私が仕事でイタリアはミラノに滞在したのはかれこれ20年ほど前のことでした。
単身赴任でもありましたから、あちこちよく行ったものです。そのころの
思い出話を綴ってみますが、なにせ20年前の事、今の事情とはいささかちがう
かもしれません。
まず洗礼、ローマに残した盲腸
ミラノに赴任するときの飛行機は大阪発成田、アンカレッジ経由
ロンドン行きでしたが、鈴鹿山脈の上で大変なエアポケットにはいって
1000メートルくらい急降下しました。生きた心地はしませんでした。成田
で救急車の世話になった人が20人くらいいました。どえらい旅立ちだなあ
と急に不安になりましたが、案の定2週間あとにえらい事になりました。
赴任後の出張でローマに行った夜、盲腸が猛烈に痛み出しました。日本から
医学留学に来ていた人の世話でバチカン(上の写真はバチカンのサンピエトロ
広場です)のすぐ側にある救急病院に運ばれてその夜のうちに手術しました。
相当なヤブ医者だったようで傷口が15CMくらい残ってしまいました。日
本なら1CMか2CMで済ませるそうですね。しかもその病院は3日で退院させられ
ました。「まだ痛い」といっても「痛くても盲腸の手術は3日と決まっている」
と取り合ってくれません。仕方なくとなりのホテルに替わって療養しました。
「イタリアでは公立病院は保険が利くからヤブ医者と相場が決まってい
る。救急だから仕方ないのだ。」とその医者の卵は教えてくれました。その人
中田さんは今もローマで医者をしているそうですね。
入院中は足の骨を折ったりした人と相部屋でしたから、毎日ステーキやら
スパゲッティやらおいしいものを食べるのを横目に見て3日間食事なし、で
した。これは正直いってつらかったですね。
病院の窓から見るサンピエトロ寺院の屋根は忘れられません。
当時赴任を急いだのでビザ無しで赴任していましたので、しばらくして
治癒したら一度日本に帰ってワーキングビザをとりました。
ミラノのうまいリストランテ
ミラノによらず、イタリアで安くておいしいものを食べるにはどういう
店に行けばよいか、ずばり「英語の通じない店」です。英語の通じる店は
観光用で高くて現地の基準ではまずいというのが通り相場でした。
会社の近くにその名も「修道院」という名のリストランテがありました。
トスカーナ地方の料理を中心に肉とニンニクとチーズとオリーブ油を使った
いかにもイタリアらしい店で、値段もそこそこでした。で、毎日の昼飯には
ちょっと高いけどお客さんと食事する時とかには使っていましたし、駐在員
の送別会とかも必ずそこでやりました。亭主がシェフで女房と娘とがウエー
トレスで片言も英語は分かりませんでしたが実に家族的ないい店でした。
この店、私が居る間は「隠れ穴場」的な存在でしたが、その後JALの機内誌
「空のタペストリー」に紹介されたとたんに日本人が押しかけるようになり
英語と多少の日本語までしゃべる店員を雇って値段もうんと高くなってしま
いました。おいしい店をJALのスッチーなんかに教えたのは誰だ
モンテナポレオーネというブティックの並んだ通りがあります。その一つ
隣のバグッタ通りに、同じ名前のバグッタという店があります。アンチパスタ
(パスタの前に食べる前菜)の種類が豊富でおいしい店でした。あるとき本社
から「世界のレストラン」とい本を出すからミラノ編を書け、との指示があり
私がこのバグッタを紹介しました。昔文学青年が集まった由緒ある店という話
題性もあって。その本を店に1冊寄贈したのですが、ミラノのページは今でも
店の玄関に飾ってあるそうです。日本人の客寄せに貢献しているのでしょう。
きっと値段も高くなっているでしょう。私も罪な事をしたのかなあ。
わがイタリア語との格闘
イタリアはヨーロッパだから英語が通じるという人が居ますが、とんでもな
い。英語は部分的にしか通じません。丁度日本における英語の通じる度合いと
同じ位でしょうか。イタリア人にとっての第一外国語はフランス語です。
ですから、赴任前に大阪で急ごしらえのイタリア語教室に通って、ほんの
片言だけ仕入れてまいりましたが、そんなものでろくな生活ができるわけはな
いしまして仕事ができるわけではないですから、赴任して最初の仕事は、イタリア
語の家庭教師探しでした。コリエレデラセラというミラノの新聞に英語で3行
広告を出しました。ちょっとくらい英語をしゃべってくれないと不便だと思っ
たからです。で、10人ほど応募者がありました。全員女性でした。順番に面接
して、結局授業料が一番安いそして一番若い18歳の高校生、ヴィヴィアナに決
めました。ただ一つ条件をつけられました。「あなたのアパートに行って教える事はできませ
ん。私の家にきてください。そのように両親に言われていますので。」もちろ
ん二つ返事しました。イタリア人の家庭を覗くチャンスになるかも知れないで
すから。
それから3年近く、帰国するまで彼女の世話になったのですが、毎週2回彼女の
家に行って勉強するのが楽しみでした。人のいい両親が迎えてくれて、勉強の途
中でおっかさんが「どお、お勉強は進んでいる?」てなこといいながらお盆に
ビールを乗せて持っていてくれたものです。イタリアでは飲酒に年齢制限は
ありませんから、18歳の彼女もビール飲みながらレッスンを続けたものです。
おかげで私のイタリア語もだんだんできるようになって、半年ほどたった
ころからは商談もなんとかイタリア語で曲がりなりにもできるようになりま
した。ヴィヴィアナ流の教え方は、イタリア語以外一切しゃべらないという
ものでした。分からない事があって質問するととにかく私がわかるまで
イタリア語で説明してくれたことでした。
イタリア人には自分の国と言葉に対する誇りがありますからイタリア語を
しゃべるかどうかで、仲間意識とよそ者扱いの差がありましたね。
なお、家庭教師のヴィヴィアナはその後日本流に言えば外国語短大に行き
私が帰国するころに、常設国際見本市の常雇通訳として就職していました。
スペイン語(事実上イタリア語とはなまり程度の違い)、フランス語、英語、
ドイツ語をしゃべり、目下ロシア語に挑戦中といっていました。
イタリア人と食い物の恨み
あるとき日本から出張してきた本社の人と駐在員がクルマで3時間ほどかかる
地方の顧客のところへ運転手付きの社有車で出張しました。アポの関係で
昼食時間を挟んで走る事になりました。運転手が昼食抜きで運転している
時に後ろの席で日本人2人が、持参した弁当を食べたのです。この事が後で
大きな問題になりました。
運転手が会社を相手に訴訟を起こしました。理由は「昼食抜きで働かせた
労働基準法違反」です。われわれ日本人はびっくりしましたね。昼食が
遅くなったのは確かに気の毒だったけれど、せいぜい昼食時間を時間外勤務に
カウントして割り増し賃金をはらえばいいのだろうと思っていたのです。
あわてて弁護士に相談しましたが、会社の完敗でした。「イタリアでは労
働者は充分に保護されています。使用者側もいっしょに昼食を延ばしたなら
まだ情状酌量の余地もあるが、自分達だけ食事を摂ったのでは言い訳の
しようがない。イタリア人にとって食事はもっとも重要なものであることを
知って仕事をしてもらわねば」と。
たしか100万円相当くらいの慰謝料を取られましたね。食い物の恨みは恐
ろしい、です。
イタリアクルマ事情と大事故顛末
イタリア人はクルマが好きです。どうやら人と物を運ぶ手段というよりも
スポーツ感覚を楽しんでいるような乗り方ですね。だからオートマチック車
がまずほとんどなかったのです。私はアメリカで免許を取った関係でオート
マチック車しか乗れません。だから私の乗れる車を捜すのに苦労しました。
それはともかく、一度大事故を起こして九死に一生を得ました。本社から
の指示でイラクからミラノにやってきた客を接待しました。食事の後で
ナイトクラブへ行きました。その人は殊のほか女性が好きでホスちゃんと
シャンペンのグラスを重ねて午前2時か3時まで飲んでいました。私も嫌い
なほうではないのでそこそこ付き合って帰り道の事です。
客をホテルに送ったあと大雨の中を、ミラノ中央駅の近くの大きな通りに
差し掛かった時、赤信号で止まっていましたが、信号が緑に変わったとたんに
発進したのです。そこへ黄色信号で交差点に入ってきたのでしょう、猛スピー
ドで走ってきた新聞朝刊配送車が私のクルマにもろにぶつかりました。
ボンネットが完全に吹っ飛んだのですから私はあとコンマ何秒かであの世行
きでした。酔っ払っている事自体は咎められませんでしたがそれを理由に
保険金も払われずクルマ1台パーになっただけではなく標識2本の弁償義務
も発生しました。ただし標識のほうは「私が壊しました、弁償します」という
文書にサインしただけで、いまだに督促はきていませんが。
この経験をイタリア人に話しますといいました。「お前はまだイタリアの
交通信号の解釈が分かっていない。緑は左右をみて渡れということ。黄色は
迷わず突っ走れということ。赤はいったん止まって問題なさそうなら渡れ
ということ。今度の事故でお前もイタリア人に近づいたということだ」、と。

地中海の海賊達
少し仕事の話になりますが、イタリアにおけるビジネスに対する考え方は
日本のそれとは大いに違いました。むしろ対極にあるといってもいいほどで
した。日本人の常識を忘れないと付き合っていられません。
私の仕事の一部にイタリア産の鉄筋丸棒を中近東に輸出する仕事がありま
した。日本から見て三国間ビジネスですね。これが大変でした。
まず、「長さ10メートル」と注文すればその長さちょうどかむしろ多少
長い目の物を出荷しますね。(JISなどの規格にはマイナス0、プラス5mmと
いうように規定してあります)ところがイタリアでは、特に「短尺禁止」を
条件としていなければある程度短いのを混ぜるのです。それも量り売りの
肉屋のように短いのを中のほうに入れておくのです。地中海を挟んだビジ
ネスではそれで通用するのだそうです。
あるときアンコーナというリビエラ海岸の港からサウジアラビア向けに
鉄筋丸棒を出荷しました。その船が故障したというのでヴェネチアの港に
立ち寄りました。修繕を終わっても出港しません。船会社が修理費を払わな
いから、修繕工場が差し止めているのです。出港させたいなら、修理代を
荷主が立て替えろ、というのです。
納期に遅れてサウジのお客さんに迷惑掛けては、と思い修繕費を立て替え
ました。するとしばらく経って、今度は当社以外の荷主が運賃をまだ払わない
からこれ以上航海はつづけられない、ギリシャの田舎の漁港に入って留め置く。
航海を続けろというなら運賃立て替えろと。さすがにこれは理不尽、と弁護士
に相談しギリシャの田舎漁港に飛んで「直ちに出港しなければ積み荷はここ
で荷主に引き渡せ」という現地の裁判所の命令を取り付けて、やっと
荷物をその港で抑えました。そこへかねて転売していたキプロスの買い手が
船を持ってギリシャまできてくれてやっと引き渡しがすみました。英語はお
ろかイタリア語も通じないギリシャの漁村での悪戦苦闘でした
後でわかった事ですが、丸棒のメーカーも、船会社も、修繕工場も、他の
荷主もみんなグルだったのです。みんなで日本の商社をだましてやろうと
言ってみれば地中海の海賊達の企画だったわけです。
この話にはまだ続きがあります。キプロスの買い手から実際に計ってみると
トン数が10%ほど足り
ないというクレームがありました。アンコーナの港での積み込みに立ち会った
はずの現地スタッフに問いただすと、「考えられるのは港での積み込みのとき
の昼休みだ。オレは飯食いにいったけどその時税関の連中は働いていたなあ。
あの時に同じトラックを2度3度秤に通してインボイスを水増ししたのかも
しれない。
多分税関吏は買収されてたんだろうよ。オレ?所定の時間に昼飯食うのは
労働者の権利だよ。だからオレのせいではないよ。」と澄ましたものでした。
日本で言うところの「信用問題」という言葉は、ないんですわ。
その他イタリアでのエピソードには事欠かないですね。とにかく日本と
対局にあるような文化とメンタリティーを持った国民ですから、日本人を
捨てないとなかなか付き合い切れないというのが結論です。同僚の一人が
イタリア人と結婚してあちらの会社に転職してイタリア人になってしまい
ました。確かにあいつは日本人の間尺には合わない男だった....。

メールは
kojiroshig@nifty.com へお願いします。
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