心の変革を追って
姫路市人権作文集「生きる」 1978年度版寄稿


 全同教副会長(1978年当時)の林 力先生から、こんなお話を聞いた。姫路市同和教育中央講座でのことである。
 私たちは、「コロンブスが、新大陸を発見した」という。「新大陸の発見」とは、どういうことであろうか。その大陸では、コロンブスが到達する以前から、すでにそこの人々による暮らしがあったはずである。肌の色が違い、文化にも差があったであろうけれども。

 なるほど、コロンブスは白人として始めてその大陸に足をおろしたかもしれないけれども。それを、あたかも「新大陸」といい、「発見したと」ということは、一体なにであろうか。

 と。

 私たちは、小さいときに学校で、まちがいもなく、そう教えられたし、疑うこともなく、そう覚えてきたのである。いま、改めて、別の立場から問い詰められると、「言葉」の持つ不思議さに気づくのである。

 世の中には、ある人にとって「わかりきっている=アタリマエ」のことでも、他の人には全く反対のことが「わかりきった=アタリマエ」とおもわれている、ということがある。
 そういった「あたりまえ」のことに気づかずに、「自分が正しく」て「相手がまちがっている」と思いこんでいることも少なくない。「私は差別をしていない」といい、「差別されないように改めたらよい」という「コトバ」に同じことが言えると思うのである。

 これは、相手の立場に立って考えない、全く身勝手な考えである。差別を無くすためには、現に差別を受けている側に立って考えてゆかねばならない。人間のもつ意識というものには、その人の住む社会の体制や、その人の受けた教育歴、その人の生きざまなどが織り込まれている、といわれている。
 私たちの住む日本の社会は、明治以降とくに戦後には大きく変わったといわれるが、私たちのもつ権威に対する弱さとか、いつも世間が気になる主体性のなさなど、日常生活の基本的なところではほとんど変わってはいないと言えるのではないだろうか。
 さらに、私たちの受けた教育は、戦前には「富国強兵」、戦後には「経済復興」という使命を背負わされてきたようである。その中では「身を立て、名を挙げ、やよ励めよ」と克己勉励が鏡とされた結果、「できないのは、しないお前が悪いのだ」というコトが「アタリマエ」のこととして意識化されてしまった。と、言えそうである。

 私たちは、まず、このような自分自身をしっかりと見すえて、同和教育というものの重要さを認識しなければならないと思う。
 大事なことは、ながい間、いやおうなしに、一日として差別の痛みを忘れることのない生活に追い込んできたものを、それを支え続け、今もなお残しているものを、自分自身の中で明らかにしてゆくことである。

 一つの事実の中には、現象と背景がある。現象を観るだけで全体の真実を見誤る愚かさは避けねばならない。しかし、本質を把握するならば「一事が万事」ということもある。たとえそれが事実の一部にすぎなくても、全体を洞察することはできるであろう。

 「差別」とは何か。「差別を許さない」とは、どういうことなのか。それは多数決で決めたり、だれかが判定をしたり、さらには差別をしている側と差別を受けている側とで話し合うようなものではない。 自分自身が、人間としての立場、自覚に立って、人間らしくどう生きるのか、生きようとしているのか、自分の生活を自分たちで確かめ、自分自身の意志で、生活で、取り組む問題である。
 それこそ「国民的課題」とされる所以であろう。