恵みによる歩み    ピリピ3:3-11        

2003/09/28 鈴木靖尋牧師
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 救いは恵みによって与えられます。クリスチャンになるために、聖書を全巻読まなければならないとか、犯した罪を全部悔い改めなければならないとか、そんな決まりはありません。人は信じるだけで救われます。なぜなら、神様からの私たちへの要求、つまり律法を、イエス様が代わりに成就して下さったからです。それでは、クリスチャンになってからは、どうなんでしょうか。今は改訂していますが、昔は洗礼準備会で、いくつか守るべきことを教えていました。聖書を読むこと、祈ること、礼拝に出席すること、献金すること、伝道すること、奉仕すること等です。私はそのようなことを勧めながら、詐欺まがいなことをしているんじゃないだろうかと悩みました。クリスチャンになる前は何もしなくても良いけれど、クリスチャンになったら何かしなければいけないのでしょうか。別の表現をしますと、「救いは恵みによって与えられるけれど、救われてからは人間の行ないが必要なのだろうか?」ということです。聖書を読むことや祈ること、礼拝に出席することは悪いことでありません。しかし、それらを「しなけれならないもの」と律法化してしまうと、おかしくなります。つまり、聖書を読み、祈り、礼拝に出ていれさえすればクリスチャンということになります。逆に、聖書を読んでいなかったり、教会に来なければ、クリスチャンでなくなっちゃうのでしょうか?そんなことはないですね。私たちは律法を守ることによってではなく、恵みによって救われました。救われた後はどうでしょうか?もちろん、救われたのちも律法ではなく、恵みによって歩むべきであります。

 もし、行ないに焦点を合わせて信仰生活をしていならなどうなるでしょうか。毎日5章聖書を読み、30分祈るということを決めたとします。すばらしいですね。でも、それを律法化してしまったなら、変質してしまいます。聖書を読むことだけに専念し、「ああ、やっと5章読んだぞ!次はお祈りだ。よし、30分祈るぞ。あれ、まだ5分しかたっていない。よし、もう少し。んん、辛いな。おお、やっと30分たった。はいおしまい」。聖書を読むには読んだけれど、心の中にみことばが1つも残りません。本来、このようなディボーションは神様との親しい交わりのはずです。しかし、義務的で、がんばって神様と交わっているという感じがします。しかし、眠くて聖書を読めなかった日はどうなるでしょうか。「ああ、自分はなんと弱いんだ」と悔い改めるかもしれません。それでは、神様は共にいらっしゃらないのでしょうか。そんなことはないですね。真面目な人は、神様の前に出ると、何か自分のいたらなさを示されて、自分の罪を悔い改め、再献身を誓います。その人にとって神様は、「まだ不十分だ!まだ足りない」と眉間にしわを寄せて怒っている神様かもしれません。こういう人は、聖め派の教会に多いように思えます。周りの人たちから、「信仰生活って苦しそうだなー。クリスチャンて、とても真面目そうだけれど、仲間に入りたくないなー」と思われてしまうでしょう。牧師や献身者にも、行ないに焦点をあわせている方が何人もいらっしゃいます。こういう方々の挨拶は「礼拝、何名集まっている?」とか、「昨年、何名洗礼を受けましたか」という数字に関することです。早天祈祷会、水曜祈祷会、弟子訓練会、特別伝道集会、コンサートなど、プログラムをこなすことに明け暮れています。こういう人たちは、何かしていないと不安になるんです。必死に、神様のためになんとか出来高をあげなくっちゃと頑張っています。頑張っているときには、神様はニコニコしているように見えます。しかし、うまくいっていないときは、神様は「歯がゆいなー。何やってるんだ!」と怒っているに見えてくる。

 どこかが間違っています。クリスチャンになったのは行ないではありませんでした。では、クリスチャンになってからはどうでしょうか?やっぱり行ないに焦点を合わせてはいけないのです。もちろん行ないも大切ですが、その前に、自分がどういうものとされているかということに焦点を合わせるべきなのです。分かりやすく言いますと、Doingではなく、Beingです。「行ないでなく、存在だ」ということです。イザヤ書43:4「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」。私たちは、キリストにあって、すばらしい価値が与えられているのです。神様を喜ばせるために、何かをしなければならないということなど1つもありません。これは、クリスチャンであっても、牧師であっても変わりません。まず、私たちが得なければならないのは、神様のもとにある安心感です。もし、行ないに焦点を合わせるなら、打ち沈みの激しいクリスチャンになります。私たちはキリストにあって何者になったかを先在意識の奥底まで入れ込む必要があります。クリスチャンとは罪が赦されただけの、元罪人ではありません。聖徒、セイントであります。実質はともかく、神様は私たちを聖徒として見てくださっているのです。また、私たちは罪が赦されただけの召使ではありません。神の子なのです。今は義とされ、プリンスもしくはプリンセスなのであります。ある王様がすべての売春婦を恩赦することにしました。もう法の裁きもうける必要も、これまでの前科もなくなります。その恩赦は素晴らしい福音であることは間違いありません。しかし、それだけでは彼女のライフスタイルを変える十分な動機とはなりません。しかし、恩赦に加えてその王様が彼女のところに来て、「結婚してくれ」と言ったらどうなるでしょうか。王妃となる新しいアイデンティティが売春婦をやめる動機となるのでしょう。

 神がご覧になっているように自分を見るということはとても大切です。みなさんは、毛虫が蝶になる過程をご存知だと思います。毛虫がさなぎになって蝶に生まれ変わるのです。蝶々は、いつも理想的な蝶々として行動しないかもしれません。蝶々である事を忘れて、昔の毛虫仲間と一緒になったりするかもしれません。しかし、真理は、もう二度と毛虫に戻らないと言うことです。キリストにある自分のアイデンティティを十分理解することが大切です。私たちは行ないに焦点に合わせるのではなく、神様との関係に焦点を合わせるべきなのです。自分が何者であることを知り、そして、神様と親しい交わりを築きあげるなら、それにふさわしい行ないが生まれてきます。人は、自分自身に対して抱いているイメージに従って行動するからです。召使は召使のように行動するでしょう。自分が神の子だということがわかったなら、神の子らしく行動するのです。聖書を読むことも、祈ることも、礼拝を守ることも、神様との交わりを深めるためにあるのです。聖書を読まなくても、伝道しなくても、神様は私たちを愛しています。不思議なことに、聖書を読むという律法から解放されますと、読みたくなるのです。もっと、神様との交わりを深めるため、聖書を読み、祈りたくなります。「伝道しなくては」と考えるとプレッシャーになります。でも、神様と共に生活していることをエンジョイしていると、自然と神様を証ししたくなるのです。どうぞ、信仰生活を行ないに焦点を合わせるのではなく、キリストにあって自分がどんな存在になっているのかお考えになってください。これが、恵みによる歩みの第一歩です。すべての義務はキリストがやってくれました。もう、1つでも何かができたら、もう大喜びです。このように恵みによって、歩むと、いろんなことができてくるのです。

 当教会では、牧師や役員会が「○○しなさい」とリーダーや教会員に命ずることは滅多にありません。「自分たちで決めたら、やったらいいんじゃないですか?」という自主選択性です。人間というものは不思議なもので、人から「ああしなさい」と言われると嫌なものです。会社でも強いられた残業は苦痛ですよね。しかし、自分が社長になったらどうでしょうか。自分で決めたことならば、夜遅くなろうとやります。同じように、聖書を読むことや祈ること、奉仕も、押し付けではありません。律法ではなく、恵みでなさって下さい。もっと、信仰生活が楽しくなり、もっと神様に近づきたいと思うでしょう。

2.肉ではなく、キリスト

 第二は肉ではなく、キリスト様により頼むということです。肉とは何でしょうか。私たちは自分の必要を満たすために、自分なりの方法を考え出します。これを聖書は肉と呼んでいます。そして、肉によって歩むことは、神の力により頼むのではなく、自分の能力に依存することです。やっかいなことに、肉とは憎むべき存在ではなく、むしろ魅力的で、時には霊的にさえ見えます。使徒パウロは、ピリピ3:3,4でこのように語っています。「神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。ただし、私は、人間的なものにおいても頼むところがあります。もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です」。「人間的なもの」と訳されている言葉は、原文ではサルクス「肉」という意味のギリシヤ語です。使徒パウロは、私はキリストを誇り、肉を頼ってはいないと言っています。しかし、5―8節において、「あなたがた以上に、肉を誇ることもできますよ。私はきっすいのユダヤ人で、律法による義についてなら非難されるところがない者だ」と言っています。おそらく、パウロは、身分、学識、真面目さ…人間的には申し分のない人だったでしょう。でも、パウロはそのような人間的なものの一切は損であり、ちりあくたと思っていると言っています。なぜでしょう。それらの肉がキリストにより頼むことを邪魔にさせるからです。

 生まれつき真面目で几帳面な人がいます。そういう人がクリスチャンになったらどうでしょうか。クリスチャンになっても、性質は、変わらないで受け継がれると思います。でも、その人が、キリスト様に頼らないで、自分の真面目さと几帳面さに頼るとどうなるでしょうか。まず、高慢になります。神様に頼らなくても、自分の力でやってゆけるという自負心があるからです。もっと悪いのは、自分よりも不真面目でだらしない人をさばくようになります。この人は不得意な分野は神様に頼るかもしれませんが、いざ、真面目さと几帳面さだけは、自分の力でやっているのです。このことは、生まれつき知識のある人や知恵のある人も同じです。中には、生まれつき指導力があって親分肌の人もいます。でも、そういう人たちがクリスチャンになって、知恵やリーダーシップが神様に用いられるかと言うとそうではありません。神様はそういう人間的なものを一度、砕いてしまうまで、ご自分のために用いるということはまずありません。ヨセフは知恵がありましたが、13年間、牢の中で試されました。モーセは40才のとき「俺がヘブル人を救ってやる」と自信満々でした。しかし、ミデヤンの荒野で砕かれ、80才になったとき、「私は一体何者でしょう」と言いました。ペテロも砕かれて後、立派な教会のリーダーになりました。使徒パウロもおそらくそうだったでしょう。Tコリント9:27でパウロはこのように語っています。「私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです」。私はホーリネスの神学校で、「失格者にならないために、一生懸命精進するように」と教えられました。しかし、パウロは、真面目に努力するように自分を打ち叩いたのではありません。おそらく、パウロは根っからの真面目で努力家でしたから、神様なしでもきっとやってゆけたでしょう。だから、パウロ自身、「福音の恵みからもれないように、自分の肉ではなく、キリストに頼るんだ」と言い聞かせたのではないかと思います。そして、パウロはこのピリピ3章の前半において、クリスチャンは肉により頼んではならないと教えているのであります。肉の同義語は自給自足です。私たちは自分で片付けてしまう癖がついてしまっています。多くのクリスチャンは、私たちが自分のことをきちんとすれば神が祝してくださると結論づけています。そうではありません、神のみこころはあらゆる状況でキリストに完全に依り頼むようになることです。

 それでは、私たちの知恵とか才能とか努力は不必要なのでしょうか?そういうことではありません。それらの力の源をどこに置くかなのです。それらの力の源が自分にあるか、神にあるかです。私たちは一旦、生まれつきの知恵とか才能、真面目さを十字架につける必要があります。そうです。悪いものだけではなく、良いものも、です。全部、十字架につけた後、神様が良し、とお認めになったものだけをお返し下さいます。主権は向こうにあります、自分ではありません。もしかしたら、戻ってくるものもあれば、戻って来ないものもあるでしょう。もちろん、神様は、新しい御霊の賜物も与えてくれるでしょう。クリスチャンになる前はまるっきしリーダーシップがなかったのに、霊的なリーダーシップが与えられる場合もあります。とにかく、それら全部を自分ではなく、神様に力の源を置くのです。才能、賜物、品性、それぞれ電化製品みたいにコードがついています。そのコードを自分自身にではなく、神様にプラグ・インするのです。神様に差込み、力の源を神様からいただくのです。そうしますと、いつも安定した力が得られます。「ああ、自分じゃとてもできないなー」というときも、向こうから流れてきます。うまくいけば、すべて神様のお陰、神様の栄光です。ハレルヤ!

神様は私たちが肉で何かをするようにとは、1つも要求していません。神様は私たちが助けなければならないほど弱いのでしょうか。神様には手足がないので、私たちの手足が必要なのでしょうか。神様は口がないので、私たちが語らなければならないのでしょうか。神様は貧乏なので、私たちが献金しなければならないのでしょうか。そんなことはありません。はっきり言って、私たちは肉で何かをするということから完全に解放されています。私たちの肉で、神様のために何1つしなくてもよいのです。私が神様のために一生懸命アップルパイを作ったとします。でも、神様がアップルパイを嫌いだったらどうでしょうか。神様のためにと、一生懸命やったことが無駄になるでしょう。神様が働きたい方法が1つだけあります。神様は私たちを通して、ご自身が働きたいのです。私たちが神様に通りよき管として、ささげるならば、神様ご自身がみ業をなして下さるのです。しかし、私たちが頑張って自分の力でやろうかなーと力んだ分だけ、神様の働きが阻害されることになります。

 中国のクリスチャンがすばらしいことを言いました。奉仕とは神様のために何かをすることではありません。そうではなく、神様が私たちをとおして何かをなさることなのです。同じことがいくらでも言えます。伝道とは私たちが神様について語ることではありません。そうではなく、神様が私たちを通して語ることなのです。隣人を愛するとは、私たちを通して神様が隣人を愛することなのです。癒しをするとは、私たちを通して神様が人々を癒すことなのです。ある意味では、神様は私たちを必要としています。人に水を与えるときに、コップが必要です。入れ物なしで水をあげたら、大変なことになります。私たちはコップです。水とは神様の働きと言えるでしょう。神様は入れ物がほしいのです。聖書で5つのパンと2匹の魚を持っている少年がいました。弟子たちは「男性だけでも5000人もいるのに、そんなもの何になるでしょうか?」と言いました。しかし、イエス様の手に握られ、祝福されたならば、大群衆を養うことができました。イエス様はわずかなもの、小さなものを用いて、人々の考えも及ばないことをしました。それは、今日も同じです。あなたが、自分の肉の力で、何かをしたら、一人が二人分くらいのことはやれるかもしれません。でも、5000人は無理でしょう。あなたはそれでも、自分の力と知恵により頼みますか?それよりも、イエス様に捧げて、どんなふうに神様が用いて下さるか試したらどうでしょうか。内田姉妹はクリスチャンになる前にどのくらい歌を習っていたか分かりません。習っていなかったのかもしれません。でも、救われて、神様に向ってゴスペルを歌ったらどうでしょう。不思議な影響力を与えます。すこーし、音程が狂っているときもあるかもしれませんが、そんなもんは関係なく、ものすごいパワーが発散されますね。ウッチーちゃんだけほめるとえこひいきなので、申し訳ありません。これまで中野兄弟が一生懸命ギターで賛美を導いてくれました。しかし、今は、賛美をリーダーする人が、5人以上もいますね。神様はいっきょに5人も与えて下さいました。神様は取るに足りないものをあえて用いるようです。じゃあ、努力や訓練は必要ではないのでしょうか?必要です。私たちは神様から用いられやすいように、自らを整えていだだく必要があります。主は陶器師です。私たちは土くれです。でも、尊いことに用いられる土くれです。

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