|
信仰生活は聖霊の助けなしには継続させることはできません。私たちの頑張りや、意志の力だけでは、罪や誘惑に打ち勝つこともできないばかりか、奉仕も成し遂げることはできません。私は高校のとき、バイクに乗ったことがあります。ガソリンが入っている限り、バイクはスイスイ走ります。あれほど便利なものはありません。しかし、旅先で、ガス欠になったバイクはどうしょうもありません。手ぶらで歩いた方が楽です。捨てる訳にもいかないので、ガソリンスタンドまで押すしかありません。聖霊のない信仰生活は、ガス欠のバイクを押しているようなものです。どうぞ、この礼拝で聖霊様を発見しましょう。聖霊様を満タンにしてもらいましょう。
1.聖霊とはだれか
イエス様はこの地上を去る前、弟子たちに「父はもうひとりの助け主を与える」と約束されました。彼らにとって、「助け主」とは、イエス・キリスト様のことであります。イエス様は神様が与えて下さった最初の助け主であります。神様は、さらに「もうひとりの助け主」をお与えになるとおっしゃるのです。「助け主」とはどういう意味でしょうか。ある英語の聖書には、文字通り
Helperとなっていますが、ヘルパーでは淋しい感じがします。ギリシア語はパレクレートスであり、「援助者として呼ばれたる者、弁護人、慰め主」という意味があります。簡単に言いますと、聖霊は、イエス様の次に与えられた、イエス様と同じような助け主ということになります。アメリカ人は、安全で快適な暮らしをするために、良い弁護士と医者とそしてカウンセラーが必要であると聞いたことがあります。しかし、私たちは聖霊様という、ベストな弁護士、癒し主、カウンセラーが共にいらっしゃることを感謝したいと思います。
イエス様は、「一度、見えなくなるけれど、また戻って来る」とヨハネ14:18,19でおっしゃっています。これは死んだ後、3日目によみがえるということです。しかし、20節は、もっと先のことをおっしゃっているようです。「その日には、私が父におり、あなたがたが私におり、私があなたがたにおることが、あなたがたにわかります」。「私が父におり」とはおそらく、昇天後でのことでしょう。そして、「私があなたがたにおる」とは、聖霊によってイエス様が私たちの内に住んで下さるということではないでしょうか。そのことをもっとはっきり言っている個所は、ヨハネ16:7です。「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします」。
ここからもわかりますが、イエス様が昇天した後、イエス様が父のみもとから、助け主聖霊を遣わすということです。イエス様が聖霊とバトンタッチして、こんどは聖霊がこちらの方に来られるということです。ここで奇妙に思えることは、イエス様は「私が去って行くことは、あなたがたにとって益である」とおっしゃったことです。イエス様がいなくなったら、淋しいじゃないですか?しかし、そうではありません。イエス様が肉体をとっている間は、エルサレムにいたらガリラヤにはおられません。ガリラヤにいたら、エルサレムにはおられないということです。肉体を持っているならば当然、場所と時間に制限されることになります。ところが、聖霊によって来るならば、場所にも時間に制限されません。一度に、みんなの所に行くことができます。肉体のままだったなら、側に共にいることができても、内にはおられません。しかし、聖霊というお姿を取るならば、共に、そして内に住むことができます。ヨハネ14:17後半に、「その方はあなたがたとともに住み、あなたがたの内におられるからです」と書いてあります。
イエス様と同じお方が、私たちの内に住んで下さるのです。使徒パウロは、コロサイ1:27で「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです」と言いました。つまり、イエス様が聖霊によって、私の内にお住みになっておられる、これは奥義、ミステリィーなのであります。旧約時代は、神の霊が人の内にとどまるというのはあまりありませんでした。エジプトに売られたヨセフはパロの夢を解き明かすことができました。サムソンは聖霊が降ったとき素手でライオンを倒しました。他、イスラエルの王ダビデ、ソロモン、それから預言者エリヤ、エリシャ、イザヤ、エレミヤ、ダニエルなどに聖霊が宿りました。彼らは神の霊によって、知恵や力、預言を得、力あるわざを行なうことができました。弟子たちもイエス様と一緒にいた3年半は、ほんとうにただの人でした。しかし、ペンテコステの日、聖霊が注がれてから、本当に別人のようになりました。大胆にメッセージを語り、イエス様と同じような奇跡も行ないました。それらは、みんな聖霊のなせるわざです。そのことは、ヨハネ14:12でイエス様があらかじめ約束しておられたとおりです。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです」。つまり、イエス様が天の父のもとに行き、ご自身の代わりに聖霊をお下しになることによって、その働きが格段に広げられたということです。
私たちクリスチャンが、聖霊様の内住によって、イエス様の働きを担うということが神様のみこころだと知るなら、ボーっとしてはおられなくなるでしょう。私も5月末に、中嶋先生が来られたときに、癒しの賜物が与えられました。先生は「癒しは賜物じゃなくて、クリスチャンだったら、だれにも与えられますよ」とおっしゃいました。ある者たちは、文字通りアーメンと信じたわけです。するとどうでしょうか。「イエスの御名と聖霊の力によって・・・」と患部に命ずると、癒しが起こるのであります。私はそれ以来、背骨や腰の曲っている人、足の長さが違う人、足のきかない人などを見ると、祈って差し上げたいなーと心から思います。しかし、スパーとか通りを歩いている人に、なかなかできないですよね。へんだと思われるかもしれないでしょう。チャンスを逸すると、罪責感にとらわれます。私たちは内におられるイエス様が、働きたいと願っているのに、私たちがそれをとどめてしまったら申し訳ありません。「イエス様がそうしなさい!」と促したならば、即座に行なうべきであります。
聖霊様はだれか?聖霊様は力でもエネルギーあるいは物でもありません。聖霊は人格を持っています。もっとも、人格は人の格と書きますので不十分ですが、感情、意志、知性をお持ちであります。だから、悲しんだり、喜んだり、命じたりします。あるときはお消えになるときもあります。おそらく、無視されたり、拒絶されたりするとお働きをおやめになるのかもしれません。教会においても、聖霊様が気持ちよくて働きやすいところもあるでしょう。しかし、反対に、ここじゃ働けないなー、消え去りたいなーという教会もあるでしょう。だから、私たちの役目は、聖霊様を認め、聖霊様を歓迎し、聖霊様に従うことであります。もし、私たちが「自分の知恵と力でやるから結構です、構わないでくれ!」と言ったら、聖霊様は手を引きます。反対に、「聖霊様、どうぞあなたの知恵とあなたの力をお与え下さい。私はただあなたに従います」と願うなら、聖霊様はどんどん、すばらしいわざをなして下さいます。
先週の金曜日、大和の大川先生からお電話がありました。聖霊刷新の記事をお読みになったということでした。「最近どうかね?」と、聞かれたので、「癒しも次々と起きて楽しいです」。先生が「あの教会はどうかね?」と聞かれるので、「あの教会は今、停滞しています」。大川先生は、「あのような学者で品もあるのに・・・」。私は「献金を集めすぎるんじゃないですか」。大川先生は、「あの先生はどういう先生なの」。私は「あの先生は、仙人みたいな先生ですよ。癒しもやりますけど、教会は小さいです」。「それから、最近、○○教会からうちへ何名かの信徒が来られていますよ」・・・電話を切った後、急に具合が悪くなりました。私自身、ちょっと最近、教会が恵まれているからと言って、高慢になったんじゃないだろうか。あの教会、この教会、あの先生と評論家みたいに裁いたけれどずいぶん偉くなったもんだなーというイヤーな思いになりました。きっと、聖霊様を憂えさせていることが原因じゃないかと分かりました。私は早速、悔い改めました。大切なのは、へりくだりであります。ちょっと、教会が大きくなれば高慢になる。ちょっと、いやしが起こると調子に乗り、ちょっと、新聞に載ると自慢したくなります。これではいけません。聖霊様の好まれる教会、聖霊様が好まれる家庭を作りたいと思います。みなさん、聖霊様はご人格を持っていらっしゃいます。聖霊様が喜んで、ご自身のみわざをなさりたいなーと思うような環境を雰囲気を作りましょう。
2.真理の御霊
ヨハネ14章から16章にかけて、聖霊の特別な働きが記されています。聖霊も神様ですから、全能なるお方です。しかし、聖霊がこの地上に来られたら、「このことを第一にしますよ」ということがヨハネ福音書に記されています。それは、真理の御霊として来られるということです。それではどんな真理を示されるのでしょうか。ヨハネ14:26には、「あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます」と書かれています。つまり、イエス様の教えを理解させてくださるということです。ヨハネ16:13「しかし、その方が、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます」と書かれています。イエス様は弟子たちにもっと話したかったのですが、彼らにはそれに耐える力がありませんでした。みんな、頭からあふれちゃって、わずかなものしか残らなかったのかもしれません。しかし、真理の御霊がイエス様から受けて、さらに多くのことを弟子たちやクリスチャンたちに知らせて下さるということです。ペンテコステの日、聖霊が注がれると、弟子たちは聖書の意味、イエス様が語られた意味が突然、分かりました。使徒の働き2章をみますと、ペテロの大説教が記されています。彼は、もと漁師であり、律法を専門に学んだわけではありません。しかし、ヨエル書、詩篇からみことばを引用して、キリストの復活と聖霊が注がれた理由を話しました。最後には、「このイエスをあなたがたが十字架につけたのです。悔い改めなさい」と言ったら、一遍で3000人の人が信じてバプテスマを受けました。律法学者や長老たちは、彼らが無学な、普通の人であることを知って驚きました。
それは、今日の私たちにも同じことです。聖書を読みますと、真理の御霊なる聖霊が、その意味を教えて下さるのです。クリスチャンになる前は、聖書はちんぷんかんぷんで、すぐ眠くなった。しかし、ある時から、聖書のみことばが浮き出してくるように、分かって来たという経験はないでしょうか。私も昔はたくさんの注解書を並べて説教を準備しました。しかし、知識が増すと、恐れもやって来てきます。話しても自信がないのは、借り物の説教だったからです。しかし、聖霊様を信頼し、みことばを読んで黙想しますと、あぶり出しのようにメッセージが浮かび上がってきます。ある時から本当に、メッセージを準備するのに、お産のような苦しみはしなくなりました。もちろん、本を読むことや、日々の学びは大切ですが、メッセージの核というか、エッセンスは聖霊が与えてくださいます。みなさんも、ディボーションのとき、聖書の著者ご自身が傍らで教えて下さることを期待してください。すばらしい聖書の家庭教師があなたと共にいらっしゃるのです。アーメン。
もう1つ真理の御霊として私たちに働かれる出来事があります。ヨハネ15:26「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします」。また、ヨハネ16:14「御霊はわたしの栄光を現わします」と書いてあります。つまり、聖霊は、救い主イエス・キリストがどんなお方か、お示し下さるということです。さらには、聖霊は、キリストの栄光を現わして下さいます。つまり、聖霊のお役目は、聖霊自身を示すというよりも、子なる神、イエス・キリストを指し示すということなのです。なんと、ご謙遜なお方でありましょうか。ある先生たちは、「聖霊、聖霊と強調しない方が良い」と警告じみたことを言います。しかし、本当は、聖霊を強調すればするほど、イエス・キリストがもっともっと現わされてくるということです。なぜなら、聖霊はイエスの御霊とも呼ばれているからです。私たちは聖霊を体験すると、「ああ、イエス様はすばらしい。イエス様が私と共にいらっしゃる。ハレルヤ!感謝します!」と主をあがめるようになるのです。5月末に中嶋先生をお呼びして、3日間、「癒しの実践とセミナー」の時を持ちました。そのとき、多くの方々が、癒しとともに、聖霊様の働きを体験しました。どうでしょうか、体験された方は、イエス様が私と共におられるということを深く、そして強く体験され感動したのではないでしょうか。聖霊様とイエス様はイコールなのです。イエス様が私のところに来られている、すなわち聖霊様なのです。聖霊様と一緒に生活する、すなわちイエス様と一緒に生活することなのです。これが一番、恵まれた信仰生活を送る秘訣であります。アーメン。
しかし、みなさん1つ警告しなければならないことがあります。ヨハネはTヨハネ4章で警告しています。「愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです」(Tヨハネ4:1-3)。この世には、偽キリスト、偽預言者がたくさんおります。霊とか御霊、精霊いうことを他の宗教でもいうところがあります。霊だからといって、みな信じてはいけないのです。その霊が、イエス・キリストを告白するかどうかです。イエス・キリストの栄光を指し示すかどうかが問題です。宇宙の大霊だとか、教祖の名前が出たりする場合は要注意です。この世には、そういう偽物、あるいはキリストの栄光を横取りする悪霊がたくさんいるからです。神からの霊、聖霊は、イエス・キリストを証しするのです。どうぞ、ここを間違えないように、注意していただきたいと思います。
今日は、聖霊についてお話させていただきました。しかし、クリスチャンの中にも、霊的なことに関して、抵抗があるという方がたまにいらっしゃいます。私の尊敬する伝道者で、申賢均牧師がいらっしゃいます。先生がある教会の聖会に招かれましたが、按手とか癒しの祈りはしないでくれと一人の役員さんが条件をつけたそうです。申先生は、「その人は霊痴だなー」とすぐ見破ったそうです。歌に音痴があるように、霊的なことを良く分からない人を霊痴と言うわけです。その役員さんは、薬局を経営していました。あるとき、聖会に行く教会から電話がありました。例の役員さんが、腹痛と下痢でえらいことになっているので、ぜひ、お祈りに来ていただきたいというのです。申先生は「しめた!」と思ったそうです。早速、その教会の牧師と2人で訪問しました。「兄弟いかがされましたか?」「はい、下痢がとまらなくて、10分毎にトイレに駆け込む始末です」。「お宅は、薬局屋さんでしょう。効く薬があるんじゃないの?」「いや。どの薬もダメなんです」。話している途中も、トイレに駆け込んで、また戻ってきました。「兄弟。それでは、お祈りしましょう。ただ、祈る方が良いですか。それとも、按手して祈りましょうか」。「・・・はい。按手の方でお願いします」。「わかりました」。申先生は兄弟のお腹に手を起き「主イエスの御名によって、腹痛よ去れ!下痢よ止まりなさい」。ついでに、頭にも手を起き、「聖霊に満たされよ」と祈った。すると、下痢がピタッと止まり、すっかりよくなった。やがて、その教会の聖会が訪れました。聖会後、その兄弟は真っ先に申先生から按手を受け、祝福をいただきした。次の日の早天祈祷会でも大勢集まり、暗い中でしたが、按手の祈りをしました。また、その兄弟が按手を求めてきました。大勢の人たちを按手していますが、あれ?と思ったら、またその兄弟の頭がありました。その兄弟は頭が禿ていらっしゃるのですぐわかりました。で、また続けて祈っていると、また兄弟の禿頭があるではありませんか!よく、見ると、彼は一度按手を受けると、先生の先回りして、待っている。3度も、4度も按手を受けまくったわけです。その兄弟は、一度、申先生の按手を受けて、聖霊の体験をされ、按手のフアンになったわけです。
聖霊はこのように、メッセージを聞いただけでは、わからないところがあります。ときには、牧師からお祈りをしてもらうと、結構早く、聖霊充満の体験をすることができます。私もクリスチャンになりたての頃は、集会のときはいつでも、前に出て貪欲に求めたものです。「求めなさい。そうすれば与えられます。天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう」(ルカ11:13)。
|