|
教会をいろいろなものに例えることができます。もし、教会を軍隊にたとえるなら、牧師は司令官であり、信徒は兵卒です。軍隊は、上官の命令には絶対服従であります。もし、教会を企業にたとえるならどうでしょう。牧師は社長であり、皆さんは社員です。企業の目的は利潤追求ですから、数字にはいつも敏感です。また、もし教会を病院にたとえるならどうでしょう。「病んでいる人、いらっしゃーい」。でも、健康になると「ありがとうございました」と退院していきます。しかし、教会を家庭にたとえるのが最も的確だと思います。エペソ2:19「あなたがたは、今や、神の家族なのです」と書いてあります。神様がお父さんで、私たちは兄弟姉妹ということになります。きょうから4回にわたって、セル教会について学びたいと思います。
1.セル教会とは何か
セル教会とは何かということを問う前に、「教会とは何か」ということを考えたいと思います。教会は建物でしょうか?いいえ。建物は教会堂ですから、教会ではありません。それでは、教会は組織なのでしょうか?中世においては、聖職者こそが教会だと言って、一般信徒は教会の外にいました。現在でも、教職者と信徒を分ける風習が残っています。韓国では一般の信徒のことを「平信徒」と言うそうです。英語では、信徒のことをレイマンと呼んだりします。レイマンの意味は、専門に学んでいない人、素人という意味です。10月31日は宗教改革記念日でした。マルチン・ルターが95個条をウィッテンベルグ城内の扉に掲示した日であります。ルターが最も主張したことは、教皇ではなく、キリストに主権があるということでした。そして、信徒と教職の身分の差はなく、万人祭司であると主張しました。ところが、今だ、プロテスタント教会においても、階級制度の「おり」が残っています。「おり」というのは、ぶどう酒とか液体の底に沈んでいるヤツです。このエペソ人への手紙が主張していることは、教会のかしらはキリストであり、クリスチャンはそのからだであるということです。エペソ4:15「かしらなるキリスト」と書いてあります。16節には「キリストによって、からだ全体は、組み合わせられ、建てられる」と書いてあります。つまり、主権をもっているお方はかしらなるキリスト様だけです。そして、からだは身分的には平等だということです。それでは、牧師や伝道者は何なのでしょうか。それは、4:11,12にありますように、聖徒たちが奉仕できるように整えるということです。以前、私はコーチのような存在であると言いました。実際にプレーするのは、コーチではありません。選手である、信徒であります。ですから、教会は何かと言ったら、建物でも牧師でもなく、信徒こそが教会だということになります。教会の主役はだれか、信徒です。「あなたが主役なのです」。
それでは、「セル」とは何でしょうか。セルとは細胞という意味ですが、共産主義のもとでも使われていたそうです。必ずしもセルと呼ばなくても結構なんです。ただ、教会がからだでたとえられるなら、その一番小さな単位は、細胞・セルではないだろうかということです。セルを小グループなどと言うこともできますが、単なる小グループではありません。キリスト様の命を共有している、共同体というイメージがあるからです。「聖書にそういうものがあるんですか?」と問われましたら、イエス様の12弟子がそうだったと答えることができます。弟子たちはイエス様と寝食を共にしならが、3年半、訓練を受けました。イエス様は彼らに「小さな群れよ。恐れることはありません。…父なる神は、あなたがたに御国をお与えになるからです」とおっしゃいました(ルカ12:32)。小さな群れこそが、教会の原型、もとの形であります。弟子たちは王なるイエス様が自分たちに仕えてくださることを体験しました。「この世は人々を支配するのに、神の国は偉い人が仕えるんだなー」ということを知ったのです。イエス様は制度的な教会を考えておられたのではありません。神の家族・オイコスという共同体を考えておられたのです。イエス様の昇天後、120人の弟子たちが二階座敷で心を1つにして祈りました。すると、五旬節の日、聖霊が注がれ、教会が誕生しました。その日、3000人が一挙に救われました。救われた人たちはどうなったでしょうか。彼らは家々に集まって、「パンを裂き、喜びと真心をもって食事ともにし、神を賛美した」(使徒2:46)とあります。計算すると、120人の弟子たちが、25人ずつ面倒見たという計算になります。「パンを裂き」は聖餐式でありましょうが、食事とコンビになっていたので、楽しかったはずです。今日のものは、聖餐式が礼拝とくっついていますので、ちょっぴりとした食べられないし、儀式じみていますから、どうしても堅くなる。しかし、家々でやったら、もっと感動し、もっと楽しいのではないかと思います。
セル教会とは共同体であります。共同体の一番、最初はどこだったでしょう。それは、三位一体の神様です。永遠の昔から、父、子、聖霊なる神は1つになっておられます。CSルイスは「それはまるで、三位の神様が、手をつないでダンスをしているような麗しい姿である」と言いました。神様はそのかたちを、エデンの園に造られました。ところがサタンが入り込み、共同体が破壊されました。夫が妻を、兄が弟を、力あるものが力のない者を支配する構造が生まれてしまいました。さらには民族と民族が、国と国が争うようになりました。この世には真の意味の共同体を見出すことができません。ピラミッド型の組織体があるのみです。上の者が下の者に命令し、服従を強いるという構造です。でも、イエス様はご自分のもとに12弟子を集めて、共同体を作られました。やがて、イエス様は平和を実現されるために、敵意を十字架によって葬り去られました(エペソ2:16)。私たちはこのキリストによって、御霊によって、父なる神のみもとに近づくことができるのです。「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです」(エペソ2:19)。
教会はこの世の組織体を学んではいけません。三位一体の神様、12弟子、そして初代教会から学ばなければなりません。黙示録においては、24人の長老たちが神様を礼拝しています。彼らは神様を中心に取り囲んでいます。ですから、神の国のスタイルは、ピラミッド型ではなく、むしろ円であります。神様、イエス様をかこんでいる姿こそ、セル教会です。そこには、機能の違いはありますが、身分の差はありません。私たちは主にあって、兄弟姉妹という家族、からだの部分部分なのです。キリストこそかしらです。私たちはその命を共有する、からだの部分部分なのです。私が権威ぶっていないのは、教会がピラミッド型の組織体ではないと考えているからです。セル教会は、たまたま私の性格にも合っていたと言えるかもしれません。1990年から1995年までは小牧者訓練会をしていましがが、どうも雰囲気がギスギスしていたようです。弟子クリスチャンと群集的クリスチャンに分けていたからです。今はそういう分け方はしません。みなキリストにあって聖徒です。訓練を受けて、やがて、弟子クリスチャンになるのではありません。クリスチャンは、はじめっから弟子に召されているのです。それはイエス様のときも同じでした。教会は神の家族です。みな、フラットな関係です。強いて言えば、偉くて、賜物がある人は、人々に仕えるために存在しているのです。教会が主にある共同体と理解したときから、教会の雰囲気が変わりました。イエス様はかしらです。そして、私たちはみなからだの部分部分なのです。アーメン。
2.セル教会の目的
後半は、セル教会の目的について学びたいと思います。私たちの成長のゴールは、イエス・キリスト様です。エペソ4:15「あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです」に書いてあるとおりです。しかし、クリスチャンは一人単独で成長するのではありません。やはり、からだという共同体に結びついて成長するようになっているのです。それが、次の16節に書いてあります。「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです」。ここに、重要な「建てられる」という言葉があります。ギリシヤ語では、オイコドメオーと言いますが、名詞形はなんと「オイコス・家族」という言葉でした。オイコスが動詞になると、「オイコドメオー・家を建てる」という意味になるのですから、なんとも不思議です。つまり、クリスチャンは他のクリスチャンを建て上げることによって、成長するということです。逆に言いますと、クリスチャンは一人だけでは、いつまでも成長しないということです。
聖書には「互いに」という表現がここかしこにあります。互いに愛し合いなさい。互いに赦し合し、互いに親切にし、互いに教え、互いに戒め、互いに重荷を負い、互いに交わり、互いに罪を告白し、互いに祈り合い、互いに助け、互いに仕え、互いに忍び合い・・・かなりありますね。「互いに」というのは、どれくらいの人数で可能なのでしょうか。1人ではだめですね。最低、2人か3人は必要です。それでは何人くらいまででしょうか。100人では無理ですね。50人もちょっと、10人くらいだったら可能です。ラルフ・ネイバーと言う人は、15人を越えてはならないと言っております。イエス様はあるときは3人の弟子、あるときは12人の弟子と一緒でした。セル教会では、この小グループ自体を「教会」と呼んでいます。ハワイのラルフ・モアーは、ミニ・チャーチと呼んでいます。どちらにしても、セルの中に教会のすべての要素が含まれているということです。つまり、セルの中で礼拝し、セルで伝道し、セルで訓練し、セルで奉仕をするということなのです。もちろん、このように大勢、集まる時も必要です。セル教会では、このように大勢で礼拝するときを「セレブレーション・祭典」と呼んでいます。神様をお祝いする、お祭りなんであります。少人数の礼拝ですと親しさはありますが、どうしてもチマチマーとします。セルグループが一週間に一度、合同の礼拝を持つ、これがセレブレーション・お祭であります。
本題に戻します。セル教会になると、青年会、婦人会、壮年会、祈祷会、…委員会が不要になってきます。何故でしょう。セルの中で、交わり、奉仕、訓練、祈り、活動があるからです。決定的に違うのは、セルは互いに責任を負い合うということです。青年会、婦人会というのは、その集会にだれが来るのかわかりません。不特定多数の中から、都合の良い人がその集会に参加するわけです。そうしますと、深い個人の祈りの課題、悩み事を分かち合うことができません。しゃべったことが、次の週には、教会全体に広まってしまうかもしれないからです。そのため、セルには「裁かない、秘密をもらなさい」などの、いくつかの決まりごとがあります。もし、お互いに秘密を守るのであれば、どんなことでも打ち明けることができるでしょう。こういうセルの場合、特別すぐれたリーダーは必要ありません。普通ならリーダーたるものは、教えることができ、指導力がある人でなければと考えます。しかし、メンバーが互いに分かち合い、互いに教えるなら、リーダーがやるのは交通整理だけです。不思議なことに、互いに祈り合うと、主がそこにおられて、知恵を与え、あるときは癒しを与えて下さいます。これまでは、特別な癒しの器がいて、そういう人が講壇に立って「タッチ!」などとやらなければ、癒しは起こらないと考えてきました。しかし、聖書はそうは言っていません。「もし、あなたがたのうちの二人が、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられる私の父は、それをかなえて下さいます」(マタイ18:19)。アーメン。
私は数年前、インドネシアのセル・セミナーに参加しました。あるリーダーは、日本に出稼ぎに来ていたことのある男性でした。「シャチョーさん」とか「カントクさん」のもとで、肉体労働をしていたということです。彼は30くらいのセルをもっているのですが、どんどん救われる人が起こる。そこではギャンブルをやる人たちがたくさんいて、多くの借金も抱えている。ある人そのために、家を売り払い、離婚同然という人たちもいる。そういう中で、家族ごと救われる。セルの仲間たちが励まし合い、仕事も紹介してあげます。その男性、一見、頼りなさそうなんですが、いざイエス様のことになると、相手の人と30cmくらいまで寄って行くんですね。その情熱たるものはたいしたもんでした。また、ある若い夫婦がリードしているセルがありました。そのセルでは悪霊の解放と癒しがよく起こるということでした。脳腫瘍で医者からも見離されていた男性が来ました。本当は、手術をしなければならなかったのですが、お金がなくて病院に行けなかったのです。セルでみんなが手を置いて祈りました。彼は幻を見たそうです(私は彼から直接聞きました)。目の前にビルのようにそびえるイエス様が立ちました。大きな足がどーんとあります。その男性は、あなたはだれですか?大きすぎてわかりません。もう少し小さくなってください」とお願いした。すると、スルスルと人間と同じくらいに小さくなった。その男性は恐る恐る、上を見上げましたが、顔が光って見えなかった。でも、その直後、頭がカーッと熱くなった。熱い、熱い。それまで圧力がかかって死ぬほど痛かった、その痛みがすーっと去ったそうです。彼はお金がなかったので、1年くらい病院にいかなかった。でも、その後、病院でレントゲンをとったら、医者がびっくりしたそうです。全く、別の人ような頭だったそうです。なぜ、そんなことが起きたか。セルのみんなが祈っていたときに、そういう出来事が起きたのです。そのセルは若い普通の夫婦でした。なのに、100人くらいの牧会をしているわけです。セルというのは、それほどの潜在力というかパワーがあるのです。私の尊敬する大川牧師は一人でなんでもできるスーパーマンです。毎週、1000人以上の礼拝者があるようです。私は先生とは賜物が違います。もし、セルで行くなら、一人の巨人がいなくても、セルなら分割して行なうことができます。
ところで、セルにおいて最も難しいのは、オープンになることです。聖書研究会などは、自分の考えを分かち合います。「私はこう思う」「自分はどう感じた」と言うでしょう。でも、お互いに壁があって、本心を隠しています。しかし、セルでは良い人間を演じてはいけません。隠されている動機とか心の傷までも分かち合う必要があります。お互いに壁を作って、自分の考えとか感情を分かち合うだけでは真の共同体とはいえません。表面的な話し合いでは、人格的な変化は起きません。では、どのようにしたら、壁を取り除き、自分をオープンにできるのでしょうか。自分の心を開くというのは痛みを伴います。だれも、そんな思いをしてまで、心を開きたくはありません。では、どのようにしたら、人々が心を開くようになるのでしょうか。そこには2つの要素があります。第1に共同体の中に安心感がなければなりません。共同体の中に安心感というのがあってはじめて、オープンになることができます。そのため、すべての人が約束事を守らなくてはなりません。その約束事とは、「あなたを無条件で受け入れます」ということです。「あなたを無条件で受け入れます!」。これを安心感のための宣言と言います。どうやってこの雰囲気を築いたらよいのでしょう。まず、牧師が自分をオープンにすることです。アバラブ教会では、牧師とリーダーたちが4000人の会衆の前に立ちました。奥さんたちも含め、10数名の人たちが「自分の性的な葛藤、問題を告白したそうです」。会衆の目が飛び出した。会衆は「リーダーがオープンになれるんだったら、私もできないことはない」と励まされました。もう一つは、「ああー、リーダーたちも同じ問題があるんだ。私はまだましな方かもしれない」と思った。牧師やリーダーが自分たちをオープンにしたら、人々もオープンになることができた。そしてリバイバルが起きたそうです。ですから、共同体を作るためには、安心感が必要だということです。
2つ目の要素は、本当のビジョンを持つということです。共同体のビジョンが、ただ快適なものを約束するようなものであるなら長続きしません。真の共同体のビジョンは何でしょう。ある共同体のビジョンは「私たちが一緒に楽しい生活を送りましょう」というものかもしれません。楽しい生活は神の祝福です。楽しみを求めるのではありません。楽しみ、喜びは神からのボーナスであり、私たちは時には苦しみを負わなければなりません。だから、セルの共同体のビジョンは、楽しみだけではありません。では、私たちのビジョンとは何でしょう。そのビジョンは1つのことに集約されます。「お互いを助けて、キリストの似姿になるということです」。「お互いが一緒に助け合って、キリストに似たものとなることです」。アーメン。ときには苦しむこともあるでしょう。心の傷をさらけ出すのですから、まずい雰囲気になるときもあるかもしれません。でも、神の家族です。家族は、「この家が嫌になったから、隣りの家の子どもになります」という訳にはいきません。家族ほど赤裸々な場所はありません。本音と本音のぶつかり合いです。わがままも出ます。喧嘩もします。私たちはそういうことを恐れてはいけません。世の家族と違う点は、血のつながりではありません。滅びからキリストによって贖われ、聖霊によって新しく生かされている共同体です。しかも、天国まで続く家族です。どうか勇気を出して心を開きましょう。そして、お互いが助け合って、キリストの似姿になるんだというビジョンを持ちましょう。エペソ4:15「むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです」。
|