「大祭司イエス」            ヘブル2:11-18

2004/12/05 鈴木 靖尋牧師
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 最近は一般のお家でも、電飾を施した、クリスマスのデコレーションをしています。「教会でもやらないんですか?」と言われたりしますが、私は見るのは好きですが、あのように作るのがめんどうな気がします。クリススマスをお祝いしたい気持ちはわかりますが、本質的なものを知ると、そんなに飾らなくても良いと思います。クリスマスの意味が分からない人に限って、何かゴテゴテ飾りたがるようであります。それはともかく、本日から、クリスマスのメッセージをお届けしたいと思います。

1.贖い主イエス

 ヘブル2:11-13をご一緒にお読みいたしましょう。11節に「主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としない」と書いてあります。分かりやすく言いますと、イエス様は私たちを贖うために兄弟となられたということです。ルツ記を見ますと、ナオミというやもめが出てきます。ご主人も二人の息子も亡くなり、モアブから故郷のベツレヘムに戻って来ました。浦島太郎じゃありませんが、土地はもう他人の手に渡り、一文無し。ただ、息子の嫁ルツがモアブからくっついてきました。彼女も若い美空で、やもめでした。ルツは一生懸命、落穂拾いをして、義母をささえました。ある日、ボアズという人が登場して、ナオミの土地を買い戻してくれます。しかし、そこに重要なことが記されています。買戻しの権利があるのは、ナオミの近親者でなければならないということでした。一番目の近親者はどうも嫌だったみたいです。だって、土地を買い戻しても自分のものにならないからです。二番目の近親者ボアズが、土地を買い戻し、ルツと結婚しました。そして、ナオミも面倒をみたのです。土地代金を払って、ババつきの人と結婚したわけです。旧約聖書では土地を買い戻すことを「贖う」と言いました。ところが、だんだん、この「贖う」という意味は、罪の代価を払って買い戻すというふうに変わっていったわけです。

 ところで、イエス・キリストは人類を罪から贖うために、1つのことをしなければなりませんでした。それは、人間の近親者、親族になるということです。ヘブル2:11「主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としない」とあります。つまり、イエス様は私たちを贖うために兄弟となられたと言うことです。ありがたいとは思いませんか。私が神学生の頃、学長の小林和夫先生がこのようなことを言われました。もし、自分の家族のだれかが前科者であったならどうするだろうか。恥だと思って、隠そうとはしないだろうか。「私の兄です」あるいは「私の弟です」などと紹介できるだろうか。そのようなことを言ってどきっとしました。私は8人兄弟の7番目ですが、下に妹がいます。私が小学校6年生の頃、クラス委員になったことがありました。そのとき、3才下の妹は、今では「なかよし学級」というのでしょうか、その頃は「特殊学級」と呼んでいました。全校生徒が集まる朝礼のとき、私は大変恥ずかしい思いをしました。友達から、「お前の妹は、特殊学級にいるぞ」と言われたからです。妹は、3月末に生まれたせいか、出遅れてしまい、ずっとクラスに追いつけないでいたようです。私は母と妹に対して「なんで、特殊学級に入るんだ。俺が恥ずかしいじゃないか」と怒りました。私は自分の妹の存在を恥ずかしく思っていたわけです。しかし、私が今度は一番上の兄が入った工業高校に入ったときです。兄を教えた先生がまだ何人もおりました。兄はとっても優秀だったらしく、成績の悪い私は恥ずかしい思いをしました。高校1年のとき、万引きで捕まりました。そのとき、兄を教えた先生方から「なんて破廉恥なことをするのか」と言われました。私は妹を恥ずかしく思っていましたが、今度は、自分が兄弟の恥さらしになったわけです。日本では、この「恥」という言葉が、ナイフのように鋭くグサッときます。しかし、イエス様はこんな私に対しても、兄弟と呼ぶことを恥とされないのであります。なんと嬉しいことでしょうか。

 イエス様はどんな人とでも交わり、神の御国に導こうとされました。しかし、その当時の宗教家はなんと言ったでしょうか。マタイ11:19「あれ見よ。食いしん坊の大酒飲み、酒税人や罪人の仲間だ」とののしりました。英語の聖書はfriend「友」となっています。イエス様は大酒飲みや罪人の「友」となってくださったのであります。私たちはどんな人を友達にしたいですか。兄弟とか親戚に、優秀で社会的地位のある人だったら喜んで紹介したいですね。反対にひどい人でしたら、「あんなやつと一緒にしないでくれ!」と他人のふりをしたくなりますね。イエス様は十字架にかかられたときは、お一人じゃありませんでした。死刑になるような犯罪人が両側にいたんです。イエス様が真ん中ですから、道を歩く人は、「あいつが一番悪いんだろうなー」と思ったかもしれません。イザヤ書53:12「そむいた人たちとともに数えられた」と書かれています。つまり、罪人と一緒に数えられたということです。なんで、イエス様はそこまで一緒になられたのでしょうか。それはどんな人たちをも贖うためです。ルツ記にもありましたが、近親者、親族にならなければ、贖うことができません。だから、イエス様は、私を、あなたを「兄弟と呼ぶことを恥としない」のであります。イエス様を信じるとクリスチャンになることができます。クリスチャンとは、キリストに属する者という意味です。また、どんな教会でも、十字架を掲げているならキリスト教会と呼ばれます。もしかしたら、イエス様は「あの人には自分はクリスチャンと言ってもらいたくない」と思う人がいるかもしれません。また、もしかしたら、あそこはキリスト教会の名乗ってもらいたくない」と思うかもしれません。でも、イエス様は覚悟しておられるのです。どんな人であろうと、どんな教会であろうと、「兄弟と呼ぶことを恥としない」のであります。それなのに、私は「あれでもクリスチャンか?」「あれでもキリスト教会か?」と批判するときがあります。自分のことを棚に上げ、まことに恥ずかしい次第であります。

 クリスマスでよく歌われる曲があります。「まぶねの中に産声あーげ…」で始まる賛美歌があります。2節目は「友なきものの、友となりて、こころくだきし、この人をみよ」となっています。イエス様は友なきものの、友となってくださるのであります。私もそうですが、あなたも、一番惨めなときがあったはずです。そのときも、イエス様は友であったのです。他の人も、自分自身も恥さらしだと思っていたかもしれませんが、イエス様だけは兄弟と呼ぶことを恥とされない。ここに救いの原点があります。ここに癒しがあります。この世には華やかなクリスマスがいっぱいあるかもしれない。クリスマスパーテイ、クリスマスプレゼント…そんなの関係ありません。私の一番恥ずかしい、どうしょうもないあの自分のところにイエス様は来てくださったのです。私の恥をすすぎ、洗いきよめてくださったのです。その証拠に、クリスチャンは自分の恥をキリストの栄光のために用いることができます。「恥は我がもの、栄えは主のもの」などと言ったりします。「イエス様は、こんな者でも贖ってくださったんです」と、イエス様を誇れる人生はすばらしいと思います。アーメン。

 

2.大祭司イエス

 大祭司とはどんな人でしょうか。大祭司とは、神様と人間の仲介者です。年に一度だけ、きよい動物の血を携えて、至聖所に入ることができます。至聖所は、幕屋もしくは神殿の奥の間であり、主が臨在するところです。普段は聖所まで入ることができますが、隔ての幕の向こう側、至聖所には入ることができません。むやみに入ったりすると、神に打たれて死んでしまいます。ヘブル人への手紙は「イエス・キリストは神からの大祭司として来られたのだ」と、この2章から10章まで延々と書いています。キリストは神ですから、知的には人間のことをよく知っていたはずです。しかし、人間にならなければ、「ああ、人間ってこうなんだ」と体験的に知ることはできません。人間が持つ悩み、苦しみ、罪、弱さは、やっぱり人間にならなければ分からないのであります。では、人間が持つ最大のイベント(出来事)は何でしょうか?それは、この世に生まれることと、死ぬことではないでしょうか。なんと、イエス・キリストは2000年前、乙女マリヤから生まれました。最も弱い姿でこの世にやって来られたのです。それがクリスマスです。イエス様もやっぱり、おしめをしたと思います。ヘロデ王が殺そうとしましたが、父ヨセフは御使いから指示を受け、夜中にエジプトへ逃れたと福音書に書いてあります。イエス様は、結婚はしませんでした。なぜなら、ご自分がクリスチャンの花婿になるためであります。しかし、人間がどうしても避けることのできない死を経験されたのです。

 ヘブル2:14,15「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」すばらしいですね。イエス様は、血と肉を持って、つまり人間となられたのです。そして、死んだのです。死んでおしまいだったのでしょうか。お釈迦様もマホメットも死にました。しかし、イエス様は復活したんです。つまり、イエス様の死は、単なる死ではなく、死の力を持つ悪魔を滅ぼすためだったのです。イエス・キリストだけが、死の中に自ら飛び込んで、死を打ち負かしたのであります。こんな人、歴史の中に他にいるでしょうか?いないです。クリスマスの賛美歌に「神の御子は今宵しも」というのがあります。その英語の歌詞がすばらしい。「オーカム、オイーフェイスフル、ジョフル、トライアンファント」。このTriumphantは「意気揚々として」などと訳されます。しかし、動詞のTriumph(トライアンフ)は、敵を打ち負かす、凱旋するという意味があります。この言葉が一番ふさわしいのが、死と悪魔に打ち勝った、イエス・キリスト様であります。ハレルヤ!なぜ、「オーカム、オイーフェイスフル」なのか。イエス・キリストが凱旋勝利されたので、彼に続く者たちも、勝利者になれるからだという意味であります。イエス・キリストは真の大祭司となるために、血肉を備え、自ら死ぬことによって、悪魔という死の力を滅ぼしてくださったのです。そのお陰で、私たちはどうなったでしょうか。15節「一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放して」下さったのです。ですから、キリストを信じる者は、死の恐怖の奴隷ではありません。私も少しは怖いですが、御国に入るための門(ドア)になったのです。ドアの向こうは天国です。ハレルヤ!

 しかし、人間は死だけが問題ではありません。生きること自体がこれまた大変なのであります。「死ぬこと以上に、生きることが困難である」とだれかが言ったかもしれません。しかし、大祭司なるイエス様は私たちに同情し、私たちを助けるために同じように苦しまれたのです。ヘブル2:17,18に書いてあります。「そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。」イエス様はいきなり、十字架にかかられたのではありません。30歳までは、一般の仕事、大工をしていました。父のヨセフは早く死に、長男のイエス様が家計を支えました。結構、家は貧しかったようです。イエス様のお話には、「つぎあて」のたとえ、灯りをつけて失ったお金をさがすたとえがあります。公生涯も大変だった。「空の鳥には巣があり、狐には穴があります。しかし、人の子には枕するところがない」と言われました。みなさんは、寝るところくらいはあるでしょう。しかし、イエス様は寝るところもなかった。「主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした」。「すべての点」ですから、いろいろありますね。イエス様は悪魔の試みにもあいました。肉の欲、権力欲、名声の欲に勝利されました。イエス様は空腹も、渇きも、疲れも経験されました。ラザロの死では涙を流されました。宮が強盗の巣になっていたときは、怒りました。弟子のユダから裏切られました。十字架にかかる前は、人々から唾をかけられ、嘲弄されました。もちろん、聖霊によって喜んだこともあります。マルタやマリヤの家では食事をしてくつろがれたと思います。イエス様は病気になったと書いてはいませんが、人々の病気を担ったとは書いてあります。

 しかし、イエス様が最も困難だった時があります。それはゲッセマネであります。これが、神の子として、一番大変であったと思われます。なぜなら、人々の罪を背負おうことによって、父なる神様から引き離されるからです。イエス様は「できますなら、この杯を飲みたくありません」と3度も祈りました。その杯には人類の罪がなみなみと溢れていたでしょう。ある先生は、「それは、真っ赤に溶けた鉛のようであり、唇をつけることすらできなかったであろう」と表現しました。とにかく、イエス様は「イヤです」と断ったのであります。多くの人は、イエス様は完全で、感情も意思もなかったように言いますがそうではありません。イエス様は「イヤです。そうしたくありません」と父なる神様に言ったのであります。人になかなか「ノー」を言えない人がいます。私もその一人です。新聞の勧誘、電話での勧誘…すぐ断ることができません。家内は「結構です」と、すぐできますが、私は少し話を聞いてから「申し訳ありませんが…」と断ります。なぜ、「ノー」と言えないのでしょう。それは、拒絶された傷があるからです。人から拒絶されて、とってもイヤだった。ですから、逆の立場に立ったとき、相手を傷つけたくないために、「ノー」と言えないのでしょう。しかし、イエス様は「イヤです」と率直に言いました。だれが、人の罪の身代わりになれるでしょうか。「私は何にも悪いことをしていません。なんで、私が人を罪をかぶらなければならないのでしょう。」これが、私たちの性質であり、正当な権利かもしれません。

でも、イエス様は違いました。叫んで祈ったのです。「イヤです。でも、私の思いではなく、あまたのみこころがなりますように」と。ヘブル5:7-10「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。キリストは、御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。」ハレルヤ!なんと、あのイエス様も学ぶべきことがあったのです。「多くの苦しみによって従順を学んだ」と書いてあります。いやー、そうですか。私たちは「なんでこんな苦しみがあるの?」「なんでいやなことがあるの?」「なんで、こんな目に遭うの?」とつぶやいたり、怒ったりします。何故でしょう?それは、神への従順を学ぶためです。おおー、そう考えると、不必要な苦しみなどなくなりますね。そして私たちが苦しみに遭っている時、大祭司イエス様が、なぐさめてくださるのです。ある人が言いました。私の道はいばらの道です。でも、どうでしょう?いばらなのに痛くないんです。よく見ると、私の前をどなたかが歩まれた跡があります。驚くべきことに、私が向かって行くところの、いばらの刺が折られていたのです。それは、人となられた、大祭司イエス・キリストであります。

 フットプリント(足跡)という有名な詩があります。ある人が夢を見て、砂浜の足跡を見たという詩です。その足跡とは、彼の人生でありました。二組の足跡はイエス様と私の足跡です。しかし、私が一番苦しい時、一組の足跡しかありません。「イエス様、私が苦しんだあの時、あなたはどこへ行っておられたのですか」。イエス様は「その足跡は私のものです。私があなたを背負って歩いたのです」と答えました。実は、この有名な詩はある若い女性が作った詩でした。ところが、彼女はアメリカを旅行しているとき、その原稿を失ってしまったのです。その詩を第三者が拾って、「私が作った詩です」と発表してしまったのです。あまりにもすばらしい詩だったので、アメリカばかりか全世界に広がっていきました。しかし、持ち主である彼女が訴え出て、何年もかかって、裁判に勝ち、自分のものであるということが証明されました。しかし、彼女は世の人たちから「お前なんかにそんな詩が書けるか。売れたから、自分のものだと主張するんだろう。」とバカにされました。おそらく、彼女がフットプリントの詩を作ったときは、それほどの苦しみを体験していなかったでしょう。しかし、その詩を失い、名誉回復に至るまでの数年間、暗い砂浜を一人で歩いているような気持ちだったでしょう。彼女は、あとから、詩の内容を実体験したのではないかと思います。だれしもが、通らなければならないことがあります。それは、従順を学ぶということです。その一番の近道が、苦しみだというのであります。「ああー、イヤだ!」と言いたくなります。仕事で苦しみを体験している人、病気で苦しみを体験している人、結婚して苦しみを体験している人、親になって苦しみを体験している人、神様のために奉仕をしているのに苦しみを体験している人…。もし、その苦しみが神への従順を学ぶものであったら、価値あるものです。イエス様ご自身が苦しまれたので、私たちに救いを与えてくださいます。イエス様ご自身が苦しまれたので、私たちをとりなしてくださいます。イエス様ご自身が苦しまれたので、深い同情をもって私たちを受け入れてくださいます。

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