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先月からクリスチャンのための、主題別説教をしていますが、本日が第二回目です。今朝は「キリストとはだれか」というテーマで学びたいと思います。私はクリスチャンになる前、宗教というものは弱い人間が勝手に作り出したものであり、キリスト教もその中の1つだと考えていました。「本当は神なんかいないのに、いると信じる」、これが宗教でしょうか。もし、そうであるなら、私たちの信仰は空虚なものになります。「あなたにとってはその方が神様であるかもしれないけれど、私には関係ないわ。あなたみたいに信じられたら幸せよね」となってしまいます。果たして、私たちの信仰は、本当に気休め程度のものなのでしょうか。私はキリスト教という呼び方はあまり好きではありませんが、なぜ、キリスト教と言うのでしょうか。それはきっと、キリストが信仰の対象であり、キリストによって救いが得られるからではないでしょうか。つまり、キリストがわかったら、私たちの信仰が虚しいものか、それとも信じるに価するものかわかるはずです。ヨハネによる福音書1章を見ますと、イエス・キリストが少なくとも、3つのことをなさるためにこの世に来られたということがわかります。
1.受肉者キリスト
ヨハネによる福音書をみますと、イエス・キリストがこの地上に来る前にどこかにいたらしいということがわかります。はじめからそのような名前があったのでしょうか。そして、どこにおられたのでしょうか?ヨハネ1:1−3をお読みいたしましょう。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない」。In
the beginning、「初めに」は、創世記と同じ書き出しです。初めに何があったのですか、「ことば」です。「ことばは神とともにあった、ことばは神であった」というのですから、神様と同格のお方だということがわかります。しかも、「すべてのものは、この方によって造られた」というのですから、創造者でもあるということです。ここからわかることは、ことばであるお方が、永遠のはじめから、神とともにおられ、世界を創造したということです。新約聖書はギリシア語で書かれていますが、ことばとは「ロゴス」となっています。古代ギリシアでは、「世界は何でできているのだろう?世界は何によって生み出されたのだろう?ものごとのはじめは何だったんだろう?」と真剣に考えていました。彼らは「宇宙の理性とも言える、ロゴスこそが、世界を造ったんだー」と考えていたようです。ですから、ヨハネ1:1で「初めに、ロゴスがあった」という書き出しを見たとき、人々は「え?何、何なの?」と非常に興味を持ったに違いあいません。
しかし、ヨハネは「ロゴス」がふあふあした、何かつかみどころのない哲学者の神にはしませんでした。ヨハネ1:14「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた」。「ことばは人となって」と日本語では訳されていますが、原文はサルクス、肉体です。つまり、ロゴスが肉体をとって、私たちのところに来られたということです。神様が肉体をとられたことを、受肉と神学的に呼んでいます。さらに、「住まわれた」は原文では、「幕屋を張った」となっています。幕屋といえば、出エジプト記に出てきます。イスラエルの民が荒野を旅したとき、神様を礼拝するために、幕屋を張りました。外側はあざらしとかじゅごんの皮ですから、黒っぽくてあまり見栄えのしないものだったでしょう。しかし、1枚、また1枚とはいでいきますと、最も内側には緋糸、青糸、紫糸、そして金によるケルビムの刺繍がほどこされていました。イザヤ書53章のごとく、外側は「私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちたちが慕うような見栄えもない」。しかし、その内側はどうだったでしょうか。14節後半「父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまこととに満ちておられた」。アーメン。神様の輝き、栄光に満ちておられたということです。
しかし、当時のギリシア世界では、魂は善で、肉体は悪であると考えていました。彼らは、「早く、肉体という牢獄から解放されたい」と願っていました。ですから、神様がわざわざ肉体に宿るなんて馬鹿馬鹿しいと躓いてしまったのです。聖書は、肉体は必ずしも悪ではなく、肉体に染み込んでいる罪は問題であると言っています。でも、永遠なる神が、肉体を取るということは、大変なことであります。ある神学者は、神が人となるとは、人がうじ虫になるようなものだと言いました。ピリピ2:6節以降には「キリストは神の御姿であられる方なのに、ご自分を無にして、人間と同じようになられた。しもべの姿ととり、ご自分を卑しくし、十字架の死にまでも従われた」とか書かれています。全宇宙を造られたお方が、一人の人間の中に納まるなんて、考えられるでしょうか。しかも、人間の最低の姿である奴隷となり、十字架で死なれたのですから、天の高きところから、どん底まで下られたということです。キリストが馬小屋で生まれたということも、そのことを現わしています。普通の人間だって、不衛生な馬小屋では生まれないし、飼葉おけにねかされるなんていうこともないでしょう。
何のため、神様がわざわざ高いところから、私たち以下のところまで下ってこられたのでしょう?それは、罪と死と暗やみのどん底に住む私たちを救うためです。深い井戸に落ちた人をどうやって救い出すことができるでしょう。ある宗教家は、「あなたの業がそうさせたのです。諦めなさい」と告げて去って行きました。別の宗教家は「あなたは教えを守らなかったから、そうなったのです。次からは落ちないように気をつけなさい」と、教えをほどこしました。そのとき、スルスルとロープが落とされました。彼はよじ登る力がもうありません。一人の方が降りて来られ、その人をかかえ、引き揚げてくださいました。なぜ、そんなことができるのでしょう。それは、神様が人間になられたからです。神様は「高いところから、愛しているよー」と言うだけじゃなく、人間の肉体を取り、人間とコミュニケーションを持つために、降りてこられたのです。登って来なさいではなく、あなたを救うために、向こうから降りて来て下さったのです。
2.啓示者キリスト
キリストは啓示の宗教といえますが、啓示って何でしょうか。啓示とはrevelation、これまで隠されたものが、現わにされるという意味があります。私たち罪人は、神様の方から示されない限り、神様がどのような方かさっぱりわかりません。ある人は、一度も象を見たことのない盲人が、象とはこういうもんだと言っているのと同じだと言いました。ある人は、足をさわって、象とは柱のようだと言います。また、ある人はおなかに触って象とは壁じゃないの。ある人はしっぽに触って象って細いよ。いや、象は薄くてひらひらしているゾウと言います。それと同じで、私たちは霊的に盲目であり、神様のほんの一部しか知ることが出来ません。ヨハネ1:18には何と書いてあるでしょうか。「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである」。神様は私たちの目で見ることができません。それじゃ困るということで、ひとり子なる神、イエス・キリストが「神様ってこんな方ですよー」と啓示するための来られたということです。
12弟子たちは3年半、イエス様と一緒にいて、神様はこういうことを考え、このような力があるんだとうことが少しずつ分かってきたようです。それでも、まだはっきりしません。ヨハネ14章で弟子のピリポが「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します」と言いました。イエス様は「ピリポ。こんなに長い間あなたがたと一緒にいるのに、あなたは私を知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです」とおっしゃいました。あの弟子たちがそうだったのですから、私たちはどうなんでしょうか?私たちは彼らよりもハンディキャップを持っているのでしょうか?私はどっち、どっちだと思います。彼らの時代には、イエス様が間近におられましたが、聖霊がまだ来られていなかったので、神様がぼーっとしかわかりませんでした。私たちの時代は、イエス様に触れることはできませんが、その代わり啓示の御霊、聖霊がおこしになっています。それでは、今日の私たちはどのように、神様がどんなお方かを知ることができるのでしょうか。まず、それは私たちが持っている聖書であります。聖書は神様ご自身と神様のみこころを示す、唯一の文書啓示です。私たちは聖書を読む時「ああ、神様ってこういうお方なんだなー」と分かります。でも、それだけでは不十分です。聖書に現わされているイエス・キリスト様と出会い、キリストを通して神様を見ると、もっともっと良く分かります。なぜなら、イエス様は「わたしを見た者は、父を見たのです」と語られたからです。つまり、イエス様をわかればわかるほど、神様がわかるということです。逆に言うと、イエス・キリスト抜きで、神様を理解することは不可能に近いということです。まとめますと、神様を知る方法は、聖霊の助けを借りて、聖書を読み、キリストを知ります。キリストを通して神様がわかってくるということです。
では、神様は聖書を通してでしか、語られないのでしょうか。保守的な福音派はそうだと言います。でも、聖書に書かれていないこともたくさんあります。皆さんは、一人の人を知るとき、その人のことを記した文書で知ることもできます。でも、もっとすばらしいことは、その人と実際、お会いしてお交わりしたらもっと分かるのではないでしょうか。確かに聖書は、イエス様と神様を知る第一のものであると信じます。でも、神様は聖書以外のことを聖霊によって示して下さると私は信じます。なぜなら、神様は今も生きておられ、神様が直接、語りたいなーと思われれば、それを制限することはできないということです。人間の方が「神様、聖書以外のものを通して語ってはいけません」と注文つけるのは行き過ぎではないでしょうか。聖書には一般的な神様のみこころが示されています。そして、聖書のみことばを通して神様は語られます。しかし、同時に、神様は聖霊によって、私たちの思いの中に語られるということも確かであります。ピリピ2:13「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです」と書いてあるからです。今も、神様からの預言のことば、知識や知恵のことばがあると信じます。ただし、そういう人こそ、日頃から、聖書を読み、イエス様と親しく交わっている必要があります。なぜなら、そのような賜物を求めると、悪魔によって欺かれる危険性が高くなるからです。
また、私たちは聖霊のみわざを通して、神様が今も働いていらっしゃるとうことを体験できます。イエス様は「さもなければ、わざによって信じなさい」とおっしゃいました。先週は中嶋先生を岡山県からお呼びできて、本当によかったなーと思いました。「聖霊の力によって、イエスの御名によって」と祈るなら、私たちの骨や筋がボキボキっと反応するのです。先生だけではありません。信じる者すべてができるというのですから、驚きであります。私も「だれか背骨の曲った人や、癒しを必要とする人はいないだろうか?祈ってあげたいなー」と思うようになりました。もう既に、何名もの方々が、いろんなところで実行していますので、この癒しがちょっとしたブームになりそうですね。なぜ、こんなことが起こるのですか。マルコ16:20「主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた」とあります。つまり、今もイエス様が聖霊によって働かれ、神様の慈愛と力とを証明されているということです。私たちは目の前に癒しが起こるとき、「ああ、神様は今も働いておられる、なんと忠実なるお方なんだろう」と聖なる恐れを持つことが出来ます。つまり、イエス様はあらゆることをとおして、神様ご自身と神様の力を現わしたいと願っておられるのです。イエス・キリストこそ神の啓示者です。教祖様のお告げとか、経典、瞑想では本物の神様に到達することはできません。イエス・キリストこそ、神様に到達する唯一の「道であり、真理であり、命なのです」。アーメン。
3.贖罪者キリスト
イエス・キリストがこの地上に来られた第一の目的は、受肉でも、啓示でもありません。イエス・キリストが父のみもとから、この地上に来られたのは、贖いのみわざを完成させるためです。ですから、受肉と啓示は、贖罪のための段階とも言えるでしょう。ヨハネ1:29その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」。このみことばこそが、キリストのご使命を、表現しているみことばと言うことができます。旧約時代は罪ある人が神様に近づくとき、動物が殺され、血を流す必要がありました。血には命があるので、罪をあがなうことができたのです。世の終わり、神の御子イエスが、神の小羊として、十字架で身代わりに死なれました。神様は御子の命で、私たちのすべての罪を帳消しにしようとおっしゃるのです。神様は私たちを愛しておられますが、罪を憎まれます。ここに罪のないキリスト様がいらっしゃいます。このキリストが私たちのすべての罪を十字架上で負って下さいました。そして、私たちの代わりに神から罰せられました。私たちの罪は一体どこへ行ったのでしょうか。そうです。キリストのもとにすべて行ってしまったのです。イエス様は陰府に下り、3日目によみがえらされました。よみがえりは、イエス様がすべての罪を支払ったので、もうあなたは罪の中に生きる必要がないという証拠です。
イエス・キリストはクリスチャンのためにだけ死なれたのではありません。まだ、クリスチャンでない、まだ信じていない人のためにも死なれたのです。ローマ5:7,8「正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」。なんて、ありがたいことでしょう。私たちが頼んでもいないのに、十字架のあがないを成し遂げてくださったのです。しかし、それで自動的にすべての人が救われるということではありません。ギリシヤ・ローマ時代には市場で奴隷が売買されていたそうです。一人一人にいくらいくらと値札がかけられていました。おそらく頑強で役立ちそうな奴隷は高かったのかもしれません。中には、売約済みという札もありました。だれかがその人のためにお金を支払って買ったということです。そういう人の檻にはギリシヤ語で「テテレスタイ」という札がかけられました。イエス様が十字架で死なれる直前、テテレスタイと叫びました。その意味は、「完済した」という不定過去の動詞です。その意味は、時間を超越した言葉で、一回限りの出来事が、今日までも影響を及ぼしているということです。イエス様は「あなたの罪を支払いましたよ」と、時を越えておっしゃっています。あなたはもう罪の奴隷ではないのです。でも、それを信じないで檻の中にいたなら、ずっとあなたは奴隷市場の中であざむかれているということになります。贖いを信じて、檻から出る時に、あなたははじめて、贖われた者となることができるのです。
贖いという文字は貝辺に賣(ばい)、売るの古い字です。おそらく、昔、美しい貝殻がお金の代わりになって、それで売買したのでしょう。贖いを受けるのは無料です。ある宣教師がキリスト教が一度入ったことのない島に伝道に行きました。1年も伝道したのに一人も救われませんでした。彼らは罪の贖いが無料だということを信じられなかったのです。島を去るときに、島の酋長が見送りに来てくれました。感謝の気持ちにと、おおきな真珠を宣教師にプレゼントしてくれました。宣教師は「こんな大きな真珠は見たことがない。何千か何万ドルくらいするでしょう。おいくら渡せばいいですか」と聞きました。酋長は「いや、あなたにあげますよ」と言いました。宣教師は、「いやいや、ただじゃ申し訳ない。何千ドルか渡しましょう」とポケットに手を入れました。すると、酋長は怒り出してこう言いました。この真珠は息子の形見です。息子は腕利きの真珠貝取りでした。数年前、深いところにもぐって、大きな真珠をとってきました。しかし、あんまり無理をしたので、死んでしまったのです。この真珠はそのときのものです。だから、値段をつけることなんだできないんです」と言いました。宣教師はにっこりして言い返しました。「キリストの救いもただなんですよ。なぜなら、キリストの尊い命が支払われたのですから。あなたもプレゼントとして受け取って下さい」とお願いしたそうです。
イエス・キリストは、後の時代、贖いを受け取る人がいないことも知っていましたが、それでも十字架にかかられて死んだのです。使徒パウロは言いました。「私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまづき、異邦人にとっては愚かでしょう。しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです」(Tコリント1:23,24)
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