「二人、又は三人が集まれば」  マタイ18:20

2004/08/29 奨励 水島 稔博神学生
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今日は、「心を開きあえる関係つくり」について、お話させていただきます。

関係を作るためには、共同体が必要ですから、まず、始めに共同体について

聖書から、お話させていただきます。

 

1. 共同体の必然性

創世記を読みますと、「人は神様の性質に似せて、創られた」とかかれています。

神様は、父・子・聖霊の三位一体のご人格(神格)を持っておられるということです。つまり、神様は共同体を持っておられます。

ですから、私たちも共同体なしでは生きていくことができません。

人類最初の共同体は、アダムとエヴァでした。最初に、神様はアダムを創られました。次に、神様は「人がひとりでいるのは良くない。助け手が必要だ。」とエヴァをつくられました。「助け手」というのは、助手のことでは有りません。

互いに支えあって生きるために必要なパートナーのことです。

人にはパートナーが必要なのです。アダムとエヴァは夫婦でした。彼らにはやがて子供が生まれます。ここに人類史上初めて、親子という家族が生まれたのです。今日にいたってもそれは繰り返されています。

今日お集まりの中で、土の中からひょっこり生まれてきた方は、いらっしゃいますか?親がいるから、私たちは生まれたのです。産み落とされた赤ん坊は、自分ひとりでは、何もすることができません。誰かの助けを借りなければ生きていけないのです。

マタイ18章には、迷い出た1匹の羊の話が出てきます。この1匹は100匹の仲の1匹だったのですが、ある日迷い出て迷子になってしまいました。羊飼いは残された99匹の置いてまで、この1匹を探しにいきます。

なぜでしょうか?それは、羊はとても弱い動物で、1匹だけだと死んでしまうからです。実は、「羊」は「私たち」のことをさしています。私たちは群れ(共同体)なくして、生きていくことができないのです。

 

2. 共同体につまずきを与えるもの。

共同体なくして、私たちは生きていくことはできません。にもかかわらず、孤独を好む方もいらっしゃいます。何かが、共同体に入ることを邪魔しているのだと思います。

マタイ18章7節「 つまずきを与えるこの世は忌まわしいものです。」と有ります。この世というのは、その当時の価値観だと思います。イエス様の時代の価値観は律法を守ることでした。しかし、その律法は神様が与えられた律法とはかけ離れていました。

本来なら、人々を幸せにするための律法が捻じ曲げられてしまい、人を不幸にしていたのです。ですから、イエス様は「忌まわしいものです。」といわれました。

私たちに間違った価値観があれば、共同体生活を妨げているのではないでしょうか?では、その間違った価値観は、この世の価値観です。

私たちに特に影響を与える価値観。それは、「家族」と「文化」から入ってきます。

最初に「家族」の中で、どのような価値観が作られるかを説明させていただきます。価値観が形成されるプロセスを非常に良く現した漫画があります。この歌詞に聞き覚えのある方がいらっしゃると思います。「思い込んだら、試練の道を。行くが男のド根性。真っ赤に燃える、王者の星。巨人の星をつかむまで。血の汗流せ。涙を拭くな。行け行け飛雄馬!どんと!行け!」その漫画とは巨人の星です。

父一徹は息子の飛雄馬に自分の夢を一方的に託します。その夢とは栄光の巨人軍に入団し、巨人の星としてマウンドに訓利することでした。一徹は、飛雄馬の意思も確認しないまま、巨人の星を目指すため、猛烈なトレーニングを開始します。育ち盛りの子供に、筋力をつけるために大リーグ養成ギプスというとんでもないものを取り付けます。徹底的にしごきにしごきます。歌詞にある試練の道は、父が無理やり与えた道です。血の汗を流すほどの厳しい試練です。

飛雄馬は父親の夢をかなえることこそが彼の目標であり、また、巨人の星として、実績を作ることが、父親から認めてもらえるのです。少しでも、弱みを見せたら突き放されてしまうのです。一徹の愛は無条件の愛ではありません。愛ではなく、ギブ&テイクです。

姉アキ子はどうでしょう?おそらく、物心ついた頃には酒乱の父親が、母親に暴力を振るっていたのをいつも見ていたことでしょう。身近な女性がそうだったから、幼いながらも、「女はいつも、我慢だ!三つ指突いて、口答えしてはいけないんだ!」と心に誓ったことでしょう。そして、幼い飛雄馬のために、

私が母親となってこの家族を守っていこうと誓ったと思います。

勉強と、子育てと、家事の両立。さぞかし、辛かったに違いありません。

一生懸命作った食事も、父一徹がすぐにかんしゃくを起こして、卓袱台ごとひっくり返してしまいます。それでも、文句を言いません。父が近所の人に迷惑をかけたら、誤るのは明子の役目でした。

彼らは、肉体の暴力、心の暴力を日常的に受けて育ちました。

(*ちなみに、物語の最後は度重なる左腕の酷使で、飛雄馬は左腕の投手生命をたたれてしまうという悲劇的な終わり方で幕を閉じてしまいます。)

こうして、飛雄馬は「決して、弱音を吐けない男」に、アキ子は「親を喜ばすために、感情に蓋をしてきました。」つまり、自分の本音を出さない良い子として育ちました。

二人とも共通の条件があります。「それは、良い子」という条件です。良い子というのは、「心が素直な」という意味ではありません。「世間体が良い。」「親にとって都合が良い。」という意味です。

「世間体が良い。」というのは、「勉強ができる。」「スポーツができる。」ことです。「親にとって都合が良い。」というのは、「親が間違ったことをしても、逆らわない」ということです。「従順というよりも服従する」「親に世話をかけさせない。」ということです。

「良い子」であるために、日本には昔から、親から教わることがありました。今は、多少変っているかもしれませんが、日本の男性は「泣くのは恥だ。」と教わります。女性は、「親を喜ばすために、感情に蓋をする。」ことを教わります。つまり、自分の本音を出さない。特に、弱さを出してはいけないという価値観で暮らしてきたのです。だから、心を開くことができないのです。

 

次に「文化」が影響を与える理由についてお話させていただきます。

日本を代表する文化とは「和」の文化です。「和」の文化もすばらしい要素が含まれており、一見よさそうな「文化」ですが、実は「和」の思想には、「支配者に任せて自分を犠牲にする」文化、つまり、共依存が潜んでいます。共依存というのは、「心の傷を多く引きずっている父親、または、母親の元で子供時代を過ごした大人たちに見られる、間違った自己犠牲の生き方」です。子供は、無条件の愛を体験しなければならないのに、逆に態度と行動による虐待を受けます。そこで、子供達は恐怖の中で、「親に愛されるためには自分の努力が必要」と考え、「間違った自己犠牲」の決断をします。ゆえに、会社や学校において、

互いの人権と個性を受け入れた信頼関係という「チーム」による一致ではなく、支配者を恐れ、面倒と思っている人間関係の調整を避けるために、真理であろうが偽りであろうが、支配者に従うという「偽りの自己犠牲」という「和」による一致をしようとします。ここ数年騒がれている有名な企業の問題や、政治の問題も、ここから、来ています。

 

3. 真の家族の再構築。

マラキ書4章には「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」とあります。「大いなる恐ろしい日」とは終末の時代です。ここで扱われている内容は、人間性について語っており、「家族の崩壊と回復」を扱っています。「預言者エリヤ」とは、聖書の原則に立ち返って生きている人々のことです。その人々が「父親の働きをしていない父親」の心を癒す働きをし、子供と和解させると預言しています。また、機能不全の親の元へいて傷だらけになった息子、娘が癒されて、和解するということが書かれています。

神様はこの時代において、家族の回復を望まれています。

家族の回復は、無条件の愛で立てあげられた家族です。それこそが神様が望まれている家族のあり方、つまり「神の家族」といえるのではないでしょうか?

神の家族のあり方を示している箇所があります。

マタイ18章19節1「 まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。」

「どんなことでも、地上で心を一つにして祈るなら」とあります。

「心を一つにする」とはお互いの心を分かち合うということです。心を一つにするためには、自分の心を開く必要があります。

「どんな事でも」とありますから、良い思いだけではなく、自分の弱さや罪からくる苦々しい思いも、分かち合うことが必要です。

神の家族は愛の家族ですから、全てを受け止めることができます。

18章10節 「あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。」

「あなたがた」というのは神の家族です。「この小さいもの」とは「幼子」のことです。幼子というのはか弱い存在です。ですから、「か弱い存在を馬鹿にしてはいけない。」とイエス様は語られています。

神の家族においては、強がる必要はないのです。自分の弱さを出して、見下げられるようなことはありません。神の家族は、弱さを受け止めてくれるのです。

神の家族は、無条件の愛であなたを受け止めてくれる共同体です。いうならばオアシスのような場所です。あなたの心の痛みを癒し、心の渇きを潤わせてくれる場所なのです。

4. 神の家族が与える恵み

神の家族では、どのような恵みを受けることができるでしょうか?それは、

「罪からの解放」と「傷からの解放」の恵みがあります。

クリスチャンは罪が、赦されています。神の前に罪を告白するならば、罪は赦されます。なぜなら、2000年前、私たちの罪の購いのため、イエス様が十字架にかかってくださったからです。

しかし、どれだけ、神様の前に告白しても、解放されない罪があります。それは、悪習慣です。例えば、「アルコール中毒(度を越える飲酒)」、「ギャンブル」、「性的な誘惑」などです。最近では「インターネット」というのもあるかもしれません。「良くない」と思って、罪を告白しても、全く改善されないということはないでしょうか?

それは、罪の奴隷になっているからだと思います。罪の奴隷という言葉は聖書にも出てきます。ヨハネ8章34節イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。」

罪を行い続ける限り、罪の奴隷です。

奴隷とはどういう身分でしょうか?奴隷には、権利がありません。自由ではないのです。私は映画や、本で見たことしかありませんが、奴隷の足には、逃げることができないように重い足枷がつけられています。罪の奴隷には、心に重い枷が、つけられています。奴隷の身分では、自分ではどうすることもできません。誰かに枷を、はずしてもらわなければなりません。

ヤコブ書5:16 「ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、」とあります。お互いに罪を言い表わすならば、お互いの祈りを通して、罪は赦されるのだと思います。

どのような、祈りなのでしょうか?それは、イエス様の御名によって「罪が赦された。」と宣言する祈りです。

「罪の告白ゆえに、イエスの御名によってあなたの罪は赦された!」という祈りです。

マタイ18章18節:「まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。」とあります。

この世界で、罪の赦しが宣言されたなら、天においても、罪の赦しが宣言されているのです。クリスチャンには聖霊様が与えられています。ですから、王であり祭司なのです。ですから、その権威を使わせていただけばよいのです。

聖書には「目に見えないものを信じることは幸いである。」ありますように、私達は目に見えないものを信じることが苦手です。ですから、目ではっきり見える形で、罪が赦される必要があると思います。

そうはいうものの、罪を告白することは、大変勇気が必要です。もし、告白するならば、「ひどく怒られはしないだろうか?」あるいは、「軽蔑されて、もう付き合ってもらえないのではないか?」という恐れがあると思います。つまり、告白によって与えられる裁きを恐れているのです。しかし、神の家族においての罪の告白は、裁かれるためではなく、赦されるために有るのです。

マタイ18章21から22節「そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」

イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。

罪を告白するならば、赦しがあります。七度を七十倍の赦しとは、完全な赦しのことです。完全な赦しとは、無条件の愛でそれを受け止めて、なんの裁きもあたえられないという赦しです。ですから、罪を告白することができるのです。

クリスチャンになってはみたものの、私も、ある悪習慣から抜けられずに、悩んでいました。何度、神の前に罪の告白をしても、その罪を止められないのです。まさに、罪の奴隷になっていました。2年前に行われたチェンジングライフキャンプで、始めて人前で罪を告白することができました。私が、チェンジングライフキャンプで悪習慣の罪を告白できたのは、罪を告白しても、「決して裁かれない。」「全てを受け止めてくれる。」そのような場所だったから安心して悔い改めることができたのです。

 

罪の告白には赦しだけでなく、癒しが伴うこともあります。

先ほど、お読みしたヤコブ書5:16 「ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。」

マタイ9章には、起き上がることさえできずに苦しんでいた中風の病の男が出てきます。イエス様は彼に向かって、「子よ。あなたの罪は赦された!」と宣言されました。すると、男は立ち上がって、床をたたんで、歩いて帰ることができたのです。

先ほど、心に重い枷がつけられていると申し上げました。ですから、心が重いのです。心が重いということは、心が病であるということです。心の病は体も蝕むことがあります。ですから、罪が赦され、心の枷が取り除かれるなら、心の病が治り、体の病も治るのです。

 

「傷のいやしについて」

次に傷からのいやし(解放)についてお話させていただきます。

大なり小なり、人は心に傷をおっています。傷から解放される方法は、そのときに経験した苦々しい思いを神様に注ぎだすことが必要です。嫌な出来事(ストーリー)を神様に聞いてもらうのではなく、そのときに感じた思いを聞いてもらう必要があります。

神様に心にある苦々しい思いを注ぎだすならば、心の癒しがあります。

第一サムエル記に、ハンナという女性が登場します。彼女には、大きな問題がありました。彼女は不妊の女であったがため、夫はイスラエルに子孫を残すために、もう一人の妻を娶りました。ハンナはいつまでたっても子供が生まれませんでしたが、もう一人の妻であるペニンナには、あっという間に、多くの男の子と女の子が生まれました。ペニンナは、優越感を持ち、ハンナをさげすみいらだたせました。夫はハンナを慰めましたが、それによって癒されるようなものではありませんでした。ハンナは神の前に出て、自分の心の深いところにある痛みを皆、神の前に注ぎだしていました。「神様、聞いてください。私がペニンナによってどんなに心が痛んでいるか。こんな不公平なことがあるでしょうか?どうして、彼女には与えられ、私には一人も与えられないのですか?彼女の言葉はきついですよ。言われなくても、なぜ、自分には生まれないのだろうかと悩んでいるのに。私のそんな気持ち、全く無視して見下げるのですから。」ある方は、そんな祈りをしても良いのですか、と思われるでしょう。聖書の中の偉大な人物は、神様の前で心の中の苦しみや、悲しみを隠さずに話していますから、大丈夫です。神様は、あなたの全てを受け止めてくださいます。その時多くの涙が流れることでしょう。傷の中にある感情の痛みが外に出るときには、多くの場合涙が伴います。

自分の心の痛みを、神様に注ぎだしたハンナは変わりました。第一サムエル記1章18節「彼女の顔は、もはや以前のようではなかった。」とあります、彼女は解放されたのです。

ハンナは一人で神の前に、自分の思いを注ぎだすことができたのですが、今の私たちは心を注ぎ出すことが苦手なように思います。普段、私たちが暮らしている社会は、「心を開いて、自分の感情を出してはいけない。」あるいは、「弱さを見せることはよくない。」という価値観の社会だからです。

価値観は身に染み付いていますから、神様の愛で、凝り固まった心をリラックスさせてあげる必要があります。罪の赦しと共通することですが、「全てを受け止めてあげる」環境を作ることが大切です。次に必要なことは、その人の痛みを分かち合うことが必要です。痛みを分かち合うことは、神様の愛を経験しているクリスチャンしかできないと思います。

心の痛みが激しい場合、(その感情が怒りであっても、悲しみであっても)涙が伴う場合が多いです。ですから、その感情がながれてきたならば、一緒に泣いてあげることも大切です。チェンジングライフキャンプでは、スポンサー(面倒を見る人)とキャンパー(面倒を見てもらう人)が互いに抱き合いながら、涙を流している光景をよく目にします。ある人は号泣しています。とても、感動的だと思います。

 

私たちの社会の中で弱さを出しても良いところは有るでしょうか?

実は一つだけあるのです。それは教会です。教会はイエス様を救い主年信じる人の集まりです。教会は「神の家族」だからです。

しかし、ただ礼拝に参加するだけでは、「神の家族」のすばらしさは、経験できないと思います。

神の家族を経験するための鍵が、マタイ18章20節「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」

ではないでしょうか。まずは、二人から三人集まって交わりを持ってみては、いかがでしょうか。

そして、もう一つの鍵が、マタイ18章19節「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。」ただ集まるのではなく、心を一つにできるよう、心を開いてみてください。どんなことでもかまいません。自分の思いを注ぎだしてみてください。

心が開くことができるならば、神の愛が注がれます。開けば開くほど、神様の愛はながれます。いきなり、全開にできなくても良いのです。ほんの少しでも、開くならば、そこに神様の愛がながれます。ほんの少しの喜びを感じたなら、今度はもう少し、心を開いてください。さらに、神の愛が注がれますから、喜びも大きくなるはずです。そうしていくうちに、徐々に心を開けるようになってきます。そこでは、心を一つにしていますから、当然、全体に喜びが流れていきます。この関係を「セルグループ」といいます。

セルグループの中で、守っていただきたい三原則があります。それは「教えない」「裁かない」「秘密厳守」です。この三つを守っていただくなら、心を開きやすくなると思います。そして、聖書を分かち合ってください。聖書を分かち合うことで、聖書の正しい価値観が私たちに入ってきます。お互いに感じたことをありのまま分かち合ってください。知っている知識ではなくて、自分が感じたことを分かち合ってください。

次に、場所についてですが、教会という建物にとらわれなくてもかまいません。

ご自宅でもかまいません。くつろげる場所なら良いと思います。天気が良いなら、外でもかまいません。自然を満喫しながら、セルグループを持てるのであれば最高だと思います。

私たちは食事を共にすると、心を開きやすくなるようです。イエス様も、食事を共にして、関係を深めていかれました。共に食事やお茶を楽しみながら、やってみてはいかがでしょうか。私はファミリーレストランで、コーヒーを飲みながら、やっていました。

このような時間を週に1時間は持たれたほうが良いと思います。どうしても、時間が作れないのであれば、礼拝が終わってから、共に食事をする時間を持たれてみては、いかがでしょうか。聖書の分かち合いは、その日に聞いたメッセージでよろしいかと思います。

 

皆さん、セルグループにチャレンジしてみませんか?今日からでも、はじめてみませんか?今まで、経験したことのない喜びがそこにあります。

セルの中で悲しんでいる人がいるなら、悲しみを分かち合ってください。そこにイエス様の慰めがあります。苦しんでいるなら、苦しみを分かち合ってください。そこに、イエス様の癒しがあります。喜んでいるなら、喜びを分かち合ってください。

 

「あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。」

 

心を一つにして祈るなら、天の父はその願いをかなえてくださいます。

 

最後に、心を一つにして祈りがきかれた証をさせていただきたいと思います。

今年の春、行われたチェンジングキャンプで、ある女の子が、なかなか心を開くことができずにいました。彼女は良心から請けた心の傷があまりにも、ひどいものだったので心が開けなったのです。

彼女のスポンサーが片時も、離れず付きっ切りで祈りました。それども、彼女の頑なな心は開きません。このキャンプのコーディネータの石原牧師も、付きっ切りで祈りました。それでも、彼女の心は開きませんでした。

最終日の前日、もたれたスポンサーミーティングで彼女のことを祈りました。

多くのスポンサーが彼女の辛さを共有しました。「天のお父さん。本当にかわいそうだ!」「おとうさん!何とかしてあげて!」と祈りました。あるものは呻くように、あるものは叫ぶように祈っていました。

私たちは心を一つにして祈ったのです。

次の日の朝、石原牧師がうれしそうな顔で、「ジーザスは凄い!」スポンサーに話しかけました。みんなで祈った女の子の心が開いたのです。

私は彼女の顔を見ました。彼女の顔は別人のように輝いていました。

7月に私は仙台の教会に行きました。そこでは、ものすごく嬉しいことがありました。キャンプで変えられた女の子が、変えられた時と同じ笑顔で、賛美をリードしているのです。

 

私たちは傷ついています。神様は私たちを神の家族を通して、癒そうとしています。

弱くったっていいのです。いい子である必要はありません。神様はわたし達を愛しておられるからです。「あなたは、高価で、尊い!私はあなたを愛している!」神様はあなたの全てを受け止めてくださいます。神様の前に心を開いてみましょう。神の家族に、自分の思いを注ぎだしてみましょう。

あなたが、それを望むなら、神様はあなたをそのように創り変えてくださいます。

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