キルケゴール的生き方

 このページでは世の中にあるキルケゴール的なものを集めて紹介していくコーナーです。飲み屋などで、かるく実存主義についてうんちくを語るときにでも使って下さい。なおこのページは多くの間違いを含んでいる可能性もありますが、その辺はご了承ください。

第1回 知念里奈『YES』

 記念すべき1回目は知念里奈の『YES』という曲です。このページは著作権にうるさいある人に見張られているので、歌を題材にするのはイヤなのですが、真面目な学術研究?ということで大目にみてもらいましょう。

 それではこの歌のどこがキルケゴール的なのかを早速みてみましょう。ちなみにこのページの作者は知念里奈を気にいっているので、かなり善意に解釈していることもご了承下さい。

    もう待ちくたびれたわ今夜も鳴らない電話のベル
    頬をつたう涙は何処にゆくの?
    悲しいのはあなたを待つ事じゃなくて 
    そんな夜に慣れた事とあなたに捧げた日々

 ここで主人公は恋人との関係に疲れていくわけです。そこに絶望に気付くきっかけがあるのです。しかしその絶望を相手や周囲のせいにするのではなく、あくまでも自分の問題として受け取ります。ここで主人公が絶望しているのは恋人を待つだけの存在になった自分自身と、そうなっていく過程での自分自身の決断なのです。

    Can you hear my heart?心地よい幸せよりも
    死んでもいいと思えるような何かにむきになりたい

 主人公は絶望に気付く前の心地よい幸せが、本来の自己とは違うものであることを知るのです。つまり主人公は生きていながら、本来の自己の精神という観点からみれば死んでいるのです。そこで主人公は本来の自己を取り戻そうとします。ここでいわれているのはキルケゴールの有名なことば「私がそのために生き、そのために死にたいと思うような真理のために私は生きたい」と同じことなのです。そしてここで重要なのは「むきになりたい」というところですが、それは後述します。また「Can you hear my heart?」をどう解釈するかが難しいのですが、これには現段階では解答を与えられないので御容赦下さい。

    吹き荒れる嵐の現実(なか)強く生きる花になろう
    悲しみに脅えないでどんな時も自分でみつけた
    YES…YES…信じたい

 ここでいう吹き荒れる嵐というのは、ただ単に現実の厳しさというわけではありません。この歌をキルケゴール的に捉えるならば、この部分は「不条理」として解釈されます。たとえばある人がこの世で富や名声を得ようとしたとします。しかしそんなものは本人だけの力でどうにかなるものではありません。世の中のことは運や偶然に左右される非常に曖昧なものなのです。また現実の中での幸運な出来事や不幸な出来事も、大きな目(キルケゴールは神の尺度といっていますが、あえてその言い方はしません)でみればそうではないかもしれないのです。例えばある歌手が大ヒットを飛ばしたとしても、その後売れなければその人はその後ずっと一発屋の烙印を背負って生きていかなければならないのです(ちょっと違うかな。まあでもそんな感じです)。そんな現実の中で強く生きるとはどういうことか。それは自分の生きる目的のようなものを、外部の価値(富みや名声)に置くのではなく、自分の内面から生まれてきた価値に置くことなのです(まあ端的にいえば「何のために生きるか」ではなく、「いかに生きるか」を重要視しようということです)。しかしそのような内面の価値が本当に価値あるものであるかを客観的に判断することは誰にもできないことです。そこで自分にできることというのはYESということ、自分が見つけたこの価値の判断を信じることなのです。そしてそのような自分の価値を頑に信じることは、はたから見ればむきになって生きているように見えるのです。

 さてここまで書いて疲れたのと、2番は思った程キルケゴール的ではなかったので解説はここまでにしたいと思います。ただ勘違いしてもらっては困るのは「個性」という言葉を武器に好き勝手に生きている人間は決してキルケゴール的ではありません。そんな奴らは絶望に気付いていない生きながら死んでいる人です。だいたいにおいて絶望に気付いた精神の中には、カントの定言命法のような道徳的なものが存在するのです。

 このコーナーは連載の予定でしたが、思った以上に疲れることが分かったので、今回限りかもしれません。一応次回予告をしておくと、次は『罪と罰』でも取り上げようかと思ってます。期待しないで待っててください。