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異言といいますのは、聖霊の賜物の1つで、聖霊に満たされたときに現われるようであります。聖書には、外国の言葉と言われたり、御使いの言葉などとも言われ、一般に私たちが使う言語とは違います。多くの場合、語っている本人もわからない、舌が勝手に回っていると言う感じです。ですから、ある人たちは「異言は気持ち悪い」、そんなものはいらないと断ります。しかし、ペンテコステ系の教会は、コリントの教会のように、異言は最もポピュラーで、必須アイテムのように重宝がられています。異言の長所は、神様とじかに交わるために、神様が共におられるという臨在感を維持できるということでしょう。他者はともかく、本人が喜びと恵みに満たされるという、個人向けの賜物であります。
1.異言の諸注意
どんな製品を買っても、ついてくるものが「取り扱い説明書」でありましょう。パソコンとかDVD、デジカメ、携帯とか操作が面倒なものが私たちの周りにはいっぱいあります。私はどちらかと言いますと、「取説」を読まない方であります。とにかく、動かしてみて、行き詰った時にようやく開きます。そのときは結構、イライラしていて、「何を言っているか分かんねよー」なとど文句を言いながら探します。一番、楽なのは、その機械を使い慣れている人に聞くことであります。聖書の異言も「取説」を読まないで、勝手にやりますと教会に混乱を与えてしまいます。異言はどんなことに注意すべきなのでしょうか。第一は公の集会、特に未信者がいるところでは控えるということです。23節には「人から気違いだと言われるかもしれない」と書いてあります。ペンテコステの日、弟子たちは聖霊に満たされ、他国の言葉で祈っていました。周りの人たちは、「あいつらは朝っぱらから、安いぶどう酒で酔っ払っているんだ」と馬鹿にしました。昭和5年頃、ホーリネス教会にリバイバルが起こりました。そのとき、人々は飛んだり跳ねたりして賛美し、会堂の床板を踏み抜いたこともあったということです。そして、ある者たちに異言が出ました。中田重治監督はそれを揶揄して「西洋狐付き」と言ったそうです。本当に熱狂的だったわけですね。それから、ホーリネス教会は「熱心で知識に欠けるのはよくない」とアカデミックに走りました。そして、異言や癒しをむちゃくちゃ非難しました。確かに学問的にはなりましたが、反面、リバイバル当時の力を失ってしまいました。取り扱い説明書をちゃんと読んでいれば、まるごと捨てなくて良かったのです。この世では危険なものはたくさんあります。ガスコンロやミキサー、電子レンジも危ないといえば危ないですね。でも、正しく使えば、とても便利です。聖霊の賜物も同じであります。
二つ目は知性との関係です。祈りには二種類あるということです。1つは頭で考えながら祈る、知性の祈りです。ほとんどの人は、考えながら祈ります。毎週、聖日礼拝の司会者はとてもよく備えていらっしゃいますね。私は結構ガサツですから、きちんとした司会者の後に私が登場するとメリハリがついて良いのかもしれません。もう1つは異言による祈りであります。14:14,15「もし私が異言で祈るなら、私の霊は祈るが、私の知性は実を結ばないのです。では、どうすればよいでしょう。私は霊において祈り、また知性においても祈りましょう。霊において賛美し、また知性においても賛美しましょう」。異言の祈りは、頭で考えるというよりは、御霊が勝手に祈らせるという感じです。個人的にはとても良いと思いますが、異言で人のために祈ると、祈られた本人はさっぱり分からないということです。互いに祈り合いなさいと言うけれど、異言の祈りだと一方通行になってしまします。だから、公の祈りや、互いに祈る場合は、異言ではなく、知性で祈れということなのです。人の分かる言葉で祈ったときに、聞いている人たちは「アーメン」とか、「感謝します」と応答することができます。しかし、私たちの知性で祈ることができないときがあるのではないでしょうか。言葉に詰まったり、表現できなかったり、あるいはうめきに似た祈りになる場合があります。ローマ8:26「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとしなしてくださいます」。聖霊の深いうめきが、異言ということもあるでしょう。私はたまにですが、寝ている間、異言が出ているときがあります。私本人が、祈り不足のために、聖霊モードに切り替わって、聖霊がとりなしているのかもしれません。「牧師のくせにしょうがないなー」と御霊が神様と直接やっている。とっても便利ですね。
また、神様があまりにもすばらしい場合、「あなたは明けの明星、谷間のゆり、オーワンダフル、マーベラス!」と言ったりします。しかし、言葉の限界のゆえに、表現しきれないときがあります。そのときに、異言で賛美できると言うのです。だからパウロは「私は、霊において賛美し、また知性においても賛美しましょう」と言っているのです。エペソ5:19節には「御霊に満たされなさい。詩と賛美と霊の歌をもって、賛美しなさい」と書かれています。「詩と賛美」はわかりますが、「霊の歌」って何でしょう。ペンテコステ系の集会に行きますと、途中から「霊の歌」を歌ったりします。最初は、異様な感じがしましたが、「声のオーケストラみたいで、ああー美しいもんだなー」と思いました。ゴスペルでは、オーストラリアのヒルソングが有名ですが、最後の部分で異言で歌っているCDもあります。当教会に、ソウルズとか、TPWなどのブラックゴスペルが来られました。彼らは控え室で異言で祈っています。そして、賛美の途中、後ろを向いてこっそり霊の歌を歌っています。英語ではありません。どこかの原語があふれてきて、もう、止められないという感じです。世の人はこういう光景を、恍惚状態とか、熱狂主義なとど言うかもしれません。しかし、愛と力と善に満ちた方を前にして、冷静になるということ事態おかしいですね。神様と出会ったら、普通でなくなるのが当たり前なのではないでしょうか。
3つ目に、パウロが異言に対して注意していることは、バランスであります。知性でも祈るし、異言でも祈るということです。ときどき、異言ばっかりで、知性でちっとも祈らない人がいますが、それは問題です。バランス感覚はとても重要です。とかく、異言が与えられた人は、嬉しくて、嬉しくて、どこでも披露しがちです。そのため、妬みややっかみをかってしまうこともあります。本人も、私は特別な賜物が与えられたと高ぶってしまうのです。そうではなく、神様と個人的に交わるすばらしい賜物として恋人のように付き合えば良いのです。もし、異言を本当に欲しいという人がいるならば、もったいぶりながら紹介してあげれば良いでしょう。それを、「あなたも異言が話せなければ一人前のクリスチャンじゃない」とか言って、手を押し付けたり、首を絞めたりするから誤解を与えてしまうのです。反対に、秘かに、大切にして、喜んでいると、人というのはかえって欲しがるものです。箴言11:22「美しいが、たしなみのない女は、金の輪が豚の鼻にあるようだ」と書いてあります。預言も異言も、癒しもそうかもしれませんが、「たしなみ」が必要だということです。子どもは新しいおもちゃを買ってもらったとき、「見て、見て」とみんなに自慢したがります。私たちは愚かですから、御霊の賜物をいただいたとき、そのように有頂天になるかもしれません。だからと言って、賜物を消してはいけませんが、大切に、管理していきたいと思います。その点、イエス様は偉大な神の力を持っていたにも関わらず、人に押し付けたり、自慢したりしませんでした。本当に、求めてくる人たちにだけに与えていきました。私たちもどんな能力、どんな賜物をいただいたとしても、へりくだって、神様の栄光のためだけに用いていきたいと思います。
2.異言を語る者
だれにでも食わず嫌いというのがあるのではないでしょうか。私にとっては苦瓜(ゴーヤ)がそうでありまして、先日もある方からいただきましたが、他の人にあげてしまいました。海の「ホヤ」とか、「このわた」とかは全くダメであります。ところで、聖書で食わず嫌いが一番多いのは、この「異言」ではないかと思います。ペンテコステ系の教会では最も貴重な賜物の1つでありますが、福音派の教会からは本当に毛嫌いされています。ですから、Tコリントの12章と14章からは全く説教されたことがないという教会もあるでしょう。しかし、私たちはみことばはどこの箇所からも、好き嫌いせずに食べなければなりません。そうしないと、健全に成長できないからです。使徒パウロは異言に関して何と語っているでしょうか。14:5「私はあなたがたがみな異言を話すことを望んでいます」と書いてあります。また、14:18「私は、あなたがたのだれよりも多くの異言を話すことを感謝しています」とも書かれています。もちろん、「知性が必要」、「バランスが大事」と注意書きはあったとしても、公平に考えてみるならば、異言も大切な御霊の賜物の1つなのであります。だって、パウロ自身も異言を話していたし、みんなも話すことを望むと言っているんです。使徒パウロに逆らうということは、聖書の権威、神様のみこころに逆らうということでもあります。ですから、神様がくれるというものは、より好みしないで、もらったらよろしいんではないでしょうか。ある人は、「異言だけは結構ですから、他の賜物を下さい」と願いますが、それは傲慢というものでしょう。
ということで、大切なのは、何事でも体験してみるということです。私は洗礼を受けて3年後に、韓国の聖会に行きました。ヨイド純福音教会の主催で、ゴサンリの断食祈祷院に行ったわけです。何千名も入る、ノアの箱舟をデザインした建物でしたが、使用するのは日本人が最初だと言われました。そこにはハレルヤおばさん、こと、崔子実という女傑が指導していました。集会の途中、「ハレルヤ、ハレルヤとやってみなさい」と言うんですね。汗を流しながら、「ハレルヤ、ハレルヤ」と言ってもちっとも異言になりません。崔先生が「異言の出ない方はまだいますか?」と言われるので、「はい」と手をあげました。すると、崔先生が近づいて来られ、ちょっと触ったように感じました。そして、「あなたはもう出てますよ」と言うんですね。「えー?」と半信半疑で、「ハレルヤ、ハレルヤ」と言っていたら、「ハレレレレレ、ハレレレレレ」と舌がもつれてきました。気がついたら、舌が自動的に動いているんですね。「あれ?どうしたんだろう?」止めようとすると止まるんですが、口をあけると舌が勝手に動き出すのです。韓国にいる間中、そのような不思議な経験をしました。ところが、日本に帰って来たら、ぜんぜん出なくなりました。私も無理に出そうとしませんでしたので、しばらく遠ざかっていました。そして、17年前、当亀有教会に赴任したとき、どうしても聖霊の力を必要としました。それまでは、毎週、説教をしていませんでした。しかし、毎週、みんなの前で話すのは非常なプレッシャーです。説教の直前に一生懸命祈ったとき、異言がちょっとだけ出てきました。完全な異言ではなく、うめきのような祈りでした。私の場合は、どう祈ったら良いかわからないとき、異言らしき祈りが出てきます。知性では表現できない場合、あるいはきちんと祈れない場合、補助的に異言が出てくるようです。
「朝の九時」というデニス・ベネットという人が書いた本があります。彼は聖公会の典型的な牧師でした。私は聖礼典(聖餐)を強調し、特定の行為や言葉による儀式を執行して、神の恵みにあずかっていた。しかし、神様の臨在を感じるのは一年に1,2度であった。私は神様との個人的な交わりがどういうものであるか、聖職に携わって16年たつまでは分からなかった。私は2600人の信徒に仕え、神様にも仕えていた。しかし、神様との交わりを喜ぶとか、祈祷会が楽しいなどと思ったことほとんどなかった。教会の信徒たちも導きや助けを受けていながら、その生き方はほとんど変わらないでいることを知っていた。その理由の大部分は、私が自分の生活の中で神を個人的に知ると言う体験を失ってしまったため、信徒を、神を知るという体験に導くことができなかったことにある。私は彼らの支えとなり、相談にのり、励ましを与え、「貧しい者の精神病医」となり、神のことについて教えて来た。しかし、何か重大なものが欠けていた。神が彼らに対して現実となり、その生活の中に著しい変化が現われて来るまでに至っていなかった。私はある日、友人に誘われて、一組の恵まれた夫婦に会った。二人は、異言を話す人たちであった。「我々の教会には『感情主義』などはない。私はばかげたことや非合理と思われるものには、かかわりを持たない」と私は関わりを持とうとしなかった。しかし、私の中には消すことのできないうえ渇きがあった。それで、何度も、二人を訪ね、やがて聖霊に満たされ、異言が出るようになった。するとどだろう。私は、より一層、自分のうちにある神を意識するようになった。気づいた時は、自分では夢にも考えられなかったことばで、父なる神に向かって心を注ぎだしていた。昔は神様の臨在をフラッシュのように一瞬しか感じなかったが、何百もの投光器にスイッチを入れたようになった。私は小さな集まりを持ったが、そこに参加した人たちがみな、この満たしと異言をいただいた。挨拶が変わった。「ハレルヤ!」「主をほめよ」「アーメン。神に栄光あれ」「神に祝福あれ」「イエス様、感謝します」。それが主をあがめる賛美へと変わって行った。とにかく、共に集い、祈り合うことが楽しくなった。そして、これまではサロンみたいに葉巻を吸い、お酒を汲み交わす集まりだったが、全く変わってしまったのである。
その本にこういうことも書いてありました。私自身、聖霊のバプテスマを受けるまでは軽い喫煙者であった。その時から喫煙することは生理的に不可能なことを私は知った。一人づつ、聖霊を受けた人はタバコを止めるようになった。別にそうするように言われたわけではないが、ついには私たちの交わりの中では喫煙する人を見かけるのが稀になった。これには多少私は頭をひねった。タバコを止めた多くは、明らかに改めねばならないもっと悪い習慣や問題を持っていた。過食やその他のことに過度にふけること、うわさ話、誠実さの欠如、うぬぼれなどは言うに及ばず、罪ある人間が受け継いでいるそのような一切である。このことで私に出来る最善の説明は、タバコや酒や下品なことばなどに過度にふけることは、その人の深い所にある問題が外側にその徴候として表れたものである。外的なものは、外的なものとして処理することができる。しかし、心の中にある傾向を変えて行くには多くの日時を要する。…つまり、彼らの内側が聖霊に満たされたとき、タバコや過食、悪い習慣から解放されたということです。異言は個人の徳を高めることができると聖書にはっきり書いてあります。彼らが異言を通して、神と交わっていくときに、他の何ものでも満たすことのできないある部分が癒されたのです。私たちはだれでも、心のどこかが傷つき、心のどこかで悲鳴をあげています。それを満たすことができるものは、この世にはないということです。神の聖霊だけが、本当の満足を与えてくれるのです。ヨハネ7:38「私を信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から(直訳は腹から)生ける水の川が流れ出るようになる。」
私は異言がすべてだと言っているのではありません。一番重要なことは、聖霊に満たされるということであります。満たされたら、異言が出る場合もありますし、出ない場合もあります。デニス・ベネットの本を読んで思ったのですが、2600名も教会員がいて羨ましいと思った反面、大変だなーと思いました。教会には、いろんな問題をかかえた電話がかかってきます。「今、私のところに来て助けてください」「もう、愛のない教会になんかいきません」…牧師は1つ1つの問題を処理していました。しかし、信徒たちが個人的に聖霊と交わったとき、変わっていったのです。もう形式的な祈りではなく、魂から溢れ出る祈りになり、祈りが楽しくなりました。いままでは祈祷会に来なさいとか言っていたのに、家々で、いろんな場所で賛美し、語り合い、祈り合うようになりました。それまでの証は、何十年も前の証でしたが、数日前、昨日起きた出来事を分かち合っているのです。それだけ神様が日々働いていることを人々は体験したのです。私たちは信仰生活を難しく考えているのではないでしょうか。信仰生活は聖霊に満たされて、神様と共に歩むことです。「私の思いも、私の体も、私の魂もあなたご自身で満たしてください。主のご愛と主の信仰と主の希望で満たしてください。」と願うことであります。「私を聖め、あなたご自身の器にしてください」と祈ります。そのときには、何も起こらないかもしれません。しかし、あなたが立ち上がり、何かをするとき、主が共に働いてくだるのです。あなたの口から、あなたの手から、主の恵みと力がほとばしり出てきます。これが聖霊に満たされた人です。私も牧師の端くれですが、不信仰になり、主の力を半減させてしまいます。そのため、ときどき不信仰を悔い改めます。主はもっともっと偉大なことをなさりたいのです。私たちの内にある妨げを取り除いていただき、主が自由に働く神の器となりたいと思います。どうぞ、一緒にお祈りしましょう。私から罪と不純なものを取り除き、心の傷も癒し、聖い神の器にしてくださいとお祈りしましょう。
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