|
先週、教会というのは建物とか聖職者ではなく、クリスチャン自身であると申し上げました。そして、クリスチャンが聖書の「互いに」を実行するために、小さなグループ、セルに属しましょうと勧めました。今朝は、もう一歩つっこんで、信仰生活とはどういうものかを学びたいと思います。教会にいるときはクリスチャンあるかもしれませんが、教会の外にいるときはどうなんでしょうか。私たちは教会という枠組みを取り外し、この世においても信仰をもってクリスチャンらしく生きたいと思います。そのためには、セルというグループが重要だということを申し上げたいと思います。
1.セルとは生活そのもの
「教会」は「教える会」と書きますので、教えが中心みたいなイメージを与えてしまいます。「キリスト教」という呼び方もそうです。キリストの教えを学ぶという感じがします。伝統的な教会はやたら集会が多いですね。しかも、それらを全部、教会という建物の中でやろうとします。聖日礼拝、祈祷会、早天祈祷会、徹夜祈祷会、聖会、特別伝道集会、聖書研究会など、たくさんあります。これらの集会に休まず出席している人はとても信仰熱心であると考えられます。しかし、集会ばかり出ていたら、家事とか仕事とかこの世の人たちとの関係はどうなるのでしょうか。確かに教会では、礼拝を終わって帰るのではなく、この世に遣わされて行くのだと言います。でも、世の中にはクリスチャンの友だちが一人もいなくて、孤立してしまうでしょう。この世で傷ついて、やっとのことで教会の集会に来る。そのうちに、教会の集会という集会にいりびたりで、世捨て人になってしまう。果たしてそういうクリスチャンが信仰熱心なのでしょうか。
私たちは信仰生活のスタイルをもっともっと遡り、初代教会から学ぶべきであります。初代教会は8つの働きがありました。2:42から見ますと。第一に教えがありました。しかし、それだけではありません。第二は交わりがありました。3000名ではなく、小グループの交わりがあったことでしょう。そこでパンを裂き・・・第三は聖餐式がなされていました。第四は祈りです。第五は43節、奇蹟です。わーおー。初代教会は「多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれていました」。今日の教会で奇蹟が見られるでしょうか。第六は44と45節は奉仕です。彼らはあんまり愛が溢れていたので、物までも分かち合っていました。第七は礼拝です。宮で礼拝をし、家々でも礼拝を持っていました。家での礼拝は食事と賛美がくっついていた楽しい礼拝です。第八は伝道です。彼らの生活はすべての民に好意を持たれていました。そして、主も毎日救われる人々を仲間に加えて下さいました。これこそが、理想的な教会の姿です。
このところに、「毎日」という言葉が二回出てきました。つまり、毎日の生活がイコール信仰生活だったのです。私たちはいつの間にか、キリスト教を単なる「教え」にしてしまいました。また、キリスト様を教会で、一週間に一回だけお参りする宗教にしてしまいました。キリスト教信仰とは、キリスト様をあがめることだけではなく、キリスト様と一緒に生活することではないでしょうか。ある人たちは、「神様、どうか私たちを見守っていてください」とお祈りします。ま、悪くはありません。しかし、私たちのイエス様は遠くから見守って下さるだけの神様ではありません。むしろ、現場で一緒に生活してくださるお方です。47節にも「主も毎日、救われる人々を仲間に加えてくださった」と書いてあります。ここから、イエス様が人々を招いてくださり、イエス様が救って下さったと理解することができます。マルコ16:20「主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた」と書いてあります。ルカ24章にはエマオの途上の弟子たちの間に立って、共に歩んで、彼らを諭してあげたという記事があります。マタイ28章の最後は「見よ。私は、世の終わりまで、いつも、あなたがたと共にいます」とあります。これは、天国に行ってからという意味ではなく、世が終わるまでいつもということです。このように考えますと、信仰と生活を分けることはできません。イエス様と一緒に生活することが、キリスト教と言っても過言ではありません。
では、なぜ、セルという小グループをここに持ち出さなければならないのでしょうか。セルに属している人は、月1回、毎週1回くらい顔を合わせ、何らかの集会を持ちます。セルライフというのは、その集会と集会の間のことを言います。集会も大切ですが、その間の生活においても助け合うということです。私たちは一人でこの世に遣わされても大体まわりがみな未信者です。家庭や職場、学校、結構自分一人だけがクリスチャンという方もおられます。そこで、たえず、自分のセルと連絡し合ったり、どこかで会ったりして、祈ってもらうことが必要です。今はネコもしゃくしも携帯を持っていますね。私は持っていませんが…。また、パソコンのメールでネットもできます。私たち一人一人にイエス様はおりますので、一人でやっていけます。でも、ときには「霊的に弱っているなー、誘惑にはまりかかっているなー」という時があるものです。やっぱり、そのときに、どこかで会ったり、電話で話したりしますと、また信仰が強められるものです。定期的な集会だけでなく、本当に、いつでも、何かのついでに、ひょっこりでも構いません。主婦の方々はお家に、ビジネスマンはお昼休みか仕事帰りに会うことができます。学生ならマックでしょうか。このように兄弟姉妹が交わり、助け合う、これがセルライフです。私たちがどこでも主の御名によって集まるところ、そこがセル教会なのですから。かたつむりは家を背負っています。セル教会というのは、移動式の小さな教会を持っているということです。どうぞ、信仰生活を教会という建物の中に固定しないで下さい。この世において、イエス様と一緒に生活しましょう。また、セルの仲間たちと助け合って、信仰生活をおおいにエンジョイして行きましょう。
2.セルは同時進行
これまでの弟子訓練法は1本の線で考えていました。まず伝道し、救われたら育成していく。そしてやがて成長したら奉仕をしてもらうというのが順当な方法でした。私も小牧者訓練会に属して、10年近くも学びました。しかし、これですと、ものすごく時間がかかります。養育コース半年、弟子コース(上)半年、弟子コース半年、小牧者コース(上)半年、小牧者コース(下)半年、少なくとも2年くらいかかってしまう。2年もたつと、救われた人の友人がみなクリスチャンばかりで、未信者の友達がいなくなってしまいます。また、勉強ばかりで、実践の場がないので頭だけの知識になりま す。かつての頃の勢いがなくなり、小さくまとまったクリスチャンになる恐れがあります。しかし、セルライフ型の場合は線ではありません。伝道、育成、奉仕が同時進行になります。図であらわしますと、伝道の輪、育成の輪、奉仕の輪の3つが重なり合っている状態です。昔、三つ輪石鹸という石鹸がありましたね。「みつわ、みつわ、みつわー、せっけん」。あれと同じ図柄で表すことができます。この方式は、救われたらすぐ育てる。救われたらすぐ奉仕をしてもらう。救われたら即、次の人を伝道。おおー、デンジャラス。
これを実践しているのが、ゴスペルクワイヤーです。ゴスペルはセル方式ですから、未信者も祈ります。奉仕しながら学んで、学びながら奉仕しています。だから成長がものすごく早い。今まで10年くらいかかっていたのに、なんと2,3年でデカイ顔…いや、信仰生活が板についています。お祈りも人前でどんどんします。また、病気の人のために手を置いて祈ってやったりしています。証しも臆せずばんばんしています。彼らは先輩のものをみようみまねで、体得し、実践しているから早いんですね。もし、「あなたは、まだ信仰的に若いんだから、人前に立っちゃダメ」なんて言っていたら、賛美奉仕者も育たなかったでしょうね。確かに、危険も伴います。失敗もあります。しかし、結果も大切ですが、プロセスはもっと大事です。いろいろなことを通して、学びます。失敗からも学ぶんです。小笠原先生は「人間は成功からは何も学べない。学べるのは失敗からだけである」とおっしゃいました。ハレルヤ!です。
それではなぜ、セルライフが短期に効果的な成果をあげるのか1つ1つ考えてみましょう。まず、伝道です。なぜ、セルライフが伝道に適しているのでしょうか。どこかのクルセードとか、特別伝道集会でイエス様を信じても、受け皿がないと信仰を継続していくのが難しいですね。しかし、セル・グループに属して、馬鹿言ったり、共に学んだり、共に奉仕をしていると「ああ、このグループの人たちは私を受け入れてくれる。私はここにいていいんだ」という帰属意識、仲間意識が生まれます。彼らはクリスチャンの生活を見て、何かを肌で感じるわけです。この人たちは変人じゃない…少し変だけど、良い人たちだと思うんですね。そのうち、この人たちが呼んでいる、イエス様を信じたくなるわけです。また、聖書とか教理とか学んだ訳ではないのに、彼らの中におられるイエス様と出会ってしまうのです。また、従来は、伝道を洗礼という点でとらえてきました。しかし、セルライフは点というよりも線です。生活のプロセスを大切にする伝道です。ですから、すぐ、育成段階に入って行きます。育成も一人よりは、グループの中の方がバランスよく成長します。牧師とだけしか関係がない場合は、意見を交換するというところまで行きません。こんなこと聞いて幼稚だと思われはしないだろうかとよけいな心配をします。しかし、グループ内だったら、どんなことでも気軽に聞くことができます。奉仕もいきなり、公の場では緊張してできないでしょう。しかし、セルの中だったら失敗しても大丈夫です。御霊の賜物の中に、預言とか癒し、知識などいろいろあります。こういうものも、小グループでしたら、勇気を出して使うこともできます。Tコリント14:26でパウロが言っています。「兄弟たち。では、どうすればよいのでしょう。あなたがたが集まるときには、それぞれの人が賛美したり、教えたり、黙示を話したり、異言を話したり、解き明かしをしたりします。そのすべてのことを、徳を高めるためにしなさい」。Tコリント12章、14章の霊的賜物を、公の集会でやろうとするから混乱を招くのであって、セルの集会で行なうならば非常に効果的に用いられることでしょう。インドネシヤやシンガポールでは、御霊の賜物なしのセル集会はありえません。なぜ、神学校に行ってもいない信徒が、100人もの人たちを牧会できるのでしょう。聖霊の賜物を用いているからです。また、だれか一人ではなく、互いに教え合っているので大丈夫なんですね。
セルはプログラムではありません。セルライフ、生活の中に未信者を招くのです。そしてクリスチャンの生活を見てもらい、生きた福音も聞いてもらうのです。彼らはクリスチャンの生活を見て、私もこういう共同体の中で生活したいと思うのです。そして、ここに属していることが、喜びであり誇りである、いつまでも属していたいと思うようになります。気がつかないうちに、イエス様の御名を呼び、イエス様に祈っているのです。祈りを覚え、信仰によって生きることを体得していきます。そして、いつの間にか他者の重荷を負い、とりなしの祈りをするようになります。たとえ、信仰というもの定義できなくても、もう体に染み込んでいる。イエス様とあの仲間がいなければ私は生きてゆけない。アーメン。これがセルライフです。
3.セルはいのち
ライフという英語は、いのちという意味もあります。からだの細胞にいのちがあるように、セルもいのちがなければなりません。セルは教会成長の方策ではありません。ある教会は、セルが良いというのを聞いて、従来のプログラムにセルを1つ加えている教会もあります。セルのいのちが流れ出していくためには、いのちを妨げる要素を教会から取り除いて行く必要があります。何年か前、小笠原先生を2回ほどお招きして、セル・セミナーをしていただいたことがります。先生は「セルはいのちである」と強調しておられました。私は小笠原先生からたくさんのことを学びました。@教会の中からいのちをなくすような無駄なものを取り除くということです。数多くの委員会(会議)やプログラム、組織を単純化し、セルによる伝道牧会を中心に据えていくとき、いのちが外に流れて出て行きます。A牧師や役員会が決めたことを押し付ける、トップダウン方式をなくすこと。牧師や一部の役員がコントロールしている教会がありますが、最初は良さそうに見えるかもしれませんが、最後にいのちがなくなります。教会は自由な雰囲気がなくてはなりません。ですから、セルがやりたいと願ったことを、役員会は応援していくようにするのが、一番良いのです。企業ではこれまで、若い人が柔らかい頭でアイデアを出しても、上層部が「それは実行不可能だ!」とやってきました。そういう企業はつぶれてしまうでしょう。かえって、畑違いとか、素人の方が奇抜なアイデアを出したりします。
私は1996年からセル教会に切り替えましたが、○○委員会というものを極力なくすようにしました。そのかわり奉仕もセルにゆだねていきました。すると、彼らは毎月第二週は、GPN、ゴスペル・プレイズ・ナイトを始めました。自分達でプログラムを決め、奉仕チームも作り、夕食も作ったりして、すばらしい伝道になっています。毎回、50名から60名くらい集まっています。また、礼拝の賛美も賛美チームが担当しています。毎週いろんな証し人が立てられています。私だったら、いろんな事情を知っていますので、心配で証しを頼めないですね。この間は高橋良雄兄が証しをして下さいました。ものすごく感動しましたね。あれは私ではなく、毛利兄弟が頼んだからこそ実現したんです。先週は男性だけの賛美チームでした。どんどん新しい奉仕者も与えられています。今晩と明日のコンサートもみんなセルで準備したものです。彼らが毎日交替で、電話番に来て、チケットの応対をしていました。たまたま私しかいない時がありました。もうチケットが全部売れていたんです。でも、私は断われない性分なので、ついついなんとかしましょうとなってしまう。かえって、足を引っ張ってしまうことをしたりして…。とにかく、今は、セル中心の伝道牧会をしています。だから、牧師が特別に大きな器でなくても伝道牧会ができてゆくのです。日本の将来は、このチーム牧会とセルこそが道を開く鍵と信じています。
黙示録22章に、いのちの水の川について記されています。「その川は、神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、12種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民を癒した。もはや、のろわれるものは何もない。…もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない」(22:1-2、5)と書いています。いのちの川の流れとは、キリストのいのちとも言えます。セルにキリストのいのちが流れて来る。すると、セルには新しいいのちが流れ、実を結んでいく。そこには、いやしがあり、暗黒が追い払われ、輝きが現われるでしょう。伝統とか、組織やプログラムを大事にするあまり、聖霊の流れを止めてはいけません。牧師と一部の人たちが、コントロールしてもいけません。そこに流れている聖霊の流れを尊重し、大事にしましょう。聖霊がセルにいのちを与え、聖霊がセルを通してすばらしいわざを行なって下さるからです。私の思いの中には、600名の会堂、2000名の教会というゴールがあります。しかし、ゴールとか目標も大切ですが、プロセスはもっと大事です。私たちが聖霊様とどう関わるか、聖霊様の流れを妨げない。聖霊様を認め、あがめ、導かれて行くところに、12種の実がなっていくことを信じたいです。セルとは教会です。教会の中にいのちがなくなってしまったら惨めです。組織や建物があっても、聖霊のいのちが枯渇している教会もないわけではありません。私たちの教会もいつそうなるか分かりません。本当に恐れを覚えます。「どうか、私の野望を打ち砕き、あなたのみ旨だけがなるように」と祈るものであります。
神様は教会というシステムをこの地上にお与えになりました。しかし、教会はいつでも人間的なものになる恐れがあります。教会を建てて下さるのはイエス様です。マタイ16:18「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます」とおっしゃったからです。どうぞ、神の国が完成するときまで、私たちの教会が聖霊のいのちを流れ出すところとなりますように。神の御座からいのちが川が流れ出て、私たちも生かされ、そして流れ行くところものみな生きることができますように。神様は教会という出口を通して、いのちの川をこの世に向かって流れ行くように考えておられるようです。でも、教会とは建物や機関ではなく、私たち一人一人だということを忘れてはならないように。そして、一人一人ばらばらでは弱くので、セルという仲間を作り、互いに励まし、互いに助け、互いに重荷を負いあうならば、もっと効果的な働きができるということです。このセル・グループがこの世にはびこり、教会という建物がない場所でも、救いと癒しと解放のわざが起こりますように期待しましょう。聖霊が泉のように、また、聖霊が川のようになって、私たちの内からこの世に向かって流れていくのです。そして、その流れがゆくところものみな生きるのです。アーメン。
|