アムステルダムとユダヤ人



アンネ・フランクの家

告白すると、「アムステルダムに行ってアンネの家を訪れる」というのは、 なんというかあまりにも定型的な感じがして、ちょっと抵抗がありました。 いえ、抵抗というよりは、美術館を優先したかったので、アンネの家は とくに無理して見に行くこともないか、というのが率直な気持ちでした。

しかし旅行の日取りも決まったころ、たまたまThe New Yorker誌 (April 19&26, 2004号)にアンネ・フランクの家に 関する記事が載ったのです。David SedarisによるPOSSESSION(所有)という タイトルのその記事は、「アパートメントを見つけるのは、恋に落ちるようなもの」 という書き出しではじまります。筆者はパートナーとともにパリでアパートメント 探しに奔走し(そのパートナーというのが、 憐憫の情を恋と勘違いし、ぼろぼろのアパート メントに心を引かれてしまうタイプ^^;)、納得のいかないアパートに入居。 それから数ヶ月後、二人はアムステルダムに旅行します。そして着いた翌日に、 散歩の途中でアンネ・フランクの家に出くわすのです。

何ヶ月も家探しに奔走していた著者には、それは絶好のアパートメントに思われました。 美しい七階建ての、運河いの家。通りには大きな木々が建ち並び、ショッピングにも交通 にも至極便利。その家一軒をまるごと手に入れるのは身分不相応かもしれないけれど、ち ょうどアンネたちが暮らしていた部分は、まさに自分たちにあつらえたようではないか!  隠れ家なんていうから、どんな悲惨なところかと思っていたのに……

……とまあ、筆者はアンネの家と恋に落ち、「これは自分のものだ、この家と自分 は赤い糸で結ばれていたのだ」とばかり妄想状態に陥ります。そんな著者が我に返ったのは、 出口近くのミュージアム部分に掲示されていた、 プリモ・レーヴィ(イタリアの作家)の次の言葉でした。

"One single Anne Frank moves us more than the countless others who suffered just as she did but whose faces have remained in the shadows. Perhaps it is better that way. If we were capable of taking in all the suffering of all those people, we would not be able to live."
(たったひとりのアンネ・フランクが、彼女と同じような経験をし、 その顔はいまも暗がりの中にある無数の人たちよりもわれわれの心を動かす。おそらく、 そのほうが良いのだろう。もしもそれらすべての人たちの苦しみを知ることができた りすれば、われわれは生きていられないだろうから。)

そして筆者は思います。「そうなのだ、この家は、誰か個人のposessionになり うるようなものではないのだ」と。以下略しますが^^;、ともかくこの記事を読んで、 わたしはアンネ・フランクの家に行ってみたくなりました。それはきっと、誰にとっても、 その人独自の経験をさせてくれる場所なのではないかと思ったのです。そしてまた、 「ウサギ小屋の住人」と言われる日本人の目から見れば、もしかしたら すてきな住処に思えるのではないか(^_^;)、とも。

アムステルダムでは、美術館、博物館などは5時にはさっさと閉まってしまいますし、 普通のお店も六時には閉まってしまいます。5月下旬ともなれば、9時まで明るいこの地では、 観光客にはちと不便といわざるをえません。しかしアンネ・フランクの家は、夜の9時まで 開いていますから、手持ちぶさたの観光客にはとてもありがたい存在^^;なのです。 また、観光シーズンには少し早かったのか、中はガラガラにすいていました。 ガイドブックには「いつも長蛇の列」と書いてあったし、The New Yorkerの記事に もそのように書いてあったので、観光客の長い列を目印にアンネの家を探していた私は、 うっかりその前を通り過ぎてしまうところでした^^;

小さく「ingang entrance」(ingangというのはオランダ語で入り口) と書いてあるところがアンネ・フランクの家の入り口。小さくすぎて見えませんね^^;

行列を整理するためのロープが張ってあるので、混むときは混むのだと思われます。

アムステルダムでは、街中に張り巡らされている運河沿いに植えられた木々の 美しさにみとれました。

さて、アンネの家を見た印象はどうだったかというと……私の目には、それは息詰まるような 隠れ家生活の場にほかなりませんでした。なるほど家全体は (父親の経営するジャム会社の建物)すばらしい立地のすてきな建物といえますが、 隠れ家部分での生活は悲惨だったろうと思いました。

そして、わたしたち(わたしと母)独自のアンネ経験はといえば ……母とアンネが同年生だったことでしょうか(母は早生まれなので生ま れ年そのものは違うが、日本の制度内では、同じ学年のはずだった)。そのことに気 づいた母はとても驚き、アンネに親近感をもったようでした。わたしにとっても、自分の母親 とアンネがこんなふうに重なるのは、なんとも奇妙なものでした。

博物館部分では、わたしもまたレーヴィの言葉に改めて胸を打たれました (ほかの人たちの言葉もあったが、なぜかレーヴィの言葉がとくに印象的だった)。 しかし今日、アンネの家はユダヤ人問題だけの場ではなく、あらゆる宗教、思想、人種など による差別を考える場となっています。わたしたちが訪れたときには、同性の結婚を考える ためのビデオが上映されていました。

市の中心部から歩いてすぐのところにあり、夜は9時まで開いている (つまり、他の美術館や博物館とは競合しない)アンネ・フランクの家。 アムステルダムに行くことがあったら、ぜひ訪れてみてください。何か特別な経験がで きるかもしれません。



アンネ・フランクの家のすぐ近くにある西教会には、アンネ・フランクの像があります。

「同年生」の写真を撮る母^^;。

像の足下には花束が捧げられていました。近年、ネオナチによる攻撃が激しくなり、 アンネの日記はでっちあげだとかいう攻撃の他に、この像へのいたずら書きなどもあるようです。




港湾労働者の像

2004年の春、オランダ・ベルギーの旅のことを具体的に考えはじめたころ、 化学同人社の雑誌『化学』に、アブラハム・パイス著『物理学者たちの20世紀』 (杉山滋郎、伊藤信子訳、朝日新聞社)の書評を書かせていただきました。

アブラハム・パイスは、1918年にポルトガル系ユダヤ人としてアムステルダ ムに生まれ、ナチス時代はアンネ・フランクと同様(それも、 アンネの家からほど遠からぬところで)隠れ家生活を送り、戦争終結の ほんの一週間ほど前にゲシュタポに逮捕されます。一緒につかまった友人は銃殺 されますが、パイスはからくも生き延び、戦後はアメリカに渡って、プリンストン 高等研究所で3人目(アインシュタイン、オッペンハイマーに続く) の物理学教授となります。

『物理学者たちの20世紀』の前半部分でひとつの山場となっているのが、 第二次世界大戦中のアムステルダムにおけるユダヤ人をめぐる記述でしょう。
(ナチスドイツ)占領下ヨーロッパでのユダヤ人の運命はとりわけすさまじく、 なかでもポーランドよりひどいところはなかった。西側での最悪の状況はやはり オランダ系ユダヤ人だった。……なぜ、オランダ系ユダヤ人がかくも飛び抜けて ひどいことになったのか。(上掲書p.81)
パイスはこれに続いて、次のような証言を挙げています。

  • 「オランダ人は、他の国の人よりも苦しんだ。オランダ人は妻や子どもの ことを気にかけすぎた。これが、なぜ彼らが死んでいったかの理由だ」
  • 「(オランダ人は)やわな人たちの集まりだ。牧草の刈り取りや木の切り倒し、 あるいなナチスの残虐行為から受けるどうしようもない恐怖といったことに不慣れだった。 ……彼らは[早々と]あきらめ、次第に弱り、病気となり、命取りとなる間違いをついうっ かりと犯すのだった」
  • 「ポーランド人とロシア人は厳しい気候と低い生活水準の国からやってきたので、 比較的困難に耐え抜くことができた。自分自身を気遣い、人目に立たず、そして人に 頼らず自分でうまくやっていく余力が他の国から来た人たちよりあったそうだ。ずば抜 けて順応できたのがギリシア人、続いてスロヴァキア人、ドイツ人、チェック人―― 順を追っていくと――このリストの最下位はオランダ人である」
  • 「(オランダ系ユダヤ人は)動物的な狡猾さ、つまりどんな代償を払ってでも、 もし必要とあらばほかの人を犠牲にしてでも、生き延びるよう頑強に駆り立てるもの を欠いていた」
オランダにおけるユダヤ人たちの恵まれた生活ぶりがうかがえます。ただしパイスは、 このような見解に全面的に賛成しているわけではありません。

さて1941年2月11日、ユダヤ人をめぐる状況がどんどん悪化するなかで、 アムステルダムの港湾労働者が立ち上がります。彼らは棍棒、椅子の脚、 あるいは目についた物(ただし小火器はなし)で武装し、ユダヤ人地区の 中心であるワーテルロー広場に押しかけます。全面衝突となってNSB (オランダの反ユダヤ主義的な国家社会主義政党) 党員が一名重傷を負い、その後死亡。これはドイツ軍が、自国であれ占領国であれ、 はじめて遭遇した非ユダヤ人によるユダヤ人擁護のための物理的妨害だったのだそうです。

残念ながら、これに対する報復措置として、ドイツ軍はオランダ系ユダヤ人成年男子 を四百名あまりも逮捕し、オーストリアのリンツ近くにある強制収容所マウトハウゼ ンに送るという結果になってしまいました(そこから生きて帰った のは一名だけ)

一九四五年以来、毎年二月二十五日になると、何千という大勢のアムステルダムの 人がヨナス・ダニエル・メイヤー広場に集まる。この広場は、先の四百人の若い ユダヤ人が刑務所にひっぱっていかれる前に、いったん集められた場所である。 一九五二年十二月十九日、女王ユリアナはこの広場で記念像の除幕式を行った。 像は、腕をまくり上げ、両腕を半分広げた、 挑みかからんばかりの港湾労働者をかたどっている。このそばを歩くことがあれば少 しのあいだ立ち止まって、ユダヤの兄弟姉妹をいつも支援した、勇敢で無私無欲の彼ら 非ユダヤ人を思い出してほしい。(上掲書p.19)

この像のそばを歩くことになったわたしたちは、少しのあいだ立ち止まりました。 わたしはこの像の由来を説明し、母とわたしは深く頭を下げました。

ちなみに、この像の背景に見える背の低い建物は、次に取り上げるポルトガル系シナゴーグを 取り巻いている建物です。




ポルトガル系シナゴーグ

わたしたちが港湾労働者の像のそばを歩くことになったのは、通りを挟んで像の反対側 にあるユダヤ歴史博物館を訪れたからです。あいにく歴史博物館のほうは改装中で、 見られたのは「シナゴーグ建築の歴史」という特別展示だけでした。

しかしもうひとつのお目当て、ポルトガル系シナゴーグはじっくりと見ることがで きました。ポルトガル系シナゴーグは、ユダヤ歴史博物館と通りを挟んで反対側、 つまり港湾労働者の像のすぐ後ろに位置しています。

アムステルダムのポルトガル系シナゴーグは1675年に開設され、戦争や占領によって も傷つくことなく(ナチス時代になぜこのシナゴーグが無事だった かは謎とされています)、今日、世界で最も有名なシナゴーグ建築の一つと して原型をとどめているのだそうです。礼拝は今もヘブライ語で行われているとか。

少し歴史を復習しますと、1492年、スペインは国内のユダヤ人を追放します。 多くはポルトガルに逃れますが、1496年以降は、強制的にキリスト教の洗礼 を受けさせられます。それからおよそ百年後、ユダヤ人として生きることを 望んだ人たちが、ポルトガルを出てアムステルダムに向かうことになります。 アムステルダムに到着したユダヤ人たちは、いわゆる「信仰なきカトリック教徒にして、 知識なきユダヤ教徒であり、ただユダヤ人であることを意志した」(Prof. Carl Gebhardt) 人たちと言われ、割礼もアムステルダムに来てから行ったということです。

その人たちがアムステルダムではじめて宗教的会合をもったのが1602年 (シナゴーグで入手した the Sephardi Community of Amsterdamという資料による。 従来は1603年とされていたらしい)。当時オランダはスペインと戦争状態にあったため、 イベリア半島からやってきたユダヤ人たちは、敵性外国人と思われないよう、 自らを「ポルトガル系ユダヤ人」と称したということです。

17世紀にはヨーロッパの中央部や東部からアシュケナジム系ユダヤ人が大量にやってきて、 オランダやとくにアムステルダムで最大のユダヤ人集団となります (つまりポルトガル系ユダヤ人は、人数的には少数派)
参考までに、ナチスドイツがオランダを侵略した1940年の時点では、 オランダ在住のユダヤ人は14万人、そのうち12万人がアムステルダム在住。 その12万人のうち、セファルデム(ポルトガル系ユダヤ人)は4300人。 なお、戦後オランダに生きていたユダヤ人は二万人。そのうちセファルディムは800人だったそうです。
アムステルダムには、セファルディム系ユダヤ人のコミュニティが三つありました。 ベス・ヤコブ(Beth Jacob:遅くとも1610年、早ければ1602年には存在していた)、 ネヴェ・シャロム(Neve Shalom:スペイン系ユダヤ人により1608年から 1612年のあいだに設立された)、 ベス・イスラエル(Beth Israel:1618年設立)です。 1639年、これら三つのコミュニティが合併して、 タルムード・トーラー(Talmud Torah)という、 今日なお存在しているアムステルダムのポルトガル系ユダヤ人コミュニティとなります。

ポルトガル系ユダヤ人コミュニティは、オランダの文化的、 経済的発展に大きな貢献をしたのだそうです。そして彼ら自身に とってみれば、ユダヤ人の歴史上、他に例をみない宗教的自由のなかで、 多くのラビ、学者、哲学者、銀行家、起業家を輩出することになりました。

ところで、スピノザもこのタルムード・トーラーに属していましたが、 1656年に破門されます。しかし彼が破門される前に関係していたシナゴーグは、 われわれが訪れたポルトガル系シナゴーグそのものではなく、別の場所にありました。 三会派が合併したこともあって、それまでのシナゴーグが手狭になったため、 スピノザを破門したハハム(スペイン、ポルトガル系ユダヤ人のあいだでは、 ハハムがラビの正式名称)フォンセカその人が中心となって新しいシナゴーグ の建設計画を提起します。今の場所(癩病院の跡地だったらしい) に土地を購入したのが1670年12月12日、荘重な落成式が執り行われたのは1675年8月2日 だそうです(ただし、入り口上部の刻文から、1672年には建物は完成 していたとみられる)

シナゴーグは全体がひとつの大きなホールのようになっています。そしてその周りを、 低い建物(シナゴーグ職員の宿舎など、さまざまな目的に使われている) がぐるりと取り囲んでいます。低い建物は塀のような役割を果たし、会衆の子どもたちの 遊び場となったり、会衆のくつろぎの場となったり、いわば公園のようなものと思われます。



ユダヤ歴史博物館のほうから見たポルトガル系シナゴーグ。

周囲を取り囲む建物も設立当時のもの。

港湾労働者の像は、白いバンで隠されてしまった方角にあります^^;

シナゴーグ内部で印象的だったのは、総計で1000個以上ものろうそくを灯すことのできる 真鍮製のシャンデリアと、ジャラカンダの木で作られた結婚式用のカノピー、そして、 梁の一部がわざと壊されていること(これはシナゴーグ建築に共通するらしく、 イスラエルの神殿が破壊された事件を忘れないようにするため)。あと、女性席と男性席は分けてあるんですね。

偶像崇拝を禁ずる宗教ですから、全体としての雰囲気は、カトリックの教会(や東方正教会)とはえらい違いです。ある意味さっぱりしていますが、質実剛健な感じがします。

写真を一枚だけあげておきます。実は、この写真と、上の港湾労働者の像の写真は、母のコンパクトカメラで撮影したものです(港湾労働者の像はわたしが、シナゴーグ内部は母が影しました)。わたしはこのときカメラをもっていなかったんです。というのも、はじめ、ユダヤ歴史博物館に行って、ロッカーにわたしの荷物を入れてしまった後(今回、美術館・博物館内の写真はほとんど撮らなかったんです)、受付のおばさんに、「ポルトガル系シナゴーグというのはどこにあるんでしょう? このへんだと思うんですけど」と聞いたんです。そしたらそのおばさんが、「道の向こうですよ。ポルトガル系シナゴーグは4時に閉まるから、先に向こうに行ってらっしゃい。こっちは5時まで開いているから」と言うんです。それで、荷物をもたずにそのままポルトガル系シナゴーグに来てしまったんです。今回、母のカメラで撮った写真を見せてもらって、シンプルなコンパクトカメラはやはりキツイなあ、と思いました。、一眼レフで28-80mmのズームが効くと、いかに撮影者の腕が悪くても、明るさやゆがみなど、だいぶ違うと思いました。余談でした^^;


こののちわたしたちは、ユダヤ人街に住み、ユダヤ人を多く描き、また同時代のユダヤ人にも影響を与えたとも言われるレンブラントの家を訪れました。レンブラントの暮らしぶりや、収集品、機械類などが見られるほか、エッチングのすばらしい作品も多数展示されているので、いわゆる美術館としても見応えがあると思いました。



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