= ハンセン病との闘い =
時 代 を 担 っ た 人 々
小笠原 登 光田 健輔 ハンナ・リデル エダ・ライト コンウォール・リー
(1888年〜1970年) (1876年〜1964年) (1855年〜1932年) (1870年〜1950年) (1857年〜1941年)
1876 山口県生まれ イギリス生まれ ハンナ・リデルの姪メイ 英国カンタベリーの人
1888 愛知県に生まれる。
祖父は、僧侶であるとともに、漢方医術でらい病、淋病、梅毒、瘰癧などの治療をしたといわれている。
三上千代
(1891年〜1978年)
1891 山形県生まれ 英語教師として五高に赴任
1893 花見に案内された本妙寺境内で、ハンセン病患者の悲惨な姿を目撃し、救済を思い立つ。
1895 済生学舎(私立医学校)に合格
1896 同校卒業→医術開業試験合格→帝国大学医学選科[病理学]
1898 東京帝国大学病理特科修業 本国イギリスの知人の援助や私財を投じて五高に程近い黒髪の地に回春病院を設立。
石館 守三 宮崎 松記 東京市養育院に勤務
1899 (1901年〜1996年) (1900年〜1972年) 東京市養育院に隔離療養の「回春病室」開設。同室主任。 小川正子
(1902年〜1943年)
青森県生まれ 熊本県生まれ
1902 山梨県生まれ
1905 日露戦後、日本が大国と認められるようになって、母国からの支援が途絶し、財政援助を求めて日本橋・銀行会館で癩救済講演会を催す。(支援者:大隈重信・渋沢栄一)
1907 勅令「らい予防ニ関スル件」公布 勅令「らい予防ニ関スル件」公布
1908 51歳の時に宣教師として単身来日。日本聖公会に属し、東京、横浜、沼津などで布教活動を行う。
1909 国内5ヶ所に府県連合「らい」療養所の設置決定 第一区連合府県立全生(ぜんせい)病院創立により、同病院医長となる。 国内5ヶ所に府県連合「らい」療養所の設置決定
1910 南伊豆の伝道館に勤める。(17歳)
ハンセン病の少女との出会いがきっかけとなり、救"らい"活動に取り組むようになる。
1914 東京「全生病院」院長に昇格。保健衛生調査会委員内務部社会課兼務。
らい予防視察のため欧米各国を視察。
1915 京都帝大医学科を卒業後、同校で薬物学を研究。 入所者同士の結婚に、断種を条件とする。
1916 ハンセン病救済に生涯を捧げることを決意し、湯之沢に草津伝道所「平和館」を建てる。
1917 5月、コンウォール・リー女史の招きに応じて草津の湯ノ沢へ入る
1918 甲府高等女学校卒業。
東京女子医専予科入学。
11月、服部けさ医師を迎え「聖バルナバ医院」開設、患者の治療を始める。 第一次大戦の景気にわきたつ中、聖バルナバ医院を中心に18のホーム、教会、小学校、保育所をいとなむ。
1919 二高理科2類に進学。 大風子油による病型判定法を発表
1920 「国立"らい"療養所」計画(10年間で 5千人収容)を決定。 内務省より、用地の調査・選定を命ぜられ、海外を視察。帰途、沖縄・長島等に立寄る。 「国立"らい"療養所」計画(10年間で 5千人収容)を決定。
1922 東大医学部薬学科入学
1923 第3回国際らい学会にて、大風子油に関する研究成果が「光田反応」と、注目される。 伯母の活動を援けるために回春病院に入る。
1924 服部医師と相談の上、リー女史の事業を離れて「鈴蘭病院」を作くるが、開院23日目に服部医師が死去。全生病院へ戻り、一時勤務をする。
1925 皮膚科泌尿器科に転じ、
翌年かららい病の治療を担当。
1927 国立療養所第1号の設置場所を、岡山県長島と決める。
1929 「無"らい"県運動」愛知県より始まり、全国に広まる 医専本科卒業後、東京市立大久保病院、(財)賛育会病院砂町診療所、泉橋慈恵病院などに勤務。研究・診療に従事。 「無"らい"県運動」愛知県より始まり、全国に広まる
1931 宮城県に患者家族の児童保育所「第二鈴蘭園」を開設、らい患者とその家族のために事業を広げる。
1932 医専時代に全生病院を見学していた。その縁で長島愛生園に勤務。 園内の治療・外部への積極的な検診活動を行う。 76歳で死去。皇太后・天皇・皇后より祭祀料&供花。遺骨は、回春病院の納骨堂に納る。
1934 県立九州”ライ”療養所
所長就任。
リデルの没後、二代目院長として院内外での救済活動に積極的に取り組む。
1936 生薬植物化学研究のためドイツへ留学
1938 帰国後、東北大の吉田富三らとの共同研究を経て、日本における合成ガン化学療法剤第一号「ナイトロミン」を開発。 "らい"病の診療及び研究施設として新設された皮膚科特別研究室の主任となる。 沖縄県に国頭愛楽園(現沖縄愛楽園)が開園。
看護婦長として赴任。(47歳)
1940 国 民 優 性 法 公布 国 民 優 性 法 公布 スパイの嫌疑を受け、病院事務長が警察に留置され、病院の帳簿総ベてが押収される等の迫害を受け、ついに回春病院を閉鎖し、国外退去(オーストラリアへ)を余儀なくされる。しかし一方では、乗船地(神戸)にて、皇后より労苦を謝す電報を受けとる。
1941 京都大学助教授に就任。 国立療養所へ移管。
「菊池恵楓園」と改称。
84歳で死去。勲6等瑞宝章が遺贈される。
  1943 アメリカで「プロミン」の効果が認められる。 肺結核で逝去。(43才)   「プロミン」の効果が認められる。
1945 軍用地と誤認していた米軍の猛爆を受け、壊滅的な被害を蒙る。
1946 戦時中の物資不足の中でも続けていた和製「プロミン」の合成に成功。
多摩全生園で治験に入る。
GHQ公衆衛生部長より「プロミン」治療の論文を入手する。
一方では、日本製「プロミン」の追試に取組み、園内に「化学療法科」を新設、専任医官を配す。
郷里に、彼女の業績をたたえて町立「記念館」が建つ
1948 1948(昭和23)年に再来日。老後を龍田寮(未感染児童施設)の子供たちや患者たちへの献身の日をおくる。
1950 80歳で逝去。
政府より勲4等瑞宝章が遺贈される。
1951 第24回日本"らい"学会総会回。 参院委員会で「隔離・強制」の要を説く。(3園長証言) 第24回日本"らい"学会総会回。 リデル・ライト記念養老院が開設される。
1952 このころ、愛生園化学療法科と「国際らい化学療法臨床研究会」が共同研究に取組む。
1953 「らい予防法制定」 「らい予防法」制定
1954 竜田寮児童に対する
本校通学拒否事件
1957 愛生園長を退官。名誉園長就任。
1958 東大薬学部開設。
初代学部長就任。
恵楓園園長を辞任。
その後、インドでのハンセン病診療活動に尽力。
戦時中の献身が認められ、
ナイチンゲール賞受賞
1959 ライオンズクラブの事業活動として、インドで半年間、ライ医療の実態を視察、インド政府あてに報告書をまとめる。
1964 逝去
1966 退官 第1回内閣総理大臣顕彰
受賞。
1967 インドのアグラに「アジア救らい協会インドセンター」完成。
1970 中央薬事審議会会長として、整腸剤キノホルムが疑わしいと販売・使用中止を答申。スモン病の発生を絶つ。 81歳、郷里で
逝去。
1972 ニューデリーの飛行機事故で
逝去
1978 85歳で死去。
1994 両女史の功績を末永く伝える為に、回春病院跡地(熊本大学黒髪北キャンパス裏手)の「リデル・ライト記念老人ホーム」内に「リデル・ライト記念館」開館。
  1996   自宅にて逝去。 「らい予防法」廃止 「らい予防法」廃止