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本日からしばらくの間、コリント人への手紙から連続して語らせていただきます。コリント教会は使徒パウロが開拓した教会でありますが、一番、問題の多かった教会です。しかし、一番、パウロからたくさんの愛と教えをいただいた教会でもあります。ですから、コリント人への手紙には、宝物のように光る真理をいたるところに見つけることができます。連続して語ると、終わるまで1年以上かかるかもしれませんが、ご一緒に、聖書の旅に出かけたいと思います。
1.教会は誰のものか
1:2「コリントにある神の教会へ」と書かれています。「神の」ということは、教会は神様のものだということです。長い歴史をみますと、教会が非常に堕落した時代がありました。私たちは世界史などで、十字軍とか、中世の教会、あるいは教会同士の争いを勉強しました。他宗教の方からこれらを指摘されると、何にも弁解できません。しかし、たとえ、人間の罪で、教会がはなはだ汚されても、やはり、教会は神様のものです。また、教会はある人によって全くゼロから、開拓される場合があります。当亀有教会も昭和24年に山下米吉牧師によって開拓されました。救世軍の先生が、一件、一件、カンパをお願いして、150坪の土地を購入したのです。この会堂は10年前に、建てましたが、土地があったので比較的スムーズにできました。教会員も今、120名くらいいらっしゃいます。でも、この土地、建物、そして教会員は創設者のものではなく、神様のものです。お寺さんなどでは、子どもが後を継ぐようですが、教会はそんな決まりはありません。うちには、子どもが4人いますが、「牧師になれ」とは、彼らに一言も言ったことはありません。神様の栄光を現すことができれば、何になろうと自由です。
それでは、どのようにして教会は神のものとされたのでしょうか。使徒20:28「聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです」。ここに、はっきりと、「神がご自身の血をもって買い取れた神の教会」と書かれています。正確には、イエス・キリストが十字架で血を流して、買い取ってくださったわけです。しかし、これまで、何度も「教会」「教会」と言ってまいりましたが、教会とは「神の民」とうのが本当です。教会は新約聖書では、「エクレーシア」と申しまして、「この世から召し出された神の民」という意味です。パウロもコリントの人たちに「聖徒として召された」と言っています。みなさんは、偶然に、あるいは自分の意思で、教会に来られたと思っておられる方もおられるかもしれませんが、神様の方が召して下さったからです。しかも、神様のものとなるためには、イエス・キリストの尊い犠牲があらかじめあったということです。生まれつきの人間が、だまって、そのまんま、神の民になることはできません。イエス様がご自身の血をもって、代価を支払ってくださったからこそ、神の民に加わることができたのです。本当は、イエス様はまだ信じていないすべての人々のために、十字架の上で代価を支払って下さったのです。これが福音です。問題は、人がその福音を聞いて、「ああ、そうですか。私のためにありがとうございます」と向きを変えることです。神様はすべての人を招いているんです。
また、「神の教会」の「神の」は、場所を示しています。ここに「コリントにある神の教会へ」と書かれています。これを丁寧に言いますと、コリントという場所にある、「神の教会」ということになります。この教会は単数形です。世界にたくさんの教会があったとしても、教会は1つだけです。そして、コリント教会はそのコリントという地域を代表している「神の教会」ということになります。何か頭が混乱してきたでしょうか。私たちが「亀有教会」というときに、これは亀有という場所にある「神の教会」という意味になります。私たちの教会は、この地域における、代表なのであります。でありますから、亀有教会で洗礼を受けても、ちゃんと天国に入ることができるということです。なぜなら、神様がこの教会に権限を与えておられるからです。たとば、出生とか婚姻届けは都庁に行かなくても良いですね。区役所もありますが、出張所でも大丈夫です。銀行もわざわざ本店に行かなくても、支店でも、ATMでもOKです。そこにちゃんと権限が委ねられているからです。同じように、この「亀有教会」も天国に満る神の教会の出張所なのです。いや、出張所よりも、大使館と言った方が適切です。サタンにのっとられたこの世における、神の国の大使館、これが亀有教会です。
私たちは日本国民というナショナリティを持っています。簡単に言いますと、日本国民として、戸籍登録されているということです。外国の方などは、日本国籍を取るのが大変ですね。日本人であることは、私たち日本人が考えているよりもはるかに価値があるようです。しかし、死にますと残念ですが、「×しるし」がつけられ抹消されます。もう、過去の人になっちゃうんです。少し前ですが、病院の前に駐車していた救急車の運転手さんの会話を何の気なしに聞きてしまいました。白いガウンを着た人が、だれかに「過去の人。もう、過去の人なんだよ!」と言ってました。どんな脈略で言っているのか分かりませんでしたが、死ということを言ったことは確かです。しかし、亀有教会で洗礼を受けた人は、過去の人ではありません。天国の住民票にちゃんとのっかっています。この世の命が尽きたら、本籍地である天国で暮らすのです。ただ、住む場所が違っただけです。そういうことを考えますと、教会に属するということは、サークルとか、町内会に属することとはぜんぜんレベルが異なりますね。繰り返しますけれど、私たちはたまたま、ここに来たのではありません。神様からコーリング、召されて来たのです。幸いなことに、イエス様の尊い代価が支払われていたので、ただで、入れたのです。特別な試験も入会金も、審査もありません。生まれや育ち、学歴、職業、性別、年齢も関係ありません。だれでも入れる、アリコジャパンというCMがありますが、「だれでも、入れるんです」。「あー、入れた!」であります。
みなさん。私たちの人生にとって、自分がどこに属しているか、所属意識が大変重要です。ある人は、立派な会社に属しています。それが、身分かもしれません。しかし、リストラされたり、停年退職したらどうなるのでしょうか。家庭や地域社会、サークルに属していることを満足しているでしょうか。日本人は本音と建て前の世界ですので、辛い所はないでしょうか。人から笑われないように、なめられないようにと、見栄をはって生きている人って結構多いですよね。しかし、教会は、元罪人の集まりです。正確に言いますと、どんな汚れた罪も、イエス様によって洗い清められた人の群れです。多かれ少なかれ、私たちはすねに傷をもっているんです。だから、お互い様なんです。でも、すばらしいことは、イエス様の血潮によって贖われている人たちであるということです。地獄行きが決まっていたのに、天国行きの列車に乗り換えた人たちなんです。ですから、私たちの絆は、そんなやわいものじゃないはずです。私たちは「神の教会」に属していることをもっと、もっと自覚して喜ぶべきであります。
2.あなたはだれか?
前半は、あなたはどこに属しているかということを申し上げました。後半は、あなたは一体だれなのかということをお話したいと思います。「あなたはだれですか?」と人から聞かれたら、何と答えるでしょう。だいたい、名前、年齢、性別、住所、電話番号、職業、家族構成などで、自分自身を証明します。しかし、そういう外側の問題が本当にあなた自身でしょうか。あなたはだれか、それは自己証明、アイデンティティのことであります。聖書の箴言には、「あなた自身の考えを合計したものが、あなた自身である」と書いてあります。つまり、あなたが、あなた自身のことをどう考えていらっしゃるか、それを全部、集めて、合計したものが、あなただということです。それを別の言葉では、セルフ・イメージ、自己像とも言います。人は、自分自身をどう思っているかに従って、毎日、行動しています。ですから、その人が自分自身をどう思っているかを知るならば、その人の毎日の生活を見なくても大体見当がつくということです。たとえば、「自分は、親や回りの人たちから卑しめられてきたので、あんまり価値がないんだ」と思っているとします。そういう人は、人から認められるために一生懸命頑張るでしょう。そして、人から批判される前に、相手をこき降ろして先手を打ちます。強い人はそうしますが、そうできない弱い人は、何をするにも自信がなく、生きる力もありません。ひどい場合は、死んでしまいたいと思うわけです。自分は何をやっても長続きしないと考えている人は、長続きしません。自分はだれからも尊敬されないと考えている人は、尊敬されないような振る舞いをします。自分はだれからも受け入れられないと考えている人は、あえて拒絶されるように振る舞います。逆に、健全なセルフ・イメージを持っている人は、自信をもって、逆境を切り開いて生きてゆけるのです。
では、どのようにしたら、正しい自己証明、セルフ・イメージを持つことができるのでしょうか。私たちはこれまで、親が自分をどう評価しているか、先生が、友達が、上司がどう評価しているかというように、人々の尺度で自分を計ってきました。そして、いつの間にか、自分自身を見る目が、ゆがんでしまったのです。多くの人は健全な大きさよりも、ずっと、ずっと低いセルフ・イメージをもって暮らしています。私たちは人々や自分自身の評価に惑わされず、神様が私たちをどう評価しているか、神様の御声を聞かなければなりません。使徒パウロはコリント教会の人々をどのように言っているでしょうか。2節の半ばにありますが、「聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々へ」と呼んでいます。聖徒とはセイント、聖人という意味です。キリスト・イエスにあって聖なるもの、これがクリスチャンに対する神様の見方です。キリスト・イエスというメガネを通して見ると、だれでも「聖なるもの」ということです。すごいですね。イエス様を通すと、みんな価値があり、愛すべき存在になるのです。ハレルヤ!しかし、現実のコリントの教会は、聖なる人たちだったでしょうか。この手紙を読んでいくとわかるのですが、コリント教会の人たちは、聖徒とはほど遠い人たちです。コリントはギリシヤの港町でした。偶像も祭られていましたが、性的に非常に乱れた町でした。当時、「コリントする」という言葉は、卑猥なことをするという意味があったそうです。教会の中にも性的罪が入って来て、近親相姦の問題もあったようです。また、コリント教会には分裂分派がありました。私はパウロに、私はアポロ、私はキリストにつくなどと言っていました。まるで、子どものような喧嘩をしていたわけです。さらに、コリント教会の人たちは高慢でした。異言だとか癒しなど聖霊の賜物が豊かにありました。しかし、彼らの品性はまことにひどいものでした。賜物があっても、愛がなかったのです。さらに、復活とか永遠の生命に関して無知でした。そのため、目に見える
ものしか価値を置かなかったのです。まことに、この世と同じような教会でした。
しかし、パウロは彼らをどのように呼んでいますか。「聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々へ」と呼んでいます。これは、パウロ個人の見方ではなく、神様がイエス・キリストを通して見るときの、評価なのです。みなさんは、コリントの人たちよりは、いくらか増しかなーと思うかもしれません。「私はその傾向はありますが、性的に汚れてはいません」。「私は他の人々を見下げたりはしません、だれとでも仲良くできます」。「私は何ができるからと得意になったりしません」。「私にはどんな人でも愛する愛があります」。…本当でしょうか?ま、コリントの人と同じではなくても、ひっかかるところはあるかもしれません。でも、たとえそうであっても、あなたはキリスト・イエスにあっては、聖徒であり聖なる者なんです。既にクリスチャンになっている方、自分をそのように評価しても、決して、言い過ぎではありません。イザヤ書43章には「私の目には、あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している」という有名なみことばがあります。「私の目」とは、だれでもない、神様の御目から見た、あなたの評価です。これは、何ができるとか、できないとか全く関係ありません。あなたそのもの、あなたの存在そのものです。もし、あなたが、聖書が言う自己価値、セルフイメージを額面通り受け取ったらどうでしょうか。あなたは、あなたらしく生きることができます。そして、あなたの行動も変わってきます。これまでは、「お前はダメだ、たいしたことない」と言われて育ち、そういう評価が自分の中にありました。その傷を打ち消すように、一生懸命頑張ってきました。人と比べて生きているので、アップ、ダウンが激しい。しかも、動機が傷から来ていますので、あんまり良い実を結びません。一生懸命やったわりには、感謝されません。こんど、イエス様を信じて、「できる、できないに関係なく、自分には価値がある」というメッセージを心の中に受け入れたらどうなるでしょう。根底に喜びと平安があります。「イエス様一緒にやってください」と、恵みによって行動します。すると、良い実がだんだん現われてきます。もちろん、失敗するときもありますが、万事が益になることを知っていますので、いつまでもくよくよしていません。次は必ずうまくいくと信じていますので、簡単にへこたれません。そうすると、成功する確率がますます高くなります。
自信があって、肯定的な人のところには、人々が集まってきます。これまでは、人と比較して生きてきたので、みんなライバルで、真の友達がいませんでした。しかし、今は自分は自分で良いんだと思っていますので、自分とは違う人も受け入れることができます。山形の田中信夫先生は、「ナンバーワンになろうとしないで、オンリーワンになって下さい」とおっしゃいました。私たちは赤ちゃんのときから人と比較されて生きてきました。お兄ちゃんより、目が大きいとか、目が小さいとか。幼稚園では、○○ちゃんよりも、かしこいとかかしこくないとか。学校ではかけっこが早いとは遅いとか、背が高い低いとか、学力が上だとか下だとか、入る学校の偏差値が高いとか低いとか、役職が上だとか下だとか、もてるとかもてないとか、お金があるとかないとか、山の手だとか下町だとか…もうやめたら良いですね。イエス様にあって、あなたはオンリーワンなのです。顔も全く同じ人はいません。指紋も、目のこうさい、声門も同じ人は2人といないそうです。あまり横を見ないで、神様だけを見上げて進むと、良いんですね。私は神様から一番愛されていると思っても間違いありません。先日、「怨念晴らし」の李光雨先生がお証しして下さいました。先生は在日韓国人なのでものすごい心の傷を持っておられた。先生は、不当な扱いを受けるとカーッと来るタイプだったそうです。あるとき、先生が有名な紅茶のお店に入ったそうです。出された紅茶がどうみても出がらしで薄い、しかもぬるい。ウェートレスを呼んだら、それはそういう種類の紅茶なんですと言う。癒される前の先生だったら、おおー、クレームをつける良い機会が訪れたとばかり、「店長を呼んで来い」と言っただろうといことです。先生は不当な扱いに対してものすごく過敏なんです。でも、今はクリスチャンですから、かなり解放されました。でも、神様はときどき、「私はお前を一番愛しているよ」と特別な方法で愛を示してくれるそうです。それは、「ゴルフですか」と別の先生がお聞きしましたけれど、ニンマリして答えてくれませんでした。
私はそれを聞いて、ジーンときました。私も8人兄弟の7番目ですから(先週も同じこと言った)、親からの愛が薄かったように思えます。残念ながら、特別に愛されたという経験がない。しかし、クリスチャンになって神様は、私だけが分かる方法で「お前を愛しているよ」と何べんも示してくれました。それは、温泉に入っているときですね。これまで、私用とかせセミナーで、泊りがけで温泉に入ったことがよくあります。そのとき、広い湯船に一人っきりになることが、ときどきあります。私も夕食の直後とか、セミナー中さぼって入るので、そういう傾向があるのかもしれません。そのとき、「わあー、俺って神様から特別に愛されているかも」と、じーんときます。また、皮膚病になる前に、5年間、奥戸のプールに週2、3回通っていました。そのとき、自分のレーンが貸し切りになることが時々ありました。自由に泳いで、「俺って神様から特別に愛されているかも。救われて良かったなー」と水の中で嗚咽したときが何度もあります。せこいといえばせこいかもしれません。クリスチャンの方々、おそらく、神様はあなたが分かる方法で、私はあなたを愛しているよ」とえこひいきして下さるでしょう。アメリカ人はだれとでも、すぐ友達関係になるそうです。しかし、女の子から、You
are special.「あなたはスペシャルよ」と言われたら、脈があるんだそうです。神様はイエス・キリストにあって、あなたはスペシャルよ」と愛して下さいます。「聖なるものとされた」という意味は、聖いものとされたという意味ともう1つの意味があります。それは、この世から選び分かたれて、神様のものとなったということです。「あなたは特別に選ばれて、神様のものとなった」、これが聖なるものとされたという意味です。
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