「罪の結果からの救い」  ローマ5:19-21

2003/06/08 鈴木 靖尋牧師
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 日本は罪というよりも、恥の文化だと言われています。また、加害者というよりも、被害者意識が強いとも言われています。しかし、どういう文化であろうと、罪の問題を避けて救いを語る事は出来ません。なぜなら、日本人が意識しようと、しまいと、罪とその結果が人類全体に働いているからです。たとえば、日本人でも生まれた限りは、死はやってきます。病室には4号室というのはありません。ある病院は4階がなく、3階の次の階が5階になっていました。そんなふうにしても、死はやってくるのです。なぜなら、死はアダムが罪を犯した結果だからです。

1.罪のはじまり

 ローマ5:12「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死がはり、こうして死が全人類に広がった」と書かれています。17節にも「もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようなった」、18節「こういうわけで、ちょうど1つの違反によってすべての人が罪に定められた」、19節「すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされた」と同じようなことが繰り返し書かれています。ひとりの人とはだれでしょうか?それは人類の先祖、最初の人、アダムであります。アダムが罪を犯したので、人類全体に罪と死が入り込んできたのです。それはまるで、放射能汚染のように、遺伝子が狂ってしまったのです。また、川の上流で、だれかが毒を入れたので、川下に住む人たち全部がその毒の被害を受けているのと同じです。戦前、群馬県の山から鉱毒が流れ、佐野市一体の住民が被害にあいました。日本はちょうど富国強兵の時代だったので、公害問題なんて眼中になかったのであります。それと同じで、今なお、罪の毒によって、アメリカ人であろうと、日本人であろうと、同じ被害にあっているのです。それでは、一番悪い、アダムのことを創世記から少しだけお話します。

 創世記2章3章をみますと、主なる神は、園の中央にいのちの木と、それから善悪の知識の木とを生えさせたと書かれています。主はアダムに「あなたは園のどの木からも思いのまま食べて良い。しかし、善悪の知識の木から取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ」と言われました。『漢字に秘められた聖書物語』と言う本があります。禁止と「禁」は2本の木が上にあり、下に示すという字になっています。示すという字は「神を」を表わすそうです。だから、神がエデンの園の中央にあった二つの木に対して命令したことが連想されると解説していました。ところで、裸という字があります。アダムとエバが食べてはならない木から取って食べてしまったとき、自分たちが裸であることを知りました。裸は、衣辺に果実と書きます。二人は神に背いたために、エデンの園から追い出されることになりました。園という字の外側の囲いがなくなり、歩かされたわけです。園―口+しんにょうで、遠いという文字になります。その時から、人間は神から遠ざかったままでさまよってということです。

園の中央の木は、神の主権をあらわわしていました。その木から取って食べるということは、神の主権を犯す、自ら善悪を判断する神になるということなのです。その結果、人類に罪と死とのろいが入ることになったのです。創世記3:16以降にはいくつかの罪の結果が銘記されています。女性には産みの苦しみが与えられ、さらに夫との間に軋轢が生じるようになりました。男性は、土地がのろわれたので苦しんで食を得なければならなくなりました。労働の苦しみです。土地にはいばらとあざみが生えてしまいましたが、これは呪いを象徴しています。さらに、人は土に帰る、つまり死が入り込みました。裸は自分の恥を象徴しますが、最初はいちじくの木の葉で隠しました。しかし、神様はアダムとその妻のために、皮の衣を作って、彼らに着せてあげました。エデンの園ではじめて動物が殺され、血を流したということです。これは将来、イエス・キリストの贖いによる、義の衣を象徴しています。今も、人々は自分の恥や罪、弱さを人工的なもので覆い隠そうとしていますが、無理です。神様からいただく、救いの衣を着るしかないのです。被う(おおう)という漢字があります。被服の被ですが、これは衣辺に、皮と書きます。

2.罪の解決

 アダムが犯した罪が全人類に罪と死とのろいをもたらしてしまいました。これは、日本人であろうと、アフリカ人であろうと、ヨーロッパ人であろうと、なんら差別はありません。全人類に罪が入ったために、死が生じてしまったのです。老いも病気も死の弱いかたちと言えます。万有引力から逃れられないように、だれ一人として、アダムの罪から逃れられる人はいません。しかし、ここに最後のアダム、イエス・キリストが登場しました。彼は何をしたのでしょうか?ローマ5:15後半「もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ち溢れるのです」。17節の後半「恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです」。18節後半「1つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです」。19節後半「ひとりの従順によって多くの人が義とされるのです」。これらの聖句からわかりますように、イエス・キリストによって、別の流が生じたということです。川の上流から流れてきた毒を中和する、きよい水が流れてきたらどうでしょう。死の川とは別に、恵みと命の川が流れてきたらどうするでしょうか。なぜイエス・キリストはこんなことができるのでしょうか。それは、アダムが犯した罪を、ご自分が帳消しにしたのです。どうやって?第一に、イエス様は人間の代表となり、アダムができなかった、神様への従順を全うされました。第二に、アダムから来た罪を、十字架の血潮によって帳消しにしました。第三に、十字架につけられ、自ら呪われたことによって、呪いを打ち砕きました。第四に、死んで復活して、死を滅ぼされたのです。第五に、エデンの園にまさる御国をご用意されました。御国には、アダムが食べそこなった命の木の実が用意されています。

 それでは、自動的に全人類が救われるのでしょうか。残念ながら、そうではありません。神様は信仰という手段を私たちのために残されました。救いは行ないによって勝ち取るのではなく、信仰によって受け取るものです。アダムにあるなら、罪と死とのろいがその人を支配します。しかし、キリストにあるなら赦しと命と祝福がやってきます。信仰とは「キリストにある」人生を選び取るということです。今日は、3名の男性が洗礼を受けることになりました。正直言って、これら方々は、役員会を通過していません。電話承諾という形をとらせていただきました。洗礼準備会があるんですが、完全に終わっていない方もおられます。本当に大丈夫なんでしょうか?しかし、この信仰というのは、いわく言い難いものであります。目に見えないんですから、それを受け取ると言っても…私も今だそこいらへんを説明できないところがあります。なぜなら、2000年前の出来事を私のためだと信じること自体無理です。こちらに、イエス様の十字架があり、こちらに私たちがいます。「なんで、私と関係あるの?」と当然思うかもしれません。目の前のお三方、本当に信じていますか?おそらく、この世の一般の人たちが、イエス様を信じて洗礼を受けるなどと言うと、「洗脳されているか、もしくは気がふれているんじゃないか」と馬鹿にされるでしょう。はっきり言って、この世の知恵では、神を知ることが出来ません。禁断の木の実をアダムが食べてから、私たちは霊的に死に、目に見えるものしか信じられなくなったのです。ところが、聖霊の助けによって、聖書のことやキリストによる救いが一瞬わかるときがあります。それはいつもとは限りません。神が備えられたときだけ、ドアの向こうが見えるのです。そのとき、飛び込まなければ、またふさがれてしまい、次いつ来るか分かりません。もしかしたら、死ぬ直前までないかもしれません。聖霊が臨んだときだけ、信じるという能力が与えられます。その時に、「信じます」と告白するなら、あなたは救われ、信じ続けることができるのです。信じられるのも、神からの恵みです。

 あなたが信じるときに、死の川から命の川へと移されます。呪いから祝福、罪人から義人へと立場が一変します。あなたがもっと神様にゆだね、自分の力や知恵ではなく、神様の下さる力と知恵にたよっていくならば、信仰の歩みがだんだんと確立されていきます。おなかの赤ちゃんは、お母さんの中で10ヶ月ほど生きてきました。誕生とともに、肺呼吸が始まり、自分が外から栄養を吸収して生きるようになります。私たちはそうやって生きてきました。しかし、そのままではいつか死んでしまいます。生身では天国で永遠に暮らすことはできません。そのため、神様はイエス様を信じるときに、聖霊による誕生を与えて下さいます。いつどこでそのようなことが起こるのかは、聖霊様しかわかりません。聖霊は風のように目には見えません。でも、木の葉が揺れたときに、分かります。同じように、聖霊がその人を霊的に生まれ変わらせることができます。これを新生と言います、英語ではボーン・アゲィン、再び生まれると言います。新生したあとの人は今度どのように生きるでしょうか。肺で呼吸はしますが、祈りという霊的な呼吸をします。みことばを食べ、神の家族と交わります。そして、肉体の五感だけではなく、信仰という6番目の機能を用いて生活するようになります。つまり、目には見えず、耳で聞こえない、手でも触れなくても、神様がともにおられることを認識します。そして、神様のみこころを求めながら、みことばの約束を信じて、生きるようになります。この世で生きながら、すでに、天国でも生きています。動物に、両生類というのがいます。クリスチャンは、この世で生きながら、天国でも生きているのです。肺呼吸だけではなく、霊的呼吸をしています。ハレルヤ!救いはあるのです。救いは信じた時から始まる、継続的なものなのです。この世に、神の国がすでに入り込んでいます。クリスチャンはこの世で生活しながら、神の国の住人なのです。だから、この世の法律も守りますが、神の国の法律も守ります。神の国の最大の戒めは、神を愛することと、隣人を愛することです。

3.罪からの解放

 クリスチャンはアダムの子孫から、神の子どもへと身分が変えられました。別の言い方をしますと、アダムの木から切り取られて、キリストに接ぎ木されたのです。Uコリント5:17「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られたものです。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」。「キリストのうちにあるなら」は、「キリストに接ぎ木されるなら」とも言い換えることができます。つまり、クリスチャンは神から独立した古い歩き方ではなく、キリストから神のいのちをいただく新しい生き方をする存在です。エペソ5:8「あなたがたは、以前は、暗やみでしたが、今は、キリストにあって、光となりました。光のこどもらしく歩みなさい」というみことばがあります。これは、私たちが暗やみの中にいただけではなく、闇そのものだったということです。しかし、キリストにあって、光そのものになり、光の中を歩むんだとうことです。私たちクリスチャンはすでに、罪から切り離され、罪とは関係のないキリストの中を歩む存在になりました。すべての罪はキリストの十字架で清算されました。しかし、1つだけ問題が残ります。クリスチャンも罪を犯してしまうという現実があります。罪の代価が支払われているのはすばらしいことですが、これからも罪を犯し続けるなら、淋しい気がします。私は本当に生まれ変わったのだろうか?それども、救いなどないのだろうか?迷ってしまいます。

 罪の木はとっても良くわかるたとえです。想像してください。ここに大きな罪の樹木があります。罪の樹木には、さまざまな罪が実を結んでいます。怒り、憎しみ、不品行、盗み、悪い考え、貪欲、ねたみ、高ぶり、姦淫、汚れ、好色、むさぼり、酩酊、遊興、分裂、分派、偶像礼拝…限りがありません。クリスチャンになっても、これらの罪と戦って行くのでしょうか?でも、これらの罪の実を結ぶ、根があります。これは原罪というアダム以来の罪です。これこそが、罪を生産する根本的な罪です。この根に属している限りは、生活の中でどんどん、どんどん罪が実を結んでしまいます。どうしたら良いのでしょうか。そうです。さきほど、学びましたように、クリスチャンとは、罪の木から切り取られ、キリストに接ぎ木された存在です。するとどういうことが起こるでしょう。根本的な性質がまず変わります。つまり、罪を犯すことが自然でなくなります。これまでは、罪を犯しても、全然平気だったんですが、小さな罪でも気持ち悪くなります。ああ、こんなのやめようと思うわけです。Tヨハネ3:9「だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪のうちを歩みません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪のうちを歩むことができないのです」と書いてあります。これはどういうことかと言いますと、罪を犯すことはあっても、罪を好んで犯し続けることはない。つまり、性質が変わり、罪を犯すのが普通ではなくなるということです。どうぞご安心ください。切り倒された木の枝に、アダム以来の罪の残りはまだ含まれているかもしれません。でも、罪の根っこは切り離されているので、時間の問題です。キリスト様からどんどん、神様の聖さが供給されますから、質的にもだんだん変えられて行きます。

 2000年からゴスペルが始まり、25名以上の方々がゴスペルから救われました。その中で一番古い人でも、3年未満だと思います。2年、1年前という人がざらにいると思います。きょう、どのくらい来られていますか?ゴスペル関係で救われた方、挙手をお願いします。はい。その方々に質問をいたします。洗礼を受けてから、罪から少しずつ解放され、質的にも変えられつつあると思っているお方は、また、挙手をお願いします。アーメン。このことからも分かりますように、救われたら、神のいのちが入るので、栄光から栄光へと変えられて行くということです。しかし、そのために大切な条件があります。それは罪を悔改めるという作業です。罪を悔改める作業こそが、切り取られた枝に染み込んでいた、アダム以来の罪を取り除くために重要なのです。もう、根っこからは移され、キリストに接ぎ木されました。でも、枝の中にまだ残留していた罪があるのです。クリスチャンはその罪からきよめられ、解放される必要があります。ではどうしたらよいか。私たちは罪の中にいた記憶があるので、無意識のうちに罪を犯します。つい怒ったり、つい悪い言葉を吐いたり、つい汚れた思いを抱くのです。大切なのは、罪を犯しても神の子の身分はなくさないということです。罪を犯したから、もう親でも子でもないということはありません。罪を犯してなくすのは、神様との親しい交わりです。だから、もし罪を犯してしまった時には、告白して、悔改めるのです。Tヨハネ1:9「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」。悔改めるとどうなるか、罪はもちろん赦されますが、悪から、つまり罪の性質からもきよめられていくのです。つまり、だんだん罪を犯さなくなり、新しい性質がその人を支配していくということです。

クリスチャンになるときの悔改めは、端的に言いますと、方向転換でした。神に背いて自己中心的な歩みをしていたわけです。しかし、福音を聞いて、方向転換して、信じますと告白しました。クリスチャンになるために、これまで犯した罪を洗いざらい告白しなさいとは言いません。救いは、無条件であり行ないではありません。ですから、罪の悔改めも救いの条件ではありません。信じるだけで良いのです。狭い箱の中に入って、これまで犯したすべての罪を懺悔しなさいということは申しません。でも、矛盾しているようですが、クリスチャンになってから、熱心に罪を悔改めてください。それまでは、霊的に死んでいたので、何が罪か、何が罪でないかさっぱりわかりませんでした。釘を踏んで血を流しているのに、ちっとも痛みを感じていなかった。しかし、霊的に生まれ、ああ、あの罪、この罪と感覚が与えられます。あるいは、サタンから訴えられている罪があるかもしれません。私は洗礼を受ける前に、これまでの罪をレポート用紙に思い出す限り書きました。すると、レポート用紙3枚になりました。行商屋さんのリヤカーからソーセージを盗んだこと、嘘、不品行…いろいろ。ぜひ、みなさん。サタンから訴えられているなーという過去の罪、自分自身が赦していない罪、罪責感にとらわれているなら、イエス様の前に告白して下さい。どうしても、というなら牧師や兄弟姉妹の前に告白して、祈ってもらってください。習慣的な罪は、告白して他の兄弟姉妹から祈ってもらうと効き目があるからです。どうしても直らない悪い癖は、十字架につけましょう。十字架は悪い性質を打ち砕く力があります。そして、その場所に、新しい命をいただきましょう。十字架と復活を魂の中にも適用しましょう。そうしますと、罪から解放され、きよめられていく度合いが高くなります。

 きょうは罪に関して学びました。最後にすばらしいニュースを申し上げて終わります。イエス様は十字架で死んでくださりよみがえりました。そして、今どこにいらっしゃるでしょうか。今、天の父の御前で私たちのために弁護しておられます。さらに、もう1つあります。私たちが罪に打ち勝ち、聖い生活を送ることができるように、私たちの内に聖霊を送って下さっているのです。聖霊はイエス様と同じ、助け主であり、世の終わりまでも、いつも共にいて下さるのです。

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