(最近更新日2009年11月3日)



 自分史というのはどうやら個人HPの定番らしいので私もそれをやってみようと 思うのですが、年表を作って世の中の流れと対比させるよりも60年の人生の中で 印象的だった事を思いだしながら物語ったほうがよかろうと思いそのスタイルを 取る事にしました。
ですから出来事の年次が正確でないところがあっても 決して揚げ足を取らないで面白そうな項目だけ読んでくださいませ。

戦争の思い出

 生まれたのが昭和14年でしたから、戦争の思い出はたくさんはありません。 それに田舎に住んでいましたから直接戦災に遭ってはいないのです。でも空襲 警報発令のサイレンの音とか、焼米を持って防空壕に逃げたこととか、 岡山/福山両市が焼けるとき(その間に住んでいました)の空の色とかは覚えて います。
 わずかに戦争を知っている世代という意味で「末期的戦中派」 などと呼ばれることもあります。そう、芋蔓の茹でたのを食べた記憶はあります。

終戦とその後の父の死

 終戦(本当は敗戦)の時私は幼稚園坊主でした。戦時中もかろうじて幼稚園は あったのです。近郊のおばあちゃんの家に疎開していた私の元に3歳年上の 兄が、芋羊羹を持ってきてくれて「日本は戦争に負けたぞ。だけど米英も相当 弱っているのだ」といったのを覚えています。せめてものつよがりをいう大人 のセリフを聞いていたのでしょうか。
 父は大学の文学部を卒業して高等女学校の漢文の教師をしていましたが、 兵役検査にも落ちるくらい病弱でした。でも終戦のちょっと前に中国に渡って 漢口かどこかで日本軍の将校に飲ませる酒を造っていたとか聞きました。幸い な事に終戦直後に無事に帰国しました。ところがまもなく「頭が痛い」といっ て寝たり起きたりの生活をしていましたが昭和22年3月他界しました。
 病名は脳腫瘍でした。今なら手術で助かったかもしれませんが、当時の事 岡山の大学病院に入院したとはいうものの焼け残りのがれきのような病室で ただ痛みを和らげる処置だけとってもらいながら死を待っていたようです。
 その父を見舞いに行くのに汽車に乗って1時間、客車はなく貨物列車に 立って行きました。牛や馬を運ぶ有蓋車でした。併結された白帯の一等車 は進駐軍専用で中では酒でも呑んでいるのか兵士たちのさんざめきがもれて きて敗戦を嫌というほど実感させられた事でした。
 父が死んだとき子供は5人、一番上の姉が12歳、一番下の弟は生後3ケ月 でした。弟を胸に抱いて泣き崩れる母の姿は半世紀過ぎた今も忘れられません。

村の分教場にて

 父を失った一家は、私が3年生のとき同じ岡山県の父の実家に引っ越しまし た。山の上にある 本当にドのつく田舎です。母は地元の小学校の教師になり、姑との確執に 悩む生活が始まりました。
 私は村の分教場に通い始めました。全部で50人くらい、同級生はたしか 男子5人女子10人くらいでした。複式学級で、先生は3人しかいませんで した。ガラス窓のない学校で、いえ窓はあるのですが障子がはまっていたの です。冬は寒いのにストーブもなく、教室には火鉢だけでした。
 私は相当な癇癪坊主だったようで、先生にしかられると食ってかかり よく立たされたりしました。一度先生の眼鏡を割ってしまい、弁償しなければ ならないかと母がおろおろした事がありました。それ以来おとなしくなったよ うに思います。母の涙には弱かったのです。
 学校区が変更になって5年生の時から別の小学校に変わりました。そちらは 1学年1学級でした。母はその小学校の教師でした。私のクラスの担任ではあ りませんでしたが音楽の時間だけ母が先生でした。「家に帰ったら畑で大根 抜いて洗っといてね」てな事を教室で私に言ったりしてのんびりしたもので した。
 その小学校の校歌を募集したときに私は作詞で応募しました。私作詞、母 補作、でしょうか。最近まで唄われたようですが、今は小学校そのものが 廃校になってしまいました。むろん分教場も跡形もなくなくなっています。 ひどい過疎なんです、我がふるさとは。小学校の時の村の人口が1,200人、 それがいまは500人とか。平均年齢は60ン歳とか。何の策も施されていませ んね。忘れられたムラですわ。
 中学校は今では珍しい「学校組合立」でした。つまり2つか3つの村が共同で 建てる中学校でした。私の中学校も3つの小学校を併せていましたので1学年 2クラス、30人づつくらいいたと思います。その中学校も今は廃校です。
 中学2年生のときに私は生徒会長に立候補して、盛んな選挙運動にもかかわらず 落選しました。同じ2年生の女の子に負けてしまったのです。田舎中学校の 生徒会長でも負けると悔しかったですね。
 彼女にはその後リベンジの機会がありました。4年後同じ大学を受験して 私合格、彼女不合格。ザマアミロでした。

充実した高校生活

 高校は「ふもとの町」 井原市というところの県立高校です。定員300名、受験生 301名ですから合格します。しかし家から通学はできませんでした。バスで片道 50分ほどですが、一日2便しかない。
 で、質屋の2階に下宿しました。15歳の親離れです。
 6畳の部屋に二人同居。どんぶり盛り切りの飯。いつも腹が減っていました。 育ち盛りには酷な食生活でした。勉強で夜遅くなると腹が減る、それを癒すの は一山10円の食パンでした。塩味だけで食べて、また勉強する...
 新聞部とか写真部とかクラブ活動も盛んにやったし、女の子と付き合う事を 知ったのも高校時代でしたがやはり受験勉強はしました。
 今のように偏差値などというものはなかったのですが、旺文社の主催する 全国模擬試験なんてのは時々受けさせられましたね。クラスの一人がその 模擬試験で2年生のときに全国1位の成績を収めるというトンでもないのがいて 私はいつも2番目の成績でした。
 先生が「まあ、合格確率50%」というので京都大学を、「なんとなく正義の 味方」ということで法学部を受けて一発合格しました。
同級生がこのほど 同窓生専用のHPを作りました。まだ試作品のようですが。

京の都で大学生活--貧乏暮らし

 さて、合格して花の京都に出てきました。初めての大都会生活です。でも 1年生のときは宇治市黄蘗山の近くの分校でした。
 母には入学金と上洛の旅費は出してもらいましたが、それ以後は当然出して もらう事はできませんでした。入学式の翌日からバイト生活が始まりました。
 下宿するような贅沢もできませんから学生寮に住んで貧しい生活でした。 食費一日100円なんてのは今では考えられないでしょう。
 京大というところは実に自由なところで第2外国語一つと教養部のときの体育 以外にはまったく必須科目なしでした。それをいい事に私は法学部のくせに 六法の科目はほとんどとらずに卒業しました。あとで悔やんだ事ですが。
 実は私には外交官になろうという目標があったのですが3年のときにあきらめ ました。外交官試験に有利だろうと思って国際法のゼミにはいったのですが、 そこの教授に「母子家庭の出身では外交官は非常に難しいよ」と事実上の 諦め宣言を受けてあきらめました。外交官は身元調査するとは聞いていました が母子家庭はだめ、とはいまでも理不尽だと思います。
 2年からは京都百万辺近くの「関田町学生会館」という日本学徒援護会が運営 する寮に 入りました。京大以外の私立大学などの学生の雑居房でした。寮生の共通項 は「貧乏」でした。私立大学の場合ある程度の仕送りがないと学生寮に入れて もらえなかったそうです。
 相変わらずのバイト生活で、合間合間に学校に行くといった感じでした。 東映の撮影所にエキストラにいったり、大掃除やら、インチキ獣医師の助手 やら、中学生相手の模擬試験とか、何でもありでした。でも卒業近くなると 家庭教師ばかり数軒掛け持って暮らしました。おかげで就職したときは却って 収入減になったほどでした。
 ちょうど学生運動が盛んでした。東京で樺美智子さんが圧死したりしたころ です。私は熱心なほうではなかったですがそれでもワッショイワッショイと やって祇園石段下では警察官ともみ合いになってしょっ引かれそうになったこ ともありました。左翼にあらざれば学生にあらずみたいな雰囲気でしたね。

生涯の伴侶みつける

 そんな貧しい学生生活でしたが心は結構豊かでした。一日バイトで稼いで 300円くらいでしたがそのうちの80円を奮発して四条にあった歌声喫茶「炎」 によく行ったものです。いまならカラオケボックスですが。
 その他YMCAなどにも行きました。 実はそこで今の妻に出会いました。
 私が2年生19歳、彼女は18歳高校卒業したばかりの新人OLでした。それから 5年付き合って結婚したわけです。 とにかくそれから40年、おそらく生涯の伴侶になる パートナーを見つけたのですからラッキーだったといえます。
 とにかく学生時代は学問以外の思い出がいっぱいです。

就職の顛末

 私の時は就職戦線は大変な売り手市場でした。求人は卒業生の数倍ありま した。日本の高度成長が始まったころでしたから。
 外交官をあきらめた私としてはどんなところに就職したらいいのかわかり ません。
 ある日、当時人気ナンバーワンの鉄鋼メーカーの説明会に 出席しようと会場へ行ってみたら超満員で入れません。仕方がないので隣の 会場を覗いてみたら総合商社、N商の説明会なのに聴衆がたったの5.6人。 そこで熱心に 勧誘を受けました。その後その会社に受験に行ったら、指定時間に遅刻して いったにもかかわらずすぐに社長による面接が始まりました。いくつかの 質問のあと、英語の文章2,30行のを読んで訳しなさいというので、すらすら とやりました。それだけでその日の夕方には内定の電報が寮に来ていました。 簡単でした。もっともその前に数社受けて「まともな」学科試験なんぞやられ ておっこちていましたが。それはそれで旅費くらいはもらいましたから夏休み 旅行はできましたね。
 こんな事で事実上の終身雇用先が決まっていいの かなあ、という感じでした。

結婚と「神田川」時代

 2年間芦屋の独身寮に居ました。学生時代はいつも腹が減っていて体重も 40kgs台しかなかったのに、独身寮に入ると毎日肉や魚を食べさせてもらえ るのでたちまち10kgsほど太りました。
 2年後に結婚しました。式は大学の同窓会が運営する「楽友会館」という ところでした。費用が安かったからです。
 宇治市内の木造アパートが新居でした。6畳4.5畳の2部屋、風呂はありま せんでした。銭湯まで歩いて10分くらいかかる不便なところでした。ですから 夏になると玄関の土間にタライを置いて湯を張って行水をしたりしたものです。   子供ができると銭湯に行くのに乳母車に赤ん坊を乗せて二人で坂道を降りて いったものです。南こうせつの「神田川」を唄うたびにそのころの事を思い 出します。「洗い髪が芯まで冷えて....」というあれの世界です。 2年ほどで公団住宅が当たり奈良市内に引越ししてやっと家に風呂 のある生活になりました。

労働組合役員時代と会社の合併

 会社での配属は鉄鋼でした。入社のときに希望配属先を書かされたので 機械とか食料とかに印をつけたのに印をつけなかったところに配属されま した。ああいうのをみてないのですね会社は。
 3年ほどして労働組合の役員にさせられました。新入社員教育のときに たまたま「受渡実務」の講師になったのが当時の組合の委員長だったのです が私が一番前の席で豪快に居眠りをしていたので印象に残り、「君、やらな いか」となったみたいです。組合経験がその後の人生に大きな影響をもたら したのですから妙なものです
 さて、役員をやっているときに会社の合併つまりN商とI(アイ)産業の合併 してN-Iになるという 大イベントに出くわしました。私は副書記長という いわば中間管理職だったのですが、会社の合併となると合併に伴う労働条件 の調整やら 組合の合併やらそれはそれで相当な難作業でした。I産業の組合役員ともども 近くの旅館に泊まり込んで徹夜で議論したり資料を作ったりしたものです。
  このとき始めて会社にはそれぞれの体質というものがあり文化の違い があり、したがって社員の考え方にも大きな違いがあるのだという事を 知らされました。いい勉強でした。
 商社の組合ですからストやデモはありませんでしたが、それでもメーデー に参加して大阪城から難波あたりまでデモ行進した事はありました。

貿易屋になり米国駐在

 組合の役員をやっている間にそれまでの国内取り引き部門から貿易部門 に配置転換になりました。外交官になりそこなった私としては多分海外勤務 のチャンスがあるだろうと期待していました。何しろ当時の海外駐在員は エリートで、ニューヨークに勤務すると月給が5倍になるなどと聞かされて いましたから
 しかし実際に海外に行ったのは31歳のときでした。赴任先はポートランド (オレゴン)でした。この町はアメリカ西北にある地方都市で人口は周辺の 衛星都市を入れても100万に満たないくらいでした。木材と穀物の対日輸出 基地ですから対日感情も治安もよく物価も安い住みよいところでした。
 私の仕事は鋼材の輸出でしたから、現地でセールスマンです。それも鉄鋼 については日本人は私だけ、現地採用のアメリカ人女性アシスタントと 二人だけでした。
 そんな土地ですから、移動はすべてクルマ。私は日本で免許を持っていなかった のですが、赴任したその日に現地の法律問題の例題集をわたされ、ホテルで 読んで翌日試験を受けてその日のうちに仮免許をもらいました。その後で 実技の練習ですが、自動車学校があるわけではなく、インストラクターの クルマで町中で練習しました。全部で15時間ほど練習して本免許となりまし たが事務所の中では長時間かかった新記録だったそうです。不器用なのです ね。でもその免許を書き換えるだけで日本でも通用し、日本の難しい試験 を受けなくてすんだのですから得しましたね。
 現地での仕事は順調でした。1年間で商売の量が4倍になり、部員 は3倍の6人になり、社長表彰をもらったほどでした。
 半年遅れて家族を呼び寄せました。子供は2人になっており、7歳と3歳だった のですが、彼らが英語を覚えるのは一週間しかかからなかったし、学校も 現地の小学校に入れていろいろな人種の子供たちともなじんで一緒になって 遊んでいました。日本では住めないような大きな一戸建の家に住みましたし、 自然の多いよい環境で、私は「黄金の30代」を過ごして38歳で帰国しました。

家を買ったら単身赴任、のジンクス--イタリアへ

 気候のよいポートランドから帰国したのが7月、夏の真っ盛り。芦屋の社宅に 入ったのですが、公団型の3DKでエアコンなし。涼しいところにすんで毛穴が ふさいでいたのか一日目から吹き出る汗。あわててエアコンを買って翌日から やっと安眠できたことです。
 家探しをして今の家に入居したのは3ケ月後でした。狂乱物価の後の事で 相場はアメリカ赴任前の倍にはなっていたようですが致し方ありません。重い ローン返済の始まりです。
 家を建てると転勤になるとはよく言われるサラリーマンのジンクスですが 私もそのとおりになってしまいました。新築の家に住んだのは1年半で、 イタリアのミラノに単身赴任する事になりました。
 ミラノは始めていった町でしたがマッタク違う文化が支配していました。 アメリカのような親しみやすさはなかったですね。でも来たからには生活を エンジョイしなくてはといろいろ工夫しました。
 仕事は三国間取り引きの失敗の後始末で、彼我の商習慣の違いや誤解や さらに地中海に生息する海賊達との戦いの日々で面白くも何ともありません でしたがアフターファイブは楽しかったですね。何しろ単身ですから。
 帰国直前に事件が起こりました。
 そのへんの詳しいところは長くなりますので、別項にします。  「イタリアあれやこれや」へどうぞ。

東京単身赴任から出向へ

  イタリアでは仕事は旨くいったとはいえませんでした。日本とイタリア の間で鋼材の取り引きは所詮無理でした。で、3年弱で帰国となったのですが 帰国先は東京。続けての単身赴任でした。代々木の管理職用の単身赴任寮に 入ったのですが、寮生は後の社長とか偉い人ばかり。時々は家にも帰りたい けど全部自費だし、子供の教育にカネはかかるし二重生活で出費はかさむで 経済的にも精神的のどん底の2年間でした。
 やっと念願かなって大阪に帰ったのですが今度は仕事がうまく行かずあれ これ悩む日々が続きました。そしてまた海外の事務所勤務の話が出てきたり してしまいました
 そのころに、J-B に出向していたM氏から自分はN-Iに戻るけど 後がまにどうかとの話がありました。M氏は組合役員をしていたころの書記長 いわば上司でした。私は文字どおり飛びつきまし た。J-Bは文字どおりJAPAN(日本)のBRIDGE(橋梁)メーカーです。 向こうでの仕事の内容とか給料が増えるかとかそんなことはどうでもよい とにかく大阪に居られる、家族と生活ができる、それだけが理由でした。

 

子供たちの成長と孫持ちへ

  J-Bでの仕事は、管理部門担当の常務ということで、これまでの貿易 専門の営業マンから国内専門の会社の管理部門ですから180度の変換でした。  
 でも会社は累積赤字を解消して復配して新工場を建設して、大証2部 から1部に昇格、後に東証1部上場と順調な道を歩んで行きましたから、私にも 再び春が来たような感じで数年間過ぎました。
 家族はというと、父親が家に居ない日々が続いたのにもかかわらず子供達 は順調に進学してやがて就職から結婚へと人生を歩んで行きました。
 長男は大学院の情報工学科を卒業して情報関係に進み29歳で結婚。 英国に駐在しているときに向こうで結婚式を挙げました。そのまま ニューヨークからサンフランシスコと転勤し一昨年末に転職し昨年帰国しました。ニュ ーヨ−ク生まれの娘は昨年日本の小学校にあがりました。
 次男は文科系大学を卒業して鉄鋼メーカーに就職し東京にいます。学生 時代から付き合っていた女性と結婚しましたが、結婚式の直前に阪神大震災 にみまわれ、日本での結婚式はあきらめました。新婚旅行先の教会で挙げた ようです。もう2人の男子に恵まれています。
 私は目下3人の孫もちというわけです。家族の部分では私の人生文句無しです。
 

還暦を迎えてからの難儀


 一端J-BからN-Iに帰って55歳でいわゆる繰り上げ定年で卒業、J-B のプロパー役員として勤め上げる事にしました。
 ところが折りからバブル崩壊の関係もあり、関東地区への工場進出やら水戸 の鉄工所の系列化やらN-Iがらみのいろいろな施策が裏目に出て会社が おかしくなってきました。そうすると誰が悪いのだ、誰を責めろという議論に なるのがこの会社の体質でして、ついに昨年副社長のM氏が事実上の解任に 追い込まれ、今年は私が辞任に追い込まれる体たらくとなりました。 まったく理不尽な事であります。
 まあ、いってみればかつて中国で起 こった紅衛兵事件と同じようなもので しょうか。だれかのせいにする事で現政権を正当化しようという動きです。
 何も知らないでリストラに直面しながら働いている一般社員が気の毒 です。
 役員定年は65歳ですがそんな事はお構いなしの「還暦を迎えての難儀」です。
おかげで悩みつづけて健康もいささか壊しました。ともかく事実は2000年6月 末で役員を辞任させられたのです。
 形の上では辞任ですが決して望んで辞任したわけではありません。
 このへんのいきさつは時間の経過による風化を待たなければなりますまい。

残る人生--波乱の予想?


 役員を退任してから、かつての部下が昨年会社を辞めて興したベンチャー ビジネスの会社にジョインしました。社長は昨年辞めたM元副社長です。
 今はやりのIT産業ではないのですが 「環境土木」とでもいう分野です。発泡スチーロールを使って地下に池を 作りそれでもって都市型洪水を防いだりその水を利用してヒートアイランド現象を防ごうというのです。これから社会のニーズと して必ず成長する分野ではあります。
 会社の名前は (株)環境企画21 といいます。どうです、いい名前でしょう。私が命名したのです。
 ここの取締役になりました。 苦労を重ねてもなかなか軌道には乗りません。第一大会社に勤めていた 時にはあまり問題にもならなかった資金繰りという問題があります。大会社 のバックのない事業の苦しみを味わわされています。
 もう一つ、「日本セフティーネット」という会社の 取締役にもなり、今は監査役をしています。ビルなどの火災の時に死亡の原因になると言われる煙 による窒息死を防ぐ、あるいはサリンのような悪質なガスから人の命を守るマスクを製造販売する 会社で、これから人々の防災意識が高揚してくれば大きく成長すると期待していますが、今は零細 企業でお決まりの資金繰りの苦労が続きます。2001年8月に新宿でひどい火事が、9月にニューヨー クでとんでもないことが起きました。みなさん防災に対する関心が高まったのでしょう。東京でも かなり売れましたが直に熱が冷めて不況の冷たい風にさらされています。今度SARSにも十分効く、 新しいタイプの高級マスクの発売に踏み切りましたが、起死回生のヒット商品にはなりませんでし た。
インフルエンザももっと悪質なのが大流行しないと売れないという因果な商品です。
 さらに最近非常勤国家公務員になりました。というと大げさですが簡易裁判所所属の民事調停委 員という仕事です。世間のさまざまな問題に直面します。
 これももう就任3年目になりますが昨年から急に仕事が減りました。景気回復で多重債務者が 減ったということでは決してなく、司法書士に代理権が与えられた結果、司法書士の手になる 「場外の調停」が増えたというのが真相のようです。   私の人生は60歳をすぎてから波乱が続いています。毎日情勢が変化しているとも いえます。いつ落ち着いて止水明鏡の世界になりますことやら。でも幸い健康には自身があります からそれまで元気にもうしばらくは頑張りたいと思っています。

66歳の新入社員


 2005年9月、私は66歳になったのですが 日本電子工業という会社に再就職しました。66歳にして新入社員というわけです。家でぶらぶらしているとろくなことはないし、かといって世界中旅行して回ったりゴルフ漬けの毎日、というほどの金もないし、ということで答えは「いけるところまで働こう」ということでした。
 人材銀行に登録して仕事を探したのですが私のように特別な資格を持たないロートルにはなかなか仕事らしい仕事はないのが現実ですからむしろラッキーだったと思います。
 この会社、上場を目指してそれを担当するのですがいろいろ苦労もしそうです。
 でもそれを実現したら、私にもいいことがあるだろうし「60代の前半は惨憺たるものだったが、後半はかなり取り返した。70代は輝くぞ。」といえるようにしばらく鞭打ってがんばろうと思います。

寡夫になりました


2006年1月27日午前9時24分、妻恵以子があの世に行きました。急性の脳梗塞でした。1月15日に突然倒れて救急病院にかつぎこまれましたが、そのまま意識は戻らず、12日間人口呼吸などで生き延びましたがそれまででした。まったく予兆も何もなしですから正直びっくりしました。
 いまや、寡夫つまりやもめです。40数年も一緒に暮らしてきた分身がいなくなったのですから、これからの私の生活がどうなるのやらわかりません。呆然としています。  60代後半の一人旅が続きます。まだ少し仕事をしています。でも大半の時間が自由です。経済的に厳しいですが寂しさを紛らすために小さな旅行をするのが習慣みたいになりました。

胃のない身体になり古希へ


 私の惨憺たる60年代は、胃がんの手術で終わりました。2009年6月に胃がんが発見され、それも進行がんだということで、東京の虎の門に入院しました。7月3日に全摘手術を受けていよいよ胃のない身体になってしまいました。幸い2ケ月の入院でぎりぎり70歳の誕生日前に退院し1ケ月の療養・通院で10月に宝塚に戻りまた一人暮らしをはじめました。何しろ胃がもうないのですから飲食はいろいろ制限があります。忘年会も「皆さんと対等に飲食できない」ことを理由に断ったような体たらくです。でもこれは悪夢の60代あく抜けと解釈してゴールデンセブンティーを目指して頑張りましょう。といっても入院前に仕事を断ち切ったのでさらに自由奔放な生活になりました。

メールは kojiroshig@nifty.com へお願いします。
ヘ戻る

自分紹介
カラオケ考現学
鉄道そしてダイヤグラムへのあこがれ
イタリアあれやこれや
徒然なるよしなしごと(掲示板もあり)
 我が街を語る
も読んでください。