「御霊に満たされなさい」 エペソ5:13−21

2003/04/03  鈴木靖尋牧師
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1.時をあがなえ

 5:16「機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからである」。原文は、「時を買い取れ、あるいは時をあがなえ」となっています。クリスチャンは罪の時代から救われ、永遠に向って、新しい人生を生きている存在です。しかし、私たちはこの地上では、邪悪な時代の中に生きています。ですから、使徒パウロは「賢くない人のようにではなく、賢い人のように生活しなさい。愚かにならないで。主のみころを悟り、時を生かして用いなさい」と勧めています。愚かな人たちは、主のみこころを無視して、時を無駄に過ごしています。「時は金なり」という古い格言がありますが、どのようにしたら、地上の短い時間を有効に使うことができるのでしょうか。

まず、一生ということからまず考えてみたいと思います。ゼロ才から少年時代は人格の基本構造を身につける時代です。ある人たちは英才教育や道徳教育をほどこして、大人じみた子供にしようと頑張っています。しかし、ユダヤの教育はそうではありません。何よりも、子供に天地を創られた神様を覚えさせました。伝道の書12:1「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ…何の喜びもないという年月が近づく前に」と書かれています。私は4人の子供を育てていますが、子供に「よく生まれてきたねー」と語ってきました。なぜなら、私自身8人兄弟の7番目で生まれ、一人分の価値が非常に低くて、劣等意識で悩んでいたからです。子供にいろんな知識や知恵を与えることも必要ですが、箴言1章には「主を恐れることは知識の初めである」と書いてあります。神様抜きの知識は危険であるからです。そして何よりも、イエス様は私たちに神からの知恵と知識を賜るお方です。聖書の神様を子供に教えることができたら、教育の半分を与えることができたと私は信じております。

 青年期は思想を身につける時代です。また、この時期は記憶力も良くて、何でもすぐに覚えることができます。しかし、日本の学校教育のように「詰め込み主義」は反対です。私は中学の先生から本を読めと言われましたが、ほとんど読みませんでした。ですから、ものすごく後悔しています。勉強し出したのは、25才過ぎてからでありました。結婚してから、聖契神学校、日大の通信教育を受けました。神学校ではギリシア語、ヘブル語、通信では英語を学びました。しかし、30代過ぎるとさっき覚えた単語を忘れる、まるで「砂に書いたラブレター」です。パットブーンを知らない人は、何だろうと思うでしょうね。ですから、若者たちがバイトとかゲームで頭を使わないでいるのを見ると悲しくなります。「若者たちよ!頭の柔らかいときに創造的な勉強をせよ!」とおじさんは主張したい。壮年期は、記憶力は衰えますが、総合的な判断力、洞察力が高まります。だから、管理職が多いのはそのためです。でも、デザインとかアイデアは20代までです。ですから、管理職の方々が、若者の斬新的なアイデアを上手に取り入れる企業は成功するのです。そして、老年期はどうでしょう。老年期は人生の冬ではなく、秋です。収穫の時であります。それはどういう意味かと申しますと、子供の時代、青年期、壮年期に行なってきたことを刈り取るからです。老年期は、それまでどのように生きてきたかが、自然に現われてしまいます。わがままで自己主張の強かった人は頑固な老人になります。しかし、神様を愛し、創造的な生き方をして来た人は、ずっと青年であります。その人は純粋で、前向きで、肯定的です。こう言う人は肉体は確かに衰えていますが、心は青年なのであります。ああ、こういう人に私はなりたいですね!アーメン。

 内村鑑三先生は「一日を一生のごとく生きる」、「一日一生」ということを申しました。内村先生は、「朝一番の静かな時、みことばを読み、神様に祈りをささげよ」と勧めておられます。私の経験からしまして、何かしだしてから聖書を読んで祈ろうとすると、もう心が落ち着かないのです。この世のことに思いが混乱させられて、みことばが心に入ってきません。でも、朝起きて、すぐ、聖書を読み、神様と交わるなら、勝利の一日を送ることができます。そして、朝の5分間を用いて、今日は何をすべきかという優先順位を決めます。手帳でも、小さな紙切れでも構いません。箇条書きに書いておきますと、全部はできなくても、大事なことだけは忘れません。出し忘れた郵便物は今度は速達料金が必要になります。あとから、ものすごく犠牲を払わされるということはよくあります。ある人は「一日の優先順位のために5分を割くなら、2時間を儲けることができる」と言いました。さらに欲を言うならば、午前中は頭脳労働に、午後は肉体的な労働をした方が良いと思います。午前中は脳波がものすごく高いんですから、考えることがまとまります。午後はもう脳波が低くなるので、思索よりも体を動かす方が向いているのです。朝のディボーション、優先順位、午前と午後の用い方…これも、時をあがなう方法ではないかと思います。

また、多くの聖書は16節を「機会を十分に生かして用いなさい」と訳しています。イギリスの聖書は Use the present opportunity to the fullとなっています。伝道者の書3章には「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。…植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。泣くのに時があり、ほほえむのに時がある」と書かれています。私たちは神様が与えておられる正しい時、チャンスを捕えることができたら何と幸いでしょうか。ある人は「チャンスをつかむとは、キューピーちゃんを捕えるようなものである」と、言いました。キューピーちゃんというのは丸裸です。そして、前髪だけがチョロンとあり、後ろはつるつるです。チャンスの神様、キューピーちゃんが前方から走ってきました。さあ、捕まえることができるか?ああ、遅かった。後ろは髪の毛がありません。体もつるりとすべって駄目でした。でも、タイミングを見計らって、キュっと前髪を捕まえることができたらすばらしい。ここに、チャンスをものにする極意があります。つまり、少ないチャンスをどうものにするかということです。私と家内はここいらへんが随分違います。私は公告を見て、きょうこれが安いよと思ったら、すぐ買いに行きます。しかし、家内は夕方頃、思い出したり、あるいは「この次で良いか」と言います。この間も5980円の自転車のことで言い合いました。「私は、次はないという性分だから、チャンスを生かすけれど、あなたは後でも良いと言う。そういう生き方はチャンスをつかめないよ。しかし、それでよく、イエス様を信じられたもんだなー」「信仰は別よ」「ああ、つまらんな自転車のことぐらいでチャンスを語ることもないか」と、笑いました。

機会を生かす。チャンスをつかむ。あまり慎重になりすぎても駄目だし、かといって、なんでもかんでもかぶりついてもいけません。伝道者の書11章「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見出そう。…風を警戒している人は種をまかない。雲を見ている者は刈り入れをしない。…朝のうちにあなたの種を蒔け、夕方も手を放してはならない。あなたは、あれか、これか、どこで成功するか、知らないからだ。2つとも同じようにうまくいくかもわからない」と書いてあります。風を警戒しすぎたり、雲を見ているだけでは駄目です。あるときは、冒険も必要です。「あなたのパンを水の上に投げよ」というみことばには面白い解釈があります。パンとは種という意味があります。イスラエルの民はエジプトに400年間住んでおりました。ナイル川はよく氾濫したものです。しかし、氾濫は肥えた土壌を運んできます。種をまく一番良い時は、氾濫した直後だったようです。さながらそれは、水の上に種を蒔くようなものでした。「投げる」というのは賭け、ばくちと同じだということです。もしかしたら、この種を失うかもしれない、しかし、うまくいけば何倍もの刈り取りができる。聖書は「朝のうちにあなたの種を蒔け、夕方も手を放してはいけない」と書いてあります。つまりこれは、パターン化してはいけない、色んなやり方があるということです。たとえば、伝道でも生活伝道もあれば、病の癒しや奇蹟による信仰伝道もあります。特別伝道もあれば文書伝道もあります。とにかく、いろんな方法を用いて、その人の心が開いたときにみことばの種を蒔くということです。

当教会はゴスペルの波をうまく捕えて、25名以上の人が救われ、さらに賛美の奉仕者や神学生も与えられました。波は人間が起こすことはできません。波を起こすのは神様だけです。私たちができるのは、神様が起こしてくれた波に乗っかるということです。波乗り、つまりサーファーになるということです。粟野先生が4月からは、月1回しか来れない、いやそれよりも少なくなるということです。私はそのことを非常に危惧しましたが、ゴスペルのメンバーは結構楽観視してます。きっと、次のステージが待っているということでしょう。香港のベン・ウォング師がおっしゃっていました。「ゴスペルのセルが成功したんだから、新しいセルを始めるとき、これを模範にしたら」ということでした。ですから、今後、ゴスペルも続けますが、神様が新しい波を起こして下さったなら、その波に乗りそこなわないようにしたいと思います。今は悪い時代です。多くの人たちが時間を無駄に使っています。私たちは神様から与えられた貴重な人生を、時間を神様の栄光のために使いたいと思います。使徒パウロが言いました。「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい」。神様が下さったチャンスを最大限に用いて、福音の種を蒔いていく。水の上にパンを投げるようなことに思えても、後の日になって見いだすことができることを信じましょう。


2.御霊に満たされなさい

 エペソ5:18-19「また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。」御霊に満たされるということは、どちらでも良いよ、というオプションではなくて、命令であることに注目したいと思います。ところで、未信者に対する神様の第一の命令は何でしょう。それは「救い主イエスを信じて神と和解せよ、救いを得なさい」ということであります。それでは、クリスチャンに対する神様の第一の命令は何でしょうか。神様を愛することでしょうか?伝道することでしょうか?それとも、罪から離れ聖い生活をすることでしょうか?もちろん、そういうことも大切ですが、もっと根本的なことがあります。それは、「御霊に満たされる」ということであります。クリスチャンが御霊に満たされたならば、愛の生活を送り、人々に伝道し、聖い生活を送ることが可能だからです。使徒1:8「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」アーメンです。先週、Pこ、水島兄が解放キャンプから帰ってきました。本当に聖霊に満たされている、という感じでした。だれにでもイエス様を伝えたい、一緒に勉強会を持ちたい、と願っていたことでしょう。Pこに捕まったら、大変だ、恐れていた人もあるいはいたかもいれません。しかし、1週間たつと、少しさめてきます。2週間たつと元の木阿弥…ん、なことありませんが、原文は「御霊に満たされ続けなさい」という継続形になっています。ですから、1度きりではなく、何度も満たされ続けることが重要であります。

 御霊に満たされるとはどういうことなのでしょうか。御霊、聖霊は液体のように減ったり増えたりするのでしょうか。「先週は、満タンだったけど、今日は三分の二くらいかな?」「私はEの方で赤いランプ点灯しています」…なんだかガソリンみたいですね。「御霊に満たされる」ということは、実は「御霊に支配される」と言うことの方がより、正確かもしれません。なぜなら、18節にはお酒のことが書かれているからです。つまり、お酒に酔うことと聖霊に満たされることは似た現象を伴うということです。人がお酒に支配されるとどうなるでしょうか。それまでおとなしかった人が急に大胆になります。気が大きくなり、しゃべり出しますね。初代教会の聖徒たちは聖霊に満たされて大胆になりました。使徒ペテロなどは、十字架を恐れて逃亡し、戸を閉じて隠れていました。しかし、ペンテコステの日、聖霊が注がれて、大胆に語りだしました。捕えられたとき、「神様に聞き従うより、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断してください」とまで言いました。また、酒に酔うと歩き方がへんになります。自分の意志とは別の方向に導かれていきます。人が聖霊に満たされると、聖霊に導かれて歩むのです。つまり、神様に従順し、神様のみこころのうちを歩みたくなります。以前とは違って、罪を犯すと気持ちが悪いんです。神様に従うと喜びと平安がやってきます。さらに、酒に酔うと歌ったり踊り出したりします。聖霊に満たされるとどうなるでしょうか。そうです。賛美したり、踊りたくなるんです。

 ゴスペルで「ダビデのように」という賛美があります。「聖霊があなたの上に臨むとき、ダビデのように歌うでしょう。聖霊があなたの上に臨むとき、ダビデのように祈るでしょう。聖霊があなたの上に臨むとき、ダビデのように踊るでしょう。」ダビデは自分が王様であることを忘れ、半ケツ状態で力の限り踊りました。もう、喜びが抑えきれなったのでしょう。クリスチャンは長い歴史の中で、真面目でおとなしい存在だとレッテルが貼られてしまっています。詩篇を見ますと、ダビデの幕屋の礼拝はかなり賑やかだったことが想像できます。だって、鳴り響くシンバル、十弦の琴、タンバリン、立琴…鳴り物入りです。人々には喜び叫べ、手を打ち鳴らせ、踊れ、主にあって楽しめと、命じられています。陰気臭い、悲しい顔はあがなわれた者にはふさわしくありません。それでは、新約の初代教会はどうでしょうか。先ほどお読みした、エペソ5:19以降を見ますと、「詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。」と書かれています。ここには何種類もの歌があります。詩と賛美と霊の歌、心から歌い、また賛美しなさい。互いに語り、いつでもすべてのことについて感謝せよ。…もううるさくて仕方がありません。Pこみたいな人は一人いれば、十分なような気がしますが、初代教会にはそういう人がたくさんいたわけですね。

 私は自慢ではありませんが、クリスチャンになる前は、不平不満の塊でした。子供のときは、何かを買ってもらっても、感謝なんてことはまずありませんでした。色が悪い形が合わないとか,文句ばかりつけていました。「給料が安い、あいつのせいだ、俺は損している」とか文句タラタラでした。しかし、クリスチャンなってから「感謝します」などと言えるようになりました。感謝が出て来た、これは救いを得たことの大きなしるしです。クリスチャンになっても、良いことばかりではありません。マイナスのことが起こっても、感謝できるようになりました。もちろん、そのときは「ちくしょう!」とか「なんだよ!」と口からポロッと出るときもあります。しかし、考えなおして、「神様はきっと、万事を益としてくださる。だから、感謝しよう」と思うわけです。

 ところで、どのようにしたら御霊に満たされるのでしょうか。歴代の人たちは様々な条件をつけました。徹底的に罪を悔い改めなさい。時間をかけて祈りなさい。賛美しなさい。もちろん、そういうことも大切です。でも、一番大切なのは信仰であります。「主よ、私を聖霊で満たして下さい」と祈り求めれば良いのです。私のこの部分にもあなたを認めます。私のこの生活にもあなたを歓迎します。私のこの部分においてもあなたに従います。すべての分野であなたを認め、あなたを歓迎し、あなたに従います!と告白すれば良いのです。そのとき、罪の告白が出てくるなら、大胆に悔い改めれば良いのです。一番まずいのが、特別な体験とか奇蹟的なことを期待することです。そういうものは、あっても良いし、なくても良いのです。最も大切なことは信仰です。主に、満たして下さいと求めたのだから、主がすでに満たして下ったと信じることなのです。アーメン。主が必要であるなら、しるしとか奇蹟、あるいは不思議な体験を与えて下さいます。でも、そういうものはおまけであって、なければなくても良いのです。でも、聖霊に満たされた結果、すくなくとも以下のことが現われます。それは、19-21節の事柄です。聖霊に満たされたならば、詩と賛美と霊の歌が出てきます。心から歌いたくなります。互いに語りたくなります。感謝が出てきます。神様に喜んで従いたくなります。逆に言うなら、聖霊に満たされていない人は、賛美をしたり、イエス様のことを語ったり、感謝が出てくるはずがありません。器用な人は形でそういうことがもしかしたらできるかもしれません。しかし、聖霊に満たされたなら、心の内側から、腹の底から喜びと感謝が出てきます。そして、神様に従順すること、これが最大の御霊の実であります。神様は私たちが願う以上に、神の子たちをご自身の霊で満たしたいのです。そうるすなら、罪に打ち勝ち、勝利的な信仰生活を送ることができるからです。ヨハネ7:37でイエス様が約束されました。「だれでも渇いているなら、私のもとに来て飲みなさい。私を信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける川の水が流れ出るようになる」。

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