「ここにはおられません」 ルカ24:1-12

2003/04/20  鈴木靖尋牧師
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 イースターおめでとうございます。先週の三日間は、「すずめの学校」の生徒たちと、本郷台キリスト教会に行っておりました。その教会は、受難週ということで、毎日集まって、祈りをささげておりました。木曜日などは、2時間くらいかけて聖餐式をし、私たちもそこに加わりました。ホーリネスというある種の堅さがありました。私は正直言いまして、「罪深い私たちのために」とか、「今もなお自己中心で心頑なな者ですが」という表現は苦手であります。司会者が「罪を悔い改めましょう。お詫びしなければならない人がいたら、その人の所に行って和解しましょう」と言いました。私は悔い改めるような罪が思い当たりませんでした。そして、心の中で「罪、罪って、暗いじゃないか!早く終わろうよ!」と思っておりました。ところが、午後の学びは、愛についてでした。そこではっきり気がつきました。「ああ、私は愛が不足しているなー。愛していない罪をいっぱい犯している」と悔い改めざるを得なくなりました。時間がないからと、見てみないふりをしていたことが何と多かったことでしょう。愛の負債はいつも負っているなーと示されました。

1.ここにはおられません

女性たちは金曜日の夕方、香料と香油を買い求め、土曜日は安息日なので活動できませんでした。そして、日曜日の明け方早く、香料を持って墓に行きました。墓に行きますと、石がわきにころがしてありました。マタイ福音書をみますと、墓は封印され、番兵たちが見張りをしていました。ところが、朝早く地震が起こり、御使いが天から降りて来て、墓石をどかしたと書いてあります。つまり、女性たちが到着した時には、番兵たちが逃げ出した直後だと思われます。女性たちが墓の中をのぞいてみましたが、イエス様のご遺体がありません。きっとだれかに盗まれたのではといぶかっていました。すると先ほどの御使いが現われて、とん…でもないことを告げるわけです。御使いは、「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです」と言いました。英語の聖書はHe is not here, but He has risen.

となっています。He is not here.「ここにはおられない」。ここってどこでしょうか?そうです。墓の中にはいないということです。せっかくアリマタヤのヨセフが新しい墓をイエス様のために提供したのに、たった3日間しかお役にたちませんでした。女性たちがわざわざ準備しておいた香料と没薬も無駄になりました。もったいないでしょうか?聖地に行きますと、ここがイエス様が眠っておられたお墓です、とおぼしき所があるそうです。そこには、He is not here, but He has risen.という看板があるそうです。空っぽの墓しかないわけです。

 ところで、御使いがいったことばは宗教的にものすごく重要なことばです。「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか」。このことばをもっと噛み砕いて言いますとこのようになります。「あなたがたは、なぜ救い主を死人の中に探すのですか。本当の救い主なら、墓の中にはいないはずです」ということになります。ところが、世界中のほとんどの宗教は、死んだ人の中から救い主を探そうとしています。孔子も死にました。そして孔子が作った儒教はご先祖を丁重に祭ると聞いています。仏陀も死にました。仏陀の骨が細かく砕かれ、仏舎利といって、お寺の塔に入れられているとのことです。仏教も死んだ仏陀を拝み、死んだ人も拝みます。マホメットはどうでしょうか。彼はコーランを残しましたが、彼自身は死にました。他に神社に祭られている人たち(徳川家康、菅原道真)、そして教祖たちはみなお墓があります。彼らは死に打ち勝つことができなかったのです。むしろ、死を受け入れ、死後の世界、冥途とやらに希望を置いたのであります。しかし、肉体は朽ちたままで、魂の状態でふわふわどこかを漂うという感じがします。

 聖書が言う救いは、魂だけではなく、この肉体が栄光の体に変えられ、神の国で永遠に生きるということであります。ですから、聖書は魂だけの救い、あるいは、他のものに生まれ変わるという輪廻を説いていません。もし、生まれ変わったなら、現在の夫、もしくは妻と結婚しますかという質問を聞く時があります。私は答えを避けますが、聖書的にはそういうことは不可能なので、諦めるしかありません。神様から与えられた伴侶を大事にするしかありません。アーメン。こういうときご愁傷様ですと言ってはいけません。ちょっと本題からそれましたが、私たちは死んだ人たちの中に、救い主を探してはいけないのです。これまでの歴史上、死んでよみがえられた方はおひと方です。復活(よみがえり)とは、息を吹き返したということではありません。もう二度と死なない栄光のからだによみがえったということです。つまり、イエス・キリストは、死を打ち破ったということなのであります。アダム以来すべての人が死という洪水の中にのみこまれています。あちらの世界に一度入ったならば、帰って来られないのであります。稀に、臨死体験で、入口まで行かれる方がおるようです。しかし、どういう状況かわかりませんが、入らずに戻って来れたわけです。でもそういう人もいつかは、死はやって来ます。

 イエス様の場合、特徴的なのは、生前「三日目によみがえりますよ」と予告していたということであります。福音書を見ますと少なくとも、3回は語っています。でも、弟子たちは聞き流していたと申しましょうか、あまりにも現実離れしていたので右の耳から左の耳へ素通りしていたのでありましょう。そのことを御使いが彼らに思い出させようと、現われてくださったのであります。ここに偉大な真理があります。イエス様がご自分がよみがえるとおっしゃったのに、もし、よみがえられなかったならばどうなるでしょうか。イエス様はとんでもないペテン師ということになります。世の中の人たちは、イエス・キリストは三大聖人の一人だとか、すぐれた道徳家だと言います。しかし、イエス・キリストが「私は道、真理、いのちである。私は三日目によみがえる」と言明しました。もし、それが事実でなかったとしたならば、イエス・キリストは大嘘つきのこんこんちきになります。しかし、それが事実で3日目によみがえったのであればどうでしょうか。聖人とか、偉人、あるいは道徳家などという中途半端な言い方ではすまされません。人がイエスに出会ったならば、2つに1つの態度をとるしかないのです。1つは、「自分を神だと思っている危ない人だな」。もしくは、「宗教作りの天才か大ペテン師だ」と唾をはきかけるタイプです。もう1つは、復活の主に出会ったトマスように、ぬかずいて「私の主。私の神」と礼拝するしかありません。使徒パウロは「キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。」(Tコリント15:14)と言いました。つまり、キリストの復活こそ、教会の土台ということになります。もしも、復活が嘘であるなら、日曜日わざわざ来て礼拝することもありません。献金も無駄です。聖い生活なんかとんでもありません。「どうぜ明日は死ぬんだから、好きなことをしようぜ」と虚無的に生きることになります。人生の終着点が死であり墓場であるなら、真面目に働いても一体何になるでしょう。私は火葬場こそ、人生の最高の勉強場だと思います。近くの四つ木斎場には毎日、何体ものご遺体が運ばれ、火で焼かれ、お骨になります。あれが人生の終着点であるとしたら、非常に空しいですね。しかし、キリストはここにはおられません。よみがえりました。死と陰府と悪魔に打ち勝たれたのです。ですから、キリストを信じる者も、復活にあずかり、希望に満ちた生涯を送ることができるのです。この世には様々な「希望」があります。希望中の希望とは何でしょうか。それは、キリストが死からよみがえったことにより、私たちも死の向こうに希望があるということです。アーメン。

2.信じなかった使徒たち

 女性たちは復活を信じたようですが、イエス様の弟子たち、つまり使徒たちはどうだったでしょうか。11節「ところが使徒たちにはこの話はたわごとと思われたので、彼らは女たちを信用しなかった」。「たわごと」なんて、古い言い方ですが、英語の聖書はnonsenseとなっています。ナンセンスの方がわかりやすい感じがします。女性たちが復活のことを話したら、使徒たちは「そりゃーナンセンスだよ」と言ったのです。未信者が言ったのならわかりますが、3年半もイエス様ものもとで薫陶を受けた弟子たちが言ったのであります。今日でも、十字架と復活をナンセンスだと笑う人がいますが、弟子たちが最初だったとは驚きです。マルコ福音書などは、もっと露骨に書いてあります。マルコ16章には「それを信じようとはしなかった」「信じなかった」と立て続けに書いてあります。さらに、16:14「それから後になって、イエスは、その11人が食卓に着いているところに現れて、彼らの不信仰とかたくなな心をお責めになった。それは、彼らが、よみがえられたイエスを見た人たちの言うところを信じなかったからである」。なんと、情けない弟子たちでしょう。あの時代の、最も近くにいた弟子たちが信じられなかったのですから、2000年もたった私たちがどうやって信じたら良いのでしょうか。

 私はこのような聖書の記述を見るとき、2つのことが言えるのではないかと思います。1つは、聖書は後代の人を信じさせるために変造されていないということです。もし、弟子たちが福音書に残すのであれば、こんな恥かしい記事はのせないか、あるいはちょっと変えたくなるでしょう。こういう不信仰な弟子たちが、教会の使徒だなんてだれが信用するでしょうか。しかし、聖書は正直に弟子たちの不信仰さを隠さないで書いています。もう1つは、死人からのよみがえりは、それだけ信じられない出来事だったということです。つまり、キリストの復活はアンビリーバボーな出来事だったということです。テレビでもこの世のアンビリーバボーな出来事を集めている番組があります。事件とか奇蹟の生還、「おー、こんなことがあるんだ!」と、ほんとうにびっくりさせます。しかし、人類の歴史上、最もアンビリーバボーな事件は、イエス・キリストが3日目によみがえった出来事です。これ以上、アンビリーバボーなものはありません。だから、3年半も一緒にいた弟子たちですら、信じがたいことでした。2000年前の人たちが神話の世界にいたわけではありません。彼らだって常識はあったでしょう。死んだ人が3日後に復活するなんてことは、どこの世界でもなかったのです。

 では、直接その現場に居合わすことのできない、2000年後の私たちはどうなんでしょう?あの時代、すぐ側の人が信じられなかったのに、私たちに信じろとはあんまりであります。しかし、神様は、イエス様の復活を肉眼で見て信じるよりも、信仰によって信じる方を良しとされます。イエス様は、疑り深いとトマスに「あなたは私を見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです」(ヨハネ21:27)と、おっしゃいました。つまり、目で見て信じるのは下であって、見ないで信じる方が上であります。見ないで信じる信仰、それは簡単に言いますと、神様から啓示をいただいて信じるということです。御使いは女性たちに何と言ったでしょうか。24:7「人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう」。8節「女たちはイエスのみことばを思い出した」。ここにヒントがあるのではないでしょうか。御使いと同じことばが24:26節にもあります。イエス様は、「キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」とおっしゃり、聖書全体から自分について書かれている事柄を彼らに説き明かされました。すると、彼らの心が燃え、イエス様が見えたのであります。さらに、これと似たことが、24:44-47にもあります。そこでも、イエス様は聖書を悟らせ、キリストが苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえるべきことを教えています。

 つまり、当時の弟子たちもそうであったように、信仰は聖書のことばを悟ることによって与えられるということです。確かにいろんな信じ方があります。親切で愛にあふれたクリスチャンに出会った、ゴスペルでジーザスと出会った、神がいるとしか考えられない奇蹟を体験した…こういうことも信仰に入るために良いことです。でも、それらはあくまでも信仰の入口です。もっと欲しいのは、聖書の福音のことばが入ることによって信仰の確信が与えられることです。聖書のことば、あるいはイエス様のことばを悟るときに、揺るがない本当の信仰が与えられるのです。だから、私たちは聖書を読んだり、聖書からのメッセージを聞く必要があるのです。もし、みことばに根ざした信仰が聖霊によって与えられたなら、直接イエス様を見て信じた人たちよりも、上のクラスの信仰なのです。ハレルヤ!当時は、弟子たちのように見て信じた人が多かったでしょう。しかし、現代の私たちの多くは肉眼で見なくても、聖書のみことばから信じています。ですから、私たちの方がすぐれているのです。私は奇蹟を信じますが、ときたまイエス様を見たという人もいらっしゃいますが、そういうこともありえるでしょう。イエス様が「この人はこういうことを起こさないと信じないタイプだなー」とお思いになれば、奇蹟的なしるしを与えるでしょう。イエス様が「この人には奇蹟は不要だなーとお思いになれば」特別な体験を与えないでしょう。しかし、大きな奇蹟を体験したから、すばらしい信仰を持てるか、というと決してそうではありません。旧約聖書のイスラエルの民は、10の奇蹟と紅海が分かれる奇蹟を見ました。天よりのマナ、岩からの水、雲の柱、火の柱…様々な奇蹟を体験しました。しかし、彼らのほとんどがつまずいてしまいました。何故でしょう。体験だけにとどまったからです。神のことば、聖書のことばに根ざすところまで行かなかったからです。どうぞみなさん、イエス様は聖書が言っているようによみがえられたのです。そして、聖書が証言する復活信仰を自分のものとするときに、救いの確信を得るのです。ハレルヤ!

 最後に復活を信じるキリスト者にはどのような特権があるのでしょうか。

@あなたはもう罪と死と呪いの中に生きる必要はありません。あなたは、復活という新しい命の中で生きることができるということです。キリストを信じて与えられるいのちは、復活の命です。死に打ち勝つ命をあなたは神様からいただいているのです。使徒パウロもいっています。この宝を私たちは内に持っている。四方八方から苦しめられますが、窮することがない。途方にくれていますが、行き詰まることはない。迫害されていますが、見捨てられない。倒されますが、滅びないのです(Uコリント4:8,9)。イエス・キリストはいわば、9回の裏に大逆転を納めてくださいました。だから、あなたの人生、これでおしまいだと思ったときに、神様の復活の力が自動的に働くのであります。お風呂に入っていると、「自動」にしておきますと、ある基準から下がったら、ボーっとお湯が沸くのであります。私たちも霊的に冷え、信仰的に落ち込むときがあります。しかし、そのままで終わると思ったら大間違いです。あるとき突然、聖霊による火が点火され、また燃えることができるのです。自分で信仰的に燃えようとすると、空回りして、よけい悪くなりますが、聖霊があなたを燃やしめて下さるのです。肉の力ではなく、御霊の法則の中で生きる信仰生活は本当にすばらしいです。

A死の恐れから解放されます。死はドアみたいなもので、すぐ向こう側には天国の人たちがおります。召された人たちは今、主のみもとで生きておられる。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神は私の神です」とはそのことであります。クリスチャンにとって、死は終わりではありません。クリスチャンにとって、今すでに、片方の足が天国に入っている状態です。使徒パウロは、両者の板ばさみ状態になり、どちらかと言うと、この地上にいるよりも、早くイエス様のところに行きたいと、願いました。使命がある限り神様は地上で生かしてくださいます。使命が終わったとき、天に召してくださるのです。ですから、使命がなくなるまでしぶとく生きていればよいのです。だけど、生かされている限り、その使命を果たす責任もあるということです。人が一生懸命、使命にたずさわっているときは、死など怖くありません。使命がなくて、暇な人が死を恐れるのです。ゴスペルでライドオンキングというのがあります。その歌のおしまいの部分は、「賛美するのが忙しくて死ぬ暇がない」と歌っています。アーメンです。

 パウロは「死者の中からよみがえったイエス・キリストをいつも思っていなさい」(Uテモテ2:8)とテモテに言いました。十字架で死んで下さったイエス様ももちろん重要ですが、復活し今も生きておられるイエス様はもっと重要です。死んで今はいらっしゃらないのなら、現在の助けにはなりません。しかし、死んでよみがえり、今も私とともに私の内におられる、これが私たちの信仰です。このような信仰を持っていると、いろんな逆境にも勝利し、神からの力が与えられ、前向きに進むことができるのです。イエス様は死では終わりでなかったのです。最後がよみがえったのです。私たちの人生も死と敗北で終わることはありえません。キリストが復活したように、私たちの人生も何度も復活するのです。健康の復活、仕事の復活、商売の復活、結婚生活の復活、奉仕の復活・・・キリストにあって、あらゆる復活をいただこうではありませんか。

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