「パウロの計画」        Tコリント16:1-12

2004/11/07 鈴木 靖尋牧師
▲リストへ
 

 新潟ではまだ多くの人たちが避難所生活を強いられています。そこにいる人たちは、これからますます寒くなるので大変だなーと思います。また、アメリカではブッシュ大統領が再選されました。イラクに住んでいる人たちはこれからどうなるのでしょうか。使徒パウロの時代は度重なる迫害で、エルサレム教会は貧しかったようです。コリント教会の人たちは、エルサレムはこれからどうなるのだろうと思っていました。10数年後のエルサレムは崩壊の運命にありました。共通して言えることは、距離的に遠くて、当事者でない場合は、心配はしますが、痛みを覚えるほどではないということです。人間の生まれつきの性質は、自分さえ良ければという利己的なものがあるようです。

1.献金について

 16:1−3をお読みいたします。「聖徒たちへの献金」とは、エルサレムに贈る、募金であります。彼らは週の初め、つまり日曜日に礼拝を持っていたようです。そのとき集められる、献金の一部をエルサレムへの募金にあてるということでしょう。使徒パウロは、急に募金を集めるようなことはしないで、毎回の献金から蓄えておくようにと勧めています。ここで、献金の注意点というか、大切なポイントが記されています。2節に「おのおの」と書かれていますが、「おのおの」はどこにかかるでしょう。「おのおの」は、「収入に応じて」にかかります。献金は「おのおの収入に応じて」ささげるということです。新共同訳でも、「各自収入に応じて」と訳されています。教会では、みなさんに「献金を一律このくらいささげるように」などと会費や寄付金みたいには言いません。また、多くささげる方と少ない方と差別しないようにしています。問題は、収入の何パーセントささげているかであります。ルカ福音書に献金のことが記されています。イエス様の時代、神殿の前にラッパの形をした献金箱がありました。金持ちたちは、人々の前で、いっぱいささげました。一方、貧しいやもめの女性はレプタ2つをこっそりささげました。ところが、イエス様は、彼女はだれよりも多くささげたと言われました。レプタ銅貨は、今で言うと10円銅貨くらいかもしれません。生活費全部ですから、彼女は100%ささげたことになります。ですから、お金の絶対的な額ではなく、収入に応じて、精一杯ささげることに意義があるということです。献金のとき、「わずかなものですが」と祈る方がいらっしゃいますが、「わずかとは」言わないでください。確かに、神様からいただいたものと比べるとわずかかもしれませんが、「精一杯ささげました」の方が良いかもしれません。

 最初のポイントでは、献金についてもう少しご一緒に考えたいと思います。まず、神様はどんなお方でしょうか?箴言10:22に「主の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない」というみことばがあります。私たちは、主の祝福と人の苦労があってはじめて富がもたらされるんだと考えています。しかし、箴言のみことばは、「主の祝福そのものが人を富ませるのであり、人の労苦ではない」となります。確かに、1日16時間も働いているのに、300円にもならないという国もあります。一方、ほとんど働いていないのに、一ヶ月1億円も稼ぐ人もいます。「神様不公平ですよ」と言いたくなります。しかし、富が神様から一方的に来るものであるならば、富める人は責任があります。自分の労苦ではなく賜物なんですから、ない人に与えるという責任が生じてきます。しかし、一般に人間は、「おれが稼いだんだ、おれの自由にして何が悪い」と言って、自分だけのものにしてしまいます。主はどんなお方でしょうか

Uコリント8:9「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富むものとなるためです。」主イエス・キリストは神の子ですから、神様とすべてのものを所有しています。しかし、私たちを富ませるために、自ら人となって貧しい生活をなされました。イエス様は馬小屋で生まれ、大工の子として生活しました。弟や妹が4,5人いて支えなければなりませんでした。公生涯でも、「空の鳥には巣があり、狐には穴がある。しかし、人の子には枕するところがない」という状態でした。十字架では着ているものをぜんぶ剥がされ、人の墓に収められました。その後、イエス様はどうなったでしょうか。天に引き揚げられ、主の主、王の王となり、祝福の源となられました。イエス様はこの地上で何をなさられたのでしょうか。貧困という呪いを打ち砕き、私たちに富を回復されたとも解釈できます。私もそういう考えには賛成です。しかし、それだけではないように思えます。1つは、富と幸いは必ずしも一致しないということです。イエス様は物質的に有り余るほどはありませんでしたが、幸いでした。イエス様は「なくてならぬものは多くはない、いや1つだけである。神の国とその義とを第一に求めるなら、それに加えて、すべてのものは与えられる」とおっしゃいました。新潟県中越地震も大変ですが、その前は台風23号がありました。兵庫県豊岡市は川が決壊し、かなりの被害があったようです。家が浸水した信徒の一人が次のようなことを牧師に語ったということです。「家財道具を外に出してみて、無駄なものが多いことに気付きました。無くてならぬものは多くは無かった。私は欲張りでした。神様が取り上げてくださったんですね。ハレルヤ!」と。

 キリスト教会は富に対して両極端の考えがあると思います。1つは繁栄の神学といって、キリストが呪われたので、教会はアブラハムの祝福を受け継ぐんだと言います。もう1つは、イエス様が貧しかったように、教会も聖く貧しくあるべきだ。余計な富は不必要だという考えです。両方、正しいと思います。神様はなぜアブラハムを祝福されたのでしょうか。創世記12章で、主はアブラハムに「あなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう」と言われました。しかし、すぐその後で「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」と言われました。神様はどんなお方でしょうか。神様は銀も金も私のものだと言われます。なぜなら、神様は全世界、全宇宙の創造者で所有者です。そのお方が、神の子どもに富を与えます。しかし、神の子が「ああ、この祝福は私のものだ。私が稼いだものなんだ!だれにもやらない」としたらどうなるでしょうか。父なる神様は、「ああ、困った子どもだ。もう、お前にはやらない」と言うかもしれません。でも、神の子どもが大きくなるとどうなるでしょうか。今までは、受けることの喜びが圧倒的でした。しかし、成長して父の心を持つようになると、与えることの喜びが増してきます。そうです。私たちも親になると、子どもに与えることは苦になりません。しかし、もっと父なる神様のことを考えるとどうなるでしょうか。「神様が私たちを祝福するのは、この地上の国民のためなんだ。私たちを通して、この世の人たちが祝福に預かるためなんだ」とわかるようになります。この間、インドネシヤのエデイ・レオ師が来られました。アバラブ教会はジャカルタでもとても祝されている教会です。でも、その教会は人々に神様から受けた祝福を与えています。まず、教会の近くに住む、イスラムの貧しい人たちに与えています。島が迫害に遭い、たくさんの孤児が生じました。アバラブ教会は子どもたちを引き取り、学校を開いています。それだけではありません。バングラデッシュ、モンゴル、ロシアの教会を助けています。この間も、ウラジオストックに手弁当で行ったようです。教会員のほとんどが女性。賛美も女性、司会者も女性。なぜですかと聞いたところ、ロシアの男性は家庭を顧みない人が多く、奥さんを殴る蹴る。自分は働かないでアルコールを飲む。たくさんの女性が父親から、夫から傷を受けているということです。そういう霊的にも物質的にも貧しい教会を支えています。日本の教会はいつになったら、与える教会になるのかなーと恥ずかしい次第です。

 先週は、本郷台でボブ・モフィットの集会がありました。国際飢餓対策機構の神田先生が通訳をなさいました。ボブ・モフィットがおっしゃっていました。「教会が大きくなること、大勢の人々が救われることは良いことである。しかし、それを目的にしてはいけない。教会の本当の目的は、神様の愛をこの世の人たちに現わしていくことである。伝道のために良いことをするのではなく、神様から得た祝福を無条件に与えていく。その結果として、人々が救われ、教会が大きくなるんだ。」と教えてくれました。私は心臓をナイフで「ジク」っと、刺された気がしました。神田先生は、「日本は海外からおいしい食べ物を輸入している。日本の穀物の自給率は23%、北朝鮮ですら72%である。もし、日本が海外から輸入できなくなるとどうなるか、先が見えている。ソドムが滅ぼされた本当の原因は、高慢と飽食である。現代のアブラハムはあなたである。クリスチャンがキリストの弟子になることである。日本の希望は教会にかかっている」とチャレンジしてくださいました。神様が私たちを祝福するのは、自分だけが富むものになるのではなく。この世の人たちを祝福するためであるということです。しかし、何もなくては、人々に与えることはできません。神様の豊かな祝福は信仰によってのみ与えられます。人間の労苦や努力ではありません。私たちの知恵や労働力も本来は神様から来たものです。すべては神様から来た恵みです。私たちがケチになると、恵みはストップしてしまいます。山に行くと泉があります。よどんで溜まってしまったところは水が腐ります。しかし、泉が小川に流れていれば、次から次への水が湧いてきます。私たちも神様からいただいて、それを他者に分かち合う、祝福の管として用いられたいと思います。

2.パウロの計画

 Tコリント16章5-12節

 この短い間に、パウロの願いと計画がぎっしりつまっています。「行きます」「つもりです」「滞在するでしょう」「滞在したいと願っている」「滞在するつもりです」…パウロの願いとか意思、思惑、計画であります。しかし、7節には「主がお許しになるなら」という限度枠もあります。また、10節以降には2人の人物がいます。一人はテモテです。テモテはパウロの弟子なので、パウロの延長の働きするように期待されています。もう一人はアポロです。彼は教える賜物があり、エペソで活躍していました。彼は以前コリントにいたことがあります。パウロはアポロに強く勧めましたが、彼はコリントに行こうとは全然思っていないようです。パウロの当面の計画は、コリントにも行きたいけれど、もう少し、エペソに留まって伝道したいということでした。なぜなら、「働きのために広い門が開かれていた」からです。使徒の働き19章を見ますとわかりますが、パウロは2年3ヶ月エペソに留まっていました。その結果「アジアに住むものは、ユダヤ人もギリシヤ人も主のことばを聞いた」と書いてあります。エペソは小アジアの中心的な町であり、パウロは伝道の戦略をエペソに置いていたと思われます。その後、どうなったでしょうか。使徒19:21「これらのことが一段落すると、パウロは御霊の示しにより、『マケドニヤとアカヤを通ったあとでエルサレムに行くことにした。そして、私はそこに行ってから、ローマを見なければならない。』と言った。」パウロの計画は、コリントを通過して、エルサレムに行き、その後でローマに行くということでした。なぜか、それは御霊の示しがあったからです。

 私たちの人生も、ある意味ではパウロと同じであります。パウロにとってエペソが伝道の戦略の中心であったように、当教会ではゴスペルであります。2000年から始まった、ブラックゴスペルによって、関係者を含め30人以上が洗礼を受けました。最近では、ゴスペルと言ったら亀有教会と言われるくらいです。でも、ある人から「いつまでも続かないよ」と言われました。そのときは、少しだけカチンと来ましたが、「ブームというか波だから仕方がないだろうなー」と思いました。確かに、ゴスペルによって、若い人たちがたくさん与えられ、ワーチップチームもでき、直接献身者も与えられました。しかし、今、その波が一段落している状態です。もちろん、日本にはまだゴスペルブームは続いています。問題は、私たちの教会と神様との関係であります。今まで成功したから、これからも同じやり方で行く。これも、1つの方法ですが、神様はたえず私たちを導いておられますので、神様に聞くのが一番です。私も自分の伝道牧会を考える時にきているのではないかと思います。教会のホームページの「100名礼拝を目指すとか、600名会堂を建てる」という項目を見て、「あれー?ちょっとずれているんじゃないかなー」と思いました。私は大川先生やチョーヨンギ師の影響を受けております。数にこだわるというDNAが体に入っているんです。「人数の少ない教会は貧弱な教会、人数が大きい教会は良い教会。まず、クリスチャン人口をあげなければどうにもならない。そのためにはリバイバルを!」という思いが正直言ってあります。

 しかし、先週、ボブ・モフィットの集会でとてもショックなことを知りました。アフリカのルワンダという国は、1994年にものすごいことがありました。人口700万人のうち、100万人が虐殺され、200万人は難民になったということです。ところがショックなことに、国民の80%が回心するという大リバイバルを経験した国です。日本でも1%の壁、5%壁、10%の壁をどうやって越えたら良いか悩んでいます。韓国なみにクリスチャンの%が上がったなら、日本は変えられると思っています。ところが、ルワンダは80%がクリスチャンであった、しかも、彼らは教会で殺しあったということです。フツ族がツチ族に対し「俺たちの言うことをきかないヤツは殺せ!」と、夫が妻を殺し、顔見知りのクリスチャンが剣で殺したということです。彼らはイエス様を救い主として信じた。しかし、心の中が弟子化されていない。いざ何か起こったとき、アニミズムの考えに戻る。日本の教会の牧師も、「俺たちの言うことをきかないヤツは殺せ!」と口で切っている。日曜日は聖書を信じている、しかし、実際は日本の伝統に従う。クリスチャンがこの世の価値観に従っている。そのようなメッセージをいただきました。それを聞いて、「ああ、教会は数じゃないな、大きさじゃないなー。一人ひとりがキリストの弟子になっているかどうかだ」と気付きました。そして、大切なのは、目的であり、動機であると改めてわかりました。人数や教会成長は目的ではありません。確かに目安にはなるでしょう。でも、目的ではありません。本当の目的は、神様のみこころを行なうということです。イエス様の愛をこの世に、となり人に現わしていくということです。そうすると、結果として、人数が増え、教会が成長するんです。

 箴言にすばらしい人生の導きのことばがあります。箴言3:5「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」「悟り」は英語では、your own understandingとなっています。直訳すれば「あなたそのものが理解していること」となります。これは置き換えたなら、「自分の思想、自分の信念、自分が固く信じていること」というふうにもなります。私たちはいざ何かが起こったときに、さきほどのルワンダではありませんが、みことばではなく、自分が得た知識や悟りに頼ってしまうのではないでしょうか。普段は、聖書的に考えている。しかし、いざ、何かが起こったときに、古いものにしがみつく恐れがあります。聖書はなんと言っているでしょうか。「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」「あなたの行く所どこにおいても、主を認める」とは簡単なことではありません。一番、私たちが頑なになるのは、自分の専門分野です。一番、得意としている分野であります。イエス様の弟子たちは漁師でした。一方、イエス様の職業は大工でした。弟子たちは一晩働いても、一匹も魚がとれないことが少なくとも2回ありました。そのとき、イエス様が指示するとおり網を降ろすと、大漁でした。弟子たちは漁師でしたが、ガリラヤ湖で何度も危ない目に遭いました。そのとき、イエス様が嵐を静めてくれました。

 パウロは律法の専門家でしたが、復活の主に出会ったとき打ち倒され、3日間盲目になりました。それから、パウロは何度も死ぬような経験に出会いました。そして、いよいよパウロは知ったのです。「主がお許しになるならそうしたい」と。パウロは自分の考え、自分の願い、自分の悟りがもちろんありました。しかし、「主がお許しになるならそうしたい」と主を認め、主に頼りました。牧師はある意味では、説教を通してみなさんにDNAをばら撒いている存在です。牧師がこの世的な野心で教会を牧していくなら、自然と、教会員にもそのDNAが流れていきます。本当に今回、思いを変えなければならないと気付かされました。みなさんはどうでしょうか。自分の思い、自分の悟り、自分の願いがもしかしたら、神様とズレが生じてはいないでしょうか。聖霊様は、今も生きておられますので、「どうもしっくりこない」という感じを与えています。妙に緊張したり、意地を張るのは、ひょっとしたら自分の悟りに頼っているのかもしれません。私たちの人生はキリストによって変えられ、永遠に向かっています。しかし、ときどき軌道修正は必要です。神様から軌道修正を求められたなら、喜んでそうしたいと思います。「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」

  このサイトに記載されている内容について無断複製・改造・転載等の行為を禁じます
Copyright (C) 2003 Kameari Church. All Rights Reserved.