桜の季節になりますと、天に帰られた山崎長老さん思い出します。山崎兄は桜の花がとっても好きでした。「ああ。今年も桜を見ることができた!」と喜ぶんです。その言葉を聞くたびに、ああ、私もあと何回、桜を見ることができるのだろう!と思いました。なんか、しんみりとしてしまします。ところで、英語で繁栄のことを、フローリッシュとかと言います。これは、花が咲くというという言葉から来ています。草花は大体、1回しか花が咲くときがありません。しかし、桜は毎年、花が咲きます。幼木のときも、大木のときも、そして老木も咲きます。クリスチャンの人生も1回だけではなく、なんども花開くときがあるのではないでしょうか。そして、たとえ死んでからも復活という花が咲くと思えば、感謝、感謝であります。
1.私を思い出して下さい
イエス様を取り囲む人たちが、何種類かいたと思いますが、みな共通した言葉を発しています。民衆あるいは指導者たちはどう言ったでしょうか。35節「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」そして、ローマ兵は「ユダヤ人の王なら、自分を救え」と言いました。39節では犯罪人のひとりが「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」と悪口を言いました。共通していることは、「キリストなら自分を救え」ということです。これは、イエス様にとって、最後の強烈な誘惑ではなかったかと思います。マタイ福音書には、人々が「十字架から降りて来い」と言ったと書かれています。もし、イエス様が十字架から降りて、自分を救ったならどうなるでしょう。人類の贖いは成立しないことになります。これはまさしく、悪魔の最後の誘惑だったのではないかと思います。「もし、神のキリストなら」という、言い回しは、40日間断食した後に、イエス様を誘惑した言葉とそっくりです。「もし」じゃなく、本当にイエス様は神の子であり、キリストでした。しかし、悪魔は人々の口を借りて、「もし、キリストなら、自分を救え」「十字架から降りて来い。そうしたら信じる」と誘惑したのであります。
このように、イエス様は肉体的にも精神的にも最も苦しい状況にありました。しかし、イエス様は最後まで、自分ではなく、人々を救おうとしました。その最後の人とは、十字架にかかっている片方の犯罪人でした。イエス様の両脇には、犯罪人がそれぞれ付けられていました。おそらく最初は両者とも、イエス様に悪口を言っていたのでしょう。ところが、片方の犯罪人は、「どうも様子がおかしいぞ!この方はただの犯罪人ではない!」と気付き始めたのです。一体、どんな風に変化したのでしょうか。まず、40節を見ますと、悪口を言いつづける一方の犯罪人をたしなめています。そして、「おまえは神をも恐れないのか」と言いました。つまり、彼は、神を恐れる思いが出てきました。彼がはじめから、神を恐れていたなら、死刑になるまで犯罪など犯すわけがありません。これまで、「神なんか、くそくらえ!」と生きて来たのでありましょう。でも、イエス様の側にいて、神を恐れる信仰が芽生えてきました。その次は、41節「我々は、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ」と、自分の罪を認めています。彼は聖霊によって、罪がわかったのです。罪を認めること、認罪、これも救われるためには重要です。さらに続いて、「だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ」と言っています。しかし、この犯罪人は恐らく、イエス様と初対面だったのではないでしょうか。でも、「イエス様は正しい方で罪はない」と言っています。これは、聖霊によるところの啓示であります。多くの人は、神様までは分かりますが、イエス様がどんなお方かが分かりません。そして、最終的に犯罪人は、信仰告白をしました。「イエス様。あなたこそ、御国の位につく王なるキリストだ」ということを告白しています。しかし、犯罪人は「私を救ってくれ」とはとても、口はばったくて言えませんでした。どう言ったでしょう。「私を思い出して下さい」としか言えませんでした。「ああ。十字架のとなりに、悔い改めた犯罪人がいたなー」。それだけで、良いよということなのです。
それで、イエス様は何とお答えしたでしょうか。「今さら何を言うのか。虫が良いのもほどがある」と言ったでしょうか。それとも、「んー、考えておくよ。今度また、縁があったらなー」と答えたでしょうか。彼には「また」とか「今度」なんか無いんです。もう、死んで行くんですから。43節「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、私と共にパラダイスにいます」。これこそ、福音中の福音であります。いつかでありません。やがてでもありません。「きょう、私と共にパラダイスにいます」。彼はイエス様と一緒に直通で、パラダイスに行くことができました。もちろん、彼は死刑を免れませんでしたが、その魂は即救われたわけであります。なぜ、これが福音中の福音かと申しますと、犯罪人は何も良いことをしなくても、償いをしなくても信仰のみによって救われたからです。もし、「信じるだけじゃだめだ。善いわざも必要だ」と言われたら、この犯罪人は絶対不可能です。なぜなら、両手、両足が釘付けされていますので、何もできません。この物語は、救いのためには、善いわざは不要であることを教えている、神学的にとても重要な個所であります。
そして、この物語は、私たちにものすごい希望を与えてくれます。なぜなら、どんな人にも救われるチャンスがある、どんな人にも神様のあわれみが注がれていることが理解できます。でも、このことを逆手に取る人もたまにいます。「あの犯罪人はさんざん悪いことをした後、死ぬ一歩手前で悔い改めた。そうだ。私もすぐにはクリスチャンにならないで、好きなことをしてから、ま、死ぬ直前に『イエス様。信じます』と言えばいいじゃないか」と考える人もいます。しかし、実際、人は死が間近になると、死ぬことが怖くて、とても信仰のことなど考えるゆとりがないそうです。そうではなく、私たちは神様を恐れ、恵みのときに恵みを受けるべきであります。この男性は、いわば、「すべりこみセーフ」の人です。「イエス様。私を思い出して下さい」Jesus
remember me!で救われたんです。なんと、ありがたいことでしょう。何年か前に、「亀有教会創立50周年記念誌」が出されました。私はその中に「すべりこみセーフ」という証しを書かせていただきました。亀有教会に赴任したときのことですが、面会謝絶の中野兄のお父さんの病室に入りました。江戸っ子でとても頑固な方でした。そのときは、酸素マスクをしている状態でした。私は「一生のお願いですから」とその時、一生のお願いを使ってしまいました。お父さんは「ウン」とうなずいてくれました。そのあとは、91才になられる中野兄のおばあちゃん、さきほどのお父さんのお母さんです。この方は痴呆がかなり進んでおられ、福音が届けられない状態でした。しかし、夜の11時、高速で麻布の病院に行きました。「牧師」ということで入れて下さり、もう一度福音を語ることができました。イエス様を信じますかと尋ねますと、顔を真正面に向け、「はい」と首を縦に振りました。私は偶然かと思い、もう一度尋ねると、「はい」と応答されました。たまたま、介護しておられた方が純福音の熱心なクリスチャンでした。「おばあちゃん、よかったね。神様が牧師先生を呼んでくれたんだよ。あなたは特別よ」と一緒に喜んでお祈りしてくれました。
そのあと、保坂兄の紹介で93歳の金子キクさんも病床洗礼を受けられました。さらに、周田さんのご主人。この方は一番手ごわかったです。しかし、この方もイエス様を信じて病床洗礼を受けられました。なんとそのとき笑顔で「ありがとう」と答えてくださいました。そのあと、池田清一兄、90歳の高齢でいらっしゃいました。急に「信じたい」ということを娘の勝美さんに告げたそうです。私は気が変わらないうちにと、その夜、ご自宅で洗礼を授けさせていただきました。また、五藤姉のご主人さんも思い出に残っています。五藤兄はものすごく理屈屋でキリスト教のこともご存知でした。しかし、脳梗塞でご飯も食べれなくなり衰弱しておられました。五藤姉から、意識がはっきりしたという連絡を受け、さっそく病院に行きました。「五藤さん。イエス様を信じたら天国にいけるんですよ。イエス様、信じましょう」と言いました。「はい」と言ってくれました。それから、五藤さんはみるみるうちに回復しました。私にこう言うんです。「あんたが天国に行くって言ったのに、こうやって生きているよ」と文句ありげにおっしゃった。私は「天国は死んでから入るところじゃなく、生きているうちにはいるんですよ」と説明しました。また、上原浩美(旧姓野村浩美)姉の、義理のお父さんも滑り込みセーフです。このときは、親戚からえらく叱られました。他にも個人タクシーの運転手さんの青木さん、それからお花茶屋の阿部さんもおられました。
しかし、too late、遅すぎたという方もいないわけではありません。私の兄は脳挫傷でした。駆けつけたときには意識がありませんでした。ICUで福音を伝えました。脈拍が高くなり、看護婦さんからストップをくらいました。その夜、午前3時頃亡くなりました。また、先週は座間教会の知人に依頼され、北柏の慈恵医大に行きました。肺癌で呼吸器を付けておられました。意識が無い状態でしたが伝えました。が、残念ですが、応答はいただけませんでした。もう少し前だったらと残念に思いました。多くの方々は、死に瀕しているとき、やはり神様を求めます。周りでささえる肉親のクリスチャンがいたなら、高い確率で救われます。私はルカ23章こそ、神様のあわれみが最大限に示されている個所ではないかと思います。使徒2:21「しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる」と約束されています。死ぬ間際でも、主の名を呼ぶ者は救われるのです。イエス様は一人でも多くの人を救いたいと願っておられます。たとえ、信仰告白が完全でなくても、罪の悔い改めが徹底していなくても、「イエス様。私を思い出して下さい」でも救って下さるのです。イエス様の「イ」でも救って下さるのです。あわれみに富みたもう神様に感謝しましょう!
2.我が霊を御手にゆだねます
イエス様は十字架で7つの言葉を発したことが4つの福音書を見ますとわかります。しかし、ルカはその7つの中の3つの言葉しか残していません。最初のものは「父よ。彼らをお赦し下さい」という祈りでした。二つ目は犯罪人に対する言葉です。その後、「私は渇く」とか、「我が神、我が神どうして私を見捨てられたのですか」「すべてが完了した」という叫びがあるのですが、それは他の福音記者に任せています。そして、最後の「父よ。わが霊を御手にゆだねます」を書き残しました。ルカ福音書の特徴は祈りです。イエス様は十字架上で「父よ」と祈り、「父よ」と祈って息をひきとったのです。私たちは死ぬ前に、どのような言葉を残して死ぬでしょうか。ハーベストタイムの中川先生のテープにありましたが、サンドイッチを経営しているお父さんが息子に残した最後の言葉です。お父さんが息を引き取る前に息子に言った言葉それは、「ハムは薄く切れよ!」だったそうです。おそらく、商売のことを心配したのだと思いますが、んんん、どうなんでしょう。
救い主が祈られたのは、自分の霊についてでありました。しかし、臨終の床にある人々は、往々にして肉体のことに心を奪われます。肉体的な苦痛などのためにそうなるのかもしれません。中には、生命のなくなったあとの肉体の始末に異常な配慮をする人もあって、自分の葬式についてこと細かく指示を残して行きます。また、悲しいことに、死に行く人の心が、この世のもろもろのことどもに集中することもまれではありません。処理すべき財産のこととか、家族のことを思って心が乱れたりします。しかし、もっとも重要なのは、自分の霊であります。霊は私たちの存在の最も繊細な、最も高い、最も神聖な部分であります。霊は魂よりも深い部分の、神様と連なるところであります。この世の罪と悪魔が、死のまぎわに特に活発になります。彼らは、霊が肉体を離れる瞬間、これを捕え、引き摺り下ろして、永遠性を奪い去ろうと構えています。しかし、イエス様ご自身はこれらの敵の手をかわして、ご自分の霊を神の手の中に置かれました。神の子イエス様は、最も安全な父の御手に霊をゆだねるために祈られました。
先週も引用しましたが、『キリストの最期』という本を書かれたジェームス・ストーカーがこう言っておられます。「われわれが、自分の最後のことばを祈りにしたいと願うならば、今すぐにでも祈ることを始めるべきである。もし主の御顔が、我々の死の床に輝くことを欲するならば、今から彼になじみ、彼との間に平和を回復すべきである。もし、我々が、キリストの、あるいは聖徒の最後を見ながら、自分の死も義人の死でありたい、自分の最期もああでありたいと思うならば、いまただちに義人の生活をはじめ、そのすぐれた習慣を実行に移すべきであろう。」つまり、イエス様はいつも祈っておられたので、死ぬ間際も祈ることができたので。さきほどのサンドイッチ屋さんのお父さんじゃありませんが、急に祈れって言われても無理であります。私たちは臨終の祈りの練習ができます。それは、一日の終わりであります。死の象徴とでもいうべき眠りの状態に入ろうとするとき、最も自然な心の状態は祈りであります。ですから、イエス様は十字架上で、まるで、御父に「おやすみなさい」とでも言うかのように、息を取られたということです。ステパノもイエス様と同じように、「父よ彼らをお赦し下さい」そして「私の霊を御手にゆだねます」と殉教の際に祈りました。書物を調べてみますと。ローマ時代のポリュカルポスも火刑に処せられるときに「わが霊を御手にゆだねます」言いました。ジョン・フスも、ルターも、メランヒトン、その他、多くの時世の言葉でもありました。
でも、イエス様の「父よ。我が霊を御手にゆだねます」はもう1つの意味があります。イエス様は父なる神に「霊をゆだねます」と祈られましたが、再びその霊を見いだすことを期待して委ねられたのです。使徒パウロは死ぬ前にこう言いました。Uテモテ1:12「その方は私のお任せしたものを、かの日のために守って下さることができると確信しているからです。」イエス様は死ぬことを覚悟していました。でも、父なる神がご自分を復活させて下ることも信じていたのです。ですから、「かの日」に、預けておいたものを返してくださる、だから「私の霊をお預けします」と祈られたのです。皆さんは、霊を一体どこに預けるでしょうか?銀行でしょうか?お寺さんでしょうか?それとも、そんなものは存在しないんだと唯物論者みたいなことを言われるでしょうか。霊は永遠のものです。地獄で永遠を過ごすか、神と共に永遠を過ごすのか、これが一番、重要です。イエス様は十字架上で罪を負ったときに、一度、我を忘れたかのようなときがありました。永遠から共におられた御父から捨てられ、「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになられたのですか!」と地獄の叫びをしました。あれは、本来なら、私たち罪人が地獄から発しなければならない言葉です。しかし、イエス様が神から一度捨てられ、地獄をなめてくださった。その後、「すべてが完了した」と叫ばれました。贖いの代価を払われたのち、再び「父よ」と呼ぶことができたのです。イエス様はご自分の霊を御手にゆだね。復活を待ったのです。ですから、イエス様にとって死は恐ろしいものではなく、「おやすみなさい」くらいのものだったのです。
ステパノをはじめ、さきほどの聖徒たちも、「私の霊をゆだねます」と祈りましたが、おそらく、彼らは死は終わりではなく、復活を心から期待して、祈られたのだと思います。神様は真実なるお方です。使徒パウロは、「死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主イエス・キリストにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」(ローマ8:38-)と言いました。この言葉の中に、死だけではなく「死も、老いも」と入れたいですね。私も夏が来ますと50になります。自分では25才くらいのつもりなんですけど、全く信じられません。しかし、いつか、70になり、80になり。自分がだれか分からなくなる時が来るかもしれません。「イエス様。私を思い出して下さい」と言えるうちがまだ花かもしれません。たとえ私たちがイエス様を忘れても、イエス様は私を覚えていらっしゃいます。クリスチャンは死も老後も心配ありません。死ぬまで生きて、死んだら、復活があります。今、私はとっても幸せです。羊たちに囲まれ、こうして、賛美にあふれ、大変恵まれた礼拝を持たせていただいております。私は、人生のフローリッシュ、花が咲く時を持っています。これ、すべて、イエス様のおかげであります。イエス様はとことん私たちを贖ってくださるかたです。あなたにも、神様はフローリッシュ、花が咲く時を何度も与えて下さいます。神様はいまわの岸に犯罪人も救って下ったほど、あわれみに富んだお方です。私たちもイエス様のように、私たちの霊と、私たちのすべてを主の御手にゆだねて、きょうも明日も永遠に向って、生きて行きたいと思います。
|