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待っているひと

※今月は、メールマガジン「ぶんぶん便」No.451
 からお送りします(2009/12/22配信)。



わたしの記憶は3歳くらいから始まっている。
2歳までは赤坂に住んでいたけど、そこでの生活は全く覚えていない。

3歳から小学校1年まで、王子にある公務員団地に住んでいた。
団地の敷地内で、いろんな年齢の子と遊んだが、
4歳上の兄の仲間と一緒にいることが多かった。

兄は「妹の面倒をみるように」と母から言われて
しかたなくわたしを連れて仲間と遊んだのだろう。
三角ベース(という野球みたいな遊び)では
わたしをベースに置くコマとして利用した。
ルールがわからないわたしはぼうっと立っていて
「今走るんだよ!」と怒られたりしたものだ。

怒られても怒られてもわたしは兄にくっついていた。
今は豆腐の根性だけど、昔は打たれ強かった。

団地の近所に鉛筆工場があって、
男の子たちはそこに忍び込んで、芯が無い鉛筆などの不良品を
こっそり拾ってきたりしていた。
もちろん、工場は危険なので子どもが侵入すると怒られる。
走って逃げる時に足手まといになるから、
わたしはその遊びに参加させてもらえなかった。

それまで砂場で遊んでいた兄と友人たちは、
目配せをして「マラソン競争しよう」と言い出す。
そしていっせいに走り出す。
わたしをまいて、工場へ行くつもりなのだ。
小学4年生の走りに5歳のわたしはついてゆけず、
すぐに先頭が見えなくなり、とぼとぼ歩きになる。

するときまってひとりの男の子が途中で走るのをやめて、立っているんだ。
ひょろりとした体型の男の子が、わたしを心配そうに見つめている。
待っててくれている。
泣きそうだったわたしの涙はひっこむ。
救われたような気持ちだ。

それは兄の友だちで、わたしは口をきいたことがない。
名前は知っていた。兄が「アラキくん」と呼んでいたし、
勉強ができるということで、母たちがよくうわさをしていた。

追いついたわたしにアラキくんは何も言わない。
かんじんの兄が見えなくなって、わたしはしかたなく家に帰る。
そんなことが何回かあった。

アラキが苗字なのか、下の名前かも知らない。
わたしは兄を冷淡なひと、アラキくんをやさしいひとだと感じていた。

それから二十年後にわたしは一児の母になり、娘が5歳になると、
こんなあぶなっかしい年頃の女の子がよく4つも上の男の子たちと
遊んだものだと感心する。生傷が絶えなかったのも道理だ。

娘が5歳の時、わたしは千葉に住んでいた。
夫の会社の社宅に入って、慣れない土地で子育てしていた。
あるとき娘が水疱瘡にかかり、しばらく幼稚園を休んだ。
近所のお医者さんに「もうだいじょうぶ。幼稚園に通ってもかまいませんよ」
と太鼓判を押された夜のこと。

真夜中、娘が「頭が痛い」と布団の上をごろごろし始め、
いきなり、嘔吐した。熱を測ると平熱。なのに激しい頭痛。
そういうことは珍しい。
「すぐに医者に診せねば」と思った。

近所の医者は時間外でいない。
電話帳を頼りにあちこち総合病院に電話した。
どこも「今医者がいない」と言う中、たった一件だけ
「うちは救急病院ではないけど、たまたま小児科医が夜勤でいるので
診ましょうと言ってます」と言ってくれた。

場所を聞くと、歩いて行ける距離ではない。
うちに車はあるが当時わたしは免許がなく、夫も出張中だ。
タクシー会社に電話するも、どこもつながらない。
わたしは娘を抱えて、家を飛び出した。
20キロもある娘を抱えて、夜道を走った。
よく走れたと思うが、息切れなどしなかった。
ちゃんと頭も働いていて、大通りを走った。
狙い通り流しのタクシーがつかまって、病院にむかった。

タクシーを降りて、病院のアプローチを駆け上がると、
暗い病院の正面玄関の自動ドアの向こうに、白衣が見えた。
ドアを通って駆け込むと、ひょろりとした医師が立っていた。
立って、待っていてくれた。
そのときのわたしは必死の形相だったと思う。
医師はにこっと笑って「もうだいじょうぶ」と言った。

診察後、娘は点滴を打たれて落ち着いた。
医師は「まれに脳炎になる場合があるので、念のため検査入院しましょう」と言った。
ノウエン…わたしは床に崩れ落ちた。
このときの床の冷たさをてのひらと膝が覚えている。

医師は「心配性ですね? 念のためですから」とわたしの顔を覗き込んだ。
その言葉にかすかに救われた。
こんなに胸が苦しいけど、心配しすぎだからなんだ。
まだなんにも起こってないんだ。
そう心でつぶやきながら、一晩娘のベッドに付き添った。

朝、「結果、異常ありません」と医師が笑顔で報告に来て、無事退院となった。
ほっとしたら医師の白衣の胸にドラえもんの人形がくっついているのに気付いた。
小児科医だから、そうやって子どもの心から緊張をとりのぞくのだろう。
わたしの緊張もとりのぞかれた。
そのあとどうやって家に帰ったかは全く記憶にない。

わたしはすぐに自動車教習所に通い始め、免許をとった。
これでどんなときも自力で子どもを病院に連れて行ける。
家から少し距離はあるけど、なにかあったらその病院で診てもらうことにした。

「娘がよく鼻血を出すのですが、何か悪い病気ではありませんか」
「あ、ぼくも今朝鼻血出しました。鼻血って出るもんです」

子育てに不安がいっぱいのわたしに、その医師はいつも安心をくれた。
土地にも慣れ、心配性もうすらいで来た頃、病院の待合室で貼り紙を見つけた。

『ドラえもん先生のプロフィール』と書いてある。
患者に人気の先生らしくて、だからそんな貼り紙が作られたらしい。
そのプロフィールを読むうち、わたしの心臓はドキドキしてきた。
胸いっぱいにあったかいものがあふれてくる。

先生は子どもの頃、わたしと同じ公務員団地に住んでいて、
名前を荒木と言い、兄と同じ歳だった。

置いてけぼりの5歳の女の子を待っていてくれた、ひょろりとした少年の姿と
真夜中の暗い病院で、泣きそうな母親を待っていてくれた
ひょろりとした白衣の姿が重なった。

混んでない日を見計らって、団地のことを医師に切り出してみた。
荒木先生は「大山くん? おぼえてるおぼえてる!」と
兄のことをちゃんと覚えてくれていた。
「妹いたっけ」わたしのことは覚えていない。

貼り紙のプロフィールを読むと、
アラキくんは子ども時代、体が弱くて、なんどか入院したらしい。
そこで尊敬できるお医者様と出会って、医師を目指したというのだ。

今思えば、マラソン競争でわたしを待っていたのではなくて、
走り続けることができずに、立っていたのかもしれない。
幼稚園児の女の子に追いつかれて、なさけない気持ちで
立っていたのかもしれない。

それでも、わたしはアラキくんが立っていて救われたし、
真夜中荒木先生が待っていてくれた、そのあたたかさを忘れない。

そのひとにとってはなにげない日常のヒトコマが
相手にとっては一生の宝物になったりする。

それからほどなく我が家は崩壊し、その土地を離れた。
あまりいい思い出のない土地だけど、この記憶だけは宝物だ。

そうそう、病院の会計を済ませて帰るとき、
病棟の中庭に、荒木先生がぽつんと立っていて、
すごく疲れたような後ろ姿だったから、心配になって見ていたら、
いきなり両腕をしっかり伸ばして、深呼吸していた。
その姿も、記憶に残っている。

人生の節節に、待ってくれているひとがいる。
こういうことはこれからだって誰にだって起こると思う。
人生辛くてもうだめっていう時も、
立って待っているひとがいる。その姿をイメージするだけで、
だいじょうぶ、前に進もうって思えてくるんだ。

たとえ現実に待っててくれるひとがいなくても、
待っててあげるひとにはなれるかもしれない。
そう思うとなんだかほっとするんだ。


※今月は、2009/12/22配信のメールマガジン「ぶんぶん便」No.451からお送りしました。
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2004/12/29■ ウィークリーまぐまぐ[総合版]の「まぐまぐ特選!おすすめメルマガ」で紹介。
2005/07/14■ RanStaオープン記念キャンペーン厳選メルマガに選定!
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2006/11/29■ ウィークリーまぐまぐ[総合版]の「まぐまぐ特選!おすすめメルマガ」で紹介。
2007/03/28■ 「映画のまぐまぐ!」の「映画のおすすめ情報」コーナーで「ぶんぶん便」紹介『大帝の剣』。
2007/04/10■ カプライト・ニュースの「今週の厳選マガジン」で「ぶんぶん便」紹介。
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