「神と共に歩む」  ヘブル11:4-6    

2003/08/17 鈴木靖尋牧師
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 5月から信仰生活のための特別なメッセージをお届けしていますが、今日は第13回目にあたります。ところで、信仰生活って一体何でしょうか。一口に言ったならば、神と共に歩むということであります。もちろん、神様は肉眼では見えませんので、「私と共にいるんだなー」という信仰がなければなりません。天国に行ったならば信仰はいりませんが、この地上では、必要不可欠な感覚です。ヘブル人への手紙11:6「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いて下さる方であることを、信じなければならないのです」と、書いてあります。この節から、2つのことを信じることが、神に喜ばれるということがわかります。第一は神がおられることであり、第二は神は神を求める者には報いて下さることを信じるということです。

1.神がおられることを信じる

 神がおられることを信じるとは、神様が存在していることを信じるということではありません。ヤコブ書2章に「悪霊どももそう信じて、身震いしている」と書かれているからです。人が「私は神様の存在を信じています」と言ったとしても安心してはいけません。悪霊どもでさえ、そんなことは信じています。でも、彼らは信じていても、神様にはちっとも従っていません。むしろ敵対しているでしょう。ですから、「神がおられることを信じる」とは、神が私と共におられることを信じるという意味なのです。表現を替えますと、それは「神と共に歩む」ということであります。ヘブル書11:5には神と共に歩んだ、エノクのことが称賛されています。「信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました」。

 創世記5章に、エノクのことがもう少し詳しく書かれています。「エノクは六十五年生きて、メトシェラを生んだ。エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ。そして、息子、娘たちを生んだ。エノクの一生は三百六十五年であった。エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった」。65歳で子どもが生まれた時に、何か転機あったのでしょうか。エノクは65歳から、300年間、神とともに歩みました。そして、365歳になったとき、彼は死んだのではなく、死を見ないで天に移されました。何故?神様からあまりにも愛されていたので、「もうこちらに帰って来なさい」と、招かれたわけです。他の人はエノクよりも3倍くらい地上で長生きしました。創世記5章を見ると、800年、900年がざらですね。でも、エノクは、365年です。クリスチャンが90歳まで生きるのと、36歳で生きるのと、どちらが祝福されているように見えるでしょう。エノクのように短いと、あまり祝されていないように思えるかもしれません。しかし、そうではなかったんですね。エノクは、死なないで天に移された人物です。そういう人が人類史上おるでしょうか?神の友アブラハムも死にました。神のしもべモーセも死にました。しかし、彼のように死なないで天に移された人物は、エリヤを除いて、エノクしかいません。

 何が神様をそんなに喜ばせたのでしょうか?「エノクは、神と共に歩んだ」からです。エノクは普通の人と同じ生活をしたでしょう。家庭を持ち、子育てもしました。仕事もしましたし、旅もしたかもしれません。でも、あらゆるときに神様を認め、神様と共に歩んだということです。新約聖書で言いますと、聖霊によって歩むということです。ガラテヤ5:16「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません」と、書いてあります。ガラテヤ書を見て分かるのですが、人間には2種類の生き方があります。肉に従って生きるか、あるいは御霊に従って生きるかです。肉の欲望を満足させるように生きるとどうしても「不品行、汚れ、好色、争い、憤り、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興…」そういうものに走ってしまいます。でも、御霊に導かれると「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」という実が実っていきます。そうです、御霊に導かれる人生は、神様に喜ばれる人生に変わっていくわけです。

 牧師といえども、聖霊を無視し、肉の欲望を満たすことに向かうととんでもないことになります。みなさんも夢を見ると思いますが、私の夢はちっとも信仰的ではありません。この間は、田舎の川のそばを歩いている夢を見ました。向こうで大きなライオンが木で爪をといでいました。ふっとふり返り、目線があって、私は必死に逃げるという夢でした。また、空を飛ぶ夢も時々見ます。しかし、少し飛ぶと、倉庫みたいな建物の天井にぶつかり、どの窓も開かないんです。そのため、広い空は飛べないのであります。私の夢には家内はほとんど出場しません。霊的に恵まれたという夢は皆無ですね。夢は潜在意識と関係があると聞いたことがありますが、私の中には信仰的なものはないということです。つまり、私が酒を飲んで、泥酔し、無意識状態で生きるとしたら、ただの肉の人であるということです。怒りたいときに怒り、綺麗なネーちゃんがいたら追いかけ、欲望のままに生きる…これが私の生きる道かもしれません。しかし、今こうやって、目が覚めているとき、どこかに信仰があるんだろうなーと思います。ジョン・ニュートンが高齢で死ぬ直前このように言ったそうです。「私は年老い、ほとんどのことは忘れたが2つのことだけは覚えています。第一は私が大きな罪人であったこと、第二は私の罪をイエス様が赦して下さったことです」と。

 もし、私に信仰がなければ、肉によって罪の中に生きるしかありません。しかし、主のあわれみによって、救われ、神様から信仰が与えられました。どの場所に聖霊様が宿っているかはわかりませんが、聖霊によって主が共におられることを信じます。ですから、目には見えねども、耳にも聞こえねども、手で触ることはできずとも、神と共に歩んでいきたいと思います。そのためには、聖書を読み、みことばに従うということです。その次に、神と交わり霊的に敏感になるということです。おそらく、聖霊に逆らっているときには、喜びや平安がなくなるでしょう。しかし、悔い改め、主の御声に従うとき、喜びと平安が戻ってくるでしょう。詩篇の記者は「主よ。あなたのおきての道を私に教えてください」と何度も祈り求めています。信仰生活は、一度、信じたからそれで安泰ということではありません。ですから、日々、一瞬一瞬、主の御声を尋ね求めるしかありません

 聖歌502は詩篇23篇を歌ったものです。折り返しの部分が大変すばらしい。「主の手にひかれて、いずくへなりとも、みむねのまにまに日々従いゆかなん」。羊飼いなるイエス様が手を引いて行って下さいます。つまり、私たちの信仰が不足しても、イエス様の信仰があるということです。イエス様は、ヨハネ14:18で、「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません」と、約束しておられます。ですから、信仰生活とは、イエス様の変わらない愛と真実をあてにして、付いて行けば良いのです。私は大丈夫でなくても、イエス様は大丈夫なのです。ハレルヤ!どうぞ、イエス様の御手に引かれて、歩んで行きましょう。

2.神を求める者には報いて下さる

ヘブル人への手紙11:6をもう一度お読みいたしましょう。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いて下さる方であることを、信じなければならないのです」。神に喜ばれる第二のことは、神様を求める者には報いて下さることを信じるということです。簡単に言いますと、神様に求めるなら、神様は必ず答えてくださるとという信仰を持つということです。神様はどんな人を喜ばれるでしょうか?道徳的で品行方正な人を喜ばれるでしょうか?神様はそういう人よりも、信仰をもってご自分に求める人を愛して下さいます。旧約聖書のヤコブという人物は「押しのける人」でした。父と兄を騙して、長男の権利を奪い取りました。人間的に兄のエサウはヤコブよりずっと良い人です。でも、信仰がありませんでした。ヤコブは恥も外聞も捨て、神様に一旦すがりついたら離さないスッポンみたいな人物です。だけど、神様はヤコブを選び、ヤコブからイスラエルの12部族が誕生したのです。アブラハムは信仰の父と言われていますが、聖書を読むと首をかしげたくなるところがいくつかあります。自分の身を守るために、自分の妻を妹と偽りました。それも1度だけではなく、2度も、です。ダビデはイスラエルの第二代目の王様でしたが、姦淫と殺人を犯しました。しかし、主はサウルよりもダビデを愛し、ダビデと永遠の契約を交わしました。新約聖書ではペテロという一番弟子がおります。彼はイエス様が裁判にかけられているとき、「私は彼を知らない」と3度も否みました。神様は、欠点や罪があるにも関わらず、信仰のある人を選ばれました。

イエス様のところには、いつも癒しを求めて大勢の人たちが押し寄せました。長血を患った女性は、イエス様から「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです」と称賛されました。大勢の人がイエス様にさわったのですが、信仰をもって触ったのは、長血を患った女性一人だったのです。また、バルテマイという盲人がおりますが、彼は「ダビデの子、イエスよ。私を哀れんでください!」と大声をあげて叫びました。人々が「うるさい黙れ!」と彼を制止しすると、もっと大きな声で「ダビデの子、イエスよ。私を哀れんでください!」と叫ぶではありませんか。彼は、イエス様のところに連れてこられ、「何をしてほしいのか?」と問われました。「目が見えるようになることです」。「あなたの信仰があなたを救ったのです」と言ったとたん、彼の目が見えるようになりました。ツロ・フェニキヤの女性も、ローマの百人隊長も、「あなたの信仰は見上げたもんだ」とほめられています。つまり、イエス様に信仰をもって近づいた人を、イエス様は手ぶらでお帰しにはなりませんでした。彼らの信仰は完璧な信仰ではなかったかもしれませんが、とにかくイエス様に必死に求めました。イエス様は「求めなさい。そうすれば与えられます」と約束されました。求めるということは、「神様はきっとかなえてくださる」ということを信じている人です。求めないということは、「神様にはそんな力はないし、きっと無理だよ」と、信用していない人です。大きなことを求める人は、神様は全知全能で、偉大なお方だと信じているからです。逆に、神様を小さく考えている人は、小さいことしか求めないでしょう。

神様は品行方性な人よりも、信仰をもって求める人の方が好きなようです。それは、私についても言えます。日本キリスト教団の牧師先生たちのほとんどは、高学歴で、品性もあり、人間的には申し分ありません。どの先生も常識があり、ジェントルマンです。しかし、残念ながら信仰がないんです。神様に貪欲に求めるということをしません。上品すぎるんです。イエス様の弟子たちは一体どういう人たちだったでしょうか。ほとんどが漁師、無学のただ人でした。しかし、現代の牧師たちの多くは、博士号を修得し、アカデミックになり、理性に訴えようとしています。しかし、信仰は理性以上のものです。不思議にも、神様は無きに等しい者をあえて用いようとされます。ハレルヤ!1階ロビーに新聞の切り抜きが貼ってあります。「覚醒剤、拒食と過食を越えて…ゴスペルによって伝道したい!」ウッチーの証しであります。ウッチーの賜物は音楽というよりも、大胆の賜物だようです。神様は、普通じゃない人をあえて用いるようであります。要は信仰であります。神様は信仰をもってご自分に近づいて来る者を喜ばれます。

「私には夢がある」とマルチンルーサー・キング牧師は言いました。私も少しだけ言わせてもらいますけれど、6、7年後、600名収容の新会堂が建てられるようにと祈っています。そして、引退の頃には2000名礼拝の教会になることを夢見ています。葛飾区と足立区には合計100万人くらいるのですから、1%でも1万人です。2%なら2万人です。1000名教会がいくつかあって当然ではないでしょうか。クリスチャンの新聞にタイの教会のこと書いてありました。タイのバンコクにある教会、ホープ・オブ・バンコクは1981年5名の礼拝からスタート、現在は、教会員1万名、求道者を含めると2万人近くが集まっており、クリスチャン人口1%の仏教国タイでは際立った存在。当時、タイでは最大の教会でも200人程度、P.ワグナー師は「タイの宣教は難しい」と報告したそうです。一方、ホープ・オブ・バンコクのビジョンは「2000年までにタイの685の主要都市に聖書的教会を建て上げること」であり、1997年には実現していた。スリサオング牧師は「信じていることを刈り取る」のが霊の法則であると、聖書的な幻を描き、行動し続けることの重要性を語ったということです。同師は教会が成長し続けるための7つの特徴として、@幻を抱き続ける、Aみ言葉を教え続ける、Bセルチャーチであり、交わりを重視する、C指導者養成型である、D伝道、宣教中心である、E祈り、礼拝し続ける、F聖霊に満たされ続けることを挙げました。そして、この中の1つだけ強調してもダメで、全部のバランスが大切だということです。

プロテスタントの宣教の父、ウィリアム・ケアリーのモットーは、「大いなる事を神より期待し、大いなる事を神のために企画する」でありました。彼は一介の信徒で靴屋でしたが、インド宣教を志しました。そのとき、ロンドン教会の指導者たちは、Young man sit down.と、彼をたしなめたそうです。18世紀末ですが、彼はインドへ出かけて行ったのであります。「大いなる事を神より期待し」とは、信仰の口を大きく開けよという意味ではないでしょうか。榎本保郎先生がよくおしゃいました。「100+無限大も無限代ならば、0+無限大も無限です」。中途半端にあるから神様に頼ろうとしないのです。全くなければ、もう、神様に頼るしかありません。個人個人、夢やビジョンを持つことも大切ですが、神様の事業に関して、同じビジョンを持ってそれを共有するということも大切です。受洗者が与えられても、「あ、そうでしたか」と他人事のように考えないように。教会の成長は我が家の喜び、教会の予算は我が家の責任、そこまで連結する必要があります。イエス様を愛する人は、イコール、教会も愛する人です。なぜなら、教会はイエス様の「御からだ」だからです。

きょうのみことばは、ヘブル人への手紙11:6です。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いて下さる方であることを、信じなければならないのです」。くれぐれもお忘れなきよう申し上げます。天国に行ける人は、正しい人ではありません。イエス様を信じる人、信仰を持った人が行けるのです。道徳的で正しい人は、「あんな悪い人でも天国へ行けるの?世の中、もっとすばらしい人がいるんじゃないの」と、批判じみたことを言います。私たちの神様の義しさ(義)とを比べますと、月の光と太陽の光くらい違います。人間の正しさでは、神様の義には到達することができないのです。英語の聖書には、short of the glory of God.「神の栄光に達しない」のであります。どうしたら良いんですか。義であるイエス様を信じれば、プラスされて神様の義に達するのです。

朝鮮動乱のときにこういうことがあったそうです。未信者のご主人は、クリスチャンの奥さんをいつも迫害していたそうです。日曜日はわざと教会に行けないようにする。何か気にくわないことがあると、ご主人は、奥さんを力いっぱい叩いたそうです。叩かれる度ごとに、奥さんは悲痛な声で「主よ。みもとに近づかん」を賛美したそうです。そして、朝鮮動乱時、そのご主人は北朝鮮兵として出兵しましたが、アメリカ軍に捕えられました。5人ほどの兵士が目隠しにされ、今や、銃殺されようとした時です。アメリカ軍の兵士が、この中にクリスチャンはおるか、もし、クリスチャンがおるなら釈放すると告げました。そのとき、例のご主人が助かりたい一心で、「はい」と言いました。「そうか。クリスチャンだったら、讃美歌くらいは知っているだろう。一曲歌ってみろ!」。そのとき、奥さんが歌っていた讃美歌を思い出しました。「主よ。みもとに近づかん。おいらはこの先わからない。だけども、どうしても助かりたい。ああ、神様、助かりたい、なんとか私を救ってよー」と賛美した。アメリカ兵は朝鮮語がわかりませんでしたので、「おお、確かにあの讃美歌だ」とうなずいて、彼を自由にしてやったそうです。彼は、その後、牧師になったということです。

これが、信仰です。私たちの正しさでは、神様の基準には全く到達できません。しかし、義なるイエス様をいただくならば、150センチの人も、190センチの人も問題ではありません。神様が喜ばれるのは、信仰があるかないかです。最も根本的な信仰は、その人がイエス様を信じているか、いないかです。父なる神様は、人類の最後の切り札として御子イエス様を十字架に与えました。その人の道徳性の善し悪し、あるいは行ないがどうのこうのが問題ではありません。私の御子イエスを受け入れているか、それとも拒んでいるかが最大の関心事なのです。なぜなら、道徳性や行ないは、救われた後、聖霊によっていくらでも与えられるからです。イエス様は「求めなさい。そうすれば与えられます」と約束されました。あなたにはいろんな夢やビジョンがあるかもしれません。残念ですが、求めたら、全部与えられるということは保証できません。しかし、1つだけ確実なことがあります。救いを求めるなら、罪赦されて天国に入ることはできるということだけは確かです。

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