「最も大切なこと」        Tコリント15:1-11

2004/09/26 鈴木 靖尋牧師
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 世の中には大切なものが多くあります。それは人それぞれ違います。お金だ、学問だ、努力だ、運だ、健康だ、気合だというかもしれません。たしかにこの世で生きていくために、それらも必要でしょう。でも、この世だけではなく永遠にかかわるものが最も大切なことではないでしょうか。なぜなら、私たちの人生はこの世だけのものではないからです。この世は永遠を準備するための大切なときであります。もし、短い人生の中で、永遠をつかんだなら何と幸いでしょうか。

1.最も大切なこと

 使徒パウロはコリント教会における、分裂や争い、不品行や聖霊の賜物の問題に言及したのち、最も基本的なことに戻りました。それはコリント1章にも書かれていたことですが、「福音」というテーマです。パウロははっきりと「わたしが宣べ伝えた福音」と2度も強調しています。しかしこれは、パウロが発明したというものではなく、「私も受けたことである」と述べています。つまり、自分もその使信を受け継ぎ、あなたがたにも伝えたということです。では、宣べ伝えられた福音とは何なのでしょうか。3節の半ばには、福音の中核というべきものがあります。「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。」福音を簡単にまとめますと、「キリストの十字架の死と復活」であります。これこそが、福音の中心的な出来事なのであります。しかし、神学的に答えられたとしても、問題は自分との関係であります。ここに「私たちの罪のために死なれた」と書いてあります。「私たち」と言われても少々、あいまいです。これは「あなた」であり「私」のためであります。私はイエス様を信じてまもなく、日比谷公会堂で開かれたチョーヨンギ先生の集会に出席したことがあります。チョー先生が少しなまりのある英語で説教し、日本の牧師が通訳をしていました。Jesus died on a cross for your sins.「イエスはあなたの罪のために十字架で死なれました。」Jesus died on a cross for your sins. 「イエスはあなたの罪のために十字架で死なれました。」と何べんも語られ、とても印象的でした。不思議に、私にとってそのメッセージが救いの確信になりました。私は今晩、心臓が止まっても、神様の前に立てる。私には永遠の命が与えられているという確信を持つことができたのです。その確信はどこから来るのでしょうか。キリストの十字架からです。「イエス様は私の罪のために十字架で死なれました」。これが一番重要なのです。

 パウロは、福音のことを、3節で「私があなたがたに最も大切なこととして伝えた」と言っています。「最も大切なこと」とは、アメリカの聖書では、first importanceと訳されています。「第一に大切なこと」という意味でしょうか。英国の聖書はfirst and foremost 「第一でまた主要なこと」となっています。つまり、「信仰において、大切なことはたくさんあるけれど、これが最初に来る大切な出来事なんですよ」ということです。コリント教会は知識や聖霊の賜物の面では確かに進んでいたようです。しかし、肝心の福音をどう受け止めていたのでしょう。もし、彼らが福音をあいまいにしていたなら、次の段階には進むことができないのです。天に召された本田弘慈先生がこのことを野球にたとえて教えていました。野球は本塁から1塁ベース、2塁、3塁ベースと進みます。本田先生は「1塁とは救いである。イエス様の福音を信じて救われることです。そして、2塁はきよめ、聖化です。1塁ベースを踏まないでは、アドバンストコース、上級コースには進めないのですよ」と教えて下さいました。アメリカのことですが、ある選手がホームランを打ちました。「やったー」と選手は両手をあげてホームインしました。ところが、審判は「バッター、アウト!」と言いました。なぜでしょう。その選手は1塁ベースを踏んでいなかったからです。ある人たちは教会に来て、聖歌隊に入ったり、熱心に奉仕をするかもしれません。しかし、救いの1塁ベースを踏んでいないとしたら、それは失格です。天国にも入れません。「主よ。私はあなたのために、こんなことをしましたよ。あんなこともしましたよ。」でも、イエス様は「私はあなたのことを知りません!」。おおー、恐ろしいことであります。ですから、何よりも最初の、救いの1塁ベースを踏まなければなりません。そのためには、「イエス様は私の罪のために十字架で死んでくださいました。そして、私が新しく生きるために三日目によみがえりました。感謝します。信じます。」ということが最初の大切なことなのです。

 23日、パルテノン多摩というところで、ゴスペルのフェローシップコンサートがありました。全国から70のクワイヤー、合計1100名集まりました。それに一般客400名が加わり、ホールが満席でした。ゴスペルは全国に広がっていますが、教会よりもカルチャーセンターのようなところで歌う人たちの方がはるかに多いようです。牧師でシンガーのウォルター・ホーキンスが本場アメリカから来られ、彼が作ったマーベラスを全員で賛美したときには圧巻でした。ウォルターがメッセージしてくれました。「神様は、あなたがたがジーザスを賛美していることをとても喜んでいます。しかし、もっとすばらしいことはあなたがたがジーザスを知ることです。十字架で死んで下さったイエス様を心に受け入れましょう」と招いてくださいました。2節でパウロが言っています。「もしあなたがたがよくも考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。」そうなんです。ゴスペルの方々は、賛美の中でジーザスと出会い、感覚的に信じているのかもしれません。しかし、聖書を読んだことがないので、「福音のことば」を知らないのです。ある人たちは「よくも考えもしないで信じた」かもしれません。だから、聖書から福音をはっきり学んで、そしてあらためてイエス様を信じる必要があるのです。そうすると、その人の信仰は聖書の福音に土台していますので、簡単に揺るぐことはありません。ですから、福音をちゃんと伝えてくれる教会に属しているゴスペルクワイヤーの方がすばらしいのです。ハレルヤ!

 使徒パウロは直接、神様と出会って啓示を受けた人です。使徒たちから教えられたわけではありません。そのことはガラテヤ書に書かれています。しかし、パウロは教会と聖書を大切にしました。パウロは、3節で「私も受けたことであった」と、教会が大切にしてきた使信を尊重しています。少なくとも、教会は歴史的に正しい教理を保管してきたところであります。教会を無視した神学書とか解説書はかなり危険です。一般書店にならべられているキリスト教の本は要注意であります。あれは信じていない人たちが宗教という視点で書いているからです。私たちは教会が保持してきた教理というものを重んじなければなりません。また、パウロは「聖書の示すとおりに」「聖書に従って」と繰り返しています。これは、聖書に裏づけされた福音ということでしょう。「福音」good newsというものはともすれば、時代によって変質させられてしまいます。この間、エデイ・レオ先生が来られました。すばらしい集会でした。一人でもやってゆけるランボー的なクリスチャンがいる。ランボーが撃つとみんなが倒れる。しかし、人々がランボーに撃つと弾がみんなどけていく。これは「ハリウッドの福音」であると言っていました。それから、アメリカには「繁栄の福音」があるということです。キリストを信じたら、物質的に祝福され、健康になり、困難にも遭わない。これはニセの福音です。どこかのテレビ伝道者が述べる福音ではなく、聖書が述べる福音が大切なのであります。クリスチャンなったら失敗せず、物質的にも祝福されるのでしょうか。クリスチャンになったら病気にならないのでしょうか。クリスチャンになったら何も悩みがなくなるのでしょうか。そうではありません。ヨハネ16:33で、イエス様はこのようにおっしゃっています。「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」クリスチャンになっても、やはり患難はあるのです。しかしどんな境遇の中でも勝利があります。Tヨハネ5:5「世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の子と信じる者ではありませんか」。ハレルヤ!どうぞ、まやかしの福音ではなく、聖書が言う福音に土台しましょう。まず、確かな救いを得て、2塁、3塁ベースへと進みましょう。

 

2.福音の確かさ

 使徒パウロは15:6以降で、「その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました」と言っています。イエス様は復活後、弟子たちだけに現われただけではありません。五百人以上の兄弟たちに現われてくださったのです。そのことは、使徒1:3にも書かれています。「イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現われて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。」イエス様は復活したことを証明するために、40日間この地上におられ、多くの人たちにご自分を現してくださいました。40とは聖書では面白い数字ですが、「十分」とか「とことん」という意味があるようです。ノアの洪水では、雨が40日40夜降り続けました。モーセは40日間シナイ山にとどまり十戒を受け取りました。イスラエルの民は40年間荒野をさまよいました。イエス様は荒野で40日間試みを受けました。そして、イエス様は40日間、「私はこのように復活しました」とご自身を十分に現わしてくださったのです。しかし、イエス様はだれにでも現われたのではありません。ご自分を信じている人にしか現われなかったのです。しかも、同時に現われたというのですから不思議です。だから、福音書の復活の記事には矛盾があるのです。「俺も見たよ」「私も見ました」「おいどんも出会ったでごんす」。時間と場所がかみあわないところがあります。私はイエス様が何人にもなって何箇所に同時に現われたというよりは、ある所からパッと消えて、一瞬に他のところに現われたのではないかと思います。復活の体にとっては、時間とか空間はもう関係ないのでしょう。

 それよりも、直属の弟子たちにだけではなく、500人、他の人たちに現われたということは意味があります。聖書では証人は2人か3人いれば良いのです。ところが聖書は、ケパ(ペテロ)、12弟子、500以上の弟子たち、イエス様の兄弟ヤコブ、使徒たち全部、そしてパウロに現れたと述べています。これは、「イエス様の復活は絶対、絶対、絶対本当である」ということを強調しているのです。つまり、キリスト教の福音は作り話や神話ではなく、本当だということです。世界にはいろいろな伝説があります。この間、テレビを見ていたら中国の楊貴妃のことが放映されていました。楊貴妃は死んだのではなく、日本に渡ってきていた。どこかに楊貴妃の墓があるそうです。また、源義経は死んだのではなく、中国に渡り、豪族になったという伝説もあります。これは作り話というよりは、ロマンであります。ある歴史家たちはこう言うでしょう。「イエス・キリスト、キリスト教の教祖である。2000前、十字架で殺されたが、信者たちによって復活したと信じられている。」これは非常に主観的であります。ある人たちは、「あなたにとってキリストは救い主かもしれません。でも、私には他に救いがあります」と言うかもしれません。しかし、そういう言い訳ができないように、聖書は「イエスは三日目によみがえり、弟子たち、500人以上の兄弟たちに現われたんです」と証言しているのです。そうなんです。聖書は復活を見たという人たちの証言を記録した書物なのです。「あなたはおめでたいですねー」と言われても、私はこの証言を信じます。みなさんはいかがでしょうか。

 最後にパウロは「私も出会ったよ」と、8節以降で述べています。「そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。」ハレルヤ!「月足らずで生まれ、最も小さい者、使徒と呼ばれる価値のない者」が一番用いられたのです。かつては教会を迫害した者が、こんどは教会の土台をすえる使徒となったのです。使徒パウロほど、180度も転換した人はいません。ある人は「私は360度変わりました」と言いますが、どうなんでしょうか。ま、気持ちは十分伝わってきます。十字架は神の恵みなんです。パウロは「私に対するこの神の恵みは、むだにはならなかった」と豪語しています。ある人たちにとっては、十字架が無駄になっているのではないでしょうか。今から15年くらい前、この会堂が古かった頃、福沢満雄先生をお招きしたことがあります。そのとき、Uコリント5章後半から「私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちはキリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。…私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください」とメッセージしてくださいました。どういうことかと申しますと、懇願しているのは使徒パウロではなく、父なる神様なんです。懇願というのは、土下座であります。神様が土下座して「私との和解を受け入れてください。イエスの十字架をむだにしないでください。救われてください」と頼んでいらっしゃるのです。この世にはいろんな無駄があると思いますが、十字架のあがないだけは無駄にしてはいけません。しかし、日本ほど、十字架が無駄になっている地域は他にありません。今、ロシアでも多くの人たちが救いを求めています。

 この間、エデイ・レオ先生が当教会に来られていました。そして、先生は北海道で3日間奉仕したのち、1日新宿で奉仕され、その後、新潟空港からウラジオストックに渡りました。今、そちらにいらっしゃいます。ウラジオストックはまだ生まれたばかりの教会らしくて、癒しについて教えに行くんだと言っておりました。火曜日の28日は、ウラジオストックから新潟空港に戻り、新幹線で東京、東京から成田に行きます。次の日、検閲を受けてジャカルタに帰ります。なんか、ロシアに渡るのは結構面倒なようですね。エデイはインドネシヤからロシアを見て、日本から簡単に渡れると思ったのでしょう。ところが、新潟からしか飛行機は出ない。しかも、一日、一便だそうです。先生は他にも、モンゴルとかバングラデッシュにもチームを組んで伝道に行かれているようです。私は自分の教会の成長のことしか考えていませんでした。しかし、エデイとか石原先生は、神様の目から日本や世界のことを見ているんですね。北海道の最後の集会では、日本の魂をはらむんだという祈りをささげました。つまり、教会の外にいる大勢の魂をキリストの愛で愛するということです。イエス・キリストが十字架で死なれたのは、1%のクリスチャンのためだけではありません。99%の教会の外にいる人たちのためにも死なれたのです。このまま行くと、日本は十字架の恵みを無駄にした、ワースト1の国になってしまいます。自分の教会だけではなく、あるいは教会の建物に何人集まっているかでもなく、教会の外にいる魂のことを考えたい。自分の目ではなく、神様の視点から見るべきであります。

 福音は確かなものです。キリストの福音ほど確かなものはありません。「ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。」「西洋の人たちには救いかもしれないけれど、日本人にはそうではない」と言う人がいるかもしれませんが、そうではありません。日本人にもキリストの福音、キリストの救いが必要なのです。福音とはグッドニュース、良いニュースという意味です。しかし、テレビや新聞をにぎわしているのは、バッドニュース、悪いニュースばかりです。私は北海道で3日間、新聞もテレビも見る機会がありませんでした。朝から晩まで、福音漬けでした。本当に気持ちよかったです。ところが、こちらに帰りますと、またまた、嫌なニュースが飛び交っています。テレビのサスペンス劇場なのか、実話なのかよく分からなくなります。子どもも若い人たちも巻き込まれています。本当にイヤーになります。私は自分で聖書を通読していますが、2,3章読むとすっきりします。聖書の福音によって魂がきよめられます。そして、希望がわいてきます。どうぞ世の中の悪いニュースで魂が汚染されないように。むしろ、聖書の福音によって満たされましょう。火山が爆発したり、大地震が来るとか言われています。聖書ではそれは世の終わりの前兆であるとはっきり述べています。そういうことは起こるんです。しかし、私たちの立つべきところは何処でしょう。聖書の福音、キリストの福音です。私たちは天地がひっくり返るようなことが起こったとしても、最も大切なことに土台していましょう。最も大切なこととは何でしょう。

 15:3-5「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。」願わくば、この福音が私たちだけではなく、日本人全員のものとなりますように。一人でも多くの人たちがキリストを受け入れ、十字架が無駄になりませんように。私たちもキリストの使節、使いとして、イエス様の救いを手渡す者として用いられたいです。どうか、私たちが自分だけの生活にアップアップしないで、神様の御目で日本全体を見る目をいただきましょう。失われた魂に対し、神様の愛を示す者となりましょう。

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