「苦難の中の慰め」         Uコリント1:1-7

2004/12/26  鈴木 靖尋牧師
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 パウロは、エペソから、コリント教会のトラブルに心を痛め、一通の手紙を書きました。それが、今年、学びましたコリント人への第一の手紙です。しかし、パウロの書いた手紙にもかかわらずそれらの問題は十分に解決されなかったようです。そこでパウロは自ら海を渡ってコリントを短期間訪問し、かなり厳しい方法で問題の処理を試みました。そのことはコリント教会の人々を悲しませ、パウロ自身も深く傷つきました。パウロはその大きな痛みの中から、「涙の手紙」を書きました。今は残されていませんが、この手紙もかなり厳しい内容のものであったようです。そのあと、テトスから、コリント教会の大部分の人たちが悔い改めたという喜ばしい知らせを聞きました。それを聞いたパウロが非常な喜びに満たされて書いたのが、このUコリントです。

1.慰めの神

さきほどお読みしました、1―7節まで、「慰め」という言葉が何回もありました。数えてみましたら、なんと10回もあるんです。「慰め」は、ギリシヤ語では、パラクレートスと言いまして、元来、「側へ呼ぶ」とか「呼び寄せる」という動詞(パラカレオー)から来た言葉です。それが、「元気づける」「慰める」「励ます」という意味になったものと思われます。まず、3節で、パウロは神様ご自身が、「慈愛の父であり、慰めの神」であると言っています。私たちは一般に、旧約聖書から、「神様は、厳しお方だ」というイメージを持っています。私などはかなりヘソが曲がっていますので、「慰めるくらいなら、はじめから苦しみにあわせるなよ」と思います。私たちは死別、事故、喪失、失敗などで苦しみ、そして悲しみます。そのとき、「神様、なんで助けてくれなかったんだよー!」と文句が先に出るんじゃないでしょうか。特に、天災とか突発的な事故などに巻き込まれたときはなおさらです。あとから慰められるよりも、「なんでそのようなことが起こるのを回避させてくれなかったんだ」という怒りが出てきます。イエス様はこの世では患難があるとおっしゃいました。この世は神様から離れて、混乱状態の中にあります。御国である神の支配が完全に来てはいません。そして、この世の罪と不法に対しては、必ずさばきがおとずれます。それは、神様が定めた法則です。義なる神様は法則を破って、勝手に手を出せないのです。だから、この世にいる限り、個人的には悪くなくても、連帯責任を負わされ、苦難に巻き込まれたりするのです。だから、イエス様は「御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。…私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」と、祈れとおっしゃったのです。

 ところで、コリント教会の苦しみは何でしょうか。彼らは、神様から罪や不法に対する裁きを受けました。Tコリント11:30「そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者も大勢います」と書かれていました。おお、とっても怖いですね。使徒パウロは、あとから教会を訪問し、直接、叱責を与えました。その後で「涙の手紙」という厳しい手紙を書きました。その結果、コリント教会の人たちは、悔い改めたわけです。ですから、「神の慰め」というのは、罪を悔い改めて、心が痛んでいる状態の人々に対するものであると言うことができます。神様が「罪と悪を根絶やしにしなければならない」というお方でしたら、私たちは生きて行くことができません。神様は慈愛に満ちた方で、私たちが悔い改めたら、さばきをストップなさいます。そういうことは、出エジプト記、民数記、士師記、サムエル記など、いたるところに発見できます。詩篇103:8-10「主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。主は、絶えず争ってはおられない。いつまでも、怒ってはおられない。私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない」。13「父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる」とあります。父なる神様は、我が子が「ごめんなさい」言ったなら、裁きの手をひっこめられるのです。そして、泣いている子どもを「よし、よし。もう泣かなくても良いよ。今度から気を付けなさいよ」と慰めます。なにかサイクルがあるような気がします。罪→さばき→苦しみ→悔い改め→悲しみ→慰め、であります。だから、慰めは私たちを立ちなおさせるために、一番、最後にくるものです。注意すべきことは、神様は罪を悔い改めないままでいる人に対して「よし、よし」とはなさらないということです。もし、そうであったなら、いい加減な神様になってしまいます。

 それでは具体的にどうなるのか、いくつかの例をあげて考えてみたいと思います。私は子どものときから自己主張が強くて、他の人のことを考えず、自分さえ良ければそれでいいんだと生きてきました。自己中心に対するさばきは何でしょうか。先生から注意を受けたり、仲間はずれにされます。私はとっても孤独になり、イヤな気分になります。これが苦しみですね。その後、「ああ、悪かった。今度から、他の人のことを思いやることにします」と悔い改めます。でも、まだ、先生や友達から言われたことに傷ついています。すると、友達がやって来て、「一緒に遊ぼう」と誘ってくれます。これが慰めです。また、最近はネコのことが上げられます。新会堂が建った後、子どもが捨て猫を拾い、飼うことになりました。1匹、2匹、3匹となり、自宅だけでは無理で、教会でも放し飼いです。いろんなところでおしっこをしたり、教会中が臭くなりました。食器にも毛がくっついたりします。さばきは、教会員の堪忍袋の緒が切れたということです。役員会にかけられました。アレルギーの子どもが出て、教会に来れない。おしっこで使えなくなった機材もある…様々なことが文章化されるとショックでした。家内と私に苦しみがやってきました。「いきなり役員会とはひどいじゃないか」と恨みました。しかし、考えてみると、みんなが掃除をしたり、消臭剤をふりかけてカバーしてくれていたことに気付きました。「そうか、時が満ちていたんだ」と悔い改め、完全撤退を決めました。そして、2階のロビーと母子室のカーペットを新しいものに変えました。最後に慰めが来ました。「ネコちゃんたち家で仲良くしていますか」とか、「カーペット張り替えたの?プロ並みじゃない!」と声をかけられました。

 このように因果関係がはっきり分かるものは良いですが、病気とか事故、災害など、原因が直接、自分にない時であります。旧約のヨブなどはまさしくそういう存在でした。「神様、どうしてなんですか。なぜ、あんなことが起きたのですか?」と言っても答えがありません。他の人は、「あなたの罪のせいだ。あんたが悪いんだ」と責めるかもしれません。「ほんとうにそうなのだろうか?」と悶々と苦しみます。しかし、そういう複雑なケースの場合も、やはり神様は慰めてくださいます。確かに、神様は原因を教えてくれないときもあります。それでも、ヨブのように現われてくださり、「神様がご存知だったら、それでいいや」となるのです。「自分がわからなくても、神様だけはご存知だ!」。それが大いなる慰めになるのです。星野富広さんと言えば、カレンダーや絵葉書で有名ですね。教会だけではなく、一般書店やスーパーでも売られています。今から20年も前でしょうか、中学の体育の先生でした。跳び箱を使っての宙返りが失敗して、首の骨を損傷して、首から下全部が動かなくなりました。その後、まもなくクリスチャンになられました。星野さんも「神様、どうしてあんな事故を許されたのですか?神様、どうして癒してくださらないのですか。体がぜんぜん動かないんですよ。ひどいじゃないですか!」と文句を言ったかもしれません。しかし、神様は癒しの奇跡よりも、もっとすばらしい奇跡を行ないました。星野さんの、独特な絵と詩が多くの人を感動させ、慰めるようになったのです。体がビンビン動く健康な人には見えない、何かが見えるんです。不自由な中から、細かくて透明な感性が与えられました。詩のどれもが、慰めと励ましに満ちています。荒々しい心が、すっと清められます。私は星野富広さんの詩と絵を見るとき、神様は「慰めの神なんだなー」と実感します。神様は、はっきり罪が原因で起こったさばきも、原因が良くわからなくてまきこまれたさばきに対しても、必ず慰めを与えてくださいます。なぜなら、神様は「慈愛の父」だからです。憐れみに満ちた、父なる神様だからです。

 

2.他者を慰めるため

 Uコリント1:4、6「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。」6節「もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。もし私たちが慰めを受けるなら、それもあなたがたの慰めのためで、その慰めは、私たちが受けている苦難と同じ苦難に耐え抜く力をあなたがたに与えるのです。」使徒パウロは「私たちが神様から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にある人をも慰めることができる」と教えています。さきほど申し上げましたが、苦しみには、罪が原因して起こる場合もありますし、この世の常として受ける不条理の苦しみもあります。どちらにせよ、自分が受けた神様の慰めによって、今度は、苦しみの中にある人を慰めることができるというのは真理です。人を本当に慰められる人というのは、やっぱり同じような苦しみに会った人であります。子どもを失ったことのある人でなければ、子どもを失った人の悲しみを理解できません。愛知県の滝元先生ご夫妻には、大勢の子どもさんがいらっしゃいます。確か、9人目のお子さんが生まれたとき、1ヶ月足らずで亡くなったそうです。「大勢いるから一人くらいは…」と考えるのは子どもを生んだことのない人です。滝元先生ご夫妻は、深い悲しみの中にありました。そういうときは、神学的にどうのこうのと言ってもはじまりません。そのとき、ミセス穐近が、一言も言わないで、二人をただ、ぎゅっと抱きしめて一緒に泣いてくれたそうです。おそらく、ミセス穐近も同じ経験があったのではないでしょうか。失明した人でなければ、失明した人の不自由さは分からないでしょう。火事で投げ出された経験のある人しか、火事の被害にあった人の苦しみはわかりません。離婚した人の悩みは、やっぱり離婚した人でなければわかりません。ひょっとしたら、神様は私たちが受けた苦しみや悩みを他者を励ますために用いようとされているのかもしれません。苦しみや悩みの根本的な原因はわからないときがあります。「神様、なぜこんなことが起きたのですか」と問うても分からないことが多くあります。しかし、「なぜ」ではなく「何のためでしょう」と問うなら、1つの答えとして「それは同じ苦しみにある人を慰めるためです」と言えるかもしれません。

 リック・ウォレンが書いた「人生を導く5つの目的」という本があります。全米で1500万部突破、世界40カ国以上の原語に翻訳とうたっています。その本の31日目にあたるところに、「自分の経験を用いる」という箇所があります。あなたは人生経験を積み重ねていく中で、人格的に整えられてきたわけですが、それらの経験はどれも、あなたが自分ではコントロールすることのできないものでした。しかし神は、あなたという人間を造り上げるために、それらすべてのことが起こるのを許されました。あなたは自分の過去を振り返りながら、どのような問題、痛み、傷、そして試練から学んできましたか。神は決して痛みを無駄になさいません。事実、あなたの最も重要な働きは、あなたが最も苦しんだ経験から生まれてくると言っても過言ではありません。ダウン症の子どもを持つ親以上に、同じ問題で苦しんでいる夫婦を助けることが出来る人がいるでしょうか。アルコールという悪魔と戦い続け、ついに自由を見出した人以上に、アルコール依存症の人の回復を助けることのできる人がいるでしょうか。夫が人妻と駆け落ちしてしまった経験を持つ女性以上に、夫が浮気をして失踪してしまったという女性を慰めることのできる人がいるでしょうか。神がその痛みの経験を用いたいと願っておられるのであれば、あなたは喜んでそれを人に分かち合わなければなりません。隠すことはやめ、正直に自分の過ち、失敗、そして恐れを認めなければなりません。そうすることが、恐らくあなたの最も効果的なミニストリーとなることでしょう。自分の力を誇るよりも、弱さの中に現われた神の恵みがどのようなものであったかを分かち合う方が、どれだけ聞く人の励みになるか分かりません。…このように書いてありました。

 きょうは、一年で、最後の聖日礼拝です。52回目です。今年を振り返って、みたらいかがでしょうか。家庭の中でどのようなことを学んだでしょうか。夫もしくは妻とコミュニケーションを回復したことでしょうか。子どもたちとの関係はどうだったでしょうか。学校とか何らかの学びで、得たものはあるでしょうか。エリヤハウスで学んだ人もいます。仕事の経験はいかがでしょうか。成し遂げたこと、挫折を感じたこと。後味の悪かったものもあれば、よくやったなーというものもあるでしょう。霊的経験はどうでしょうか。神様との関係において、最も意義深かったことはどんな時だったでしょうか。私は今年、仕えることを学びました。「サーバントリーダー」という本を若木先生から薦められて読みましたが、「牧師として最も大切なことだなー」と思いました。もし、自分がこの世の強いリーダーシップでやっていたら、たくさんの争いを巻き起こし、毎日、憤慨して生きていかなければなりませんでした。しかし、へりくだって仕える方に回ると、無駄な衝突を回避できます。奉仕の経験はどうだったでしょうか。どのようにして神様に仕えて来られたでしょうか。教会の中だけではなく、PTAの隣人に仕えることも奉仕かもしれません。最後に、苦難の経験です。今年、あなたはどのような問題、痛み、傷、そして試練から学びましたか。さきほど、私の経験を分かち合いましたが、みなさんにもそれぞれあるはずです。ある人たちは、LTGという小グループの分かち合いをしていますので、結構、励ましを受けたかもしれません。「あのときは、とても立ち直れそうもなかったと思ったのに、不思議に回復された」という人もいるかもしれません。いや、まだ、トンネルの中にいますとおっしゃる人もおられるでしょうか。先週、兵庫県のある姉妹から電話がありました。「去年のクリスマスはどん底にいました。しかし、今やっと光が見えてきました。今も波はありますが、あの頃から比べるとだいぶよくなりました」とおっしゃっていました。うつ病とか燃え尽きは、きょう明日に治るものではありません。1年、あるいは2年、3年もかかる場合があります。しかし、それらも、神様が許されたのですから、貴重な経験と言うことができるでしょう。

 私たちの人生で経験できることはわずかなことです。しかし、もし、教会にいろんな苦しみを経験された人が集まっていたらどうでしょうか。この世の中から心の傷や痛みを持っている人が来ても対処できるのではないでしょうか。「あの方にはあの兄弟が、あの方にはあの姉妹が…」というふうにお相手でき、そして慰めの神様へと導くことできます。アルドス・ハックレイという人は、「経験とは、自分の身に起こったことではありません。それは、自分の身に起こったことを、あなたがどう扱ったかということなのです」と言いました。私たちは自分の痛みを無駄にしても良いでしょうか。そうではなく、人を助けるために用いるべきであります。神様は私たちの痛みの経験を用いたいと願っておられます。だから、それを自分の中に隠すのではなく、必要なときは、喜んで分かち合うべきです。先週、テレビを見ていましたら、ピンクレデイって解散後、本当に苦労したんだなーと思いました。ケイは、結婚ができなくなり、燃え尽き症候群になりました。ミイという人は、事務所に振り回されてしまい、気がついたら、仲間が3億の借金を作っていました。26,7年ぶりでしょうか。二人とも本当に苦労したんです。ピンクレデイが再結成され、46歳と47歳の細身の女性が連日コンサートをしています。こんなに高いヒールを履いて、歌って踊っている様を見て感動しました。それを番組の中で見ていたタレントさんも、泣いていました。世の中の嵐に巻き込まれながらも、自分が定めた方向に進んでいくというのはすばらしいことです。

 もし、私たちの人生が何も問題がなく、平坦であったなら。そして、苦しみも悲しみもなかったならどうでしょうか。そうであるなら、喜びとか感激、感動というのもたいしたことがないでしょう。やはり、困難や苦しみを乗り越えた、その後でくる、喜びはすばらしいものです。神様は、神の子たちに、この世の嵐に遭遇するのをある程度、許しておられます。それはこの世にあるまだ救われていない人たちを導くためではないでしょうか。天国という港に着くまでは、嵐はあるんだと覚悟すべきです。しかし、同時に、慰めの神は脱出の道を与え、友を与え、そして聖霊様を与えてくださいます。聖霊様はパラクレートス、慰め主です。だれが慰めてくれなくても、聖霊様ご自身が、言いようもないうめきをもって、共に涙し、とりなしてくださるのです。主の恵によって、52回目の礼拝を守ることができたことを感謝します。2005年も何が起こるかわかりません。明日はどんな日か私は知らない。しかし、明日を守られるイエスが共におられます。たとえどんなことが起きても、私たちの主イエス・キリストの神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますようにと願います。

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