルと申しましょうか、頼り方があるようです。第一は、「自分が一生懸命努力しますので、神様見守ってください」というものです。力もあり、独立心が旺盛の方ですね。神様は雲の上から眺めているだけなのでしょうか。神様が遠くにいるように感じます。第二は、「私がやりますけれど、助けが必要なときだけお願いします」というものです。福沢諭吉が「天は自ら助くる者と助く」と言いました。一生懸命頑張る人を神様は助けるということでしょうか。自分の努力プラス神様の恵みという感じがします。こういう二元論的な人は結構たくさんおられるのではないでしょうか。第三は、「神様、一緒にやりましょう」というものです。もっと言いますと、「私という器を通してあなたが働いてください」というものです。ナビゲーターという伝道団体のポスターを見たことがあります。青年が船の舵を握っています。そしてイエス様が斜め後ろに立っておられ、片方の手は青年の肩の上、一方の手は行くべき進路を示しています。第四は「神様に全部おまかせ、自分は何もしない」というタイプ。イエス様が舵を握り、自分は船室で眠っている。これは怠け者という感じがします。もちろん、自分が疲れているときは、イエス様が交代してくれるかもしれません。しかし、自分は何もしないで、イエス様任せというのは行き過ぎかもしれません。

「自分を頼らないで神様を頼れ」と言うと、能力のある人に限って、「そんなことできない」と言うでしょう。そういう人の多くは、これまで一生懸命頑張って生きてきた人なんです。口では「委ねます」と言うかもしれませんが、心の中では「イエス様に任せたら、とんでもないことになる」と思っているのです。それほど、私たちの肉は素直じゃないんです。肉とは神様ではなく、自分をより頼むことです。肉にはいいものがたくさんあります。知恵や様々な才能もそうです。「いや、私は神様に信頼しています!」と言うかもしれません。では、それが本当かどうか1つ試してみましょう。それは、「神様は、しばらくあなたを用いたくないので、じっとしていなさい」と言われたらどうでしょうか。「いいえ、私がやらなければ機能しません」とあなたは言うかもしれません。いいえ、そんなことはありません。神様が人を用いて自ら働くということが真理ならば、どんな人でも良いわけです。どうも、神様は透明な器を捜しているようです。実は使徒パウロも「私がやらなければ、だれがやる」という人でした。パウロはガマリエルの門下生で、とても優秀な人でした。新約聖書の半分を書くくらいの啓示を受けた人です。しかし、神様はパウロの肉を砕く必要があったのです。どうやって砕いたのでしょうか。それは、苦しみによってです。肉体の苦しみ、人々からの苦しみ、環境的な苦しみ、悪魔からの苦しみ…。「おおー、神様、私は死にそうです。もうだめです」。そのときに、パウロは、神様に心底頼ること、恵みによって生きることを学んだのであります。

 スティーブ・マクベイ師の『恵みの支配』という本があります。多くのクリスチャンが、主に用いられるためには、強くならなければならない、と信じ込んでいます。しかし実際には、神が用いることができるほど、私たちは徹底的に弱くならなければならないのです。私たちは神の栄光のために用いられるように、自分たちの能力をささげなければならないと考えます。すばらしい考えに思われますが、その方法だとずっと挫折し続けること間違いなしです。私も、約30年の信仰生活で、モーセがかかったのと、同じ罠にかかってしまいました。自分の人生で、この世界を変えたいという内なる願いを感じました。それで神に献身して、主の栄光のために自分の能力が用いられることを求めました。モーセと同様、私の動機は間違っていませんでした。が、しかし、私の方法は全く間違っていました。神は、ご自分のために私たちの才能を用いることを、決して求めません。自分の力ではなく、主の力に完全により頼むことが、主の計画なのです。私たちの力や才能で、主の働きが達成されるのではなく、私たちの内に住まわれる、主の霊によるのです。神は、私たちに自分の能力に頼って欲しくないのです。

さらに、マクベイ師の第三弾『恵みの地』に、使徒パウロのことが書いてありました。なぜ、神はパウロが死にたいと思うほどの重荷をお許しになったのでしょうか。どうして、主は若い情熱に燃えた牧師が直面した諸問題につぶれてしまうことをお許しになるのでしょうか。それは、Uコリント2:9が明確に教えています。「これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした」。自分により頼むという行為は今日の社会が主張する過ちです。それはアメリカ文化では賞賛に値することであると言われています。しかし、神の考えは人間の考えとは全く異なります。主は、我々人間が独立することを嫌われます。むしろ、主に完全により頼む小さな子どものようになることを望んでおられるのです。この世は、力というものが取り沙汰されます。神は人間の自己充足について反対されるのです。神が人間に求めておられるのは、何よりも弱さなのです。そして、必要のすべては主ご自身によってのみ支えられるということなのです。神様は私たちがこのことを学ぶまで、圧迫の手を緩めません。「ああ、もうだめだ。神様に頼むしかない」という所まで行かせたいのです。2005年も、私たちは自分の能力や力ではなく、主により頼みたいと思います。弱い私を通して、神の偉大な力が現われるように求めましょう。

 

2.新年のヴィジョン

毎年、元旦礼拝において、新年の基調メッセージを語っています。今年は2日になってしまいましたが…。しかし、正月なので礼拝を休まれる方も結構多いんです。そのため貴重なメッセージを聞き損ねてしまうというのは、まことに残念です!私の経験として、年末・年始は、神様が特別な「示し」を与えてくださる時だなーと思います。「新年、このことを志すべきではないだろうか」ということは、次のようなことです。セル教会では、伝道と奉仕と訓練を同時に行なうという特徴があります。一般の教会は、クリスチャンを何年か訓練し、十分に整えられてから、伝道と奉仕を任せていきます。しかし、3年もたつと熱が冷めるばかりか、未信者の友達もいなくなるので、効果的でありません。一方、セル教会では救われて間もないうちから、これら3つを同時にやってしまおうというものです。昔、三ツ輪石鹸というのがありましたが、円が3つ重なっているデザインです。セル教会は、伝道と奉仕と訓練を同時に行なうということです。

@伝道とは何でしょう。この世での、教会の存在目的はやはり伝道であります。特に日本は99%が未信者ですから、礼拝も伝道、ゴスペルクワイヤーも伝道、セルも伝道を考えないと、すぐ縮小してしまいます。新しい魂は、教会を燃やすための火種のようなものです。日本基督教団では1年間に1人も救われない教会が、全教会の半分くらいあるんですから驚きであります。何をやるにしても、意識を失われた魂に向けていかないと、教会は病気になります。意識を内に向け過ぎると、お互いの欠点だけが見えてきて、裁き合う教会になるからです。ただし、セル教会の「伝道」は、関係作りが基本であります。従来やってきた大伝道集会はお金ばっかりかかって、実りなしです。それよりも、まず愛して、仕えて、愛して、仕える。その中で機会があったらイエス様を証します。伝道のために愛するのではなく、ただ愛する。無条件の愛で愛する。教会に連れてくることが必ずしも伝道ではありません。あなたが遣わされているところ、そこが宣教地なのです。「伝道」と言うと、とても堅い響きがあります。よく英語では、リーチアウト、「手を延ばす」という言い方をします。とにかく、救われていない人たちの名前をあげて祈って、手を延ばしていきたいと思います。

A奉仕とは何でしょう。奉仕というと、ただ働きというイメージがあります。会社ではお金もらうため嫌な思いをしても働きます。しかし、奉仕はただですから、イヤならやめるということもありえます。私は「奉仕」という言葉ではなく、ミニストリーに変えたいと思います。ミニストリーとは、仕えるということであり、必ずしも聖職者になるということではありません。現代の多くの人たちは心が傷つき病んでいます。私たちはみことばで、お祈りで、賛美で、交わりによって、人々に癒しをもたらすことができます。イエス様はご自身の奉仕をイザヤ書から引用しています。「貧しい人に福音を伝える。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げる。しいたげられている人々を自由に死、主の恵みの年を告げ知らせる」とルカ4章にあります。昨年も強調しましたが、肉体の癒しと内面の癒しを進めていきたいと願っています。昨年、お呼びした、李光雨先生が教会で「カウンセリングの看板を出せば、伝道の武器になりますよ」と勧めてくださいました。だけど、不特定多数の人を相手にするのは大変です。やっぱり、教会に来られてる方、救われてまもない方の癒しと解放からやったら良いのではないかと思います。知人、家族、友人など、そういう人がいたら、お癒しいたします。しかし、間違っていけないことは、癒すのは私たちではなく、本人と神様だということです。最終的には、本人の決断と実行であります。私たちが本人の代わりに、決断し、実行してしまうと大変なことになります。抱えきれない重荷によって、潰されてしまうでしょう。最近は、LTGという小グループがあり、互いに告白し、祈り合っていると、聖霊様ご自身が癒してくださるという便利な方法もあります。とにかく、この時代、魂をケアーする奉仕、ミニストリーが必要であります。

B訓練であります。聖書で「訓練」を意味する言葉は2つあります。1つはdisciplineです。これは弟子にするという意味があります。キリストの弟子になることは自由選択ではありません。信じたらすぐ弟子になるのです。洗礼を受けてから何年もたってから、キリストの弟子になるのではありません。福音書のようにイエス様に従う者が、クリスチャンなのです。教会は、救い主イエス様だけではなく、主であるイエス様も教えなければなりません。イエス様は救い主だけではなく、従うべき王であり主なのです。もう1つの訓練はequippingであります。これは「網を繕う」という言葉から来ています。エペソ4章では「聖徒を整える」と訳されています。第一のポイントでモーセのことをお話しました。知性や能力のある人こそ問題です。それらのものを1度、十字架につけて、主により頼む人になるということです。教会はこの世で能力のある人がイコール、神様に用いられると考えますがそれは大きな誤解です。一度、旧約聖書の捧げ物のように一度火を通された後、はじめて用いられるのです。しかし、神様は未完成の人でも用います。ヤコブもペテロも非常に肉的な人でした。しかし、試練と苦しみを通過して、偉大な神の人になりました。

 問題は、伝道と奉仕と訓練の3つを同時に行なうということです。癒しばかり強調していると、ゴールがぼやけてきます。癒されたら、奉仕をする、仕えるということが重要です。ペテロのしゅうとめが熱病のため床についていました。イエス様がやって来られて、彼女の手をとり、熱を叱りつけました。聖書には「すると熱がひき、彼女は彼らをもてなした」とあります。彼女は直ったらすぐ、奉仕をしたのであります。多くの人はこの病気が完全に直ったら奉仕をしますという人がいます。これもまた問題です。アルコール依存症の人は完全に直ることはないそうです。彼らは癒される途上でありながらも、他のアルコール依存症の人たちに仕えます。するとどういうわけか、依存症から解放されていくのです。ご主人を亡くして、毎日、泣いていた姉妹がいました。もう悲しくて、悲しくて何も手につきません。ところが、あるとき彼女は同じ立場にある未亡人たちをお世話することを始めました。するとどうでしょう。悲しみが半減し、人に仕えることによって生きがいが与えられたということです。気がついてみたら、悲しみと孤独から解放されていたということです。癒しはゴールではありません。癒されたら、今度は訓練を受け、奉仕をするようになるのです。世の中では「訓練」という言葉がひんぱんに使われます。本来、訓練とは、discipline、キリストの弟子になるという意味だったのです。いつまでも癒しではなく、「何事も訓練!」というふうに前進できたら良いですね。

また、伝道と訓練も一緒に行なうべきです。従来の教会は、まだ生活において証ができていないからダメだといいます。よく聖書を学び、きよめられてから伝道する。そうなるまでには5年も10年もかかります。するとどうでしょうか?未信者の友達は一人もいなくなり、教会の友達だけになります。そして、多くの知識を得たために恐れもやってきます。伝道するのが怖くなってしまうんです。私も駅前とか家々にビラくばりを結構やってきました。もう、やりたくないんですね。ところが、昨年のゴスペルコンサート、姉妹たちが亀有駅にビラを手渡しで配りに行きました。まだ救われて数年しか経っていないので、恐れがありません、しかも情熱があります。従来の教会は伝道者・牧師にするために、神学校に送ります。3年経ち、4年経つと、もう、救霊の熱がなくなるんです。バルトとかブルンナーを論ずることは好きですが、魂を相手にすることがめんどうになるのです。そうです。いい加減な人間と無駄な時間を過ごすよりも、部屋の中で神学書を読んでいる方が楽しくなるのです。アバラブ教会もエデイ・レオは「ゾーンスーパーバイザーや地域牧師もセルを持つということが重要です」と言います。人は偉くなりますと、自分のセルを持たなくなります。すると、魂への情熱がなくなり、火が消えてしまうということです。そうならないために、たとえ牧師であっても自分のセルを持っているということです。音楽の奉仕をなさっておられる方も、セルもしくはLTGに属することをお勧めいたします。もし、そうしないならば、魂のケアーをだれがしてくれるでしょうか。働きばかりを重視していくと、聖霊の火が消えてしまいます。聖霊の火が消えてしまうと、結局はその奉仕も実りのないものとなります。ですからだれであろうとも、魂にいつも触れている、だれかに伝道しているということが重要であります。

 前半では、自分の力ではなく、神様に頼るということをお伝えしました。また後半は、伝道と奉仕と訓練の3つを同時に行なうということです。この3つの行いも、聖霊様が力と情熱を与えてくださることでしょう。どんな時でも、主と親しく交わり、神様から力と情熱をいただきましょう。2005年の道のりが始まりましたが、神様は行く先々に、良きものを備えておられることを期待しましょう。最後にローマ12:12を引用いたします。「望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい」。

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