「神の弁護士」   創世記18:16-26

2003/10/12 鈴木 靖尋牧師
▲リストへ
 

 きょうは、クリスチャンにとって大事な使命、とりなしの祈りについて学びます。とりなすというのは、Aさんの代わりに神様の前に出て祈るということです。毎週月曜日、ゴスペルクワイヤーがリハーサルを開いています。最後に輪になって祈ります。そのとき、だれかの病気の癒しのため、あるいはだれかの問題解決のためお祈りするでしょう。あれがとりなしの祈りです。私たちが祈りを知らなかったとき、祈っていないとき、あるいは祈れないとき、代わりに誰かが祈ってくれている。なんと幸いでしょうか。きょうはアブラハムの物語を取り上げながら、とりなしの祈りについて学びたいと思います。

1.神の友アブラハム

 主がアブラハムに知らせたのはどんなことでしょうか。創世記18:20-21「そこで主は仰せられた。「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおりに、彼らが実際に行なっているかどうかを見よう。わたしは知りたいのだ。」ソドムとゴモラは道徳的に非常に堕落した町でした。主はその町の実体を確かめるために、下って行くところでした。そして、その罪に対してさばきを下さなければならないと考えていたわけです。しかし、なぜ、主はそのようなことをアブラハムに告げたのでしょうか。人になんか相談しないで、だまって、行けばいいじゃないですか。いいえ。アブラハムは特別な存在でした。18:17-18主はこう考えられた。「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべての国々は、彼によって祝福される」。

 「私がしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか?いやだめだ、ぜひ、アブラハムに伝えなければならない」。なぜでしょう?主はアブラハムによって、地のすべての国々を祝福したいと計画していました。主はこうおっしゃりたかったのではないでしょうか。「アブラハムよ、これからソドムとゴモラを滅ぼしに行くんだが、それでも良いだろうか。あなたは、国々の代表者になる人だ。この際、何か申し述べることはないだろうか」とおっしゃったのでは。神様のみこころは、すべての人を滅ぼしたくはなかったんです。ましてや、あの町にはアブラハムのおい、ロトの家族が住んでいる。でも、神の義を通すために、罪はさばかなくてはならない。だけど、だれか、弁護してくれたら、あわれみを施すこともできないわけではないんだが。おお、アブラハムがいるではないか。アブラハムにこのことを告げようじゃないか。…とまあ、このようになったわけです。イザヤ書41:8をみますと、主はアブラハムを「わたしの友」と呼んでいます。神の友である、アブラハムにご自身の計画を知らせ、その計画の中でアブラハムを用いようとされたのです。

 新約聖書をみますと、主は私たちを「友と呼ぶ」と書いてあります。ヨハネ15:14,15「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです」。奴隷にはいちいち理由などのべません。「ああしろ、こうしろ」と、ただ命ずるだけです。しかし、神の友に対しては、みこころを示して下さいます。今日も、イエス様は友である私たちに、ご自分の本心を分かち合って下さいます。エレミヤ書33:3にすばらしい約束があります。「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう」。神様のみこころを知るにはどうしたら良いでしょうか。神様は私たちにどのような計画を用意されているのでしょうか。どういう人と結婚したら良いのでしょう。私が行くべき道はどちらでしょうか。そうです。主の名を呼んで、お聞きしたらよいのです。そうすれば、主は答えてくださる。私たちの知らない、理解を越えた、大いなることを告げてくださるのです。どうぞ、主の御声に耳を傾ける時を持ちましょう。主はかならず答え、そして良き道へと導いて下さいます。

 

2.神の弁護士アブラハム

 アブラハムは主が話された後、どのようなことを嘆願したのでしょうか。18:23-25「アブラハムは近づいて申し上げた。「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。もしや、その町の中に五十人の正しい者がいるかもしれません。ほんとうに滅ぼしてしまわれるのですか。その中にいる五十人の正しい者のために、その町をお赦しにはならないのですか正しい者を悪い者といっしょに殺し、そのため、正しい者と悪い者とが同じようになるというようなことを、あなたがなさるはずがありません。とてもありえないことです。全世界をさばくお方は、公義を行なうべきではありませんか。」アブラハムは、「正しい者を悪い者と一緒に滅ぼさないで下さい。もし、その町に50人の正しい者がいたなら、その町をお赦しなさらないのですか?」と、お願いしました。主は「もし、50の正しい者を町の中に見つけたら、その人たちのために、その町全部を赦そう」と約束しました。そのあとアブラハムはちょっと心配になりました。45人いたら滅ぼさないで下さい。40人いたら滅ぼさないで下さい。主はそのたびに「いいよ、そうしよう」とおっしゃる。でも、アブラハムはさらに、30人、20人、10人いたら…と談判します。主は「滅ぼすまい。その10人のために」と約束しました。

 それでは、ソドムとゴモラの町はどうだったでしょうか。創世記19章を見てわかるのですが、正しい人が10人に満たなかったのです。アブラハムは少なくとも10人くらいはいるだろうと思っておりました。ところが、正しい人はアブラハムのおい、ロトくらいだったのです。「もし、一人でもいたら滅ぼさないで下さい」と言うずうずうしさと信仰がアブラハムにはありませんでした。でも、主はアブラハムの祈りを聞かれました。創世記19:29「こうして、神が低地の町々を滅ぼされたとき、神はアブラハムを覚えておられた。それで、ロトが住んでいた町々を滅ぼされたとき、神はロトをその破壊の中からのがれさせた」。そうです。主は、ロトの家族が救われるように最善の努力をしました。ロトたちが、モタモタためらっているとき、御使いたちがロトとロトの妻、ふたりの娘の手をつかんで、町の外へ連れ出したのです。それは「主の彼に対するあわれみによる」と書いてあります。主は、アブラハムの祈りに免じて、ロトの家族を滅びから救い出してあげたのです。ただし、ロトの妻だけは例外でした。彼女は後ろを振り返ってしまたのです。ドカーンと後ろでものすごい音がしました。彼女は、「ああ、家に置いて来た家財道具は大丈夫だろうか。エルメスのバック、フェルガモの靴、シャネルのコート…未練があって振り返ったのです。そのため彼女は塩の柱になってしまいました。いくら私たちがとりなしても、本人が望まなかったならば、滅びてしまうという戒めです。でも、ここで注目すべきことは、主がアブラハムの祈りに答え、ロトと二人の娘を救って下さったということです。

 アブラハムは「50人、45人、40人、30人、20人、10人いたら」と食い下がりました。10人いなかったのですから、町全体とその住民は滅ぼしてもよかったのですが、ロトとその家族だけは救おうとされした。この食い下がって祈ることが、とりなしの祈りの極意です。アブラハムは「主よ。どうかお怒りにならないようで、今一度だけ私に言わせてください」と、粘りました。あなたは、祈りにおいて淡白になっていませんか?「ああ、そうですか治らないですね。分かりました」。「ああ、救われないんですね、うちの主人は。はい分かりました」。「ああ、与えられないんですね、はい、諦めます」。自分のことだったらともかく、愛する家族や兄弟姉妹のため、淡白すぎるのはよくありません。私たちは、神様は冷たくて、私たちの訴えや意見なんか聞いてくれないと思っているかもしれません。ローマ2:4「それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか」。これは、裏返して言いますと、神様は慈愛と忍耐と寛容が豊かであるということです。全宇宙を造られたお方が、ちっぽけな私たちの願いを聞いて下さるとはなんと幸いでしょうか。

アウグスティヌスは、17歳から14年間同棲し、私生児をもうけました。彼は、いろいろな哲学や宗教を渡り歩き、9年間マニ教に凝っていました。母モニカはとても信仰熱心で、息子のために祈り続けました。モニカがアンブロシウスのところに行って相談したそうです。アンブロシウスは「祈りの子は滅びないよ」と告げたそうです。アウグスティヌスが、ある日、良心の呵責に耐えかねて庭に駆け込んだとき、隣家の子供が「取りて読め」と歌っていました。彼は読んでいたパウロの手紙のローマ13:13-14に目がとまりました。その瞬間から長年求めても得られなかった、精神の平安と罪を克服する神の力を受けたのであります。34歳のとき、息子と共にアンブロシウスからバプテスマを受けました。やがて彼はヒッポの司教となり、後世に名を残す大神学者となりました。アウグスティヌスの背後には、何十年も祈ってきた、母モニカのとりなしがあったからです。私たちもアブラハムのように、主に食い下がって、祈りたいと思います。主は、慈愛と忍耐と寛容の富んだお方です。

3.祈りの弁護士クリスチャン

 創世記18:19「わたしが彼を選び出したのは、彼がその子らと、彼の後の家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公正とを行なわせるため、主が、アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就するためである。」このところで驚くべきことは、神様はアブラハムの子らにも、アブラハムと同じ任務を与えると約束していることです。ガラテヤ書によると、「もしあなたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです」(3:29)と約束されています。つまり、私たちはアブラハムの子孫として、神様の御前にとりなす、祈りの弁護士として召されているということです。神様はクリスチャンを通して、この世を祝福し、ご自身のわざをなしたいと願っているのです。問題は、「私たちが祈りの心を持っているか」どうかということです。神様は、「ああ、このことをとりなしてもらいたい」と願って、祈りの心を持っている聖徒を捜しておられます。しかし、かんじんの私たちは、霊的に寝込んでいたり、この世のことに思いを馳せています。おお、申し訳ないと思います。という、私もこのメッセージを準備しながら、とりなしの祈りが少ないなーと反省せざるを得ません。本人が祈っていないと、なんと内におられる聖霊が祈って下さいます。私は夜寝ていますと、たまに、異言で祈っていることがあります。聖霊が、勝手に祈っているという感じです。「ああ、祈ってもらいたかったのに、寝ていやがる。このー」。そので、聖霊が言いようのない深いうめきをもってとりなしていて下さる。本当に、申し訳ないという感じです。

 それでも、聖霊は聖徒たちに、強い願望を与えて、祈るようにさせて下さいます。ここぞというとき、祈ってくれる人をさがしているのです。オーストラリアの宣教師が、中国に伝道に行きました。が、スパイの嫌疑がかけられ、死刑に処せられることになりました。ところが、突然、どこからか連絡が来て、死刑は取りやめになりました。彼は奇跡的に母国に帰ることができました。彼が教会で証しをしました。すると、ある姉妹がその場を去り、家から日記を持って来ました。その宣教師に告げました。「それは、ちょうどあの日ではなかったかと思います。私はこの姉妹と買い物をするため町を歩いていました。そのとき、急に先生のことを思い出し、祈りたいと思いました。ショッピングをやめ、姉妹と二人で祈りました。ちょうど先生が処刑される前でした。」と告げました。主はこのように、私たちが危険の中にいるとき、とりなしの手の祈りを通して働いて下さる。そして、御使いを送って救って下さるのです。そういえば、使徒ペテロも捕らえられたことがあります。もう、明日の朝は死刑だと決まっていました。教会では熱心に祈りがささげられていました。夜明け前に御使いが現われ、熟睡していたペテロのわき腹をつっついて起こしました。ペテロはえ?とねぼけながら、立ち上がりました。すると、鎖が手からぽろりと落ちました。第一、第二の衛所、最後は鉄の門もひとりでに開きました。ペテロは救い出されました。教会では、大勢の人たちが、朝まで熱心に祈っていました。神様は教会がペテロのために祈った祈りを聞いてくださったのです。ハレルヤ!

 もう1つこういうことを聞いたことがあります。ある宣教師が中国奥地のリズ部族に伝道にでかけました。リズ部族は悪霊にとりつかれて占いをするとても恐ろしい部族です。その宣教師は、いくらやっても失敗しました。サタンの攻撃があまりも強く、しまいに彼は気が狂ってしまいました。自分はもう神の子どもではないとまで思うようになり、自殺しようと決心しました。高い山にのぼり、断崖絶壁から飛び降りようとしたその時です。お母さんがひざまずいて祈っている姿が目の前に浮かびました。彼は正気に戻り、自殺を取りやめました。そして、お母さんに手紙を書きました。「お母さん。10人の人たちを集めて、リズ部族のために具体的に祈って下さい」。お母さんは、友人たちを集めて10人で息子の名前をあげ、リズ部族のために祈りました。不思議なことに、突然、何百人ものリズ部族が悔い改め、主に立ち返ったそうです。その宣教団体は、それから、10人の祈り手がいないと宣教師として出さないと決めたそうです。10人という数字は、アブラハムが「10人いたら滅ぼさないで下さい」と願った数であります。何か関係がありそうです。ユダヤの会堂では、10人集まらないと安息日礼拝をスタートできないそうです。

 安海宣教師の奥様がこの教会でお証しして下さったことがあります。奥様と子どもたちが、インドネシアの奥地を船に乗っていました。川を上るその船は、古いディーゼルの船でした。夜遅く、ある村に向っていましたが、その船から火が出て燃え上がりました。安海夫人と二人の子どもたちは川に投げ出されてしまいました。安海夫人は手探りで子どもたちをさがしましたが、近くにはいないようです。それどころじゃありません。自分の体が暗い川底にぶくぶくと沈んで行きました。ああ、もう死んじゃうかも。そのとき、教会の婦人たちが一生懸命祈っている姿が見えたそうです。不思議なように、また、体が水面まで浮き上がりました。彼女は、なんとか助かりました。子どもたち二人は、岸の方に引き上げられ、助け出されていました。ジャングルの奥地の川ですよ。しかも真っ暗な川に放り出されたんですよ。いやー。やっぱり、母教会の方々が祈ってくれていたんで助かったんですね。やっぱりとりなしの祈りは大事ですね。

イエス様はあるたとえ話をされました。ルカ13:6以降、「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。実を取りに来たが、何も見つからなかった。そこで、ぶどう園の番人に言った。『見なさい。三年もの間、やって来ては、このいちじくの実のなるのを待っているのに、なっていたためしがない。これを切り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか。』番人は答えて言った。『ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。』」いちじくの木とはイスラエルを象徴しています。神の子イエス様が直々やって来て。3年間も彼らに伝道しました。しかし、彼らは一向に悔い改めようとしません。そこで主人である神様は、「これを切り倒して、土地を有効に使いなさい」と言いました。すると、番人であるイエス様は「どうか、ことし一年待って下さい。木の周りを掘って、肥やしをやってみますから。もし、来年もだめなら、あなたが切り倒してください」と願っています。これがイエス様のとりなしです。私たちも滅ぼされなかったのは、イエス様の祈りがあったからではないでしょうか。

 聖書には私たちにためにとりなして祈って下さる方々がおられると書いてあいます。第一は主イエス・キリストです。イエス様は神様の右の座で、私たちのためにとりなしておられます。第二は聖霊様です。この方は私たちの内側にいて、言いようもないうめきをもってとりなしてくださっています。第三は祈りの心を持っている聖徒たちです。主は彼らに強い願いを与えて祈らせようとしています。主がアブラハムに知らせたように、これから行なおうとする主のご計画を示して下さいます。主は知らせるだけではありません。どうか、そのためにとりなして欲しいと願っているのです。主は聖徒たちの祈りを通して、この世に働きかけようと、ご自身を制限しておられるようです。この世は悪魔と人間の罪が支配しています。神様はAさんを救うために、悪魔と人間の罪も赦さなくてはなりません。それは、ご自身の義に反します。でも、聖徒たちが、贖い主イエスの名前でとりなしてくれるならば、合法的に御手を伸ばすことができるのです。神様はとりなしてくれる聖徒を捜し求めておられます。主が「このために祈れ!」と願いを与えてくれたならば、喜んで祈りたいと思います。アーメン。

  このサイトに記載されている内容について無断複製・改造・転載等の行為を禁じます
Copyright (C) 2003 Kameari Church. All Rights Reserved.