| 年 | 記事 |
|---|---|
| 1519年(永正六) | 与五郎吉久没。似我与左衛門の父。小述観世祐覧。美濃権守。 本名字は檜垣本。法名は宗祐。増五郎の弟子。(四座役者目録) |
| 1569年(永禄十二) | 観世国広(似我与左衛門国広)が「似我与左衛門国広太鼓伝書」一冊を著す。 |
| 1570年(元亀元) | 四月十四日 織田信長、京にて能を催す。「たまの井」をはじめ七番を、観世大夫と今春大夫が演じる。太鼓は又二郎と与左衛門。(信長公記巻三) |
| 1575年(天正三) | 七月六日 京妙顕寺にて能八番を催した際、信長は勧(ママ)世与左衛門、勧(ママ)世又三郎に太鼓を所望。(信長公記巻八) |
| (年不詳) | 観世国広(似我与左衛門国広)が「能秘伝書」一冊を著す。 |
| 1580年(天正八) | 似我与左衛門国広没享年七十五歳。本名字は檜垣本という。(四座役者目録) |
| 1596年(文禄五) | 二月六日、興福寺薪猿楽南大門能初日の演目「殺生石」を始め七日目「三輪」までのうち合計7回を「シテ 宝生若大夫、ワキ とちはら」で演じる。 この記述は、1597年(慶長二)9回、1598年(慶長三)8回、1599年(慶長四)5回、1600年(慶長五)3回に及ぶ。(玉井家本薪能番組) |
| (年不詳) | この頃、後継者が「与左衛門」を襲名か? |
| 1612年(慶長十七) | 九月十一日、二十五日 松平上総介越後在国能にて与左衛門太鼓を演じる。(能之留帳) |
| 1613年(慶長十八) | 一月二十五日 下間少進法印邸能にて与左衛門が太鼓を演じる。以後、与左衛門は下間邸で元和元年(1615)九月十一日まで合計八回の記録あり。(能之留帳) |
| 1625年(寛永二) | 「太皷秘書」一冊が著される。著者不明であるが注記に「観世与左衛門国広秘伝」とある。 |
| 1645年(正保三) | 観世元信が「四座役者目録」二巻三冊を著す。 |
| 1837年(天保八) | 与左衛門の名は、この年の十月五日、江戸城における太鼓まで数多く記述されている。(触流し御能組) |