「平和の神だから」      Tコリント14:26-40

2004/09/12 鈴木 靖尋牧師
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 聖霊の賜物についてお話するのは、今回で7回目です。聞く人ももうこりごりだと思っている方もいるかもしれません。しかし、講解説教というのは、このように聖書を順番に、飛ばさないで学ぶという原則があります。こういう講解説教の長所は、苦手な場所からも、聞きたくない箇所でも、内容的に不毛と思えるところからも学ぶということであります。きょうは、14章の最後ですから、締めくくりというような内容であります。きっと神様は、この箇所からも私たちに必要なメッセージを与えてくださると信じます。パウロは14:33で「それは神が混乱の神ではなく、平和の神だからです」とおっしゃっています。ところが、1950年代から現在に至るまで、カリスマ、聖霊の賜物の問題は、教会に混乱を与えました。日本のある教会や教団は、ひどい傷を受けたために、「ノー・モアー・カリスマ」と拒絶しています。しかし、もし、教会がきょう学ぶ聖書箇所をちゃんと守っていれば、聖霊の賜物を丸ごと捨てるようなことをしなくてもよかったのです。そこには3つの守るべきことがあると思います。

1.小さなグループで行なう

 26-31節を見ますと、この集まりは、あきらかに少人数です。「ふたりか、多くても3人で順番に話す」「かわるがわる預言する」という表現が繰り返し出ています。つまり、異言とか預言は、公の集会というよりは、少人数の集りが妥当だということです。もっとも、初代教会の多くは、家々で行なわれていました。彼らには何百人も入るような建物など、ほとんどなかったはずです。そして、集会自体も結構、柔軟的だったでしょう。考えてみますと、今日の日曜日の礼拝はあまりにもプログラム化されています。始まりが定刻であることは良いとしても、中身です。当教会はそうでもないのですが、他に行きますと、前奏、招証、頌栄、主の祈り、交読、讃美歌、聖書、祈祷、信仰告白、説教…10項目以上あります。理路整然と行なわれるのは良いのですが、聖霊の働く余地がほとんどありません。当教会も、12時前には終わるようにしていますが、もしこれが、1時くらいまで伸びたらどうなるのでしょうか。10年くらい前に、奥山実先生をお招きしたことがありますが、ちょうど1時間伸びました。途中具合が悪くなって、退席する人が出たほどです。インドネシヤでは早く終わると、怒られるそうです。せっかく、会衆は遠くから時間をかけて集まって来たからです。ま、あんまりきっちりとしているのも問題ですが、いつ終わるか分からない集会も心配です。とにかく、歴史的に聖日礼拝は、このようにきっちり行なわれるようになりました。私は、これはこれで良いと思います。途中で「質問!」とか「俺にも話させてくれ」と言われると、やっぱり困ります。

 でも、初代教会は家々での集まりが主体だったと思います。そして、一人が話すというよりも、何人か話していたようです。26節を見るとどうでしょうか。「兄弟たち。では、どうすればよいのでしょう。あなたがたが集まるときには、それぞれの人が賛美したり、教えたり、黙示を話したり、異言を話したり、解き明かしたりします。そのすべてのことを、徳を高めるためにしなさい。」

ここには、まず、賛美があり、教えがあります。その後、黙示です。これは預言と同じようなものでしょう。そして、異言、異言の解き明かしがあります。たとえば、だれかが、黙示というか預言をします。「小さな群れよ。恐れることはありません。あなたがたの父である神は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです」(ルカ12:32)。すると次の人が立ち上がって何かを言い出します。「私はあなたの行ないを知っている。見よ。私は、だれも閉じることのできない門を開いておいた。あなたがたは少しばかり力があって、私のことばを守り、私の名を否まなかった」(黙示3:8)。そのあと、だれかが異言を語ります。すると別の人が、その異言はこういう意味ですと解き明かしをします。ま、これは私が頭の中で想像したことなので、実際はそういう集会にほとんど出たことはありません。もし、このように集会をしていたとすれば、今日の祈祷会とか家庭集会とはずいぶんとかけ離れたものではないでしょうか。日本の祈祷会とか家庭集会は、この礼拝をもっと小さくしたもので、賛美をしたあと、牧師がメッセージを語り、みんなが一方的に聞きます。そして最後にみんなで祈るというものでしょう。そのあと、お茶のときがあり、がやがや話し出します。そういう集会は、聖書が言う「互いに教え、互いに戒め、互いに祈る」というものではありません。私はセル教会を始めたと同時に、牧師が導く祈祷会や家庭集会を廃止しました。信徒どうしが共に集まって自由にやるようにと、セル集会を勧めるためでした。

 私は最近、『朝の九時』を20年ぶりに読みました。また、ニューヨーク、タバナクル教会の本を読みました。共通している点は、祈祷会に力を入れているということです。しかし、彼らは聖書を学ぶ時間よりも、祈っている時間が多いということです。そして、信徒が証(体験談やみことば)を、毎回、分かち合っているということです。祈りの課題も、抽象的なものではなく、今、群の中に起こっていることのために具体的に祈るんです。そして、祈りの結果が、次の集会までに分かると言うものです。「やっぱり神様は働いている。ハレルヤ!」と、ばかり、励まされて、新たな問題のために祈ります。私は韓国の区域礼拝、そしてインドネシヤとシンガポールのセル集会を見学したことがあります。もちろんリーダーもいますが、信徒の方も自由に発言します。祈りのときになると、問題を持っている人のところに手を置いて、がんがん祈ります。異言も出ているようですが、べつだん解き明かしもないようでした。とにかく、聖霊が充満している熱い集会でした。私は改まって「預言します」と言わなくても、祈っているうちに示され、預言が含まれている祈りをしているんじゃないかと思います。とにかく励ましたい、主の導きを得たい…そういうふうに願って祈っているうちに、神様が導かれることばが出てきます。私はそれが預言ではないかと思います。「主はこう言われます」と改まって言うと、緊張と恐れを与えてしまいます。でも、祈りの中で、示されて言う分には大丈夫です。ですから、異言とか預言、知識、知恵などの賜物がありますが、祈っているうちに与えられるのではないかと思います。31節「あなたがたは、みなかわるがわる預言できるのであって、すべての人が学ぶことができ、すべての人が勧めを受けることができるのです。」私は、こういうことができるのは、セル(小グループ)での祈り会であると確信します。そういう集会では、預言がはずれても、変な異言が出ても、失敗を通して学ぶことができます。だんだん、聖霊の油注ぎを体験し、初代教会のような熱い祈祷会になると信じます。そういう、兄弟姉妹の集まりをあちこちにたくさん作ったら良いと思います。そこには、聖霊が自由に働きます。そこに集まった人たちは、もれなく、神様が只中におられることを体験することができるでしょう。

 

2.指導者に従う

 32,33「預言者たちの霊は預言者たちに服従するものなのです。それは、神が混乱の神ではなく、平和の神だからです。・・・」。冒頭で、1950年代頃から、カリスマ運動が盛んになったと申し上げました。カリスマ運動というのは、聖霊の賜物を認めるということですが、聖公会、カトリック、ルーテル教会など、教派を飛び越えて起こりました。ところが、日本の教会、特に福音派はそれを拒絶しました。何故かと言うと、混乱や分裂を起こしかねないからです。私自身もそうですが、福音派とは聖書のみことばを、一字一句、神の言葉として信じるグループです。ところが、預言を認めると、聖書の権威がなくなってしまうのではないかという恐れが生じます。また、信徒が人々の病を癒したりすると、「ああー、牧師よりも力がある。うちの牧師は霊的じゃない」と思ったりします。さらには、「異言が伴う聖霊のバプテスマが必要だ!」なとど言われると、体験していない人たちは恐れと反感を抱きます。聖霊は本来、平和と一致を与える神様なんですが、聖霊の賜物が発揮されるところでは、分裂が起こり、傷ついた教会がたくさん起こったことは事実です。「預言者たちの霊は預言者たちに服従するものなのです」とパウロは言いました。私は一教会の指導者は牧師だと思います。その牧師が、霊的な賜物を認めない限りは、信徒がそういう賜物が与えられたとしても、教会で披露してはいけないのです。指導者の許可なしに、いろいろやるものだから、妬みや反感をかうのです。そういう場合は、牧師が霊的賜物に開かれるのをひたすら待ち、とりなしていくしかありません。それでもダメな場合は、別の群に移るのもいたしかたないことであります。また、牧師一人が目覚めて、役員側と分裂を起こしたという別のタイプもあります。 

 スティーブ・トンプソンという人が「健全なる預言の働きを導入する方法」というすばらしい本を書いています。その本の中でこのように言っています。預言の賜物を持つ人々の問題の多くは、神が教会に立てられた権威を理解していないことにあります。牧師や教会の指導者たちにとって、心配なのは、この権威の範囲を越えて、預言をする人たちがいるということです。つまり自分たちがすべき範囲を越えて、また、そうすべきではない方法をとおして、預言するということがあります。神の御国において、権威は、責任から流れるものです。一般的に、私たちは任されている責任の分野においてのみ、権威を持っています。一つの分野に関して責任を持っていないなら、それに関する権威を持っているとはいえません。パウロはこう記しました。「私たちは、限度を越えて誇りはしません。私たちがあなたがたのところまで行くのも、神が私たちに量って割り当ててくださった限度内で行くのです」(Uコリ10:13)。この権威の量りは、パウロがコリント教会を生み出し、神の前にその教会のために責任を持っていたから、生まれたものです。たとえば私の隣の人が、私の家に入ってきて、私とは違ったやり方で、私の子どもたちを、しつけ始めたらどうなるでしょうか。彼は秩序を乱しているといえます。大人であることには代わりありませんが、私の子どもをしつける父親としての権威は、私にあるからです。けれども、もし私がこの近所の人に、子どもたちを二日間ほど預けて、どこかに旅行に行くなどといった場合には話が違います。私はある程度の権威を彼らに与えたのであって、彼らはその間、子どもたちを見る責任があるからです。責任があるからこそ、子どもたちをしつけたり、叱ったりする権威も、彼らにはその間、与えられています。大変分かりやすい例話だと思います。スティーブ・トンプソンという方は大変バランスがとれています。ですから、たとえ預言者とはいえども、教会の指導者を飛び越えて、「そこに問題があります」とは言えないのです。もし、その教会に招かれた場合は預言するでしょう。それでも、公の場で、問題を起こしている人たちについて預言することはありません。なぜなら、それはその教会の指導者がやることだからです。ですから、たとい霊的賜物があったとしても、教会に対する権威の範囲を、侵害してはいけないということです。

日本でも各地でリバイバル集会とか聖霊の賜物に関するセミナーが開かれています。しかし、問題なのは、主催者側が、「超教派」と名乗って、牧師よりも信徒たちを集めて指導することです。信徒たちに、聖霊体験を与え、異言や預言や癒しを与え、それぞれの教会に返します。だから問題が起こるのです。そうではなく、まず牧師と信徒リーダーにだけに指導し、油注ぎを与え、賜物を付与します。その後、牧師と信徒リーダーが任された教会で、徐々に分かち合っていけば良いのです。それを、教会という組織を蹴っ飛ばして、「○○セミナーへいらっしゃい」と招くものだから変なことが起こるのです。東京にはそういうところを渡り歩いている信徒がたくさんいます。きょうはあっちのセミナー、明日はこっちのクルセード、あさっては○○先生のところ…。そんなふうにしていますと、教会から孤立して、根無し草クリスチャンになります。その人は一体だれから養われるのでしょうか。その人は一体だれに従うのでしょうか。私たちには定まった、信仰の家族がいるはずです。そこには、霊的な父がおり、若者がおり、子どもがいます。それぞれが、助け合って、一緒に成長していきます。家族の枠を飛び越えて、あっちこっち飛び回るのは問題です。霊的賜物、カリスマ運動がもたらした弊害は、霊的孤児を生み出したことでもあります。私たちは自分が養われる教会、自分が奉仕する教会をしっかり持って、その上で与えられた召しにふさわしい霊的賜物をいただけば良いのです。教会を抜きにして、霊的賜物だけを求めて歩くというのは、神様の秩序に反することです。「それは、神が混乱の神ではなく、平和の神だからです」。

 

3.本質に立ち返る

 カリスマ(聖霊の賜物)問題に対する第三の解決は、本質に立ち返る、本質を見失わないということです。14:39「それゆえ、わたしの兄弟たち。預言することを熱心に求めなさい。異言を話すことも禁じてはいけません。ただ、すべてのことを適切に、秩序をもって行ないなさい。」使徒パウロは、「預言を熱心に求めなさい。賜物を求めなさい」と何度も勧めています。ですから、そのようにすれば良いのです。さらに、「異言を話すことも禁じてはいけません」とも命じています。ただし、「適切とか秩序をもって」という米印付きです。なぜ、私たちは聖霊の賜物が必要なのでしょうか。それは、教会自体がキリストのからだだからです。復活昇天したキリストは、今、私たちを宮として生きているのです。私たちの内に聖霊が宿り、私たちがキリストの手、キリストの口、キリストの心臓、キリストの目、キリストの頭脳、キリストの足…となるように召されているのです。キリストのからだのさまざまな器官こそが、聖霊の賜物なのです。私たちクリスチャンが生身で、この世に出て行っても全く勝ち目はありません。また、献身と使命感だけでもダメで、いつか燃え尽きてしまうでしょう。私たちの内におられる聖霊は、使命とともに能力も与えてくださるのです。それは人間的な能力とか頑張りではなく、超自然的な神の力です。私たちは、初代の弟子たちのように、ただ聖霊が臨まれるときに、力を受けて、キリストの証人になることができるのです。昔も今も、必要なのは聖霊の力です。

 ジム・シンバラというニューヨークタバナクル教会の牧師は何冊も本を書いています。本の紹介には、「1972年からブルックリン・タバナクル教会の牧師として奉仕。着任当時20名だった教会員は現在6000名を超えるまでに成長。キャロル夫人はグラミー賞を受賞したブルックリン・タバナクル・クワイヤーの主事」と書いています。先生が各書で強調していることがこの聖霊の力です。今日の教会はこの聖霊の力を大いに必要としている、という見解に反論できる者がいるでしょうか。私はもとより、すべての牧師が、この聖霊の力を切に求めています。その生活の大半は、プログラム化された礼拝や諸集会での説教や奉仕、カウンセリング、宣教のための戦略を練ることなどで占められています。いずれも大切な働きではありますが、残念ながら、それらでは、現在、教会が抱えている真のニーズを満足させることはできません。クリスチャンの人生を豊かな恵みで満ち溢れさせてくださる神、すなわち、聖霊なる神から力をいただくということが、今日の教会にはかけているのです。…純粋な教理を維持するのは良いことですが、新約時代の教会にとっては、それがすべてではありません。昔の賛美歌の歌詞にある「砦を死守する」だけでなく、使徒たちは、はるかにそれを超えたことを成し遂げたいと願いました。彼らは、神から力を授けていただいて、方々に出て行き、その地の文化全体に影響を及ぼすことができるようにと祈りました。…正しい教理だけでは不十分です。御言葉を宣べ伝え、教えるだけでも足りません。私たちがこの世の人々を獲得するには、神に介入していただき、御言葉の正しさを裏付けるしるしを与えていただかなければなりません。すなわち、天から遣わされた聖霊に関わっていただいて、福音を語らなければならないのです。

 全くそのとおりであります。牧師たちは神学が正しいかどうか、立場が同じかどうかそういうところだけに目を向けがちです。しかし、初代教会のような聖霊の力がないのです。私たちがこの世の人たちに影響を与えるためにはただ一つ、超自然的な神の力です。人間の知恵や方法論ではなく、神の御力に拠り頼むしかないのです。初代教会の人たちはどのように祈ったでしょうか。使徒4:29-31「『あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。御手を伸ばして、いやしを行なわせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行なわせてください』。彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。」アーメンです。先日、ある姉妹から聞きました。「『主の祈り』を賛美しているとき、床が揺れているのを感じる、まるで地震のようだ」と。本質とは何でしょう。それは、全宇宙を造られた神が、全知全能、善愛の神が、私のうちにおられるということです。今、聖霊によって、私たちのうちに来られているということです。聖霊ご自身と聖霊の力こそが、陰府の力を打ち破り、神の御国を拡大させる原動力なのです。どうぞ、聖霊に満たされて、キリストの力ある証人とならせていただきたいと思います。普通のクリスチャンではなく、聖霊の力と愛に満たされた、熱いクリスチャンになりましょう。

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