「世間の人々がなんでもないようにいう、その侮辱的な言葉が、我々にとっては、最も恐るべき脅迫ではないか。その言葉は、われらをいかに残酷に脅迫するであろうか」
水平社創立者の一人、西光万吉氏は「徹底的糾弾の妥当性について」で、こう述べている。
全国に知られる「別府事件」も多くの犠牲を払いながら水平社同人が「残酷な脅迫」をはね返すため展開した糾弾闘争だった。
大正12年8月26日。加古郡別府村(現加古川市)の仮設小屋で、活動写真の見物人の一人が部落民を侮辱する内容の話を友だちと交わしているのを水平社同人か聞いだ。
別府水平社の森本右教委員長を中心に差別発言をした本人や父親へ謝罪状を出すよう再三、要求したか拒否された。
一日置いた28日夜、北別府の教昌寺には大阪や県下各地から応援に駆けつけた人も含めて約二百人が集まっていた。
「平和のうちに謝罪状は得られない。実力で謝罪させるしかたい」と森本委員長か報告。
同人たちは白ハチ巻き姿で別府村へデををかけることにした。
一方、別府村でも差別した本人をかばって百人余りが集まり、水平社同人を迎え撃つ構えを見せていた。
「差別が当たり前といった空気で、私らの痛みを全然、感じていない。注意すると逆に言いかかりをつけたように言われた」と当時を知る松本邦雄さん(59)=現部落解放兵庫県連役員=はいう。
<註:昭48(1973)年当時のこと>
しかも同年4月、別府小で教師の差別事件があり、水平社を結成したばかりの同人が糾弾したことから、このときの“かたき討ち”といった空気がみなぎっていたようだ。
百数十人のデモ隊が別府村へ向かう途中、別府小近くの広場付近で十人余りの警官が制止した。
「警察が介入する事件ではない」、「人権を回復に行くんだ」と叫ぶ声でデモ隊は警官を追い散らした。しかしさらに警官隊が待機している−−という情報があり、ひとまず教昌寺へ引き返した。事実、高砂署は神戸、姫路、明石から応援を得て三百人近くを配置していた。
翌29日、臨時村会で今後の処置を高砂署長に一任したことから大検挙が始まる。
北別府を取り囲んだ240人の警官隊。「遊撃隊は背面より教昌寺の水平社本部を襲い、庫裏(くり)にいた神戸、大阪、京都、神崎地方の同人、本堂の北別府村民二百人のうち森本右教ほか38人を検挙」と神戸又新日報は伝えた。
検挙は30日も続き「村で働ける男子がいなくなった」(松本さん)くらい激しい検挙だった。
事態収拾に県社会課長が訪れたが北別府側は「糾弾は中止しない」と調停を拒絶、逮捕者への差し入れ活動に走り回った。
結局、このときの検挙で長田調五郎県水平社初代委員長ら21人が4カ月から1年の実(刑翌年3月の第一審判決)二審で6人が執行猶予となっただけ。差別した側は無傷だった。
糾弾闘争が手痛い打撃をこうむる結果になったが、この闘争は部落住民の人間としての自覚を高め、団結させるうえで、後に大きな役割を果たしていく。
「差別の壁の前で」 神戸新聞社会部編著