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先週、「1,2,3」と挨拶しはじめましたら、多くの方々が「ダァー」とやる方を予想しておられたようです。私は笑点の「1,2,3チァーザー」を考えていたのですが、ちょっとマイナーだったでしょうか。しかし、31日の「猪木ボンバイェ」も楽しみですね。ところで、今日は一年の最後の聖日礼拝です。52回目であります。喋る方も喋る方ですが、聞く方も聞く方ですね。KGCの方々が、コンサートの合間に何か喋るんですが、私のDNAと申しましょうか、聖書の思想と申しましょうか、ちゃんと入っているので驚きであります。「朱に交われば赤くなる」と言いますが、「主と交われば聖くなる」ことを信じます。アーメン。本日は、Tコリントの1章後半から学びたいと思います。
@パウロがコリント教会に言いたかったこと。
コリント教会の人たちは、自分たちにはギリシヤの知恵と聖霊の賜物があると誇っていたのかもしれません。使徒パウロは「高慢になってはいけないよ、神様はこの世の愚かな者を選び、無に等しい者をあえて選ばれたんですよ」と諭しているのがこの箇所です。クリスチャンもいつの間にか、「私には品性があったから救われたんだ」とか、「私には知性があったから救われたんだ」と思ったりすることがあるかもしれません。しかし、そうじゃないのです。神様は、「知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるためにこの世の弱い者を選ばれたのです」。もし、その人がとても優秀で力があるなら、もし何か成し遂げたら、「ああ、あの人だからできたんだ。あの人の仁徳だ」と栄光が神様に行かないで、人間に行ってしまいます。しかし、愚かで無力だと思われた人が、何かを成し遂げた場合、「あの人には、あんなことできっこない。やっぱり神様がなさったんだなー」と思うでしょう。ですから、まなじっか、優秀だと神様に用いられないのでございます。牧師の中には、東大卒の人もおれば、ケンブリッジ大学で学んだ人もおります。一頃は、ドイツやアメリカの神学校にこぞって留学した神学者たちがいました。ま、それでも良いでしょう。しかし、神様は高学歴であるかどうかは問題ではありません。「石ころからでもアブラハムの民を起こされる」と書いてありますので、路傍の石のような存在でもご自身の栄光のために用いられるのであります。ハレルヤ!(ちょっと力が入ってしまいました。)
A12弟子たちのこと
皆さん。イエス様の弟子たちのことをお考え下さい。イエス様は果たしてどのような人たちを使徒として選ばれたでしょうか。ルカ6章を見ますと、イエス様は一晩、徹夜して、お祈りしたのち、12人の弟子たちを選ばれたことがわかります。徹夜して、祈って考えて、考えて祈って、選んだんですよ。「その割には、イエス様の御目は、おかしいんじゃありませんか」と皮肉を言いたくなります。ほとんどが、律法を専門に学んだことのないガリラヤの漁師たちでした。魚のことは知っていたでしょうが、聖書はどの程度だったでしょうか。インテリなんかいません。ほとんどがブルーカラーの人ですね。リーダー格のペテロは「あなたは生ける神の子キリストです」などと告白しました。しかし、イエス様が裁判を受けている間、「私はあの人のことを知らない」と3度も否定しました。一体、どうなっているんでしょう。また、性格の悪い人たちもいましたよ。ヤコブとヨハネは「雷の子」とあだ名されました。だれかさんのように「かーっ」となる人です。イエス様がサマリヤを通過しようとしたとき、サマリヤ人たちは「ダメだ、こころ通っちゃいかん」と言いました。そのとき、ヤコブとヨハネは「イエス様、天から火を下して、彼らを焼き滅ぼしてしまいましょうか」と提案しました。いや、過激というか、まるでテロですね。トマスは疑り深くて、「イエス様のわき腹に手を差込み、御手の釘後に指を差し込まなければ、決して信じません」と言いました。取税人マタイは、ローマにへつらう売国奴と思われていました。熱心党のシモンは、国粋主義者。今なら黒塗りの宣伝カーに乗るタイプの人です。最後に、イスカリオテのユダがいます。彼は都会育ちで、頭も良かった。会計係りを任されていたくらいですから優秀だったんでしょう。ところがどっこい、ユダはイエス様を銀貨30枚という奴隷の値段で売ってしまうのです。裏切り者のユダです。「イエス様、あなたは人を見る目がないのですか。あなたはご自分を裏切るような変な人をどうして選ばれるのですか?」と批判したくなります。
Bボンケ師の解釈
この箇所を数年前に来日された、ボンケ先生が説き明かされたことがあります。ボンケ先生は、ドイツ人ですが、アフリカ大陸の大リバイバリストです。一度の集会に何十万人も集まります。足なえが歩き、耳の聞こえない人が聞こえ、盲人が見えるという奇蹟が起こります。集会が終わると松葉杖の山ができるそうです。そして、数え切れない人たちがイエス様を信じるのです。そのボンケ先生曰く、「なぜ、イエス様はあんな弟子を選ぶのに一晩、祈りに費やしになられたのか」。もし、私がイエス様だったら、エルサレム大学の優秀な学徒たちの中から選ぶだろう。おそらく、イエス様もそうしたかったに違いない。じゃ、なぜ、一晩もかかったのか。それは、イエス様が父なる神様と問答して、ご自分の願いではなく、御父のみこころがなるようにと祈り求めた。自分の願いが退けられて、御父のみこころがなされるために、一晩かかってしまったのだろう、と言うことです。いやー、深いですね。実はそのことはボンケ先生の体験から分かったことでした。ボンケ先生のお父さんは牧師で、5人の子どもたちがいます。ある晩、お父さんの教会に特別講師が来られ、集会後に献身の招きをしたそうです。当時、ボンケ先生は小学校5年生でした。ボンケ少年はそのメッセージに感動し、私を宣教師としてお使い下さいと恵みの座に進み出ました。特別講師の隣には、お父さんがおり、「うちには、長男のルターがいるから、お前はいいから座っとれ」とささやいたそうです。しかし、神様は5番目のボンケを選び、アフリカの大伝道者としてお立てなったのです。ちなみに、ご長男はとても優秀な人でしたが、今だ信仰すら持っていないそうです。「はー」と思ってしまいます。
Cダビデの例
サムエルがイスラエルの二代目の王様になる人に油を注ぐために、エッサイを訪れました(Tサムエル16)。父エッサイは、長男から7番目まで男の子たちを並べました。サムエルは長男のエリアブを置いて、「確かに、主の前で油を注がれる者だ」と思いました。しかし主はサムエルに仰せられました。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。私は彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る」。エッサイは次男のアビナダブを呼んで、サムエルの進ませました。しかし、次男もダメで、結局、7人の息子たちは主から選ばれていませんでした。サムエルはエッサイに言いました。「子どもたちはこれで全部ですか。」エッサイは「また末の子が残っています。あれは今、羊の番をしています」。「あれは…」ですから、ダビデは、エッサイの眼中にはなかったんですね。ところがダビデが呼ばれて来ると、主は「さあ、この者に油を注げ。この者がそれだ」と仰せられました。これが、パウロが言う、無に等しい者、とるに足りない者を主があえて選ばれるということであります。私なんか、本当にこういう記事を見ると、嬉しくなり、ときには嗚咽してしまいます。
DKGCの例
KGCとかGPNは、連日連夜、クリスマスの賛美をしました。毛利兄姉も自分の仕事そっちのけでした。宮坂姉もパーマ屋さんをご主人に押し付けて来られたんでしょうね。イブ礼拝で思ったのですが、みんな上手ですね。「本当にうまい」と思いました。結構、中には、プロまでとは行かなくても音楽をやって来られた方がおられこともあるせいでしょう。しかし、私はこうも思ったんです。この世にはサントリーホールとかどこかのステージで歌っている歌い手もたくさんいると思います。しかし、彼らは彼らでもっとすばらしいなーと思いました。なぜでしょう。神様への愛と感謝が溢れているからです。私は、神様は欠けている人、ワケありの人をあえて用いるのではないかと思います。イエス様から一番愛され、イエス様を一番愛したのは、マグダラのマリヤです。彼女は7つの霊に憑かれていました。遊女だったという説もありますが、定かではありません。聖書に「多く赦された者は、多く愛する」というみことばがあります。生まれて育った環境が悪くて、傷つき、歪んでしまった兄姉もいるでしょう。病気とか怪我でプロを断念した兄姉もいるかもしれません。自分なんか生きていても仕方がないと思っていた方もいるでしょう。ヤクをやっていた人もいるらしいですよ。ここだけの話ですが…。神様は、あえて、そのようなワケありの兄弟姉妹をお選びになられて、ご自身の栄光のためにお用いになるんだなーと感慨にふけってしまいますね。大体、牧師が無に等しい者、とるに足りない者の筆頭だからでしょうか。私たちは優秀だからとか、何か能力があるから選ばれたのではありません。神様の一方的な恵みのゆえであります。
Eトーマスの例
うちの有悟は「トーマス」という蒸気機関車のビデオとかおもちゃが大好きです。私も脇にいながら、かなり多くのビデオを見ました。トーマスをはじめ何台かの蒸気機関車は、イギリスのソドー島という島の中を走っています。トビーという路面蒸気機関車が本土で走っていたのですが、車やバスにおされて、客足は減るばかりです。とうとう、その路線は廃止になり、トビーは倉に眠ることになりました。客車のクララベルは鶏小屋にされようとしています。ソドー鉄道の局長さんは、トップ・ハム・ハット卿と言って、蒸気機関車をこよなく愛しています。トビーは次の朝、「おきろー」という声で目が冷めました。なんと、トップ・ハム・ハット卿がソドー島で走ってもらいたいと買取りに来てくれました。トビーの車輪の両脇には牛よけの板があるので、ちょうど良かったんですね。もちろん、客車のクララベルも一緒に走ることができるようになりました。トビーはとても喜んで、働きました。こういうふうに、お払い箱になる寸前の、蒸気機関車がソドー等に運ばれてきて、ペンキを塗り替えられ、第一戦で用いられるというケースが多いんですね。もう一話は、トレバーというトラクターが、鉄くずにされるとことでした。トーマスは、そのことをトップ・ハム・ハット卿に伝えました。すると、牧師さんの果樹園で、トラクターが必要なことが分かりました。さっそく、トレバーは、機関車に乗せられ、牧師さんのもとに送られ、働くことになりました。牧師さんというところが良いんですね。このように、役に立たないという機関車や建設機械が、トップ・ハム・ハット卿のはからいで、再生するというストーリが多いんです。神様も、この世の取るに足りない者や見下されている者をあえて選ばれたのではないでしょうか。神様の選びは、この世の評価や価値基準とは異なるということです。
E適用1.へりくだることを忘れるな
神様が、無に等しい者を選ばれたのですから、選ばれた私たちの姿勢はどうあるべきでしょうか。1:29「これは、神の御前でだれをも誇らせないためです」。1:31「まさしく、「誇る者は主にあって誇れ。」と書かれているとおりになるためです」。ですから、私たちは主の選びの前に、いつも謙遜になり、すべての栄光が主にありますようにという姿勢が大切であります。イザヤ51:1「義を追い求める者、主を尋ね求める者よ。わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ」というみことばがあります。いくらこの先、私たちが立派になり、大きなことを成し得たとしても、「ああ、自分はどんなところから拾われたんだろう。ああ、私の力や才能じゃないな。一方的な神様の恵みなんだよな」と思いましょう。私たちは知らず知らずのうちに、「自分が選ばれたのは何か特別な理由があったからだ」と、慢心してしまう時があります。ダビデがそういう過ちを犯してしまいました。ダビデがおかしくなったのは、第一戦から退いた時からです。ダビデは軍隊を従え、いつでも先頭に立って戦いました。しかし、イスラエルも強くなり、組織化し、自分が采配をふるわなくても良くなったのです。日本にはそういう社長も多いんじゃないでしょうか。接待ゴルフばかり考え、お得意さんのご機嫌とりばかり考え、社内のことは任せっきり。牧師も自分は油注がれた者であり、特別な存在であると思いがちですね。信徒を献金の運び屋さんみたいに考えるかもしれません。いつの間にか、自分は手を汚すような奉仕はしなくなりました。訪問とか、お見舞い、カウンセリングは面倒でになります。ダビデはそのようになったとき、堕落してしまったのです。ですから、たとえどのような地位や立場になったとしても、「へりくだり」という五文字を忘れてはいけません。私たちは本当に、無に等しい者、とるに足りない者だったんだ。神様のあわれみで、このような奉仕をさせていただいているんだとたえず初心に帰る必要があります。たかぶりは、滅びに先立つと聖書は警告しています。先ほど引用したイザヤ書のように、自分の切り出された岩、掘り出された穴を思い起し、たえずへりくだって、主に仕えて行きたいと思います。
Fたえず学ぶ姿勢
もう1つの適用は、たえず学ぶ必要があるということです。「自然に成長する教会」という所が、世界有数の教会からアンケートをとってまとめました。どのような教会が成長するのだろうか。牧師の学歴や博士号と正比例の関係があるだろうかということも調査したそうです。その結果、なんと、どこかの立派な神学校へ行って博士号をとった人よりも、あまりたいしたことのない神学校へ行った牧師の教会がより成長しているという結果が出たそうです。おどろきですね。実は、たいしたところしか出ていない牧師は、だれからも学ぼうとする姿勢がある。よく、セミナーや聖会に出席して謙遜に学ぶということです。一方、博士号をとったような牧師は、あまり外に出ないで本ばかり読んでいる。つまり、ナウな教会の情報を得ていないということです。その点、私などは、多くの先生や多くの教会、セミナーから学んでいます。やっと最近ですよ、私がこの路線で行こうと思ったのは。50歳にして迷わずです。大川先生が、私が神学校に行く前日、みことばを下さいました。ヤコブ書3:17「上からの知恵は、…温順」ということばがあります。英語の聖書では、温順はteachable
personと言うそうです。文字通り訳すと、「教えられやすい人」ということになります。大川先生ご自身は、このみことばを車田秋次という日本ホーリネス教団の創設者からいただいたということでした。そういえば、大川先生は、常日頃、いろんな本を読んだり、海外にも出かけて学んでおられます。先生は、「だれからも、幼子からも学ぶものがあるんだ」とおっしゃっていました。たまに、どこかのセミナーでお会いする時、「おっ、鈴木先生、貪欲に学んでいるなー」とお褒めの言葉を頂戴するときもありました。
G結論:キリストに目をとめる
私たちは、一体どこに目を、だれに目を向けて歩むべきなのでしょうか。使徒パウロは、1:30「しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました」と言いました。私たちの知恵、義、聖さ、贖いの源はイエス・キリストにあるということです。キリストのうちに私たちの必要とする一切が隠されているのです。私たちは取るに足りない、無に等しい者であるゆえ、たえず、キリスト様を通して、神の知恵、神の義、神の聖さ、神からの贖いのいのちをいただいていく必要があります。「ああ、私は取るに足りない、無に等しい者だから良いんだ」と開き直ってはいけません。この世には、この知恵、この世の正義や流儀があります。能力的にもむこうが勝っているものも多くあるかもしれません。教会はこの世のものに勝たなければならないということではありません。そうではなく、私たちは自分が無能なことを知り、たえずイエス様を通して、神様から必要な知恵と力と品性をいただいていかなければならないということです。そういう意味では、クリスチャンとは絶えずイエス様に依存している存在です。人に依存してはいけませんが、イエス様に依存するのは、良いんです。たえず、イエス様、イエス様と御名を求めてゆけば、必要な知恵と力は与えられます。
マッカーサーとも親しかったと聞きます。先生は、「日本の教会は聖書を頭の上に載せている。だから、フラフラして、聖書を落としてしまう。みことばはそのまま信じて行なえば良いんです」と強調しました。それで、保谷に地下1階、地上2階の鉄筋コンクリート製の教会を自分一人で建ててしまいました。今は建設許可が出るか分かりませんが…。「イエス様、どこに柱を建てましょうか。ここですか。はい。じゃここに柱を…」とか、全部イエス様に聞いて建てた。なんと、先生のご長男は、建築士1級を持っているのに、息子の力を1つも借りないで、イエス様と一緒に建てたというのですから恐ろしいですね。平屋じゃありませんよ。地下1階、地上2階です。先生の教団は「イエス福音」というのですが、牧師たちはほとんど神学校に行かない。聖書と信仰だけです。私が最初彼らと会った時、「この人たちはなんと大胆で信仰に満ちているんだろう!私なんか、なまじっか神学校に行ったので、こんなに恐れがある」と惨めになりました。ま、その教団はあまりにも極端なところがありますが、学ぶべきところがたくさんありました。今の時代、神の知恵そのものであられるイエス様が聖霊によって、こちらにいらっしゃっています。この世の教育は知識を与えてくれます。確かに必要です。しかし、もっと私たちが必要なのは、神からの知恵です。この知恵は聖書を読み、瞑想し、神様と交わるときに与えられるものです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。アーメン。私たちはへりくだって、来年もイエス様の知恵と導きを求めましょう。
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