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コリント13章では、霊的賜物は不完全であり、愛は永遠であるということを学びました。本日の14章1節では「愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい」と教えられています。つまり、使徒パウロは、愛と聖霊の賜物の両方を求めよと勧めているわけです。聖霊の賜物というのは、人間にはない、神様からの特別な能力です。もちろん、神様は単独でも働かれますが、キリストの体なる教会を通して、働きたいのであります。2000年前、神様は御子イエスを通して働かれたように、末の時代は、教会を通して働くというのが神様のみこころであります。ですから、私たちは「私を神様の御用のため用いてください」と聖霊様に自分を差し出す必要があるのです。
1.預言とは何か
預言とは旧約聖書の預言者たちが語ったものとは違います。預言者たちは「主はこう言われます」とストレートに神のことばを語りました。それらが、聖書の中に記録されています。しかし、預言の賜物は、もっとゆるやかなものであり、完全ではありません。前の13章で「預言することも一部分だからです。不完全なものです」と言われていた通りです。教会はこの預言に対して、2つの極端な立場を取って失敗しました。1つは、聖書の神の言葉ように高めすぎて、混乱を招いてしまいました。そのため教会が分裂したり、傷を受けてしまいました。もう1つは、預言を全くないがしろにしてしまったことです。そのため教会の霊性が冷え切ってしまい、力を失ってしまいました。エリの時代は「主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった」(Tサムエル3:1)とあります。預言を無視すると、霊的な命が枯渇するということです。ですから、私たちは預言を正しく用いていくならば、キリストのからだが健全になり、神様の働きも前進するということです。
では、今日における預言とは何なのでしょうか。3節「ところが預言する者は、徳を高め、勧めをなし、慰めを与えるために、人に向かって話します」。徳を高めるとは、あることを示すことによって、人を建て上げるということです。勧めとか慰めとは「神様があなたのことをご存知ですよ」と励ますことです。ですから預言というのは、人の罪をあばいて、「悔い改めなさい」と責めることではありません。もちろん、緊急な場合にはそのように言うかもしれませんが、多くの場合は、優しくて、心温まるものが多いようです。また、預言者として任命された人は特別な油注ぎがあって、未来の場所とか時まで示すことができます。しかし、このところの預言は、クリスチャンなら、だれでもできる励ましとか慰めのレベルです。だから、パウロはすべてのクリスチャンに「熱心に求めなさい」と言っているわけです。また、ある人たちは「今日の牧師の説教が預言である。神のことばである聖書を解き明かすことがそうだ」と言います。しかし、厳密に言いますとそうではありません。6節では「黙示や知識や預言や教えなどによって話さないなら、あなたに何の益となるでしょう」と言われています。つまり、説教の中には、黙示や知識や預言や教えが含まれるということです。私も説教の前、「原稿に縛られないで、あなた様からの知恵と知識、預言を語れるように」と祈っています。私もときどき、自分の説教をビデオで見るときがありますが、「おお、うまいこと言っているなー。やっぱり御霊によって語っているなー」と自分でも恵まれます。
また、使徒パウロは預言と異言を比較して説明しています。異言とは何かと説明しますと時間がかかりますので、「自分でも分からない聖霊の言葉」とだけ言っておきます。アバアバみたいな単純な言葉もあれば、どこかの原語のような変化のある異言もあります。ペンテコステ系の教会はこの異言にものすごくウエートを置いています。異言が出なければ、半人前のクリスチャンとまで言う教会すらあります。私は異言を魔法の杖みたいに高める団体に対しては断固として反対します。なぜなら、異言も賜物の1つだからです。パウロは異言の用い方に対して、ものすごく注意しています。異言の良い点は、自分の徳を高めるということです。おそらく、自分の中の御霊が神様に向かって、ダイレクトに通信しているのでしょう。自分でも理解しえないことが、向こう様とやりとりされているのであります。しかし、この異言を公の場所で語ると混乱を招きます。なぜなら、他の人が何を言っているのか分からないからです。ですから、パウロは異言の解き明かしができる場合を除いては、自分の部屋でやるように注意しています。私も多少の異言は出ますが、出ない時もあります。人から「なんちゃって異言」と言われるときもあります。お祈りしていて、何と言ったら良いかわからない、自分の知性で言い表すことが困難な場合があります。その時に異言らしきものが出ます。ある人がこのようなうがったことを言いました。祈りは神様との電話であるが、異言はファックスのようなものであると。ファックスがあれば便利です。地図とか複雑な書類を送ることができます。「ピー、ヒョロ、ヒョロ、ヒョロー」と何か音がしますが、あれで送っているわけです。異言もそれと等しいかもしれません。
パウロは人々の前では、異言よりも預言を話しなさいと勧めています。なぜなら、預言は人の徳を高め、教会の徳を高めるからです。「徳を高める」とは、英語でbuild up、家を建てるという意味があります。ある人が神様に一生懸命お祈りしていることがあるとします。本人はだれにもその内容を話したことがありません。そのときに、だれかが、預言します。「○○兄弟。あなたが、そのように祈っていることを私は知っています。時が来れば、必ず報いられます。あきらめず、継続して励みなさい」と言ったとします。それを聞いた兄弟は、「神様は私のことをご存知だったんだ。感謝します」と信仰が強められます。私も今から10年位前、大和教会で預言をいただきました。アルゼンチンから、ソーサーという先生が来られ、風邪をひいていらっしゃるのか、咳をしながら預言をしていました。大川先生が、冗談半分で、「預言と風邪を両方もらっちゃうかも」と言っていました。年末の祈祷会だったのか、200人くらいの人がずらーっと並び、みんな戦々恐々としていました。おそらく、教会でそういうことをするのは初めてだったのかもしれません。ソーサー先生が私の頭に手を置くと、私は倒れてしまいました。先生が私に言われました。「あなたはもっと整えられるならば、あなたを通してもっと大勢の人たちが救われるでしょう」。その先生は、私が牧師であることは知らないんです。でも、当たっていました。もう1つは、1995年、アメリカから預言者のご夫妻が来られ、20数名の牧師たちに預言してくれました。これも何度か話したがことがありますが、本当に励ましをいただきました。その年は、何名か教会から離れ、私は弟子訓練に行き詰まりを感じていました。「あなたはヤギを羊に変えようとしている。それは無駄なことです。やがて、二番草が生え、山には羊たちが群れるでしょう」と言われました。奥様の方は「あなたは冷たい氷の張った海にいます。おそらく、あなたが属している教団がそうなのでしょう。しかし、あなたは砕氷船です。聖霊のスクリューの推進力によって、氷を砕いて進みます。」これも励ましを受けました。そこに集っていた20数名の牧師たちもすべて励ましと示唆をいただきました。10年近くたちましたが、ほとんどの牧師が預言のとおり成就しています。
最後に一言、バランスを取ることについて話さなければなりません。預言のすばらしさを知りますと、いつも預言が欲しくなります。ある人は預言が来るまで行動しないという人まで出てきます。しかし、それは間違いです。「最近、預言がないなー」というのは、神様が今のあなたの生活を満足しているからです。次の曲がり角に来て、「どうしようかなー」と、迷ったときに、また預言が与えられるかもしれません。また、私たちは日々、聖書を読んでお祈りするディボーションーによって、神の御声を聞く必要があります。聖書が基本です。聖書を1つも読まないで、預言を下さいというのは誤りです。優先順位はまず聖書です。その次に預言が来るということです。こういうバランスを取っていれば、預言によって、教会が健全に建て上げられていくと信じます。
2.預言することを求めよ
使徒パウロはすべてのクリスチャンに、1節で「愛を追い求め、預言することを熱心に求めなさい」と勧めています。とんで、12節でも「それが豊かに与えられるよう、熱心に求めなさい」と言っています。英語の聖書ではdesire、「強く望む、欲求する、欲しいと願う」という意味の言葉が用いられています。聖書がこんなにはっきり言っているのに、みなさんは預言することを熱心に求めているでしょうか?ちょっと求めても与えられないものだから、もう霊的賜物の時代は終わったんだなどと言い訳するのではないでしょうか?「求めよ。そうすれば与えられる」とイエス様もおっしゃいました。だから、預言でもなんでも、もらえるものだったら、熱心に求めたら良いです。葛飾では「特売」のときは、人々が早くから店の前に並びます。御醤油など、一人一本などという特売品は、何度も行ったりして買ったりします。山の手では「私は、安物は買いませんのよ」なんて、すまして来ないかもしれません。しかし、下町は違います。キリスト教信仰は、初めインテリ層に入りました。そういう人たちは「癒しとか奇跡は低級なご利益宗教だ」と言って信じなかったのです。そのため、新興宗教がどんどん癒しや奇跡を行なって栄えました。彼らは悪霊によって、そういうことをしたのです。残念なことに、教会は神の霊がいらっしゃるのに、「自分たちの知恵と力でやりますから結構です」なんて、聖霊を眠らせてしまったのです。日本はそういう意味で、海外と比べると霊的不毛地帯です。
ペテロはペンテコステの日このようにメッセージしました。「神は言われる。終わりの日に、私の霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言する。…その日、私のしもべにも、はしためにも私の霊を注ぐ。すると彼らは預言する」。終わりの日とは、今日の私たちに対する預言であります。その日には、特別な人ではなく、普通の人が神の霊によって預言をするということです。その最たる例が、イエス様の弟子たちでした。彼らの多くは専門に律法を学んだことのないガリラヤの漁師でした。当時の宗教家たちはどう言ったでしょうか?「無学な、普通の人であることを知って驚いた」(使徒4:13)とあります。多くのクリスチャンは、「そういう賜物は、信仰と学問を積んだ聖職者に与えられるものなんだ」と誤解しています。しかし、そうではありません。人格とか学問とかに関係なく、一方的に与えられるのが、この聖霊の賜物です。だから、問題も起こるんですが…。では、預言を語るための注意点というのがあるのでしょうか。キングスレイ・フレッチャーという人がこのように解説しています。『預言の働きに召されている人たちに、どうしても欠かせない条件』。1)人々から受け入れられることを求めてはいけない。神からだけの賞与だけを求めよ。2)自分を偉大なものと思ってはいけない。ただ、神の管、神の口になる事に徹すること。3)自分の優れた能力に頼ってはいけない。神はこれからも、もっと素晴らしいレベルの高い賜物を人々に託そうとしておられる。しかし、自分を低くし続け、神の御手の下にへりくだって歩む人々を通して現わされる。4)人々を脅してはいけない。5)自分の命を救おうとしてはいけない。人々の中傷などは、預言者のミニストリーの一部。迫害は、神の働きをいっそう前進させる。これからは多くの預言者や、多くの女性預言者が立てられていく。彼らは神の軍隊の先見者として用いられる。目立たない普通の人たちが、建て上げられていく。
ロドニー・ハワードブラウンという伝道者が、預言の賜物についてこのように教えています。「預言」は「前に流れ出す、泡出つ、湧き上がる」という意味です。分かる言葉で語られる超自然的な話はあなたを教え、諭し、慰めます。預言は霊の力を受けた話です。預言はあなたが作るものではありません。預言は神様の霊から来るものなのです。聖霊様は私たちの声帯なしで話をしたり預言をしたりすることが出来ないので、私たちの一部を譲らなければなりません。私たちが神様の霊に自分自身を譲ることで神様が私たちを通して流れます。あなたの上に油が注がれた時に御霊の賜物を使わなくてはなりません。神様がジョーンズ兄弟に油を注がれ、御霊の賜物を用いるように励ましています。ところがジョーンズ兄弟は「神様、いやだよ。御霊の賜物は使いたくないよ」と言いました。神様は霊の道を譲る人を探します。スミス姉妹のところに行きます。彼女は「神様、今日はだめです。先週やりましたもの。みんな私のことを変だと思うでしょう」。そのため神様の霊はブラウン姉妹のところに行きます。「いいですよ。神様」彼女は立ち上がって主の言葉を語ります。次の日曜日、神様の油注ぎがジョーンズ兄弟のところに戻って来ますが、また「いやだなー神様。賜物は使いたくないよ」と言います。スミス姉妹のところにチャレンジしても、彼女は「いやだなー、神様」と言います。そして聖霊がブラウン姉妹のところに戻ると彼女はメッセージを語ります。すると人は「なぜまた彼女が今週、預言をしているんだろう」と言います。その理由は彼女が道を譲ったからです。神様は他の5人に話をされたのですが、全員断ったからです。3週間4週間経って神様の霊は、もうジョーンズ兄弟やスミス姉妹のところには行かなくなってしまいました。ロドニーは、非常に大切なことを教えています。それは何んでしょう。「あなたの上に油が注がれたときに御霊の賜物を使わなくてはならない」ということです。神様が臨んでいるのもかかわらず「いやです」と断るなら、やがて油注ぎも来なくなり、用いられなくなるでしょう。ですから、主の霊が臨んだときは、「いいですよ。神様」と、いつでも道を譲る人が用いられるのです。ハレルヤ!
私も癒しや預言をするときがありますが、礼拝や集会ですと、ものすごく油注ぎを感じます。ロドニーは「油注とは、人々に触れ始める神様のすさまじい存在感である」と定義していますが、本当に神様の力が臨むときがあります。そのときに、癒しとか預言がたくさん起こります。霊的感覚の敏感な人は、近くにいるだけで酔っちゃったりします。しかし、「これで終了します。主よ、感謝します」と言って下に降ります。食事をしているとき、「あれ?あの人、上にいなかったなー。あの人ために祈らなければ」とその人のところに行きます。「お祈りしてあげましょう」と手を差し伸べるのですが、何も起きないし、何も感じられません。「おかしいなー?なぜだろう」と思います。私たちは謙遜になる必要があります。聖霊の賜物は、自分の力や能力ではなく、神様からのものです。ですから、聖霊の油注ぎがなければ、何も起きないということです。ですから、私たちは聖霊の油注ぎを待ち、それが来たら行ないます。そして、それが無くなればやめます。私たちはキリストのうちにとどまり、油注ぎの中で歩むしかありません。油が注がれたら「神様、私に何をさせたいのですか?」と尋ねます。自分で油注ぎを起こすことはできません。自分の頭でやってはいけません。神様が動き始めるときに、「どうぞ、使ってください」と器のように差し出す。これが御霊によって歩むということです。
本日は、「愛を追い求め、預言することを熱心に求めなさい。それが豊かに与えられるよう、熱心に求めなさい」というチャレンジをいただきました。ですから、Tコリント12章にあります、預言や癒し、異言、知識のことば等を使ってみたら良いです。一番の基本は、お祈りです。お祈りの中で、みことばや示しが与えられます。だれかに、お祈りをしているうちに、預言や知識のことばがやってくるときがよくあります。当教会はセルチャーチですから、こういう公の礼拝ではなく、少人数の中でやれば失敗しても大丈夫です。シンガポールやインドネシヤでは、普通の信徒がセルの中でものすごく用いられます。洗礼を受けてまだ数ヶ月しかたっていない人がセルリーダーになったりします。そのセルが成功している秘訣は、この聖霊の賜物を取り入れているということです。彼らは聖書やカウンセリングを専門に学んだわけではありません。しかし、聖霊が臨むと、聖霊の知恵や知識、預言が来ます。未信者はびっくりして、「どうして私のことがわかったの?やっぱり神様はいるのかしら?」と、一気に心を開きます。セル集会は牧師が導くものではありません。ところ構わず、いつでも、数人集まったらやってください。教会の中だけではなく、家々で、マックで、涼しくなったら公園でもできます。「二人でも三人でも、私の名において集まる所には、わたしもいるからである」と主はおっしゃいました。ですから、共に集まり、主を賛美し、互いに祈りの課題を出し合って祈る。罪があるなら悔い改める。そして、祈ってもらう。すると、そこに主の霊が臨み、不思議なことが起こります。祈っているうちに、聖書のことばや短いことば、あるイメージが来るかもしれません。完全になるまで待つ必要はありません。1つ短いことばが来たら、それを口に出して祈れば良いのです。すると、また次の事柄がやってくるでしょう。そういうふうにしているうちに、だんだん自信がついてきます。難しく考えないでください。聖霊様が「この人を建て上げたい、励ましたい、慰めたい」と願っているのです。ただ、自分はその管になれば良いのです。大切なのは、主の霊が臨んだときは、いつでも道を譲ることです。「いいえ、できません。結構です」と言わないで下さい。「主よ、私を差し出します。あなたのご栄光のためにお用いください」。これこそが、神様に用いられる秘訣です。
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