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4月の復活祭のときに、15:12以降を語りましたので、本日は少し飛んで、20節からお話したいと思います。この箇所は世の終わりに、復活がどのようにして起こるかということが記されています。先のことをだれも見たことがないので、これは神様から与えられた預言ということになります。聖書にはこのように世の終わりのシナリオというのがところどころに記されています。私たちの人生には苦しみや悩みがありますが、キリストを信じて復活に預かることができたら、勝ち得て余りがあります。逆に、この世でどんなに幸福で豊かであったとしても、復活できなかったら大損であります。
1.偉大な「しかし」
もし、キリストがよみがえらなかったのなら、私たちの信仰はどうなるのでしょう。少し前の17節には、「あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです」と書いてあります。つまり、キリストを信じたとしてもナンセンス、何にもならないということです。依然として罪の中におり、滅んで行く存在であるということです。キリスト教会の土台は、復活にあると言っても過言ではありません。ある人たちはキリスト教は道徳的で良いというかもしれません。しかし、復活がないなら大嘘つきというということになります。またある人たちは、キリスト教は犠牲的で愛の宗教だと言うかもしれません。しかし、復活がないなら「私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です」。この世には様々な宗教があり、それぞれ来世観を持っています。神道は「常世」の国を信じています。肉体のない霊魂だけが、フワフワとどこかで過ごす場所であります。また仏教は「輪廻」であります。死んだ魂は、こんどは別の肉体をもって生まれ変わるということです。それは必ずしも人間とは限りません。犬であったりハエであったりする場合もあるということです。とにかく、ぐるぐる回っている。「回る、回る時代は回る」であります。また、肉体の復活を信じる宗教もないわけではありません。エジプトのミイラはその1例でしょう。しかし、ミイラに霊魂が戻って復活したという事実がありません。いまだに、どこかの博物館で眠っている存在です。このように復活がないなら、キリスト教もこの世の宗教と大して変わりありません。
さて、20節にどう書いてあるでしょう。「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」榎本保郎先生は、これを「偉大なしかし」と呼びました。キリスト教が単なる教えでないのは、この「しかし」があるからです。しかし、キリストは死者の中からよみがえられたのです。キリストの復活こそが、キリストのすべてを保証し、キリスト以外のものを排除するのです。ハレルヤ!
キリスト教会では、キリストの十字架の死については語りますが、案外、復活を忘れるときがあります。語ってもおまけくらいです。そうすると、キリスト教の救いは主観的で、センチメンタルになるでしょう。キリスト教「冬のソナタ」なんてあるかもしれません。しかし、復活まで大胆に語るなら、それはだれもが向き合わなければならない事実であり、ヒューマニズム的なものは一掃されるでしょう。復活は信じる者に、罪の赦しだけではなく、新しい人生の保証となるからです。キリストの弟子たちはイエス様の死よりも、むしろ復活を語ったのであります。だから、彼らの宣教は力強かったのです。なぜ、パウロが裁判にかけられたか、それはキリストの死ではなく、キリストの復活を説いたからです。なぜ、カトリック教会が暗いのでしょうか?キリストの贖いの死を繰り返すミサを行なっているからです。聖書には、キリストは一回の死で、永遠の贖いを成し遂げられたと書いてあります。もう、キリストは死ぬ必要がないのです。キリストは死と陰府を打ち破りすでによみがえられたのです。だから、キリストを信じる者は、復活の命にあずかり、新しい人生を歩むことができるのです。そうなると、復活を抜きにしては、キリスト教は語れないということになります。キリストの復活こそが、真の人生か偽りの人生かを分けます。キリストの復活こそが、価値ある人生か空しい人生かを分けるからです。
また、ここにはキリストは「眠った者の初穂として死者の中からよみがえった」とあります。初穂とは何でしょう。初穂とは畑にできた最初の作物のことです。実がつまっていない麦はピーンと立っています。稲も同じですね。しかし、実がつまると垂れ下がってきます。田畑が色好きくと、最初の鎌を入れます。これが初穂であり、神様のところに持って行きます。そのあとに、本格的な収穫が始まるのです。みなさんはポップコーンを作られたことはあるでしょうか。フライパンに油を敷いて、乾燥したコーンを炒っていきます。ころころころ、ころころころ。熱が十分伝わってきたようです。もちろん、このとき蓋をしていないと大変なことになります。透明なガラス蓋だとよくわかりますが、最初にポーンと爆発します。すると、次から次と「ぽぽぽぽぽぽぽーん」とできあがっていきます。最初にポーンんと爆発したのが、イエス・キリスト様です。墓から一番最初に出てきたからです。あれから2000年たっちゃっています。もうかなり熱くなりました。やがて、まもなく墓の中から、「ぽぽぽぽぽぽぽーん」と出てくるのです。つまり、キリストの復活は初穂であり、保証だということです。キリストがよみがえったからには、キリストを信じる人も、あとから必ずやよみがえるということです。第一号は復活しました、大成功でした。キリストで終わりだったのでしょうか。そうではありません。やがて大収穫が来て、倉である御国に納められるときがくるのです。
第一のポイントの結論になりますが、キリスト教の救いは霊魂の救いだけを語っていないということです。私たちのこの肉体の救い、肉体の完成ということを約束しているということです。霊魂は言わば中身であり、肉体は入れ物ということになります。聖書では地上の体は土の器でできていると言います。アダムがそうでありましたが、私たちの肉体の元素はある地方の赤土とそっくりだと言うことであります。炭素、カルシウム、鉄、リン…わかりません。とにかく、この肉体は朽ちていくべきものであります。しかし、復活の体は朽ちない天国用の肉体、栄光の体であります。イエス様が復活したということは、もう死なない体に復活したということなのです。そのことを考えますと、楽しくなります。私は昨年あたりから癒しを強調するようになりました。癒しはいわば、機械で言う「修繕」であります。部品交換もできたらなーと思いますが、どうなんでしょうか。しかし、私の願いは地上の体が十分に役目を果たすことができるように、ということです。イエス様は長血を患った女性にこういわれました。マルコ5:34「安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい」。「永遠にすこやかでいなさい」とは言いませんでしたが、「この地上では、病気にかからず、すこやかでいなさい」とおっしゃっていると思います。つまり、神様が与えられた肉体の命を全うするということです。その先は、天国用の栄光の体が用意されているということです。ですから、私は地上の肉体に限界を知りながらも、癒されて、なんとか天寿を全うするように願うものであります。イエス様が地上において、なぜ多くの癒しをなされたのでしょうか。それは、天国には「病気がないよ、完全な肉体だよ」ということを証明し、それを味合わせるためでしょう。「ああ、そうか天国へ行けば完全に癒されるのか、それだったら魂の救いも得よう」となるのです。人々にとって、肉体の癒しが、天国の門となったのです。なぜなら、天国の一部を味わったからです。「だから今度は永遠の癒しが欲しい」となるのです。癒しは、天国の肉体、復活のサンプルと言っても過言ではありません。新商品にはサンプルがつきものです。発泡酒とか、化粧品、自然食品などサンプルがあります。サンプルだけ集めて満足する人もいるかもしれませんが、良ければ本体も買うでしょう。キリストを信じないで、祝福とか癒しばかり求めている人は、サンプルで満足している人たちです。彼らは飛び込むのが怖いのです。しかし、サンプルはサンプルにすぎません。私たちにとって本体とは何でしょう。罪の赦しを得て、神様と和解することです。神様と和解したなら、神様は私たちに必要な永遠の命も永遠の体も与えてくださるのです。元来、それらは神様がはじめから備えていたものなのです。エデンの園には「いのちの木」が植わっていたのです。ところが罪を犯したために、ケルビムの回る炎の剣によって閉ざされてしまいました。しかし、世の終わり、イエス・キリストがやって来られ、命の供給者となられたのです。すべてを閉ざしているものは何でしょう。それは罪です。罪こそが私たちを滅びへと向かわせる第一原因なのです。しかし、ここに福音、グッドニュースがあります。イエス・キリストが罪を贖うために十字架についてくださいました。そして3日目によみがえりました。これは、罪赦された者が新しい命が与えられるという保証であります。どうぞ、まずキリストを信じて、罪の赦しを得ましょう。神様と和解しましょう。これが何よりも先に来るものであります。アーメン。
2.終末の順序
15章23節から26節までをお読みします。「しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。最後の敵である死も滅ぼされます。」
キリストはすでに復活して天にお帰りになられました。ところが、世の終わりもう一度この世に来られます。これをキリスト教会では「再臨」second comingと言います。初臨とはもちろんクリスマスのことでありますが、キリストは世の終わり、再び来られるというのです。キリストが再臨されたとき何が起こるのでしょうか?復活が起こるというのです。しかし、すべての人が復活するわけではありません。「キリストに属している者です」と限定付きです。クリスチャンとは「キリストに属している者」という意味ですから、主を信じている私たちのことです。このとことはTテサロニケ4章にも書かれています。主が天から下って来られると「キリストにある死者がまず初めによみがえる」と書いてあります。それから何が起こるのでしょうか。24節「それから終わりが来ます」と書いてあります。終わりとは世の終わりです。「そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります」とはどういう意味でしょうか。滅ぼされるのは、神から離れた人間と悪い御使いであります。これは世の終わりのさばきです。このことは黙示録6章から20章まで、絵巻物のように記されています。恐ろしいさばきです。そして、キリストは国を父なる神にお渡しになります。これは神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。このことは黙示録21章、22章にあります新天新地であります。完成のときであります。ここには「もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない」とあります。まとめてもう一度言いますと、キリストの再臨、クリスチャンの復活、さばき、完成であります。
こういうことを聞きますと、みなさんはどう思われるでしょうか。ひじょうにむかつきますか。それとも、ひじょうに感動されるでしょうか。キリストを信じていない人たちは「なんと独断的なんだ!」と腹を立てるでしょう。なぜなら、キリストの再臨によって偽物と本物がはっきりされるからです。この世の中には数え切れないほどの宗教があり、教祖がいます。彼らもいろんなことを教え、いろんな救いを提示しているでしょう。しかし、キリストが再び来られるとき、偽物はさばかれ火の池に投げ込まれるのです。そしてキリストに属する者たちは復活し、御国に、新天新地に住まうことができるのです。世の中にはいろいろな「希望」があります。しかし、究極的な希望とは何でしょうか。キリストの再臨による復活であります。希望=復活、これはキリスト教しか語れない、究極の希望であります。一個人の人生にいろんなことがあるでしょう。障害を持って生まれた方、一生病気だった人、不幸な境遇の人、不条理の嵐にもてあそばれた人…どんな人であったとしても、復活に預かることができたなら。プラスであります。復活はすべてのマイナスを飲み込む力があるからです。ですから、クリスチャンのみなさんに申し上げます。これまでの人生、またこれから先、途中はたとえどうであっても、最終的にはハッピーエンドなのです。ビデオで映画の結末がハッピーエンドであることを知っていたならば、巻き戻しして、ハラハラドキドキする箇所を見ても平気であります。もちろん、地上では早死にしてしまったとか、大失敗、大損害など、泣くに泣けないこともあるでしょう。でも、復活して永遠の御国に住まうことができたなら、そんなものは微々たるモンでしょう。
パウロはそのことを知って、こう言っています。ピリピ1:23「私は、その2つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためには、もっと必要です。」パウロは、使命がまだあるのなら肉体にとどまる。しかし、本音は早く世を去ってキリストのもとへ行きたいということです。みなさん、聖書的な死生観を持つということは非常に重要なことであります。私たちはいつまでもこの肉体に留まって生き続けることはできません。時が来たら、喜んであちらに行くべきです。この世にはさまざまな死があります。病死、飛行機事故、交通事故、災害、事件…ああーいやだなーと思います。でも、イエス様を信じて、復活を得ていたならば、矢でも鉄砲でも持ってこいであります。もう、何十年も前ですが、福沢満雄先生がお嬢さんと始めて、デズニーランドのサンダー・スペース・マウンテンに乗ったそうです。私も今から19年程前にアメリカの方で乗ったことがあります。普通のジェットコースターは回りの景色が見えますので、次何来るか予想できます。しかし、あれは全部覆いが掛かっており、お先、真っ暗なんであります。ときどき、ピカーと稲妻みたいな光が走ります。とにかく怖い。福沢先生もものすごく怖かった。しかし、無事につくことが分かりました。お嬢さんは「お父さん、もう一度乗ろう」と言いました。するとどうでしょう。次回は怖いのを楽しむことができた。無事に着けることを知っているので、スリルを味わうことができたということです。人生には確かに恐れがあります。深い悲しみもあるでしょう。しかし、結末はハッピーエンドなら楽しむことができます。
そういえば、タイタニックという映画がありました。昨日もテレビでやっていたようです。結末は主人公が冷たい氷の海で死んで、女性が助かり90歳くらいまで生きるんです。最後のシーンですが、女性が夢を見るんです。深い、深い底に朽ち果てたタイタニックが沈んでいます。ところが、みるみるうちに新しくよみがえり、豪華な船室に戻りました。死んだはずの、船長とか機関士、大勢の人たちがニコニコしています。階段を上ると、なんとジャックが振り向きざま手を差し伸べ、二人は再会できるんです。それは彼女の夢の中の出来事でした。しかし、クリスチャンの場合は夢でも幻でもありません。死んだはずの両親、子ども、そして懐かしい友人と再会できるんです。今私たちは、亀有教会でこうやって楽しく交わっています。でも、この先、だれかが死に、私が死に、あなたも死にます。この先、お葬式をなんべんやるでしょう。なんべんお別れを言って、そして涙することでしょう。でも、そんなこと関係ありません。御国で再会できるのです。若々しい姿で、完全な姿で、永遠にです。私も今年は、私を信仰に導いてくれた増田さんが天に召されました。そのあとすぐに、ニューライフの井沢さんがバイク事故で召されました。彼は私と同じ年で、ニューライフの歌で私は献身を決意したのです。増田さんの奥さんも、井沢さんの奥さんも淋しいだろうなーと思います。もしかしたら、悲しみからまだ立ち直っていないかもしれません。でも、究極的には、御国で再会できるのです。「あなた一人いいところへ行って、ずるい!」「ごめん、ごめん、悪かった」。なんか、そういう会話が想像できます。みなさんの、中にも御国で再会できる、親しい人が何人もいるんじゃないでしょうか。
私はここで、「それではキリストを信じていない人たちはどうなるんですか?地獄に行くのですか?」という質問に答えるつもりはありません。地獄とは元来、サタンのために作られたものなんです。そして本来、罪を犯したすべての人が滅びに行くことになっていたのです。ところが、神様はキリストを信じる者が滅びないで、永遠の命を得る道を1つだけ与えたのです。本来、滅びに行く運命の人だったのに、救われるとは何と言う特権でしょう。神様は愛の神様だから、キリストを信じる者が滅びないで、永遠の命を得られる道を設けられたのです。1つだけ確かなことがあります。キリストを信じる者は滅びないで、復活にあずかることができるということです。私たちの人生のゴールはどこでしょうか。途中いろんなことがあるかもしれませんが、ゴールは復活です。御国において神様と親しい友と永遠に暮らすことです。アーメン。
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