別 府 村 事 件

こんな時代、こんな世相だった
西暦(年号) 月・日 事   柄
1871(明4) 8/28 解放令
1896(明29)   備作平民会創建
1903(明36) 6/ 大日本同胞融和会結成
1908(明48) 2/ 加古郡K村に奨徳会発足
1912(大元) 11/ 全国細民部落改善協議会組織される
1914(大3) 4/ 
6/ 
内務大臣、全国知事会にて「部落問題」初訓辞
帝国公道会発足する
1918(大7) 2/ 
2/25
6/ 
8/ 9
8/11
8/25
加古郡部落改善同盟会組織(会員127名)
印南郡長「後進部落啓発に関する件」通牒
加古郡農会、政府へ「米価調節・外米輸入に関する建議」決議
印南郡大塩の女房たち、米価値下げを求めて役場に押し掛ける
神戸市内で「米騒動」となる。軍隊出動。
宍粟郡・美方郡に及んで一応終息。
1919(大8) 1/ 
2/23
奨徳会会長、「部落改善の建議書」提出
第1回同情融和大会(帝国公道会主催)
1920(大9) 3/ 
5/ 
12/
政府、地方改善費予算5万円初計上、内兵庫県へは3500円配分
奈良県に「燕会」誕生
別府村内各部落共私設消防組を廃し、公設消防組に統一
1922(大11) 3/ 
3/30
5/ 
 
全国水平社創立大会
日本農民組合発会への警戒(加古郡農会長)
兵庫県水平社創立大会(会衆500名)
印南郡で小作料2割減を要求し、小作争議
この年、加古郡に各地水平社結成すすむ
1923(大12)   
1/21
4/
4/ 7
8/ 
8/26
8/30
10/ 
11/
全水創立満1年にして県下各地の水平社、60社に達す
加古郡改善同志会総会 警察幹部の横暴
神戸キリスト教会で日本農民組合発足
別府水平社創立
内務大臣、「地方改善に関する訓令」を達する
「別府差別事件」につながる差別発言起こる
神埼郡寺前小学校差別事件
兵庫県清和会創設。県庁に本部、1市22郡に支部、 支部長は市郡長。
加東郡上東條村小作争議 (水平社員、18人の小作農民と連帯)
1924<大13) 5/26 兵庫県水平社第2回大会、加古川公会堂で開く
7/ 7 加古郡野口A村、「小作料は世間並み」で争議解決


史(資)料で確かめる

 全国水平社創立直後に日本農民組合が結成され、社会運動は急激に前進し、活発な運動が展開された。
 水平運動が発展し、本格化する時期は農民運動・労働運動が組織的に伸長し、活発化する時期と重なり合い、各地に小作争議・労働争議が激増している。

米 騒 動 

 大正7(1919)年8月、富山県にはじまった米騒動は全国的に広がり五百余カ所、五万人にのぼる人々が参加した大騒動になりました。

 史上はじめて大規模に民衆が立ち上った米騒動はなぜ起こったのでしよう。

 大正3(1914)年にはじまった第一次大戦で、アジアからヨーロッパ諸国の商品が姿を消し、そのあとへ日本の商品が進出し、さらに戦争参加国からの軍需物資の注文などによって、各種の産業が活発になり、日本の財界は大へんなぼろむうけをし、「軍需成り金」「造船成り金」「運輸成り金」などを生みました。

 地主制のもとで高い小作料をとられて苦しんでいた貧しい農民や、農村で生活に行きづまった農民がたくさん都市ヘ流れ込んで、安い賃金で働いていた多くの労働者は、日増しに上る物価で生活はいつそう苦しくなるばかりでした。

 米の値上がりを見込んだ一部の商人は米を買い占め、また小作米を倉に積みこんだ地主たちは米を売り惜しみました。その上、大正六(一九一七)年に起こったロシア革命の影響を恐れて、政府はシベリア出兵を計画しました。シベリア出兵による食糧の大量需要を見込んで米の買い占めや売り惜しみはいつそう激しくなり、米の値段はうなぎのぼりにあがっていきました。このようにして国民の生活難はいつそうつのり、その怒りが爆発して米騒動になったのでした。
(人権の歴史 = 兵庫県同和教育研究協議会)

労 働 争 議

 安い賃金と、厳しい労働条件に苦しんでいた労働者は、米騒動と前後して組織的な運動を起こしていきました。大正十一(一九二二)年には神戸の川崎・三菱造船所で、三万人にのぼる人びとが、四十五日間にもわたる史上かってない大規模な労働争議を起こしました。翌十二年には神戸製鋼でも労働争議が起こるなど労働運動は年を追って大きく発展していきました。

小 作 争 議

 農村では、高い小作料に苦しんでいた農民が組織的な農民運動を起こしていました。
 大正十二年四月には、神戸のキリスト教青年会館で日本農民組合が結成され、当時、兵庫県下で起きていた小作争議件数は全国でももっとも多い数にのぼっています。
 当時の労働運動、農民運動の中心は、兵庫県にあったといっても過言ではないでしよう。

農民組合の組織化
  大正11年5月22日
「大阪朝日新聞神戸附録」

印南の小作争議 
農 民 組 合 の 活 動

 小作人の地主に対する争議は今や県下に蔓延しつゝあるが、印南郡志方村の小作人二百余名は予て小作料二割減を地主に交渉中の処談判決裂し、一部小作人は団結して一斉に耕地を返還するに至った、それで同地小作人は直に日本農民組合支部を組織して飽迄之に対抗すると称して居る、尚農民組合からは本部員大挙して出張、二十三日午後一時から同村に於て支部発会式を挙げると同時に、演説会を開くと

大正11年6月9日

印南郡の小作人団結
十 日 演 説 会 開 催

 印南郡地方全般に亙れる小作争議は植付前を控へて双方共対抗中であるが、小作人は此際同地方の小作人大同団結をなし初志を貫徹する為に、十日午後一時印南郡公会堂に於て日本農民組合応援の下に大演説会を開くことに決した。農民組合からは賀川豊彦氏・杉山組合長・吉田弁護士等出演すると
大正11年8月7日

東志方農民組合
七 日 発 会 式

 印南・飾磨地方の小作争議は其後植付や田草取に逐はれて一時終熄の姿であるが、小作人は今秋の争議を予想し其準備に今からかヽっている、就中印南郡東志方村の小作人は最近東志方農民組合を組織して、七日午後一時から同地に於て日本農民組合の杉山元治郎、行政長蔵、仁科雄一の諸氏を招いて発会式を挙げると


日本農民組合発会への警戒
 加農第42号ノ2
   大正11年3月30日
加古郡農会長森田久忠
各町村農会長御中

 今回賀川豊彦氏ノ主唱ニ依リ来ル四月九日神戸基督教青年会館ニ於テ日本農民組合発会式開催セラルゝ趣風聞有之候ニ就テハ、該組合設立ニ関シ発起者ヨリ貴部内農家ニ対シ加入ヲ勧誘シタルコト並ニ加入シタルモノ無キヤ否ヤ、折返シ御内報相煩シ度候

(加古川市史第6巻)


地方改善に関する訓令

 国家の健全なる発達は国民をして各其志を遂げしめ国内諸方面に亘りて相互に克く強調融和の実を挙ぐるにあり −( 中略/編者 )−
 顧るに明治維新の初め先帝畏くも五箇条の御誓文を発せられて由来の陋習を破り天地の公道に基くべき旨を宣し給ひ尋て明治四年八月太政官布告を以て一部国民に封する従来の称呼を廃し、身分職業共に何等差別を設けざる旨公布せられたり、爾来茲に五十有余年此の間中央地方相共に力を合せて地方改善の事業を努め、其の成績漸次見るベきものあるを致せりと雖然も今尚国民の間には因習的偏見を脱却する能はず依然として融和を欠くの憾なしとせず    −( 下略/編者 )−

  大正12年8月28日
                     内務大臣 水野錬太郎
(人権の歴史(下) 兵庫県同和教育協議会/『融和事業年鑑』)


別府町消防組沿革誌
1、  明治27年2月勅令第15号ヲ以テ消防組規則発布セラレシヨリ、何所ニモ私設消防組ナルモノヲ組織シ居タルモ、公設タルハ明治40年頃郡内率先シテ加古川町消防組へ公設認可ヲ与ヘラレタリ
1、  明治42年4月別府巡査部長初代駐在ノ上山富左衛門氏ノ献身的努力ニ依リ、北別府ハ公設消防組ノ認可ヲ与ヘラレタリ   北別府初代組頭ハ松本芳松
1、  大正8年4月加古郡消防協会設置セラル
1、 同9年12月時代ノ要求ニ鑑ミ、各部落共私設消防組ヲ廃シ、公設消防組トナル
  初 代 組 頭  多木  皎
  別 府 小 頭 滝川勝一 (故)呉田一治 中村清一  梶川真秀
  北別府小頭 森本右教  前田順吉  小西豊藏
  新野辺小頭 真田幸次  大歳正雄  西口義郎  松本菊次
  西 脇 小 頭 近藤吉松  山田重蔵  柳川虎次
1、  大正10年1月2日予テ計画中ノ消防公設発会式ヲ、別府小学校々庭ニ於テ挙行。県警察部長代理、加古川、高砂各署長御臨席、辞令授与後服装検査、機具点検アリテ午后宴会、盛会裡ニ解散  −下略−
(加古川市史第6巻)

差 別 の 問 題 化

1甲第412号ノ1
大正7年2月25日
印 南 郡 長 [印]

「 (筆書) 」村長殿

後 進 部 落 啓 発 ニ 関 ス ル 件

 近来一般町村民ト後進部落民トノ間、動モスレハ意思ノ疎通ヲ欠キ感情ノ衝突ヲ来スノ結果、種々ノ間題ヲ惹起スルカ如キコト往々有之、行政上・教育上甚タ遺憾ノ儀ニ候、依テ町村吏員及小学職員等ニ於テハ特ニ此等ノ点ニ注意シ、部落民ノ誘掖啓発ニ努ムヘキ様深ク御留意相成度、其筋申越ニ依り此段申牒候也

加古川市所藏西志方村役場文書「大正六年起庶務関係書類」/加古川市史V6(下)

差 別 へ の 怒 り  − 水平社運勤と警察の態度 −
大正12年1月21日 「大阪朝日新聞神戸附録」

部 落 改 善 と 加 古 川 署 僚 の 専 横          水 平 社 同 人

▲加古川警察署勤務警部補山本君本月十七日加古郡同志会場で、貴公のとった行動は余りに子供じみてはゐないか、且亦専横では無かったか、苟且にも我帝国の司法権の下に行動する貴公としては、今少し自重し熟慮して何事も処理して貰ひたい

▲当日貴公は会長及副会長の意嚮も聴かず、我々を水平社の者であるとの単なる理由を以て、列席を拒絶し退場を強要しましたネ、貴公は会長・副会長を差置いても会員を除名するの権利を有してをるのか?

▲勿論我々は水平社同人ではあるが、当日は我部落から新幹部として推選され列席したものである、そして意見を吐くことも不可ないと云はれましたネ、一体加古郡同志会なるものは官憲の定めたることを我々部落民が唯唯として只惟遵奉して居れば宣いのですネ

▲協議にも加はらず何等主張もせず、其れでは後進部落改善てふ主旨にチト背反しちやゐますまいか、其麼つまらぬものでは大枚一円の会費が泣きますヨ、最早や我々は御歴々なり、前進部落の人間達と席を連ねて飲食を倶にし其れを光栄と心得て欣んで居る程お人好し計りではありませんヨ

▲仮りに我々一人や半人が水平社の主旨を喋舌た迚、貴公等は特権階級のお歴々計りでないか、況して水平社の運動員は数名他の官憲迎合?の会員は数百名ではありませぬか、水平思想を吹込まれ会員を奪はれる惧があったのか会員をとられると美味い汁が吸へないと思って、心細かったのか、何れにしても笑止千万である

▲貴公の処置が悉く稲山署長と協議の上なるに於ては益々以て言語道断である!其□姑息的改善策では到底良結果を得られない事を断言しておく

「加古川市史 V6(下)」  


兵庫水平社初の組織闘争だった


 われわれの糾弾事件は、ある場合は口上の詫びごとだけですますし、ある場合には一枚の謝罪状でおさまり、また謝罪広告になることもある。
 ところがどうかすると、他人を侮辱する時には自分で気もつかぬぐらい平気で侮辱しておきながら、いざ謝罪状を書く段になると、どうしてもそれだけはという。なんという得手勝手なことだ。
 一枚の詫び状を書くことさえ、それ
ほど恥とする人間が、よくも今まで平気で他人を侮辱してきた。しかも彼らの多くは、単に謝罪状を書くことが恥だと思うばかりでなく、なお水平社ぐらいに詫び状をとられてはという気持が力強く働いている。真に謝罪状を書くことがそれほど恥だと思うなれば、つまりそれほど恥を知るならば、当然進んで謝罪状を出すベきではないか。

「西光万吉著作集第一巻」  

 「世間の人々がなんでもないようにいう、その侮辱的な言葉が、我々にとっては、最も恐るべき脅迫ではないか。その言葉は、われらをいかに残酷に脅迫するであろうか」

 水平社創立者の一人、西光万吉氏は「徹底的糾弾の妥当性について」で、こう述べている。

 全国に知られる「別府事件」も多くの犠牲を払いながら水平社同人が「残酷な脅迫」をはね返すため展開した糾弾闘争だった。

 大正12年8月26日。加古郡別府村(現加古川市)の仮設小屋で、活動写真の見物人の一人が部落民を侮辱する内容の話を友だちと交わしているのを水平社同人か聞いだ。

 別府水平社の森本右教委員長を中心に差別発言をした本人や父親へ謝罪状を出すよう再三、要求したか拒否された。
 一日置いた28日夜、北別府の教昌寺には大阪や県下各地から応援に駆けつけた人も含めて約二百人が集まっていた。

 「平和のうちに謝罪状は得られない。実力で謝罪させるしかたい」と森本委員長か報告。
 同人たちは白ハチ巻き姿で別府村へデををかけることにした。
 一方、別府村でも差別した本人をかばって百人余りが集まり、水平社同人を迎え撃つ構えを見せていた。

 「差別が当たり前といった空気で、私らの痛みを全然、感じていない。注意すると逆に言いかかりをつけたように言われた」と当時を知る松本邦雄さん(59)=現部落解放兵庫県連役員=はいう。
<註:昭48(1973)年当時のこと>

 しかも同年4月、別府小で教師の差別事件があり、水平社を結成したばかりの同人が糾弾したことから、このときの“かたき討ち”といった空気がみなぎっていたようだ。

 百数十人のデモ隊が別府村へ向かう途中、別府小近くの広場付近で十人余りの警官が制止した。
 「警察が介入する事件ではない」、「人権を回復に行くんだ」と叫ぶ声でデモ隊は警官を追い散らした。しかしさらに警官隊が待機している−−という情報があり、ひとまず教昌寺へ引き返した。事実、高砂署は神戸、姫路、明石から応援を得て三百人近くを配置していた。

 翌29日、臨時村会で今後の処置を高砂署長に一任したことから大検挙が始まる。
 北別府を取り囲んだ240人の警官隊。「遊撃隊は背面より教昌寺の水平社本部を襲い、庫裏(くり)にいた神戸、大阪、京都、神崎地方の同人、本堂の北別府村民二百人のうち森本右教ほか38人を検挙」と神戸又新日報は伝えた。
 検挙は30日も続き「村で働ける男子がいなくなった」(松本さん)くらい激しい検挙だった。

 事態収拾に県社会課長が訪れたが北別府側は「糾弾は中止しない」と調停を拒絶、逮捕者への差し入れ活動に走り回った。
 結局、このときの検挙で長田調五郎県水平社初代委員長ら21人が4カ月から1年の実(刑翌年3月の第一審判決)二審で6人が執行猶予となっただけ。差別した側は無傷だった。

 糾弾闘争が手痛い打撃をこうむる結果になったが、この闘争は部落住民の人間としての自覚を高め、団結させるうえで、後に大きな役割を果たしていく。

「差別の壁の前で」 神戸新聞社会部編著

「神戸又新日報」 大正12年8月29日
団扇の批評から 水平社員と村民の対峙
加古郡北別府の大騒ぎ 応援百数十名の急派

 去26日夜半加古郡北別府村の寺院に同村水平社員約二百名が立寵り何事か示戚運動を行ひ、鎮撫に向へる警官に対しても万一の場合反抗的態度を示し、一万同村民亦多数集合陣容を整え相対峙し、超えて28日に至り形勢愈々悪化した所から所轄高砂署は素より姫路署より50名、明石署より40名、加占川署其他からも多数警官応援として同夜半続々別府に繰込み、宛がら戦場の如き物々しき光景を呈するに至った。
 この騒動を惹起した原因は前記北別府の一水平社員が26日夜別府で活動写真を見物しつヽ団扇を使って居たのを、傍の見物人が其団扇の批評を試み差別的の言辞を弄した所から、右水平社員は直に同村水平社員に此旨を告げ、右の失言者に対し謝罪状を提出せよと談判を持込んだが拒絶した結果、此の騒ぎを醸成したもので人心恟々たる有様だと
加古川市史(V6上)

「神戸又新日報」大正12年8月30日
厳重な警戒裡に 水平社員引揚
宛然戦場の如き 別府校講堂
今明日中に 解決か

 去る26日夜加古郡別府村小学校講堂で旧盆祭りを利用して活動写真会を催し村民一同に観覧せしめたが観衆の一人なる同村〇野△雄が傍で団扇を使って居る同村北別府水平社員某に対し、差別的言辞を弄した所から右水平社員は、直にこの旨を同村水平社員に告げ△雄に謝罪状を提出せよと迫ったが拒絶した為め問題が大きくなり、28日には北別府村民総出で竹槍や短刀などの兇器を携へて別府小学校附近に集合し不穏の形勢があるので急報により神戸市内各署、姫路・明石・加古川の各署から応援警官200名を派遣した事は既報の通りであるが、同夜10時頃まで警官は各部署を分ちて厳重警戒に努めた結果同時刻までに右北別府村民一同引揚げ、幸無事なるを得た翌29日は早朝から水平社代表委員が谷口高砂署長を訪ひ円満に解決すべく種々懇談する所があったが、警察側では別府巡査派出所を本部とし別府校講堂全部を宿所に当て、同村青年会員其他が警官の賄ひをするなど宛戦場の如き状態を呈した、多分今明日中には無 事解決を告ぐる見込である
加古川市史(V6上)


大正12年8月31日
水平社員の一斉検挙に着手
250名の警官で 北別府の教照寺を襲ひ
検 事 出 張 取 調 中

   既報加古郡別府村北別府水平社同人は28日夜以末大挙して別府村本村に押莵け、多数の警官と衝突し双方対峙中であったが29日は向井刑事課長並に姫路検事局から進藤・神谷両検事も現場に出張し、一方別府村では、此善後策につき臨時村会を召集して協議した結果、今後の処置を谷口高砂署長に任す事となったので、同日午後4時水平社同人を一斉検検挙するに決し、総数240名の警官は2班に分れ、1隊(本隊)は姫路署斎藤警部之を指揮し、1隊(遊撃隊)は林田署小林警部指揮の任に当り、他の一隊は沿道の警戒、犯人護送の援護に当る事とし、遊撃隊は背面より教昌寺の水平社本部を襲ひ、折柄庫裏に陣取れる神戸・大阪・京都・御影・住吉・神崎地方応援同人並に本堂に屯ろせる北別府村民約200名の中森本右教外38名を検挙し、引続き家宅捜査を行ひ、仏堂の裏手・椽下・押込等から日本刀4本・竹槍・荊冠旗・棍棒20数本を押収し、犯人1名に対し3名の護衛を付け警官隊の本部に引上げ、自動車を以て数回に高砂警察署に護送した、出張の姫路検事局神谷・進藤両検事は徹宵取調ベを行ひ、30日深更に竜野検事局より松尾検事・石原監督出張し取調べ中である他応援警官は湊川・林田・相生・明石・加古川・姫路の各署より25、60名来り居り、200名は別府、5、60名の高砂善立寺で休憩所を設け、警戒怠りなき状態である。
 検挙者も北別府森本右教、浦木玉次、松本芳夫、吉野光次、吉野秀三、吉野港、角岡常次、毛利米造、富田敏蔵、小西富藏、富田栄藏外11名、中別府村大林小市、長岡利平、直川長平外12名で、水平社兵庫県執行委員長長田調五郎氏を其内に交って居る。尚29日夜警官が引上げ後、北別府より襲撃の噂があったので、警官隊の一部を高砂署に派し大部分を多木肥料工場の近傍に待伏せしめて警戒し、一方電車の停留場を警戒して他方より来る水平社同人を喰止めた、29日教昌寺において開催の筈なりし官権糾弾演説会は中止をした。
 30日は朝来差入物をせんとて多数高砂署に詰懸混雑を呈したが、同日も引続き検挙を行った模様である。
加古川市史(V6上)
大正12年9月1日 [ 神戸又新日報 ]
水平社員に対する 検挙の手峻烈を加ふ
 引致者総数38名に上る  別府村騒動の後聞

 既報加古郡別府村北別村の水平社員に対する其筋の検拳の手は益々峻烈を加へ30日も引続警官八方に活動して引致者総数38名となった。
 一方兵庫県社会課長は別府村に出張、水平社同人にして別府村会議員角尾窟嘉吉氏と魚善旅館で会見の上、今後の所置を別府村長多木増次郎氏に一任せんことを慫慂したが、角尾氏は吾々としては検挙の 結果を待っと共に日々の稼業を励み官憲の処置に対しては糾弾すべき点は徹底的に糺弾すべく、村長に一任は受諾し難しと其調停を拒絶したさうである。
 尚ほ150人の警官隊は電車の停留場を警戒し物々しき光景を呈して居るが、斯る大騒擾を惹起したに就ては最初警官の取扱ひ当を得ざりしによるとの非難の声が高いさうである。
加古川市史(V6上)


初めて「出自」を名乗った弁護士
岸 田 岡 太 郎
2002年、全国水平社の創立80周年を記念して、これまで全国水平社の活動において重要な役割を果たしながら、大々的にスポットがあてられることが少なかった人物についてまとめた
『全国水平社を支えた人びと』
(水平社博物館編,解放出版社2002年刊)
が発刊された。

そのなかに南王子村出身の弁護士、岸田岡太郎についても詳しく収録されている。(朝治武・大阪人権博物館学芸課長筆)


 岸田 岡太郎は、1893(明治26)年の生まれ、20歳から4年間カナダへ留学し、その後関西大学夜学へ通い司法試験に合格、弁護士になった。その年に「水・国争闘事件」が起こる。

 「水・国争闘事件」とは、1923(大正12)年3月に奈良県磯城郡都村(現・田原本町)でおこった。都村村民の差別言動に対する下永水平社の抗議に対して、侠客団体・大日本国粋会がはいり、「水平社」対「国粋会・都村村民」という衝突に発展した事件である。騒動は3日間にもおよび、2度の衝突で水平社側には4人が重軽傷を負うという被害を受けた。

 事件は差別言動をした老人の謝罪状で解決をみたのだが、警察が和解の条件であった「犠牲者をださない」という約束をやぶり、水平運動弾圧を目的に水平社側数十人を検挙した。獄中につながれた水平社同人のために約20人の弁護団が結成され、そのなかに弁護士資格をとったばかりの岸田もいた。
 岸田の弁護は、差別に対しては「命を賭して」でも闘うという意思が伝わってくる、肺腑をつく弁論であったといわれてる。

 しかし、留学時の厳しいアルバイトや司法試験のための勉強の無理がたたり、腸結核が岸田の身体をむしばんで、日々に悪化していた、と、いう。
 自身がそのような状況下にあっても、同じようにおこったこの「別府村事件」でも、弁護活動に参加、周囲の制止にも「死を賭してやる」と言ってきかず、病身で現地調査や弁論をおこない続けた。

 「水・国争闘事件」も、「別府村事件」も、あきらかに水平社側に不利な有罪判決がくだるという結果で終わったが、岸田はみずからの被差別体験からくる反差別の情熱を弁護活動に注ぎ尽くしたと言えよう。
 そして「死を賭して」の言葉どおり、「別府村事件」敗訴のわずか4日後、1924(大正14)年3月31日に30歳で死去した。



官憲側の描いた別府村事件

大正12年12月24日 [ 神戸又新日報 ]

団扇一枚から 騒動を醸した 加古郡の水平社騒擾事件
予審終結 = 何れも有罪 公判に附せらる

   加古郡に於ける水平社騒擾事件は本年夏以来姫路支部裁判所城予審判事の手で取調べ中の処、此の程予審終決何れも有罪と決し、支部公判に附せられる事になった。
− 被告名省略(編者)ー
 被告調五郎は兵庫県水平社執行委員、其他の被告20名は何れも兵庫県加古郡別府村○に設立せられたる水平社同人にして、従来別府本村其他部落民より差別的の待遇又は言辞を以て侮辱せられ居たのを憤慨しこれが撤廃を叫び若し被告等部落民に対し差別的の言辞を弄したものあらば之を徹良的に糺弾し之れより謝罪状を要求し、之に応ぜざるに於ては直接行動を辞せざるもので、被告幸一は居村部落の新居徳治外数名と共に本年8月26日旧盆7月5日別府本村に仮設興行の角福座に於て、活動写真見物中同村〇野△雄が同場に於て被告等が居ることを知らずして、同行の〇戸△一の手にせる岐阜団扇を見て戯れに『そんな団扇は穢多の持つ様なものだ』と云ったのを聞き部落民を侮辱した者と憤り、同夜直に之を被告義男外□名に通じ十数名の者と△雄方に押かけ行き之を詰問し謝罪状の提出を求め、被告与一郎・剛三は他の一名と共に別に同夜同家に赴き酒気に乗じて△雄の不都合を詰責し謝罪状の提出を求めたが肯んぜざるより、消防小頭たる被告右教は義男外13名と共に同夜別府小学校に赴き、同校庭に於て別府村会議員の北畠 定次郎に面会し謝罪状交付方の尺力方を申入れたが到底和裡に謝罪状を得難しと思惟し翌□8日朝居村教照寺に於て部落民集会して協議の結果大阪水平社・番町水平社・住吉水平社各本部其他に応援を求め一方多数を集め集団の力により暴力に訴へて謝罪状を獲得せんと決意し、被告等水平社同人をして〇野方を襲撃すべく炊出し等の準備をなさしめて〇野方を脅威し、同日午後4時他の2名と定次郎方に赴き最後の要求をしたが同家にて頑として謝罪状を出さぬので多数の部落民及応援者を教照寺に集合して本部とし、其門前に必勝無敵、応援の2旒の旗を押立て各自に棍棒・槍・棒等の獲物を持ち相手方と区別のため白鉢巻を為さしめ、途中この集団の進行を阻止するものあらば断然之を排除して進むべぎことを命じ、自ら主唱者となって同日午後8時頃200名の集団を率ひ教照寺本部を出発し、水平歌を高唱し大声をあげ喧騒を極めつゝ別府小学校の東 進み〇野方に押かけんとした途中、同校東南広場で警戒中の高砂分署長以下11名の警官と衝突し「警察官も何もあるものか殴れ、殴れ」と警察官殴傷し暴行又は脅迫を加へて騒擾をなし被告右教は集団の首魁となり騒擾をなし、幸一は居村青年会の副会長でその当時右集団の中央に於て竹棒を携ヘ「ヤレヤレ」と怒鳴り、制止の警察官に対し右片棒を振り廻はして抵抗し率先して勢を助け、警察官の公 務執行を妨害し義男は居村青年団の幹部にして其当時集団の先頭に立ち、群衆制止の警官に「警官も署長もあるものか」と怒鳴って警官を殴打し率先して公務の執行を妨害し常次・健次・歌松・辰巳・啓三・光次・賞市・幾太郎・菊松・清吉等は同様公務の執行を妨害し、湊・亀市・廉藏・与ー郎・石太郎・剛三・豊吉等は集団中で棒やバットを打振ながら「ヤレヤレ」と叫んで勢を助けたものである
加古川市史(V6上)
糾弾闘争の発端

神戸地方裁判所姫路支部
第 一 審 裁 判 原 本

 −上略−
 大正12年8月26日、旧盆7月15日、別府本村仮設興業ノ角福座ニ於テ活動写真見物中ナリシ、同村□□正雄ガ友人□□益一ノ手ニセル岐阜團扇ヲ見、戯レニ之ヲ貶ス意昧ニテ「ソンナ物ハエタノ持ツ様ナモノダ」ト謂ヒタルヲ、居合セタル被告幸一之ヲ聞キ、正雄ノ右差別的言辞ハ自己部落民ヲ悔辱シタルモノナリトテ憤リ、 −中略−  正雄ノ父ナル菊次郎方ニ押掛ケ、同人ヲ詰問シテ謝罪状ノ提出ヲ求メ  −下略−  

人権の歴史/兵庫県同和教育研究協議会
謝罪状の要求とその行勳

大 阪 控 訴 院 判 決 主 文

□□右教ニ対スル予審訊問調査

 −上略−
 正雄方ニ度々謝罪状ヲ穏カニ出ス様交渉シテ拒絶セラレ
 −中略−
 此侭泣寝入ニスレバ孫子末代迄我々同人ノ頭ガ上ラズ、差別的待遇ヲ取除クコトガ出来ヌト思ヒシ故 −中略− 自分ガ先頭ニ立チ群衆ヲ率イ行キタルハ、成ルベク死人ヤ怪我人ヲ出ス様ナ暴ニ出サナイ考ヨリ、集団ヲ率イテ出発スル際、我々ハ水平社同人ノ将来ノ為メニ差別的言辞ヲ発シタ正雄ヨリ命ヲ措ケテモ謝罪状ヲ取ラネバナラヌガ、成ルベク相手ガ手ヲ出サヌ内ハ手ヲ出スナ、相手ガ手ヲ出セバ味方モ之ニ応戦スル為メ獲物ヲ持チ行カネバナラヌ、刃物ハ絶対ニ持チ行クナ、途中邪魔スルモノアラバ追ヒ払ヘ、俺カ引ケト云フタラ引イテ呉レ、ト云フ話ヲ為シ
 − 下略 −

人権の歴史/兵庫県同和教育研究協議会


新聞の報ずる被告側の反論
大正13年3月6日 「神戸又新日報」

加古郡別府村の 水平社騒擾事件公判
    岐阜団扇一本から 社会的平等への運動

 県下に於ける水平運動最初の大争闘である加古郡別府村水平社の騒擾事件公判は五日午前十時半から姫路支部裁判所に於て開廷、傍聴席は開廷前から同村民で満員となり、姫路警察の署員数名は厳重に警戒してゐた、保釈出獄中の被告は全部出廷し、立会ひの赤羽検事は

ー 被告住所、職業、姓名省略 (編者)ー

 右被告の騒擾並に公務執行妨害、脅迫罪の起訴理由を述べた後、矢野裁判長の事実調べに入り最初に同村青年会副会長で騒擾の際集団の中央にあって竹棒を携へ「ヤレヤレ」と怒鳴り制止する警官隊に抵抗して率先勢ひを助け公務の執行を妨害した西田幸一の訊問を行ひ、幸一は「集団の中央には居ったがヤレヤレと云って率先はせぬ」と率先した点を否認し、裁判長より水平社の目的を間はれ「世間から虐げれられ居る同胞を水平にしたいのである」と述ベ、昨年8月26日の旧盆7月15日別府村角福座で活動写真見物中、同村〇野△雄が友人の携えてゐた岐阜団扇を見て差別的言葉を発し、同人の謝罪状の件から別府駐在所鈴根巡査部長が仲裁に入った騒擾の原因につき訊問があり、幸一は大体に予審の事実を認め、当夜敵味方の区別をするため何れも白木綿で鉢巻した点は「ソンな理由ではありません」と否認し、同人が集団した教照寺の門前に押し立てた「必勝無敵」「応援」の大旗は「小学校の運動会の時に使ふもので特に拵へたのでは無い」と申立た、尚「予審調書に警官隊と衝突した際卒先して公務の執行を妨害したとあるは予審判事サンが斯うに違ひないと勝手に書かれたものである」と公務執行妨害の点を否認した、次いで松本義男の事実調べに移り、「水平社は北別府に出来たのでは無い、吾々三百万の同胞は皆水平社員である」と大きく出て水平社の目的たる社会的無差別平等を述べた、午後は各被告の事実調べがあり閉廷したが、6日も午前10時から引続ぎ開廷、裁判長の事実調べが行はれる筈

加古川市史(V6上)


大正13年10月2日 「大阪朝日新聞神戸附録」

「村の悲境を見兼ねて 責任を引受けたに過ぎない」
水 平 社 騒 擾 事 件 控 訴 公 判

 兵庫県別府の水平社騒擾事件1昨年8月26日旧盆の夜加古郡別府村で活動写真を見物中の同村〇野△雄(18)が団扇のことから差別的言葉を弄したといふのが原因で居村の水平社同人が〇野方に押寄せ謝罪状の提出を迫ったが、応ぜぬため更に翌夕刻200人の同勢が白鉢巻を締め手に手に棍棒・竹槍等を持ち消防小頭森本右教指揮のもとに大挙して押し寄せる途中、同村小学校前で高砂署員の警戒線に衝突し大乱闘を始めた事件の公判が1日大阪控訴院で開かれた。
 被告中森本外19名は騒擾、なほ内12名は公務執行妨害を兼ね他に脅迫罪が1名で計21人、神戸の一審では森本の1箇年を筆頭にいづれも4箇月乃至10箇月の懲役に処せられたものである、この日法廷には2間有余の竹槍や棍棒・竹竿などが夥しく持ち出され、傍聴席また同人達で埋まり緊張を極めた、劈頭森本は紛擾の導火線と目されてゐる当夜居村の教照寺に勢揃ひした同人達に『この集団の進行を阻止する奴は何人たりとも跳ねのけよ』といふ扇動的演説を全然否認し『その後村民の殆んどが片ツ端から検挙されるので村中火の消えたやうな悲境に陥ったのを見兼ね責任を引つかつぐ決心で虚偽の供述をしたに 過ぎない』と申し立てた、正午休憩、引続き各被告の訊問が続けられた。

加古川市史(V6上)