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罪の赦しは、十字架の血潮によって与えられます。イエス様を信じたら、すべての罪が赦されます。しかし、私たちの内には、アダム以来の罪の性質が宿っています。これを原罪と言います。あるいはSAGA、性などとも言えるかもしれません。神様は私たちを罪の性質から解放するために2つのことをなして下さいました。1つは、共なる十字架によって、古い人を抹殺するということです。もう1つは、キリストの御霊、聖霊によって解放して下さるということです。
1.古い人の死
ガラテヤ2:19-20「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」。パウロは、「神に生きるために、律法に死んだ」と言っています。律法で代表的なものに、十戒の「偶像を拝むな」「安息日を守れ」「「父母を敬え」「殺すな」「姦淫するな」「盗むな」「偽証するな」「むさぼるな」などがあります。新約聖書には、「隣人を愛しなさい」「従いなさい」「仕えなさい」「祈りなさい」…けっこう辛くなりますよね。律法は全部正しいことばかりです。間違いはありません。でも、生まれつきの私たちには、それらを守る力もなければ、守りたいとも思いません。かえって、反発したくなるのです。みなさんは、子どものとき、「勉強しなさい」「部屋を片付けなさい」などと、親から言われたときはないでしょうか。そのとき、「うるさいなー。今やろうと思ったんだよ。言われたからもうやる気しない」などと反発したことはないでしょうか。親が、言っていることは正しいかもしれないけれど、素直に従えないのです。つまり、私たちは命令や戒めに逆らう法則、性があるのです。クリスチャンになるときは、律法を守ったので救われたのではありません。聖書には「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。行ないによるのではありません」と書いてあります。それでは、クリスチャンになった後、十戒をはじめとする、聖書の様々な戒めや命令にたいしてどのように対処したら良いのでしょうか。
実はクリスチャンになってホヤホヤのときというものは、けっこうぎこちないですね。「人には親切にしニャ−ならない」「聖書も読まニャ−ならない」「伝道もしニャ−ならない」…だんだん堅くなり、かえって変な具合になります。だんだん信仰生活が苦しくなり、喜びがなくなります。なぜでしょうか?原因は、あなたは昔の自分の力でやろうとしているからです。残念ですが、生まれつきの性質で、律法を守ることはできません。使徒パウロは「私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行する力がない。かえて、悪を行なってしまう。私は、ほんとうにみじめな人間です」と叫んでいます。それは辛くて悲しい発見ですが、すばらしい解決の始まりでもあります。
クリスチャンになってから、ぜひ、発見しなければならないことがあります。私たちが罪から解放されるためには、律法に死ぬことです。正確に言いますと、キリストとともに一度死ぬなら、律法に仕える必要はないということです。使徒パウロは、ローマ7章の前半で、律法を夫にたとえ、私たち人間を妻にたとえています。一つの興味深い例話があります。アメリカに一人の女性がおりました。彼女はとても人のいい、やさしい女性でしたが、ちょっとおっちょこちょいで、彼女のやることには少々抜けたところがありました。反対に、彼女のご主人は完全主義者で、とても几帳面な人でした。そんなご主人が仕事から帰って来ると、指でテーブルを拭いては、「おい、テーブルをちゃんと拭いたか?ここにほこりがついているぞ」とやり始めるのです。「あっ、あそこに小さなゴミが落ちている。お前の掃除の仕方といったら雑なんだから」と言います。食事を出すと「おい、このスープ、ちょっと塩がききすぎて辛いぞ」といちいちチェックがはいります。彼女はおおらかな人でしたが、やがて神経質になり、いつもビクビクしながら生活するようになっていきました。
ところで、彼女の家の隣に一人の男性が住んでいました。ある日、「奥さん、ちょっと芝生が伸びているようですね。私でよかったら、刈っておきますよ」と言って、その男の人は機械を持って来て庭の芝生を刈ってくれました。次は、私は掃除するのが大好きで、ついでにリビング・ルームの掃除もさせてもらえませんか」と言うのです。彼女は、しだいに私の夫もこんな人だったらいいのにと思い始めます。「隣の人と一緒にいると心が安らぐし、喜びを感じるのだけれど、夫といると、自分の過ちやいたらなさばかりを指摘されて、自己嫌悪に陥ってしまう。ああ、この隣の人といると、何と心地がいいのだろう。自分が自分らしくいられる」。そう彼女は感じはじめたのです。本当は夫と離婚したいけれど、クリスチャンだから離婚なんて到底考えられない。離婚の訴訟を起こしたとしても、悪いのは自分の方で夫には何の非もないのだから認めてもらえない。どうしたらいいかと悩んだ末、そうだ、夫が死んじゃえばいいんだということに彼女は気がつきました。夫が死んじゃえば、私は隣の人と結婚できる、と。しかし、よく考えてみると、夫はすごく健康で、風邪一つひかない人でした。結局、彼女はどうしたらいいかわかりませんでした。結局、彼女はどうしたらいいかわかりませんでした。
この夫こそ、律法の象徴です。律法も道徳的な完全を要求するのです。私たちも、律法の要求を満たすことはできません。また、夫が頑丈なからだを持ち、健康そのものであったように、律法も健全で、いつの時代も揺るがされない強さを持っています。律法が死んでなくなることなど期待できません。残された唯一の道は、妻である彼女が死ぬことです。妻が死ねば、夫である律法から切り離され、解放されるのです。しかし、実際、自分が死んでしまったなら、それですべてが終わって、死人には再婚などできません。しかし、ここでパウロが言っているのは、私たちはキリストとともに死に、キリストとともに葬られ、キリストとともによみがえることによって可能だということです。聖書は、私たちの古い人は既に死んでしまったのであり、今はキリストによって、生かされ、キリストという夫もともに新しく生活しているのだと言っています。律法そのものは、今でも存在します。しかし、あなたと一切、関係がないのです。律法はあなたの近くに存在して、親や友達、時には牧師の声を通して、あなたと再びかかわりを持とうとするかもしれません。そんなとき、あなたは以前の夫にひとこと言ってやればいいのです。「私はあなたに対して死んだのです。私たちは離婚しました。あなたは私にもう何の拘束力も持っていないのです」。
新しい夫であるイエス様は、私たちのすべてをよくご存知の上で、結婚生活に入って下さいました。新しい関係には、安らぎがあります。妻としての仕事はありますが、夫は無理なことを要求しないどころか、かえって喜びを感じて夫に尽すことができます。彼の与える仕事は荷が軽く、楽しいからです。たまに失敗して落胆していると、「さあ、一緒にやってみよう。私が助けてあげるから、きっとそのうち上手になるよ」と言って、妻を励ましてくれます。しかし、多くのクリスチャンは、意識の上で二重結婚の状態にあります。律法との離婚が成立したことをまだ知らないのです。そのため、律法とキリストの二重契約関係を結んでいるかのように感じています。せっかく新しい夫であるキリストとの生活を楽しめるはずのあなたは、古い夫である律法と共同生活をしているのです。以上の内容は、平野耕一先生が、「これだけは知ってもらいたい」という本からの引用でした。聖書の中には数限りない戒めとか命令、義務…いわゆる律法にあふれています。しかし、律法は罪意識を与えるだけで、実際、あなたを助けてはくれません。非情な彼との結婚生活によって、あなたはボロボロになっていたのです。しかし、一度、死んで、キリストと結ばれるならば、もう律法から解放されます。キリスト様と、一緒に生活するならば、自然と律法が守れるようになります。イエス様を信じた人は、もう、律法を守ることによって、神様に気に入られる必要はないのです。なぜなら、イエス様が代わりに全部満たしてくださったからです。ハレルヤ!
クリスチャンはバプテスマ(洗礼)を受けました。バプテスマとはどっぷり浸ることです。ここに聖書と名刺があります。聖書をキリスト、名刺をあなたとします。まず、キリストにつくバプテスマは、その死にあずかるバプテスマを受けました。私たちはキリストという聖書の中に入れられたので、キリストが死んだときあなたも死にました。あなたはキリストとともに葬られたのです。そして、キリストは三日目によみがえりました。すると当然、キリストの中にあったあなたも一緒によみがえったのです。そのときに不思議なことが起こりました。古いあなたはキリストとともに十字架につけられて、死んだのです。あなたは自分を十字架につけて殺す必要はありません。あなたは死んでいる。ローマ6:6に「罪のからだが滅びたことを認めなさい」と書いてあります。何に対して死んだのですか?律法に対してです。あなたは律法に仕える必要はないのです。次に、キリストがよみがえりました。キリストがよみがえったとき、中にいたあなたもよみがえったのです。ハレルヤ!新しいあなたの主人は、律法ではなく、イエス様です。これからは、イエス様と一緒に生活するのです。古い人の死と生まれ変わりは、イエス様を信じたときに起こったのですが、多くの人の場合、あとから経験します。聖書は、「あなたは既に死んでいる」とおっしゃるのですから、「ああ、そうですか、認めます」と言えば良いのです。一度死んだ人の特権は、自分の力で律法を守る必要はないということです。ローマ8:8「肉にある者は神を喜ばせることができません」と、書いてあります。簡単に言うと、イエス様がすべての要求を満たしたので、私たちの肉の力で、神様を喜ばせる必要などないのです。私たちが主に立ち返った時、すでに、神様は喜んでいるのです。私たちはすべての律法を自分の力で守り行なう責任はないということを心から喜びましょう。神様がそのことを私たちにも要求していないことを喜びましょう。私たちは生まれてこのかた、あまりにも多くの、きまり、きまり、きまりで生きてきました。「廊下を走るな」「課題を提出しなさい」「人に迷惑かけるな」…。クリスチャンになって、さらに数々の戒めを背負わされるのでしょうか?そうではありません。
「しかし私は、神に生きるために、律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」。あなたは一度、死を経験すると、こんどはキリストによって生きることを学びます。キリストのうちに落ちると、キリストとともに生きることができるのです。
2.キリストにあって生きる
ガラテヤ2:20をお読み致します。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです」。神様は私たちを解放するため、もう1つのことをさなって下さいました。それは「キリストが聖霊によって私のうちに生きておられる」ということです。うちにおられる聖霊が、私たちが罪に陥らないように、守り導いて下さるということです。しかし、私たちの側にはなすべきことがあります。それは、キリストに献身し、キリストに信頼して生きるということです。そうしますと、聖霊が自由に働かれ、あなたは罪と死の法則から解放されて生きることができるのです。前のポイントで学びましたが、律法という夫と別れられた後は、イエス様というすばらしい夫と一緒に生活するのです。
統一教会という反社会的でとても危険な宗教があります。彼らは珍味売りとか壷を売って、本部に一生懸命ささげます。一人ではなく、苦楽を共にする仲間がいます。バンに目ざし状態で寝泊りすることがよくあるそうです。しかし、親戚と牧師が、彼らを救出にかかります。ホテルかどこかに軟禁して、洗脳を解きます。いままで一生懸命信じてやって来たことが嘘だとわかると、放心状態、空っぽになります。そのままの状態で、放っておきますと、淋しくなり、また統一教会に戻ってしまうそうです。つまり、命がけで信じて来たに、それが嘘だった。それじゃ、本当に命を賭けるものがあるのか。「あるんです。あなたは偽者に仕えて来ましたが、本当に命を賭けることのできるメシヤがいるのです。これからは、イエス・キリストに献身しましょう」と、勧める。彼らが、新しい使命と、本当の仲間を持つなら、二度と戻らないそうです。献身というのは必ずしも牧師とか伝道者となるということではありません。キリストを第一にして生きるということです。そういう意味では、すべてのクリスチャンは献身しなければなりません。
使徒パウロは、それまでは律法に仕えてきました。しかし、こんどは律法に死んで、「私を愛し私のためにご自身をお捨になった神の御子を信じる信仰によって」生きようとしました。かつて救われる前は、自分の欲を満たすために生きてきました。しかし、その行きつく先は、死であり滅びでした。しかし、イエス様が命を賭けて私をあがなってくださったのです。だから、こんどは、キリストを主人として、神様の栄光のために、生きるのです。私たちは「解放された」と言いますが、それは全く自由奔放に生きるということではありません。キリストをご主人として、キリストとともに生きるべきです。そういう信仰によって生きるとき、本当の自由と喜びを満喫できるのです。私たちは、道路をタクシーが走っているのをよく見かけます。空車のタクシーはお客さんをさがしているので、フラフラ走っています。そういうタクシーの真後ろを走るのはとても危険です。しかし、タクシーが一旦お客さんを乗せたらどうなるでしょうか。告げられた行き先に向って、まっしぐらに走るでしょう。私たちもキリストのない人生は、フラフラ、フラフラしています。しかし、キリスト様をお乗せすると、人生の意義と目的が与えられるのです。同じクリスチャンでも、キリストをお乗せしている人とそうでない人とは、目つきが違います。世の楽しみばかり追いかけ、時間を無駄に使っています。しかし、キリストに献身しているクリスチャンは、朽ちないパンのため働き、神様からの栄誉を得るために走ります。
最後に、「キリストにあって生きる」ということを3つにまとめたいと思います。
@第一は、キリスト中心で生きるということです。自分の心のセンターにキリストをすえるということです。私たちは大きいことから、些細なことまで決断しながら生きています。私たちは周辺的なことに、目を奪われて、ゴールを見失う時があります。そのため、脇道にそれたり、ぬかるみにはまったりするのです。そうではなく、キリストを中心にすえて、ものごとを選択するということです。これこそ、勝利の秘訣です。
A第二は、キリストを源として生きるということです。自分の知恵とか力に頼らないで、キリストの知恵と力により頼むということです。今の時代は、キリストの御霊、聖霊が必要な力を与えてくれます。肉の力では律法は全うどころか、かえって変になります。御霊によって歩んでいくと、自然と律法が全うされていくのです。御霊があなたを罪から解放し、神様に従うことのできる力を与えてくださるのです。
B第三は、新しい自己認識で生きるということです。私たちクリスチャンは罪が赦されただけではありません。ローマ4:25「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえらされたからです」。罪の赦しを与えられただけなら、±0です。しかし、キリストがよみがえったゆえに、私たちに神の義が与えられました。義とは罪の赦し以上のものです。プラス・プラスです。私たちは赦されただけの罪人ではないのです。キリストにあって、義人であり、聖徒、神の子、王子・王女なのです。ハレルヤ!「罪を犯さないように、犯さないように」とビクビクしていたら、罪のわだちに誘い込まれてしまします。そうではなく、「私は義人なので、罪は私にふさわしくない。義とされた私にふさわしいものは、義であり真理で決まっている。たとえ罪や失敗を犯しても、それは私に相応しくはない。私に相応しいのは、成功であり、勝利であり、祝福なのだ。アーメン」。これが、キリストにあって生きることです。
あなたはもう呪いの中に生きる必要はありません。キリストがよみがえられたので、祝福の中に移されたのです。あなたはもう病気と死の中で生きる必要はありません。キリストがよみがえられたので、命の中に移されているのです。あなたはもう失望落胆の中に生きる必要はありません。キリストがよみがえられたので、信仰・希望・愛の中に移されているのです。今までの古いあなたは死にました。生きているのは新しく生まれ変わったあなたです。そして、私たちのうちにはよみがえられたキリストが聖霊によって住んでいて下さるのです。キリスト中心で、キリストにささげた信仰生活を送りましょう。
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