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クリスマスといえば、12月末であります。日本では12月末というのは特別な意味があります。12月は歳末であり、新しい年を迎える準備のために忙しくなります。昔は、正月のためにお餅を買えるかどうか心配していたお家も多かったと思います。私は子どもの頃、母に、クリスマスだから何か買ってとねだったことがあります。すると母から、「うちにはクリスマスなんかないよ。クルシミマスだよ」と言われました。冗談で笑えるうちはまだ良いほうです。しかし、経済的に厳しかった我が家ではクリスマスをお祝いするなどという余裕はありませんでした。我が家にとっては、クリスマスとは、遠い外国の、おとぎ話の世界だったわけです。そんな私が牧師になり、毎年のクリスマスにメッセージをするなどと、一体だれが想像できたでしょうか?
1.低くなられたイエス
ルカ福音書を見ますと、神の子イエスが、この世の権力者たちによって、引き廻されているような感じがします。当時はローマが世界を支配していました。皇帝アウグストが属国に課税をするために人口調査をしました。「一旦、自分の生まれた町に帰って、そこで住民登録をせよ」ということでした。今でしたら、本籍地はどこかということが、すぐ分かりますが、当時は人間がわざわざ移動したのであります。ヨセフとマリヤの現住所はガリラヤで、本籍地はユダヤのベツレヘムでした。なんと、その距離は、直線で110キロもあります。地図をみて分かりますが、南の方は山地ですので、結構大変だったと思われます。おそらく、貧しいヨセフとマリヤはロバではなく徒歩だったかもしれません。たとえて言いますと、葛葉姉に「日本橋から、箱根を越えて沼津に行け!」というようなものであります。身重のマリヤにとっては、苛酷な旅であったことは間違いありません。6節に「ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ」と書いてあります。「ところが」と日本語で訳されています。「ところが」というと、とんでもないアクシデントが起こった、不幸なことが起こったという感じがします。しかし、原文のギリシヤ語には「起こるべくして起こった」「成就した」という意味がこめられています。イエス様はベツレヘムで生まれなければならなかったのです。それは、旧約聖書のミカ書が成就されるためであります。さらに7節を見ますと「それで、布にくるんで、飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」。飼葉桶に寝かせるほうも寝かせるほうですが、悲しいことに、宿屋は人口調査のために満員でした。しかし、イエス様が馬小屋の飼葉桶に寝かされたということには深い意味があります。
イエス様は神の子であり、王子であります。普通でしたら、宮殿において、ご用達の医師たちが出産にあたるでしょう。生まれたら、金のベッドに、羽根布団。フランネルか何かに包まれ…乳母たちがうやうやしく介護するでしょう。そして、御子の誕生のニュースは、衛生放送で全世界に伝えられるでしょう。ところが、神の子イエスは不衛生極まりない馬小屋の飼い葉桶のベッドです。こんなことがあって良いのでしょうか。だれも祝ってくれない。側にいるのは、牛とか羊くらいです。「メェー」とか「モー」、「オレの飼い葉桶返せ!」と鳴いたかもしれません。イエス様が馬小屋の飼い葉桶に寝かされたことにはどんな意味があるのでしょう。もし、イエス様が宮殿の特別室に寝かされていたならば、一般の人は近づくことはできません。たとい、お祝いに駆けつけたとしても、お堀の外で、記帳するくらいであります。直接会えるのは、大臣とか皇族くらいであります。しかし、馬小屋でしたら、身分の差など関係なく、どんな人でも近づくことができます。クリスマスの賛美歌の中に「高きも低きも来たり祝え」という歌詞があります。これは、「身分の高い人も、身分の低い人もここに来て祝いなさい」ということです。おそらく改訂版は、「差別用語だ」ということで歌詞が変えられていると思います。しかし、ローマの時代はまさしく身分がすべてでした。日本でも百数十年くらい前までは、士族とか貴族と言われていたんです。今では、露骨に口にこそ出しませんが、自分の子どもには学歴とか職歴を少しでも高いものにと願っている親御さん。結婚でも、生まれや家柄を気にしている人がまだいるのではないでしょうか。生活レベルの高い人はどのようなクリスマスを祝うのでしょうか。豪華な大広間に、ご馳走が山のように並べられ、着飾った紳士淑女が集まります。それぞれが、高級なプレゼントを交換し、華やかなクリスマスをお祝いするかもしれません。しかし、聖書のクリスマスは、そういう高級感など微塵も感じさせません。吹きさらしの馬小屋には、1本のキャンドルでもあったら良い方です。救い主が何故、馬小屋で生まれ、飼い葉桶に寝かされたか。それは、しもじもの人も救われるためであります。皮肉なことに、身分が高くて、富んでいる人は救い主に会うことができないのです。「救い主が、なんで、馬小屋の飼葉桶なんかにいるんだ!そんなはずはない。宮殿にいるはずだ!」と言うでしょう。
イエス様の誕生に一番先に駆けつけたのはだれでしょう。2章の8節以降を見て分かりますが、御使いたちは、野宿で夜番をしていた羊飼いたちにが知らせたのであります。当時、羊飼いは卑しい職業でした。彼らは住む場所が定まっていなかっため律法を守ることができなかったからです。神様はあえてそういう人たちを招いたのであります。御使いが告げました。12節「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶に寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです」。彼らは急いで行って、ヨセフとマリヤ、飼い葉桶に寝ておられるみどりごを捜し当てたと書いてあります。彼らにとって、飼い葉桶はしるしであったわけです。どこの世界に、飼い葉桶に寝かされている赤子がいるでしょうか。しかし、それは「その方こそ、主キリストであることのしるし」だったのです。夜中に、人の家に入って赤ちゃんを捜すのは困難ですが、馬小屋だったら可能であります。どかどか、と羊飼いたちが馬小屋に入って来たとき、ヨセフとマリヤはさぞかし驚いたでしょう。野原で夜番をしていた羊飼いたちがお祝いに駆けつけたのであります。今風に言うと、夜中に道路工事をしている人たちです。イエス様の誕生に、赤色灯を持ったガードマン、土木作業員、重機の運転手さんが駆けつけるようなものであります。産院では、一週間はガラス越ししか見られません。しかし、作業服を着た人たちが、ジカにお祝いに来たようなものなのであります。私はそういうイエス様が大好きです。マルコ10章にこのような記事があります。親御さんたちが、子どもを祝福してもらいために、イエス様のもとへ連れてきました。子どもたちは、「わあー」とイエス様のところに駆け寄ってきました。ところが、弟子たちは「子どもはあっちへ行け」と叱りました。イエス様は、めずらしく「憤った」とあります。「子どもたちを、私のところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです」と言われました。当時の世界では、子どもは半人前でした。弟子たちは、「大人が集会しているところに、ガキなんぞ連れてくるな!」と言ったのかもしれません。しかし、イエス様は神の国は、「子どもたちのような者です」とおっしゃったのです。そうです。子どもには、身分は関係ありません。むしろ、子どもはへりくだっています。低い存在です。イエス様は、「神の国とは、低い者たちのものです」とおっしゃりたかったのではないでしょうか。
ミッションスクールもそうですが、教会も歴史を通して、いつの間にか、品の良い人たちが集まるところになりました。私は24歳のとき、東林間のバプテスト教会で英会話をならっていました。その教会は、キャンプ座間の近くでしたので、3分の2くらいはアメリカ人でした。そこに集まっている日本人は、英語にかぶれている変な日本人でした。12月になり、クリスマスイブの礼拝と祝会の誘いを受けました。24日、私は定刻より10分くらい遅れてしまいました。その教会は立派な木製の扉でした。私は扉がとても重々しく感じて、開けることができませんでした。私のような者が来るところではないと思って、引き返しました。そのため、私は教会のドアは透明なガラスにしているのです。それから年が明け、職場の先輩から誘われ、2月から座間キリスト教会に行くことになったのです。その教会は八百屋と床屋さんの間の奥まったところにあり、とっても古い建物でした。しかし、とっても温かくてありのままで来て良いという雰囲気があふれていました。私は25才で洗礼を受け、いよいよクリスマスを迎える12月になりました。青年会主催のクリスマスでは、その年の受洗者だったのでキャンドルを灯す役をさずかりました。クリスチャンになってはじめて、クリスマスって良いもんだということが分かったのです。クリスマスは、一部の人たちのものではありません。庶民のものであります。イエス様はそのために、馬小屋で生まれ、飼い葉桶に寝かされていたのです。御使いたちが羊飼いたちを招いたように、私たちを招いておられます。賛美歌にあるように、「もろびとこぞりて、迎えまつれ!」であります。
2.模範者イエス
ピリピ2章にはキリストが低く卑しくなられたという有名なみことばがあります。ピリピ2:6- 8をお読みいたします。「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」本来、イエス様は神であり、高いところにおられるべきお方です。ところが、イエス様は神のあり方を捨てて、ご自分を無にして、卑しくして、奴隷の姿まで降りて来てくださったのです。しかも、犯罪人がかかる十字架の死まで従われました。いやいや、神様が人間になるのも大変なのに、人間以下の奴隷になり、死刑囚になったのであります。普通の人よりも、もっと、もっと下、どん底であります。その高低差たるや、いかばかりでしょうか。イエス様はどん底まで、地獄の深い底まで、降りて行かれたのです。何故でしょう。それは、最初のポイントでもお話しましたように、そういう人たちをも救うためであります。イエス様は高いところにいて、こっちまで昇って来いというお方ではありません。降誕というくらいですから、降りて、誕生してくださったのです。世の中の宗教は人間が昇る宗教です。『蜘蛛の糸』」という芥川龍之介の短編小説があります。お釈迦様が蓮の池のまわりを散歩していました。すると、透き通った蓮の池を通して、地獄が見えるではありませんか。遥か下には血の池でもがき苦しむ囚人たちがいました。カンダタという極悪人は、生涯1つだけ良いことをしました。蜘蛛を踏みつけようとしたのに、助けたのです。蓮の葉っぱにいた、蜘蛛から糸がするすると、地獄まで垂れ下がっていきました。カンダタはそれをいち早く見つけ天上へと必死に上りました。極楽がもう少しです。ところが、下を見たら大勢の人たちが同じ蜘蛛の糸を登ってくるではありませんか。カンダタは、「馬鹿野郎、これはおれの糸だ。一人でも切れそうなのに、とんでもない。お前ら、さっさと降りろ!」と怒鳴りました。そのとたん、蜘蛛の糸はぷっつりと切れ、カンダタはもといた血の池に真っ逆さま。お釈迦様は、悲しそうな顔をして、蓮の池を後にしました。確かそういう内容でした。なんだか、寂しいですね。しかし、キリスト教は、神様が下る宗教です。イエス様は蜘蛛の糸ではなく、ご自身がどん底まで、降りてくださったのです。
ピリピ2章は、イエス様は低くなられた救い主というだけではなく、私たちの模範であると教えています。ピリピの教会には分裂分派がありました。どこの世界にもあるかもしれませんが、自己中心や虚栄心で行動していました。自分の方があの人よりも勝っている、自分の方があの人よりも正しいと思っていたのです。だから、一致がありませんでした。パウロはそういうピリピの教会員に勧めています。キリストが神の座から降りて、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、卑しくなられたことを考えなさいと。プロテスタント教会は、救い主イエスということは強調しますが、模範者イエスとはあまり言いません。カトリック教会の方は、私たちと逆で、模範者イエスを強調します。私たちは、バランスが必要です。クリスチャンは、イエス様に学ぶ必要があります。それはどんなことでしょうか。イエス様のようにへりくだるということであります。「へりくだり」たった、5文字ですが、これほど難しいものはありません。また、この5文字こそ、平和と一致を築くために大事なものも他にありません。イラクの戦争がなかなか収まりません。自衛隊も延長すると言っています。もし、アメリカにキリストの「へりくだり」があったなら、あのようにはならなかったでしょう。日本も、不景気をなかなか脱することができません。多くの人は精神が病んでおります。学校の先生もそうであると、昨日の新聞に載っていました。なぜでしょう。神様が「経済大国日本よ、へりくだりを学べ」とおっしゃっているのではないかと思います。しかし、他人事ではありません。クリスチャンがまず、キリストに倣う。そのことが必要であります。
U歴代誌7:14「私の名を呼び求めている私の民がみずからへりくだり、祈りをささげ、私の顔を慕い求めるなら…彼らの罪を赦し、彼らの地を癒そう」と書いてあります。神様はこの世の人たちに要求しているのではなく、神の民に求めているのであります。なぜなら、クリスチャンは民を代表する祭司だからです。私たちはキリストの「へりくだり」を実践すべきであります。教会の中ではもちろん、家庭や職場で「へりくだり」を実践したら、なんとすばらしいでしょうか。ハドソン・テーラーと言えば、中国宣教で最も有名な宣教師であります。彼はわざわざ中国の奥地、だれも行かないようなところに宣教にでかけました。しかし、彼は、同じ宣教団体から、妬みを買いました。未信者からではなく、キリストのために働く者たちから妨害を受けたのです。ハドソン・テーラーは神様に「なぜですか!」と、文句を言いました。そのとき、主は1つの幻を見せてくれたそうです。自分は急流に立っていました。流れが急な川に立っているので、水ばかりか、石ころまで自分に当たってきます。「おお、これは妨害の激しい私の状態です」と思いました。そのとき、主が言われました。「あなたは、川に立っているのでそうなるのだ。川底にもぐりなさい。もぐったら、石ころも水の流れも、あなたの上を越えて行くであろう」と。偉大なハドソン・テーラーは、そのとき、へりくだることを学んだのであります。今から、十数年前ですが、滝元明先生をこの教会にお招きしたことがあります。3回のメッセージどれも強烈でした。先生は、「へりくだり」こそ、家庭の平和の鍵であるとおっしゃっていました。部屋の真ん中に、水の入ったやかんが置いてありました。ご主人がそれを蹴っ飛ばしたために、畳に水がこぼれてしまいました。ご主人が奥様に「なんで、こんなところにやかんを置いておくんだ!」とどなります。奥様は「あなたこそ、どこに目をつけてあるいているの!」と反発します。そこから、絶え間ない争いに発展します。ところが、ご主人が奥様に「ああ、ごめん。足にひっかけちゃった」と謝ります。すると、奥様は「私こそ、悪かったわ。そんなところにやかんを置いて」と謝ります。これが「へりくだり」ですと、先生は教えてくれました。これができそうでできないのが、家庭であります。「へりくだり」たった5文字なんですけれど…。「へりくだり」を教会の兄弟姉妹の間で、実践したらどうなるでしょう。前だったら、「何で私が謝らなければならないの?あんたのせいよ。」と言っていた。しかし、「いいえ、私がいたらなかったのです。ごめんなさい」と言ったなら、そこは天国になります。天国は遠くにあるのではなく、へりくだるところに、すぐ近くにあるのかもしれません。
最近「サーバント・リーダーシップ」という本を読み始めました。これは、仕えるリーダーという意味であり、イエス様を模範としています。この世のリーダーシップは、ピラミッド型で、上の人が下に命令し、下の人が上の人に仕えるという構造です。しかし、サーバント・リーダーは全くこの逆で、偉い人が一番下にいるのです。そして、自分の部下がどのようにしたら働き易いか考えます。本当のリーダーシップとは、「その人に必要なものを見出し、与えるということである」と定義されていました。そういう人には、結果的に、権威が与えられるということです。この本の作者は「だれが一番私に仕えてくれただろうか?」と考えたとき、お母さんだと分かったそうです。だから、子どもがお母さんを敬うのは当然なんだなと気付いたそうです。そうです。私たちに一番よく仕えてくれる人が、私たちのリーダーにふさわしいのです。イエス・キリストは、私たちの罪を背負うために、この世に来て、仕えてくださいました。そして、今もなお仕えていらっしゃいます。なぜ、私たちがイエス様を「主の主、王の王」として、礼拝するのでしょうか。それは、私たちを救うために天から下って来られ、十字架にかかり、陰府にまで下られたからです。だからこそ、私たちはこの方を「主」としてあがめるのです。クリスマスとは何でしょう。クリスマスとは、神の御子が神の御座を捨てて、低いところに降りて来てくださったことです。ここに救いとへりくだりの原点があるのです。
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