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ハンセン病との闘い (前編)
「不治・遺伝」から「伝染・隔離」へ
凡例 国際関連 国内関連 長島愛生園関連
 確実な治療法や医学的知識がなかったころのハンセン病は、「天刑病」(天が罰している刑であること)「業病」(過去の悪事に対する報いであること)などと呼ばれていたという。
 しかし、そうした時代の中でも患者の救済に立った人物もいた。
奈良時代
(西紀740頃)
光明皇后、施薬院を設ける。
鎌倉時代 律宗の僧忍性(大和の人)、奈良に我が国最古の救癩施設「北山十八間戸」を創設した。
  * 歩けない重症患者を背負って毎日未明に町へ出て物乞いをさせ、夕方再び背負って帰り、生活を成り立たせたという逸話が伝わっている。
北山18間戸(現姿)
* 1303年、87歳で没。後醍醐天皇より菩薩号が与えられた。
 ハンセン病は、また、家族などに感染が広がる例があったことから「らい筋」といった家系的な経緯で移っていくと考えられ、江戸時代には「遺伝」と一般化されてもいた。
1873(明6)   ノールウェイのハンセン医師、らい菌を発見
以後、隔離療法が施され、新患者は激減したという
1889(明22)   テストウィード神父(フランス人)、静岡県御殿場に「復生病院」を開設。
1890(明23) 12月 リデル女史(イギリス人)、基督教プロテスタント派伝道師として熊本に着任。
  * 当時ヨーロッパでは、各国共すでに「らい患者」は隔離収容され、彼女の母国ではすでに忘れ去られた病気であったようだ。
1891(明24)   リデル女史、医師と看護士を自費で雇い、熊本・本妙寺近くに臨時救護所を開く。
1895(明28) 11/12 リデル女史、「回春病院」を開設。
  * 病院建設のための募金は、母国の知人・有志に始まって日本国内にもおよび、4000坪の敷地に総建坪約200坪(第1期工事)の完成を見たものである。
* ほどなく入院した患者は38名、中に5才と7才の女子も含んでいたという。
* 翌(明29)年、女史の姪であり養女でもあるエダ・ライトさん(26才)が伯母をしたって来日、水戸の師範学校に英語教師として勤めるようになる。
リデル女史は、彼女を将来の後継者として期待していた。
3月 光田健輔青年(後、長島愛生園初代園長)、済生学舎(私立医学校)に合格。
  * 当時20才、独学で医師の前期開業試験に合格していた。
1897(明30) この年 第1回国際らい会議(於ベルリン)。
会議は、ノルウェーの成功例に学び、「不治の伝染病」であるハンセン病が広がるのを防ぐには、社会から「隔離」することが最善の策であると報告された。
  * 会議は、各国の社会状況を考慮(欧州の人道思想)に配慮しながら、医師である行政官や司法官の意見を尊重すべき事が付加されていた。
* しかし、当時の日本では、衛生行政の主体は内務省警察部にあったので、「隔離」=「取締まり」の感を免れなかった。
1898(明31)   コール神父(フランス人)、法王庁派遣の修道女5人と共に、熊本:本妙寺近くに「待労院」と名付けるカトリック系療養所を開く。
1906(明39)   内務省調査による「らい」患者数 23,515名。(総人口 47,038万人)
1907(明40)   「明治40年法律第11号 らい予防ニ関スル件」成立。
  * 第3条 らい患者ニシテ療養ノ途ヲ有セズ且救護者ナキモナハ行政官庁ニ於イテ命令ノ定ル所ニ従イ療養所ニ入ラシメ之ヲ救護スベシ
1909(明42) この年 全国を5ブロックに分け、それぞれの地域の府県が共同して1カ所ずつ「らい」療養所を、国家予算で設けることとなる。(合計定員 1,000名)
  * 特に「浮浪患者」など風紀・外観等好ましくないと、諸外国への「体裁」が先立っていた。
* 管理・運営は内務官僚(退職警察署長など)が握り、医師は「医業従事者」に過ぎなかった。
1914(大3)   全生病院光田健輔医長、院長へ昇格。
  * 病室の脇に花壇を作らせ、ぶどう棚にまで育てあげ、しばしの憩いの場ともなった。
* 患者たちが庭の片隅に作っていた小さな畑を広げさせ、作物を栽培させた。
* 希望者には養鶏を許し、その卵は重症者に配って余るほどになった。
* 入寮者たちの生活に新しい希望が、病院に明るい精気が湧いてきた。
* もっとも困難な問題は、入寮者間の男・女間の感情の動きであった。
この人間自然の情にどのように対してゆくのか。それは、リデル女史の回春病院のように宗教の戒律を仰いでの指導とは異なる問題であったし、なによりも院長の描く「療養生活」にはそぐわなかった。
* 全生病院では、350名の患者に、そのようにして生まれた赤ちゃんが30人になったこともあった。八方に手を尽くし終えた院長の最後の決断が、今に「法を犯してまで」と悪評の高い男性の「断種」であった。即座に数人が、翌日には20数人の自発的な申し出があった、とのことだ。
1916(大5)   「癩予防ニ関スル件」の一部改正により、療養所長に懲戒検束権が与えられた。
「患者懲戒・検束に関する施行細則」が定められ、強制収容施設としての性格が強くなった。
  * この細則による懲戒検束事由の定めは極めて抽象的であり、恣意的な運用の危険を含み持つものであった。
* 風紀を乱したとか、職員の指揮命令に服従しなかったという理由で減食等の処分。
* 逃亡し又は逃亡しようとしたとか、他人を煽動して所内の安寧秩序を害し又は害そうとしたという理由で監禁等の処分
1919(大8) 6月 全生病院:光田院長、大風子油の効果について医学誌に発表。
  * 一時は有効に見えるが、患者の81%が2年か〜12年(平均6年半)で再発するので、根治薬とはいえない。
1920(大9)   内務省、「保健衛生調査会」を設置。「国立らい療養所」=10年間で 5千人収容計画を決定。
  * 全生病院光田健輔院長に用地の調査・選定を命じる。
* 沖縄・台湾を視察の帰途、岡山:長島に立ち寄る。
1923(大12)   第3回国際らい学会。
光田全生病院長の大風子油に関する論文(1919(大6)前述)が注目される。
1927(昭2) 10月 国立らい療養所第一号として岡山県長島に設立が決まり(勅令第308号)、1929(昭4)年1月19日から建設が始まった。
  * 島には水が無く、吉井川からの取水も拒否されて、仕方なく島から20キロ離れた田を買い取り、井戸を掘って水道を布設した。
* 岡山県警察部から退職者の採用を求められたが、初期の東京全生病院での「おい!こら!」管理と入寮患者との軋轢に懲りていた院長はこれを断った。
1929(昭4) この年 「県から気の毒ならい病患者をなくそう」という「無らい県運動」始まる。
1930(昭5) 10/1 「らい根絶20年計画」 政府案できる。
この案では、隔離収容した患者は、収容後10年以内に死亡すると見込んでいた。
調査数患者総数療養所入所者数在宅患者数入所者数の割合
14,2613,26111,000約23%
11/20 初の国立療養所として長島愛生園開園(定員400名)。
東京全生病院光田健輔院長が初代園長となる。
1931(昭6) 3月 「財団法人らい予防協会(以下,らい予防協会と称する)」が設立される
  * 各都道府県とも協力し,在宅患者に療養所に入ることを勧める訪問事業や新たな患者の掘り起こしを行うこととなった。
* 日本基督教救らい協会、大谷派光明会などの宗教関係、その他にも会社関係等、らい予防協会に協力した。
* 三井報恩会(三井系会社員のグループ)は長年に渉って募金を寄せ、その額は雄に200万円を超え、各地に三千人分の設備が整った程である。
3/27 国立療養所長島愛生園に開拓患者として85名、大阪より海路を経て島へ直接上陸。
  * 東京全生病院の転院希望者300名中より「生活リーダー」として選ばれた81名、途中4名を加え計85名。光田院長ほか看護士・看護婦も同行。
8月 国立療養所長島愛生園の入所者、定員を超え500名に達する
8/1 明治40年制定の「法律第11号」を改正し、「らい予防法」を公布、以降「絶対隔離政策」が実施される。
  * 以前は,「浮浪らい者」のみが「隔離収容」の対象であったが,これ以降は、伝染のおそれのある者すべてが「隔離治療」されることとなった。
* 以前には、収容に際し資産や扶養義務者に関する調査が行われ,場合によっては費用負担が必要であった。1929(昭和4)年には、扶養義務者の範囲を縮小していた。
* そして,以下の各項が加えられた。
  • 救護弁償制度を廃し公的負担とした(入所者および親族に費用負担なし)。
  • ハンセン病患者の就業範囲を制限するようになった。
  • 扶養家族に対する生活補給支給が定められた。
  • 表向きはではあったが、戸籍確認などが必要でなくなったため,秘かな入所が可能になった。
  • 12/23 国立療養所長島愛生園、民間寄付により「十坪住宅」の建設に着工。
    1933(昭8) 10月 国立療養所長島愛生園の入所者 678名
    1934(昭9) 4月 国立療養所長島愛生園の入所者 732名
    11月 国立療養所長島愛生園の入所者 1,000名を超える
    1935(昭10) 2月 「らい根絶20年計画」発足。1945年までに患者1万人収容を目指す。
    全国衛生部長会・全国らい療養所長会は、政府案目標年度の5年繰り上げを申し入れた。
      * この年、各地療養所の収容患者総数 5,300人に達す。 
    1936(昭11) 国立療養所長島愛生園の入所者1,217名(定員は890名)
    長島事件起こる
    1937(昭12)   母子保護法
      * 戦争遂行の上,子どもを次世代の「人口資源」とし,配偶者がいない13歳以下の子をもつ母が貧困のために生活不能,あるいは子の養育不能となった場合,市町村が生活を扶助する。
    * 人口政策確立要綱が閣議され,妊産婦,乳幼児の保護,栄養の向上,早婚・多産の奨励,堕胎・避妊の禁止が行われるようになる。
    7月 盧溝橋事件が勃発し,太平洋戦争(第2次世界大戦)へのきっかけとなる
    11月 「二十年根絶計画」が開始され、「らい病床1万人収容」達成に向け「無らい県運動」が本格化する。
      * 「らい病床1万人収容」達成は,「紀元2600年」の「奉祝事業」として「無らい県運動」と結びつき、以後に於いて強力に展開されていくこととなる。
    * (財)三井報恩会から3カ年に渉って209万円の寄付を受け、各地に三千人分の設備が整えられる。
    * また,この寄付金は「特別病室」と称した重監房を栗生楽生園(群馬県)に設置にも利用された。この重監房は,先の長島事件(昭和11年8月)を受けてのもので、世間の「刑務所」に当たるものであった。
    この年 国立療養所長島愛生園の入所者 1,338名に達する。
    1938(昭13)   厚生省設置
      * 青年男女に結核が蔓延し,これでは兵力が低下し,次世代の人口も減少するという憂いがあった。
    以後,厚生省は,衛生行政を再編成した機関となる。
    これまでの衛生行政が警察の所管であったがため,以後も患者隔離収容に際して,衛生行政職員は警察官と連帯して強制隔離を行うこととなった。
    * 健康保健の対象外であった農漁民や個人商店主などに国民保健制度を導入する「無医村」対策とともに「人的資源」としての国民体力の強化を推進する一環を担った。
    4月 府県立外島保養所、府県立療養所光明園として岡山県長島で再建。
    この年 国立療養所長島愛生園の入所者 1,391名
    1939(昭14)   乳幼児の一斉検診が行われるようになる。
    花柳病予防法
      * 性病の蔓延を防ぐため一般病院にて性病の診療が受けられるようになる。また,対象者(主として花柳界従業者)は定期的に受診するよう義務づけがなされた。
    * この法律によって、戦地に於けるいわゆる「慰安所」への軍の管理が強制されたと考えられる。
    この年 国立療養所長島愛生園の入所者 1,453名
    1940(昭15)   国民優生法
      * 10人以上の嫡子を育てた優良多子家庭が表彰されるようになる。
    * 厚生省優生結婚相談所(1952年優生保護相談所と改称)が開設され,早婚奨励,遺伝病素因の結婚を回避する指導が行われるようになる。
    * 優生思想に基づき遺伝と決めた「障害者・病者」に断種を実施するようになる。
    この法律に於てもハンセン病患者は断種対象として含まれていない。しかし,1915(大正4)年,光田健輔(◆全生病院院長)により断種手術(ワゼクトミー)が開始されている
    国民体力法
      * 市長村長・事業主・学校長・幼稚園長に20歳未満,すなわち徴兵検査以前の男性に対する身体・体力検査の実施を義務付けた。
    * この検査でハンセン病と診断された者は強制隔離収容となり,結核と診断された者は治療を義務付けられ,「筋骨薄弱」とされた者は体力向上修錬会への参加が強制された。
    7/9
    〜11
    本妙寺(熊本市)周辺のハンセン病患者の集落が県警察部により解体させられ,118人の患者を菊池恵楓園をはじめ各地の療養所へ隔離収容した。
    この月 映画「小島の春」の封切られる。原作者:小川正子愛生園医官
    昭和9〜11年の巡回診療記録を綴った作品
    11/10〜14 「紀元2600年式典」が11月10日から14日まで全国で行われた。
      * 記念式典は、「八紘一宇」「天壌無窮」「尽忠報国」を説き、11月10日から14日まで、国の内外を問わず、国民を挙げて行われた。
    * 明治5年以降,日本では西暦ではなく「皇紀」を使用していた。
  • 日本書紀の記述に基づき,神武天皇の即位の年を元年とする。
  • 紀元元年は,西暦紀元前660年にあたる。
  • * 「無らい県運動」や「1万人隔離」目標も、この「紀元2600年奉祝」を目標にして展開されたのである。
    * 各療養所でも「奉祝」記念行事として、施設拡張、道路・運動場の建設、植樹など,長島愛生園では十坪住宅建設なども、それぞれの療養所で取り組まれた。
    この年 「全国らい一斉調査」による入所患者は 9,190名、
     「二十年根絶計画」(1万人隔離)ほぼ達成された。
    国立療養所長島愛生園の入所者 1,533名
    1941(昭16)






    12/8

    太平洋戦争
    起こる
    5/18 患者に対しては転居という形をつけ、行政にとっては隔離収容が図られた。
     
    * 群馬県草津町湯之沢で行政の認める自治組織を持っていたハンセン病患者が勧告に従い,栗生楽泉園が自治区が認めることで収容に応じた。
    * 湯之沢の集落は本妙寺周辺の集団とは違い、就業をしており、納税をはじめ町民の義務を果たし、参政権など行政にハッキリと位置づけられた集落であった。
    * 療養所内では下記のような自由区が保障されることとなった。
  • 療養所内に自己の家を構えること。
  • 家族は近辺に居住させて双方の往来を認めること。
  • * 患者にとっては転居、行政にとっては隔離収容、湯之沢町の集落は解体させられた。
    7月 既存の公立療養所5カ所総てが国立に移管された。
    施設内病床数 10,143床、収容者数 10,448名。
    国立療養所長島愛生園の入所者 1,784名
    1942(昭17) この年 国立療養所長島愛生園の入所者 1,883名
      * 当時、医師は軍医として次々と招集を受け、わずか4名という状況であった。
    1943(昭18) この年 アメリカにて、ハンセン病に「プロミン」が有効であると発表される。
      * 日本の医学者が正しい情報を得られたのは、終戦後のようである。 

    参考資料:出典  (未熟者ですが下記に学びました。御礼を申し上げます。)
      図  書
    犀川一夫著「ハンセン病医療ひとすじ」岩波書店刊
    岡本文良著「ばらの心は海をわたった」PHP研究所刊
      ホームページ
    おかやまハンセン病啓発ホームページ
    「時分の花を咲かそう/長島愛生園」