「セルリーダー」   マルコ10:42-45

2003/11/16 鈴木靖尋牧師
▲リストへ
 

 聖公会であろうと、長老派であろうと、バプテストであろうと問題ではありません。私たちは聖書から、どのようなリーダーが本当のリーダーなのかを捜し求めなければなりません。イエス様の弟子たちが持っていた病気は、現代の私たちが持っているものと同じです。弟子たちは、自分たちの中で、だれが一番偉いかということを競い合っていました。イエス様は弟子たちに、「偉くなろうとするな!」とか、「人の先に立とうとするな!」とはおっしゃいませんでした。43節では「偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい」。44節「人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい」と教えられました。「おー!」イエス様のリーダーシップ論は、この世のものと比べて、あべこべであります。イエス様は「仕えるリーダーシップ」「サーバントリーダーシップ」を説かれたのであります。つまり、リーダーたる者は人々に仕えることによって、リーダーとしてはじめて認められるということです。イエス様はその模範を示すために、自ら弟子たちの足を洗ってあげました。最後の晩餐の直前であります。弟子たちはそのときも、だれが一番偉いか競っていたので、人の足を洗うしもべは一人もいませんでした。そのとき、イエス様は上着を脱いで、手ぬぐいとたらいを取って、弟子たちの足を一人ひとり洗ってあげたのです。上着を脱ぐとは、権威を脱ぐということを象徴しています。イエス様はそのようにして、「仕えるリーダーシップ」の模範を示されたのであります。

一方、この世のリーダーシップとはどのようなものなのでしょうか。42節にありますように、「人々を支配すること」「人々の上に権力をふるうこと」であります。権力こそが人々を動かし、人々を従わせる原動力です。政界や企業でも、医療や学問の世界でも、権力がものを言います。今、テレビで「白い巨塔」をやっていますが、とても人気があるようです。醜い権力争いがうずまいている番組です。しかし、どうしてあのテーマ音楽が、アメイジンググレイスなのかさっぱり分かりません。人々は栄誉を勝ち取るため、高い地位につくために、どんなことでもします。やがて、昇りつめたとき、すばらしい報酬がまっているからです。いままで、ペコペコ頭を下げた分だけ、こんどは人々に頭を下げさせようとしますね。実は、教会も同じようなものを求めてきました。それは、中世の教会だけではありません。現代の教会にも、脈々と流れているものです。教団も大きくなると、権力じみてきます。数にものを言わせるようになるのです。どういうわけか、大教会の牧師は最初に紹介され、小さな教会の牧師は後回しになるようです。牧師は説教の中で、「牧師は神様から油注がれた者である」と語り、遠まわしに「私を尊敬しなさいよ」と言っています。「油注がれた者を軽んじると呪われるよ」と、信徒を洗脳しているかのようであります。私もかつては韓国の教会を理想としたときがあります。韓国は牧師を「牧師先生様」と呼びます。牧師は神様のお使いなんだから、大事にしなくちゃならない。「ボクサンニーに、一番良いものを食べさせ、今出たばかりの新車を与え、迎賓館のようなお家に住まわせる…」。いいですねー。しかし、最近、韓国の教会は、全部ではありませんが堕落してしまったというニュースを聞きます。牧師を敬うことは良いことだと思いますが、源は、儒教、あるいは宗教的なものだったからです。新興宗教の教祖様は、神様みたいに高められていますね。牧師も教祖になる場合があるということです。

 リーダーにとっての最大の誘惑は権力欲です。イエス様は悪魔から、同じ誘惑を受けたのであります。悪魔は「私は、この世の国々とその栄華を、すべてあなたに与えよう」と、イエス様に言いました。しかしイエス様は、神の子としての「権力」にしがみつかないで、ご自分を無にして、私たちと同じようになられました。ヘンリ・ナーウェンという人が本の中でこのようにおっしゃっています。権力を福音宣教の有効な手段であると考える誘惑は、あらゆる誘惑の中でも最強のものです。「神と隣人への奉仕のためなら、権力を手にすることは良いことだ」と、私たちはよく耳にし、また自分にもそう言い聞かせます。このような合理化によって、十字軍が結成され、宗教裁判が行なわれました。また同じ理由から、インディアンを奴隷とし、大きな影響力を行使できる地位を人に求めさせ、司教官邸や壮麗な聖堂や華やかな神学校が建てられたのです。しかしそこで人々は、果てしない良心のごまかしに始終しました。権力からの誘惑を、これほどまで抵抗しがたいものにしている理由はどこにあるのでしょうか。それはおそらく、つらい愛の労苦に代わるものを、権力はたやすく与えてくれるからだと思います。神を愛するより自分が神になるほうが、人々を愛するより人々をコントロールするほうが、生命を愛するより生命を所有するほうが、ずっとやさしいように思えるからです。痛みに満ちた長い教会の歴史は、神の民が、ときに愛よりは権力を、十字架よりはコントロールを、導かれる者よりは導く者になろうとする誘惑にさらされた歴史だと言えます。本当の聖人とは、最後までこの誘惑に抵抗し、それによって私たちに希望を与えることのできる人のことです。

 ハワイの教会のラルフ・モーアが『指輪を捨てろ』という本を書いています。「指輪を捨てろ」という題を見たときに、「え?結婚指輪を捨てるの?」と思いましたが、そうではありません。これは、世界の支配者になりたいという、『ロード・オブ・ザ・リング』の指輪のことです。あの指輪をはめると、悪魔的な力によって独裁者になれるわけです。ラルフ・モーアはその本の中でこのように語っております。私たちが自分でコントロールしようとするとき、それは神の地位を欲することになります。これが罪の根元です。サタンは神の地位を取ろうとして、天から追放されました。アダムとエバは選ぶ力を与えられ、「神のように」なろうとして、禁断の実を食べました。そして彼らはエデンの園から追放されました。私たちは主導権をつかみ、神が私たちの人生の中で行なうべき役割を横取りしたくなります。そうするとき、私たちは、神の意志と祝福の約束から引き離されてしまうのです。しかし、神は私たちがロボットであってほしくないのです。ですから、困難に直面している中でも信頼し、従う人を望んでいるのです。へブル人への手紙11章には、信仰の人々、困難にあった人々、絶えず自分たちの計画を神にゆだねた人々のことが詳しく述べられています。神は「そんなに一生懸命自分でコントロールしようとしてはいけない」と語られたのです。

 ときどき、目の前に『ロード・オブ・ザ・リング』が突き出されます。「ああー。この地位で、この立場で人をコントロールしたい」と誘惑を受けます。私たちはそんな指輪をはめてはいけません。人々に仕えることによって、愛することによって支配するのです。人が私に従ってくるか来ないかは考えないことです。まず、自分自身が神様に従って行く。その次に、神様から愛と能力をいただいて、人々に仕えるのです。人から高める、高められないは神様の分野です。Tペテロ5章にすばらしいみことばがあります。これは絶えず、リーダーになりたかった弟子のペテロが砕かれた後に書いたものです。Tペテロ5:6ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです」。

 

2.セル教会のリーダーシップ

 これは、前のメッセージを、より具体化したものです。どんな人が、セルという小グループのリーダーに相応しいのかということを7つ挙げたいと思います。牧師だけではなく、すべてのクリスチャンにあてはまることであります。

@権威を分与する

 先日の新聞に、「国立国語研究所の外来語言い換え案」なるものが載っていました。「ボーダレス」とか、「モラルハザード」など、どこかで聞いた横文字がたくさんありました。そこに、「エンパーワーメント」という言葉がありました。当初は、「能力開花、能力強化」と訳されていたようですが、一般からの提案を採用し「権限付与」に変えたそうです。そうです、セル教会のリーダーは、自分でなんでも器用にこなすスーパースターになる必要はなく、他の人たちに奉仕を任せるということです。権威を独り占めするのではなく、分与していくということですね。本当に、私も得意分野は人に任せるのが苦手であります。

Aオープンになる

 前のポイントで引用したヘンリ・ナーウェンがこのようにおっしゃっています。自分が英雄になりたいという誘惑に打ち勝つために、今後の指導者にはどのような訓練が必要か、ということです。それに対し私は、告白と赦しということを訓練として取り上げたいと思います。告白と赦しは、罪深い私たち人間が互いに愛し合うことを、具体的な形に表したものです。よく思わされるのですが、司祭や牧師は、クリスチャンの共同体の中で、もっとも告白することの少ない人種ではないでしょうか。自分が仕えている人々に自分の罪や失敗を隠しているために、小さな安らぎと慰めを求めに、遠くの見知らぬ人のところに逃げ込まなければならないのだとしたら、どうすれば自分が人々から真に愛され、心に留められていると感じることができるでしょうか。多くの牧師や司祭が深い孤独感に苦しみ、たびたび異性の愛情や肉体的な親密さへの強い欲求を覚え、ときに自分が牧している民を前にして、深い罪責感と恥辱にとらわれたとしても、私は格別驚きません。そのような人はたぶん、心の中でこう思うでしょう。「もし私の世話をしている人たちが、私が感じたり、考えたり、空想にふけったりしていることの本当の中身を知ったら、どうなってしまうだろう。私が一人で学んでいるとき、自分の心がどこにさまよい出ているかを知ってしまったら、いったいどうなるだろう」。まさに告白と赦しという訓練において、肉体を離れた精神化と肉欲を避け、真の受肉に生かされることができるのです。告白することにより、肉体的な孤独感から闇の力が引き離され、明るみに出されて、共同体の目にさらされます。そして赦しによって、それらの武装は解除され、追い散らさせて、体と霊との新しい統合が可能となります。

 とにかく、私のように弱さも恥もオープンにすれば、逆に誘惑から守られるのです。リーダーたるものは、恰好をつけたり、強がったり、権威ぶるのをやめましょう。

Bコーチング

 リーダーはコーチのようになって人を助けます。「あなたに2つの質問をいたしますので、その答えを紙に書いて下さい。一つ目は、あなたは死ぬまで何を成し遂げたいですか」。「○○です」とあなたは書きます「二つ目は、あなたは死ぬまでにどんな人になっていたいですか」。「はい。○○のような人です」。「はい、分かりました。その紙を私に下さい」。私はあなたが怠惰な生活をしているのを見るときがあります。そのときに、こう言うのです。「あなたは、死ぬまでに○○を成し遂げたいと決心しましたね。今のあなたは、その目標に向って進んでいないようですね。あなたはこのようにしたら、そのことを成し遂げられますよ」と、アドバイスすることができます。私はコントロールしていません。あなたが自分で決めた目標を達成できるように、コーチしているだけです。

C模範を示す

 山本五十六が部下に仕事を教える際に説いた心得があります。「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かぬ」。リーダー育成の5つのステップというのがあります。

@.私がします。あなたは見ます。I do. You watch.

 A.私がします。あなたが助けます。I do. You help.

 B.あなたがします。私は助けます。You do. I help.

 C.あなたがします。私は見て、あなたを励まします。You do. I watch and encourage.

 D.あなたがします。他の誰かがそれを見るようにします。You do. Someone else watches.

 つまり、自分が手本を見せながら、だんだん任せていくということです。昔の職人は決してそんなことはしませんでした。「勝手に盗め!」みたいなことをしていたわけです。しかし、私たちは出し惜しみしてはいけません。

D父の心を持つ

 旧約聖書のカインは業績指向の模範者であります。彼は自分を守るために、城壁のある町を作りました。カインにとって、人はすべてライバルです。カインのようなタイプは業績をあげる人ですが、人間関係を大切にしません。私たちは勝ち負けから解放されるべきです。もし、あなたが父親になったらどうでしょうか。子どもたちが成長して、自分を乗り越えていくことは喜びではないでしょうか。ですから、先輩のクリスチャンは、「後の者が先になり、先のものが後になる」ことを喜ぶべきであります。自分の後輩が、自分よりももっと偉大なことをしたなら、先輩である私の手柄として喜ぶべきではないでしょうか。父の心とは、父なる神様の心でもあります。父なる神様は、善とあわれみの心をもっています。私たちは年を重ねれば、重ねるほど、父なる神様のような善とあわれみに富む人になりたいと思います。

Eビジョンを持つ

 リーダーのリーダーとしての質は、燃えるビジョンを持っているということです。人々はあなたについていくのではなく、あなたが神様からいただいたビジョンについて行くのです。自分たちもそのビジョン達成の喜びに預かりたいからです。クリスチャンのビジョンは、神の国の拡大です。もっともっと救われる人が起こることです。そして、救われた人たちが成長して、神の国の拡大のために用いられることです。リーダーが、神からの燃えるビジョンを掲げると、人々は労力とお金と時間をささげてくれます。自分の王国を作るためのビジョンでならば、人を利用するだけでのものです。しかし、神の国のビジョンならば、朽ち果てることはありません。蒲郡の石原先生が日本の教会のため、このように祈っておられます。「主よ。一人ひとりが神を恐れ、自分の王国を作ろうとする誘惑に打ち勝てるよう助けてください。自分ではなく、神が進めようとしているビジョンを自分のビジョンとすることができますように!」アーメンです。

F愛です

 6つでも良かったのですが、7は完全数なので、あえて7番目も加えます。第七番目は愛です。しかも、無条件の愛です。私たちは隣人を愛するとき、どうしても、条件をつけてしまいます。「私の言うことに聞き従う人は愛します。でも、私の言うことを聞かない人は愛しません」。「教会に来る人は愛します。でも、教会に来ない人は愛しません」。「私は教会を愛します。でも、クリスチャンは愛しません」。ちょっとおかしいですね。教会という制度や組織は愛しても、本体であるクリスチャンを愛さないということはあってはならないことです。日本人は、家とか会社を大事にしてきて、中味である人を粗末にしてきました。同じように、教会という入れ物を愛して、信徒を愛さない指導者がたまにいるかもしれません。また、愛はひも付きであってはなりません。「飯を食わせるから、お金をあげるから、癒してあげるから、○○してね」というのは、キリストの愛ではありません。イエス様はあるとき、10人の重い皮膚病の人を癒してあげました。しかし、感謝するために帰って来た人はたったの一人でした。イエス様はそれでも、人々を癒してあげました。私たちはただで神様からいただいたものなら、ただであげるべきです。人は、物や権力を持つと、意地悪したくなります。父なる神様は「悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださいます」(マタイ5:45)。私たちは父なる神様の子どもとして、このような愛をいつでもいただきたいと思います。

 ここにおられる方はなんらかのリーダーに召されています。それが家庭であったり、職場であったり、教会や地域社会であるでしょう。私たちはこの世のリーダーシップではなく、聖書から、イエス・キリストから学ぶべきであります。イエス様のリーダーシップは、仕えるリーダーシップ、サーバントリーダーです。

  このサイトに記載されている内容について無断複製・改造・転載等の行為を禁じます
Copyright (C) 2003 Kameari Church. All Rights Reserved.