埼玉苗字辞典
チ〜ト

千明 チアキ 大宮、桶川、新座、鳩ヶ谷、春日部、草加、三郷、川越、日高、富士見等に存す。チギラ参照。

千秋 チアキ 浦和、大宮、鴻巣、本庄、三郷、所沢等に存す。

千足 チアシ 富士見に存す。

血洗島 チアライジマ 榛沢郡血洗島村(深谷市)あり。

地井 チイ 川口、鳩ヶ谷、日高等に存す。千葉県夷隅郡大原町八戸あり。

小子 チイサコ 背丈のひくき人・すなわち侏儒のことにて、宮中の雑役に服する人を云う。日本後紀・弘仁二年三月条に「武蔵国の人、正六位下小子宿祢身成を左京に貫す」と見ゆ。児寤氏は此氏の後裔か。コゴ参照。

千井野 チイノ 北本、鴻巣、吉見等に存す。

千色 チイロ 大宮に存す。

千浦 チウラ 入間、富士見等に存す。

千枝 チエダ 大宮、川越、坂戸、富士見等に存す。宮城県登米郡迫町八戸、岩手県胆沢郡金ヶ崎町八戸あり。

近 チカ 埼玉郡柳生村(北川辺町)嘉永四年地蔵尊に柳生村近新田と見ゆ。浦和、北本、羽生、春日部、越谷、三郷、飯能等に存す。コン参照。

一 忍城士の近氏 成田分限帳に「十六貫文・近喜左衛門」あり。

千賀 チガ 与野、吉見、庄和、大井等に存す。センガ参照。

一 忍城士の千賀氏 成田分限帳に「十貫文・千賀吉左衛門」あり。

二 騎西・羽生藩大久保氏家臣 小田原藩文書に「寛永六年騎西御取立・千賀廸丞」あり。

三 鳩谷・岩槻藩阿部氏家臣 寛文二年岩槻藩分限帳に「百五十石・千賀与左衛門」あり。

四 忍藩松平下総守(奥平)家臣 嘉永六年忍藩分限帳に「御物頭・百九十六石余・千賀仁蔵」。慶応元年に「百九十六石余・千賀又左衛門」。明治四年忍藩士族名簿に「百九十六石余・千賀金次郎」あり。

親跡 チカアト 桶川、飯能等に存す。

近嵐 チカアラシ 東松山、朝霞、戸田、春日部、三郷、吉川等に存す。新潟県西蒲原郡巻町二十三戸、福島県西白河郡東村六戸あり。

違 チガイ 蕨、川越、所沢等に存す。

千海 チカイ 所沢に存す。

近井 チカイ 川口、上尾、北本、蓮田、川越、鶴ヶ島、越生等に存す。

近池 チカイケ 上福岡に存す。鳥取県東伯郡東伯町六戸あり。

近石 チカイシ 三郷、川越、所沢、大井等に存す。

近泉 チカイヅミ 朝霞に存す。

近内 チカウチ 浦和、川口、上尾、東松山、岩槻、草加、入間、所沢等に存す。コンナイ参照。

一 川越藩松平大和守家臣 慶応元年前橋藩松山陣屋付に「六石二人扶持・近内熊太郎、同高・近内兼五郎」あり。

近岡 チカオカ 各市町村に存す。山形県最上郡金山町九戸、真室川町十二戸あり。

近ヶ本 チカガモト 比企郡平村慈光寺元禄八年棟札に「秩父郡菅平村、近ヶ本村、上中生村、小西村」と見ゆ。すべて古大滝村の小名にあり。

近川 チカガワ 草加、上福岡、所沢等に存す。

近記 チカキ 川越に存す。

近越 チカコシ 川越に存す。

千ヶ崎 チガサキ 北本、春日部、越谷、幸手、三郷、入間、坂戸等に存す。茨城県行方郡麻生町十六戸、北浦町十一戸、玉造町二十四戸あり。

近貞 チカサダ 坂戸に存す。

近沢 チカサワ 各市町村に存す。栃木県芳賀郡茂木町三十二戸あり。

近澤 チカサワ 大宮、熊谷、滑川、草加、入間、川越、鶴ヶ島等に存す。

近重 チカシゲ 鴻巣、小川、春日部、川越等に存す。島根県浜田市三十戸、江津市四十八戸あり。

近末 チカスエ 北本に存す。

近角 チカスミ 新座に存す。

千方 チカタ 埼玉郡加須村、礼羽村、堤村に千方社あり。風土記稿堤村(羽生市)条に「俵藤太秀郷の六男修理大夫を千方と云ふ、此人を祭る」と、秀郷の子千方は附会なり。入間郡川辺村の川辺社は千方明神社と号す。深谷城下に智形神社あり。熊谷宿千形神社の祭神は天太玉命(あまつふとたまのみこと)なり。榛沢郡田中村(川本町)条に「知形明神社は思金命を祭るといふ。此命は秩父国造知々夫彦命の十世の祖なれば由ある社にや、古へは千方と書し」と見ゆ。思金命(おもいがねのみこと)は「重い金」の意味で、太玉命も同じく鍛冶神なり。

近田 チカタ 各市町村に存す。コンダ参照。

近谷 チカタニ 春日部、所沢に存す。

近津 チカツ 福島県東白川郡郡棚倉村に上社の近津宮(馬場都々古別神社)、八槻村(棚倉町)の中宮に近津宮(八槻都々古別神社)、茨城県久慈郡太子町に下宮の近津宮(石都々古和気神社)あり。八槻近津宮別当大善院が管理する八溝嶺黄金神社が福島・茨城県境の八溝山頂に鎮座し、続日本後紀承和三年条に「砂金常に倍し遣唐使の資とした」と見え、八溝金山の守護神である。陸奥国風土記に「八槻の地に八の土知朱(つちぐも)有りき。各々族有りて八処の石室に屯みき。景行天皇・日本武尊に詔して、土知朱を征討たしめたまひしに、土知朱等力を合せて防禦ぎ、且つ津軽の蝦夷許多と諜り、猪鹿弓、猪鹿矢を石城に連ねて、官兵を射ければ、官兵進み歩むこと能はざりき」と見ゆ。近津宮は穴を掘る鉱山師の土蜘蛛族の奉斎神なり。近(こん)は金(こん)で、金(きん、てつ)の集まる(津)の意味か。利根川流域の清地村(杉戸町)に近津神社あり、中妻村(鷲宮町)、高岩村(白岡町)、久喜本町・吉羽村・上早見村(久喜市)等に千勝社あり。砂鉄採取集団の奉斎神なり。アラハバキ条参照。近津氏は大宮、朝霞等に存す。

千勝 チカツ 前項に同じ。浦和、大宮、久喜、越谷等に存す。茨城県真壁郡大和村六戸あり。

近辻 チカツジ 岩槻に存す。

近戸 チカド 秩父郡大宮郷字近戸、入間郡堂山村近戸権現社あり。

近俊 チカトシ 川口に存す。

近殿 チカドノ 幡羅郡下増田村、飯塚村に近殿明神社あり。

近並 チカナミ 吉見に存す。

近野 チカノ 川口、鳩ヶ谷、川越、日高、富士見等に存す。コンノ参照。

千鹿野 チカノ 入間、狭山、所沢、日高等に存す。

一 高麗郡高麗本郷(日高市) 小名千鹿野あり。明治十六年永続講員千鹿野亀吉あり。鹿山に一戸現存す。

近信 チカノブ 草加、三郷等に存す。

近橋 チカハシ 所沢に存す。

近畑 チカハタ 三郷に存す。

近幡 チカハタ 日高に存す。

千川原 チカハラ 上福岡、飯能に存す。

近久 チカヒサ 戸田、上福岡に存す。

近平 チカヒラ 行田、川島等に存す。

千釜 チカマ 浦和、所沢等に存す。

千竈 チカマ 越谷に存す。

近馬 チカマ 千葉県館山市十戸あり。

近間 チカマ 浦和、入間、所沢に存す。

近正 チカマサ 金沢文庫に「成田左衛門尉跡、幡羅郡近正」と見ゆ。上増田村・東方村附近なり。

近政 チカマサ 大宮に存す。

近松 チカマツ 各市町村に存す。

親松 チカマツ 大宮に存す。オヤマツ参照。

千頭 チカミ 大宮、上尾、与野、深谷、久喜、越谷等に存す。

近見 チカミ 三芳に存す。

近光 チカミツ 越谷に存す。

近宮 チカミヤ 草加、鶴ヶ島等に存す。

近村 チカムラ 大宮、入間等に存す。青森県北津軽郡中里町十戸あり。

近持 チカモチ 越谷に存す。

近本 チカモト 宮代、所沢、富士見等に存す。近ヶ本参照。

近森 チカモリ 浦和、大宮、行田、越谷、春日部、入間、狭山等に存す。

親康 チカヤス 岩槻藩板倉氏家臣にて、天和二年岩槻藩分限帳に「十両十五人扶持・親康三達」あり。

近山 チカヤマ 各市町村に存す。

一 忍藩阿部氏家臣 享保八年忍藩軍役帳に「五十俵二人扶持・近山元右衛門」あり。

近吉 チカヨシ 金沢文庫に「文永十一年十一月、阿那志村、近吉、薦田」と見ゆ。美里町附近なり。

力 チカラ 毛呂山に存す。千葉県銚子市十戸あり。

主税 チカラ 埼玉郡琴寄村字主税あり。川口、志木、小川等に存す。

力石 チカライシ 各市町村に存す。神奈川県足柄下郡湯河原町百戸、新潟県柏崎市十七戸あり。

近嵐 チカラシ 春日部に存す。

千川原 チカワラ 蕨に存す。山形県最上郡金山町十一戸あり。

千木 チギ 入間に存す。

一 忍城士の千木氏 成田分限帳に「御用人・千木長十郎」あり。

地木 チギ 所沢に存す。

千木崎 チギサキ 北本に存す。

千北 チキタ 越谷に存す。

地木原 チギハラ 葛飾郡銚子口村(春日部市)明治十二年鳥商地木原正吉あり。現存無し。

知久 チキュウ 幸手、草加等に存す。

千明 チギラ 各市町村に存す。群馬県利根郡月夜野町十七戸、片品村八十三戸、白沢村十戸、利根村二十四戸、北群馬郡子持村八十七戸、勢多郡新里村十五戸、沼田市六十戸、渋川市四十七戸あり。

千輝 チギラ 川越に存す。

千装 チギラ

一 比企郡泉井村(鳩山町) 嘉永三年津久根村仲文書に泉井村千装村右衛門。明治九年戸長千装小十郎・弘化三年生。戸宮村御嶽社明治十三年水鉢に泉井村千装作治郎あり。八戸現存す。

二 同郡大岡村(東松山市) 松山町箭弓神社明治三十一年碑に大岡村千装季之あり。現存無し。

千木良 チギラ 各市町村に存す。群馬県利根郡川場村九戸、北群馬郡榛東村八戸、勢多郡北橘村十二戸、多野郡新町十戸、渋川市三十七戸、藤岡市三十戸、前橋市五十戸あり。

千吉良 チギラ 蕨、松伏、鷲宮、志木、川越、熊谷、本庄等に存す。群馬県新田郡新田町七戸、佐波郡赤堀町三十二戸、邑楽郡大泉町六戸、伊勢崎市二十七戸あり。

千喜良 チギラ 大宮、鴻巣、行田、入間、富士見、毛呂山、春日部等に存す。群馬県沼田市七戸、新潟県南魚沼郡大和町二十六戸あり。

千金良 チギラ 川口に存す。

千金楽 チギラ 桶川、日高等に存す。群馬県邑楽郡大泉町六戸あり。

知桐 チギリ 富士見に存す。

築 チク 富士見に存す。ツキ、ツクイ参照。

知久 チク ○栃木県下都賀郡野木町二十五戸、小山市八十戸。○茨城県猿島郡五霞町四十七戸、三和町十二戸、総和町五十一戸、古河市二十一戸。○千葉県東葛飾郡関宿町三十九戸。○長野県下伊那郡松川町二十七戸、喬木村十戸、飯田市十四戸あり。

一 信濃国の知久氏 鶴岡八幡宮弓始の射手は信濃武士の小野沢・布施・諏訪・藤沢・知久・望月・海野氏等が世襲制によって勤続す。吾妻鑑・正嘉二年条に「御的始の射手の事、内々人数を定めらる。何ヶ度といへども旧労を撰び用いらるべきの旨、時頼の厳命あり。しかうして知久右衛門五郎信貞は、多年勤仕の射手たりといへども、当時信濃国にあり。よって諏訪兵衛入道蓮仏は飛脚をかの国に遣わすと云ふ」と、同年正月弓始めには知久信貞は呼び出されて勤仕している。神氏系図によれば、頼朝家臣の諏訪大祝敦光の子十郎左衛門敦俊が伊那郡蕗原庄南小河内村上ノ平(箕輪町)に居住し、知久沢川の地名によって知久氏を称した。其子左衛門五郎信貞が下伊那郡伴野庄上久堅村(飯田市)へ移住し、知久氏の名を取って知久郷と称し、同村神之峰床山城に居城す。信貞は文永五年下久堅村文永寺を建立し、享徳四年文永寺文書に「信州伊那郡伴野庄知久郷文永寺」と見ゆ。天正十年知久頼氏が家康から本領安堵状を受け、慶長六年・其子則直が本領の内三千石を与へられ阿島知久氏(喬木村)の初代となる。寛政呈譜に「知久頼氏(天正十三年自殺、四十歳)―則直(三千石、正保元年死す、六十七歳)。頼氏の弟頼龍(美濃国三竹に住す)―女子(則直が妻)。家紋、車輪、桔梗、梶葉」。此の系図には武蔵幸手宿知久氏のことは載せず。子孫知久健夫氏は愛知県豊田市に在住す。尚、伊那史料叢書の知久家系譜に「頼龍の子は、女子、弥五左衛門(遠州周知郡白波知久之祖是也)、右衛門八(住武州田宮荘田宮町、寛永十六年五月没、法名興徳院、幸手知久氏之祖也)」と見ゆ。これは後世の作成にて幸手宿知久氏は無関係なり。

二 下総国関宿の知久氏 永正十五年道者日記に「ちく五郎左衛門殿・在所は関宿」と見ゆ。葛飾郡柏寺村(千葉県関宿町)に二十二戸現存し、五郎左衛門は当村出身か。

三 小山衆の知久氏  下野国下都賀郡乙女村(小山市)に二十二戸、南飯田村(小山市)に十八戸、間々田村(小山市)に十四戸現存し、隣の野木町にも多く存す。小山城主北条氏照印判状(広瀬文書)に「天正十五年十一月二日、久下之郷(加須市)御検地之増、七百九十四文・知久甚兵衛、右於久下之郷、小山衆ニ被下候給田之増分也」と見ゆ、金子条参照。甚兵衛は乙女村附近出身にて、久下郷大桑村に居住するか。風土記稿・幸手宿条に「褒善者知久文左衛門、当所久喜町を開きし帯刀の子孫なり。名主及び宿の問屋を勤む。天明三年信州浅間山焼のとき飢人に食物を施す。其後故有て数多の百姓ら下野国都賀郡乙女村に移住せしむることありける時、粕壁宿の民喜蔵といへるものと心を合せ、彼地に至り己が財を費して扱いけり」と。先祖帯刀(甚兵衛の一族か)は乙女村出身であろう。尚、乙女村は元徳四年乙女郷年貢取帳に金沢称名寺領(神奈川県)とあり、是以前からの集落なり。慶安郷帳に七百八十石、天保郷帳に家数八十五軒、千三十四石と見え、江戸初期より幕末まで人口増加は無く、乙女村では幸手宿からの大量移住説は無い。風土記稿は先祖発祥地説を記したのであろう。

四 埼玉郡羽生領大桑村の知久氏 正保年間頃に南大桑村(加須市)と北大桑村(大利根町)に分村す。当村に現存無し。上吉羽村金子家系図に「鳥海伊兵衛尉重基(延宝四年没)―女子(羽生領大桑村知久文左衛門妻)、弟鳥海四郎左衛門重隆(貞享五年没)―女子(幸手町知久文左衛門妻)」と見ゆ。鳥海氏は佐間村(栗橋町)住人なり。知久氏は重隆娘が嫁ぐ頃は幸手町へ移住している。幸手宿裏町天神社神像再興記に「願主筑帯刀・知久頼州之先祖也・寛永十年九月。帰依幸手久喜町知久文左衛門頼州・文化五年正月再興」とあり。帯刀は大桑村にて没すか。どちらの家譜が真実かわからず。

五 葛飾郡幸手宿 幸手市史に「初代知久帯刀(右衛門八改め。興徳院広誉浄雲禅定門、寛永十六年五月十二日没)―文左衛門(延宝四年没)―与十郎(天和三年没)―伝右衛門(元禄三年没)―伝右衛門(享保十七年没)―左衛門景信(寛政七年没)―左衛門頼洲(文政三年没)―左衛門維則(天保七年没)―順之助(明治十一年没)―文造(明治三十九年没)」と見ゆ。慶応三年名主知久秀助。明治四年白石文書に幸手宿知久順之助。明治五年幸手宿之内右馬之助町名主知久文造。明治六年幸手宿之内久喜町副戸長知久文造あり。九戸現存す。

六 同郡関宿向下河岸(幸手市) 浅間社慶応元年門人碑に智久宗兵衛源与時あり。知久氏一戸現存す。

七 同郡千塚村(幸手市) 真乗院正徳五年鐘銘に知久又七郎・知久太郎兵衛あり。現存無し。

八 同郡安戸村 字中原は幸手市へ、字二本木は杉戸町へ編入す。中原香取社天明二年筆子碑に中原組知久利兵衛。大黒院文化七年庚申塔に安戸村之内二本木・知久富五郎・知久亦右衛門、天保五年庚申塔に二本木・知久惣助・知久善次郎・知久市右衛門、明治二十年庚申塔に戸島村知久幸太郎。本島香取社明治三年富士碑に当村知久又右衛門・知久茂蔵、明治二十八年狛犬に二本木知久又四郎。権現堂村堤明治十年天皇行幸碑に安戸村知久又四郎。貴族院多額納税者議員互選人名簿に明治三十年戸島村農業知久又四郎・文政十年生・国税五百二十二円、明治四十四年戸島村農業知久貞三郎(又四郎)・明治三年生・国税二千百十六円・県下二十二位、大正十四年知久貞三郎・国税千三百八十三円・県下百二十一位(県会議員)。昭和三年興信録に「八代村・知久貞三郎・所得税千百七十五円」あり。三戸存す。

九 同郡鷲巣村(杉戸町) 鷲神社安政四年二十三夜塔に知久久米蔵、明治三年御嶽碑に当村知久桂三郎あり。現存無し。

一〇 同郡芦橋村(庄和町) 香取社文化十二年庚申塔に知久休右衛門、文政二年供養塔に芦橋村知久休右衛門・知久幸助、文政九年庚申塔に地久要右衛門。明治九年副戸長知久元九郎・弘化二年生。明治三十年人名録に知久元九郎・地租三十八円あり。一戸現存す。

一一 同郡西親野井村(庄和町) 不動堂寛文五年地蔵尊に知久三左衛門あり。現存無し。

一二 埼玉郡須賀村(宮代町) 身代神社慶応二年敷石碑に知久茂登あり。一戸現存す。

一三 同郡恩間村(越谷市) 当村渡辺家譜に「渡辺左介直吉(邨長知久氏の十男、宝暦十年没、八十六歳)」と見ゆ。現存無し。

一四 鳩谷・岩槻藩阿部氏家臣 慶安元年岩槻藩軍役積に「二百石・知久弥一兵衛、百石・知久与五右衛門」。

筑井 チクイ 群馬県佐波郡赤堀町二十戸あり。ツクイ参照。

一 金山城士の筑井氏 永禄三年石塚合戦に上野国金山城主由良家臣筑井内頭近行久あり。坂田条参照。金山記に「津久井内匠助行久討死・法名宗久」と見ゆ。

二 幡羅郡石塚村(深谷市) 前項の後裔なり。明治七年立会人筑井兵吉。足立郡三ツ木村三ツ木神社明治二十五年碑に石塚村築井兵吉。明戸村会議員筑井孝平・明治三十年生あり。一戸現存す。

築井 チクイ 鴻巣、羽生、嵐山、川越、鶴ヶ島、越谷、春日部等に存す。新潟県新発田市三十一戸あり。ツクイ参照。

竹生 チクウ 上福岡に存す。

筑後 チクゴ 川口、浦和、春日部、久喜に存す。岩手県花巻市四十戸あり。

一 上杉氏家臣の筑後氏 入間郡上寺山村字筑後町(川越市)は此氏の屋敷跡にて、大仙波村へ移転す。北条記に「天文十五年の頃、上杉憲政河越合戦に討ち負け上州へ帰る。天文十五年十月、憲政に只今まで付き順いつる筑後左衛門以下譜代旧功の郎従ども、氏康へ内通し上杉の下知を用いず」。風土記稿大仙波村条に「小名弾正屋敷、この処は昔筑後弾正と云し人の住居の跡なりといへど、其年代及びいかなる人と云ことを伝えず」と見ゆ。川越日蓮宗行伝寺過去帳に「日専・筑後殿・巳年二月。妙経・筑後殿母。妙玄・筑後殿内・戌年九月。妙専・筑後殿内方・辰年四月。妙覚・筑後殿ムスメ・午年九月」あり。現存無し。

二 北条氏家臣の筑後氏 高麗郡栗坪村勝音寺千手観音坐像銘(日高市)に「天正九年五月十二日、勝音寺慶鑑首坐、并に筑後長泉」あり。現存無し。岡上、中山条参照。

千草 チグサ 川口、鳩ヶ谷、越谷等に存す。

千種 チグサ 鳩ヶ谷、上尾、桶川、越谷、春日部、狭山、上福岡、富士見、越生等に存す。秋田県南秋田郡飯田川町二十五戸あり。

竹枝 チグサ 狭山に存す。

千草婆 チグサバ 成田系図に「玉井助実(保元乱頃)―千草婆次郎―太郎雅親」と見ゆ。玉井条参照。

筑紫 チクシ 浦和、熊谷、小川、朝霞、富士見等に存す。ツクシ参照。

築瀬 チクセ 

一 鉢形城士の築瀬氏 秩父志に「大野原村(秩父市)築瀬屋敷、築瀬氏」あり。現存無し。

二 忍城士の築瀬氏 成田分限帳に「十五貫文・築瀬信濃」あり。

筑前 チクゼン 新座、狭山等に存す。

竹田 チクダ 長野県北安曇郡小谷村十五戸、新潟県糸魚川市十六戸あり。タケダ参照。

筑田 チクダ 越谷、入間等に存す。青森県下北郡大間町十一戸あり。ツクダ参照。

築田 チクダ 鶴ヶ島に存す。ツクダ参照。

千久田 チクダ 川口に存す。

築達 チクタチ 戸田に存す。山形市十八戸あり。チクダテか。

築館 チクダテ 熊谷に存す。ツキダテ参照。

築舘 チクダテ 草加に存す。

千口 チクチ 行田に存す。

地口 チクチ 川口、志木、新座に存す。

築地 チクチ 和光に存す。ツキチ参照。

千国 チクニ 加須、草加、川越等に存す。長野県南安曇郡穂高町二十戸、三郷村十二戸、北安曇郡小谷村二十三戸あり。

築根 チクネ 坂戸に存す。ツキネ参照。

竹馬 チクバ 浦和、嵐山、新座、越谷、入間、所沢等に存す。

築波 チクバ 東松山に存す。

竹生 チクブ 川口、戸田等に存す。

千熊 チクマ 日本書紀・神功皇后四十七年条に「千熊長彦を新羅に遣す。千熊長彦は、分明しく其の姓を知らざる人なり。一に云わく、武蔵国の人。今は是額田部槻本首等が始祖なりといふ」と見ゆ。近江国御上神社神主三上祝系図に「天照大御神―天津彦根命(天降而居出雲国意宇郡屋代郷、後遷近江国蒲生郡彦根神社)―天御影命(又、天目一箇命)―意富伊我都命―彦伊賀都命(神武天皇世、居蒲生郡於馬見丘奉斎神社)―天夷沙比止命(和泉国川枯首祖)―川枯彦命(近江国甲賀郡川枯神社)―坂戸毘古命(孝元天皇世、奉斎三上神)―国忍富命―筑箪命(崇神天皇世、筑波国造)―忍凝見命(垂仁天皇世、為大湯坐部)―建許呂命(日本武尊東征時随従)―大布日意弥命(為須恵国造)―千熊長彦(額田部槻本首祖)」と見ゆ。千熊氏は近江国坂田郡筑摩村(滋賀県米原町)より起る。槻本首(つきもとのおびと)は摂津国西成郡槻本郷(大阪市淀川区)より起る。日本武尊に従い関東へ移る。須恵国は天平勝宝五年文書に上総国須恵郡額田部郷と見え、和名抄に上総国周准郡額田郷・湯坐郷(千葉県君津市糠田、湯江)と見ゆ。筑波国は常陸国筑波郡にて、常陸風土記に「茨城国造の初祖・天津多許呂命に子八人あり。中男・筑波使主は、茨城郡湯坐連の初祖也」と見ゆ。始祖御影命は鍛冶神である。湯坐(ゆえ)とは、金属が熱に熔けた状態を湯という、鉄をドロドロに熔かす工人を湯坐部という。額田(ぬかた)の糠は、鋳造製品の地肌に生じ易い小穴などの害を防ぐため米糠を投入すると脱酸効果がある、この職業を額田部という。須恵国とは、陶(すえ)を製造する氏族の居住地なり。千熊長彦は武蔵国比企・入間・高麗地方の鍛冶集団額田部三上氏一族を統率した首領である。

筑間 チクマ 北本、八潮等に存す。

一 騎西・羽生藩大久保氏家臣 小田原藩文書に「忠職代出仕、濃州加納取立・本国武蔵生国武蔵・百石・筑間何右衛門、子九七郎・天保四年生。忠職代出仕、濃州加納取立・本国武蔵生国相模・百七十石・筑間隼太、子縫殿・天保十二年生」あり。

竹間 チクマ 各市町村に存す。

一 鉢形城士の竹間氏 風土記稿多摩郡日野本郷条に「小名四ツ谷に墳墓あり。相伝う、竹間加賀入道が墳なりと。竹間は天正の頃の人にて鉢形に居せし者なり。旧家百姓佐藤彦右衛門北条家より出せし文書を蔵せり。『丙戌三月九日、日野惣郷云々、竹間加賀入道花押』とあり」と見ゆ。当村に四戸現存す。

二 松山町 当町に此氏多く存す。菅原神社安政五年碑に仲宿竹間民五郎。昭和三年興信録に「松山町・竹間宗平・所得税三十一円」あり。

三 小川町 明治三十五年大工職竹間久造あり。現存無し。

竹間沢 チクマザワ 入間郡竹間沢村(三芳町)あり。

千倉 チクラ 川口、大宮、新座に存す。

千蔵 チクラ 上尾、妻沼等に存す。

竹林地 チクリンヂ 川口に存す。

寺家 ヂケ 高麗郡町谷村(鶴ヶ島市)は寺家村と唱える。幡羅郡下奈良村字寺家は奈良神社明和八年碑に下奈良村寺家と見ゆ。小名寺家は、埼玉郡浮谷村、足立郡高尾村、中新井村、入間郡北浅羽村、入間川村、豊田本村、横見郡江川新田、高尾新田、荒井新田、須野子新田、比企郡玉川郷、幡羅郡中奈良村等にあり。

地下 ヂゲ 川口、与野、春日部に存す。

知見 チケン 大宮、川越等に存す。山梨県大月市四十四戸あり。

知見寺 チケンジ 鳩山に存す。山梨県北巨摩郡武川村十戸あり。

治子 チコ 埼玉郡下中条村(行田市)鎮守治子神社あり、チコと称す。

知光 チコウ 春日部に存す。

知公 チコウ 鳩ヶ谷に存す。

児野 チコノ 越谷に存す。長野県木曽郡木曽福島町十四戸、楢川村八戸。

千佐 チサ 上尾、白岡等に存す。

千坂 チサカ 各市町村に存す。宮城県宮城郡松島町十四戸、黒川郡大郷町二十戸、大和町四十三戸、加美郡中新田村十一戸、遠田郡涌谷町十三戸、古川市二十一戸あり。

一 武蔵国守護代千坂氏 岡谷家系図(榛沢郡岡村の岡正雄家所蔵)に「太田駿河守広綱―資綱―茂資―資国(入道道清)―千坂駿河守資胤―豊前守胤継―兵部輔美胤、弟岡谷式部丞胤房(武蔵国岡ノ谷に住し氏とす)―岡谷孫六入道資房(応永二十三年上杉禅秀に応ず)」と。是は信用できず。鎌倉黄梅院文書に「応永四年七月二十日、関東管領扇谷上杉朝宗は、武蔵国守護代千坂越前守に命じて、埼玉郡・足立郡の内を寄進す」と。鎌倉大草紙に「応永二十三年十月四日、犬懸入道上杉禅秀の手には、郎等千坂駿河守、子息三郎、岡谷豊前守、嫡孫孫六、甥弥五郎、従弟式部大輔、塩谷入道、舎弟平次左衛門、蓮沼安芸守、等云々」と見ゆ。嘉暦元年上総国周東郡内東盛義所領等注文に「千坂」の地名あるが、関東には村名無し。発祥地不詳なり。

二 上杉氏族千坂氏 越後国沼垂郡折居村(新潟県北蒲原郡笹神村)の鉢盛城(折居城、女堂城とも云う)に拠る。上杉朝宗の孫駿河守高春・当国に来り、当地に居りて千坂氏を称す。其の孫を伊豆守清胤(又対馬守)と云う。前項系図に「千坂兵部輔美胤(越後府内上杉家に属す)、子孫対馬守清胤の祖」と。長享三年越後中条文書に「千坂対馬守実高花押」と見ゆ。北越軍談に「謙信の臣千坂駿河守憲清」。上杉景勝様御家中に「折居城主千坂越後守」とあり。子孫は米沢藩上杉氏の重臣なり。

三 忍藩松平下総守(奥平)家臣 明治四年忍藩士族名簿に「一人扶持・千坂久治郎」あり。

千阪 チサカ 浦和、草加等に存す。

知坂 チサカ 越谷に存す。

一 忍城士の知坂氏 成田分限帳に「二十五貫文・知坂兵左衛門」あり。別本に知高と見ゆ。

苣木 チサギ 上尾、越谷等に存す。

樗木 チサギ 入間に存す。

知崎 チザキ 大宮、所沢等に存す。

地崎 チザキ 川口、戸田、新座に存す。

千里 チサト 朝霞に存す。

知里 チサト 久喜に存す。

千沢 チサワ 越谷に存す。

知沢 チサワ 春日部に存す。

千島 チシマ 青森市三十三戸あり。

一 鉢形城士の千島氏 鉢形城に大光寺曲輪あり、大光寺千島入道が屋敷跡なり。大光寺条参照。鉢形分限帳に「本国出羽秋田・大滝住・千島下総、本国武州那賀・千島幸内」あり。秋田県・山形県に千島村及び千島氏は無し。秩父郡出身なり。秩父志に「北条家鉢形分限帳、秩父郡古大滝麻生村関所番・千島兵庫」と見ゆ。

二 源姓千島氏 大滝村出身の出稼衆にて、出羽国秋田居住の秩父出羽権守に仕へ、後に故郷へ帰農す。秋田条参照。大滝村千島氏系図に「本国出羽秋田住。千島六郎源義康(千五百貫領す)―作六義定(妻秋田二郎五郎二女よ祢召連、応仁二戊子年二月より浪士致す)―作六事・下総義治(明応元壬子年八月相模国小田原城主北条早雲公に六百貫拝領、御先手頭。弟三郎は相続山口図書千貫給る武蔵国鉢形之城より御附添被仰付候)―六郎義照(天正二甲戌年鉢形落城故浪士、家来七郎右衛門、小兵衛、主従六人。弟五郎兵衛)と見ゆ。寛永二十年古大滝村麻生関所番名主千島六郎左衛門。明治四年組頭麻生千島六郎治。明治六年古大滝村副戸長私塾師匠千島六郎治義則・明治二十二年没五十二歳あり。

三 秩父郡大滝村 当村に六十戸以上現存し古代以来の居住者なり。三峰神社史料集に「寛政八年新古大滝村役人寄進一札、組頭千島弥十郎、下納組年番千島寅左衛門代理千島新衛門、大久保組年番千島太兵衛。文化四年寄進、新古大滝村名主千島市郎右衛門、牛房平千島庄兵衛、下納組千島太郎右衛門・千島弥重郎、塩沢千島与惣左衛門。慶応二年寄進、牛房平村千島弥市」。享和三年滝之橋寄進覚に古大滝村千島市郎左衛門・千島宗兵衛・千島作左衛門。天保三年小双里組鎮守寄進覚に鶉平千島直吉、浜平千島嘉重郎・千島平三郎・千島徳太郎・千島藤八・千島助五郎・千島種之助、大久保千島忠右衛門・千島惣七・千島伊与吉・千島久太郎・千島寅次郎、小西千島惣右衛門、寺井千島喜四郎・千島伊兵衛・千島久米蔵、下麻生千島勇次郎、麻生千島安五郎・千島九兵衛・千島九郎右衛門・千島松之丞、牛房平千島弥市。天保六年滝之橋勧化帳に浜平千島村吉。新大滝村強石屋番号に「○九番屋敷、五郎兵衛・天明七年死、久蔵母・天明七年死、安五郎・文久二年死、文五郎・慶応四年死、千島文五郎亡長男代吉・天保二年生、養子清吉・嘉永二年生(大宮郷松本宇之助二男)、其の長男友五郎・明治十四年生。○十番屋敷、三左衛門・安永九年死、久兵衛・寛政三年死、清兵衛・文化四年死、喜左衛門・文政十三年死、金七・文政十一年死、藤蔵・文久二年死、千島藤蔵亡長男喜作・文政六年生、其の長男長作・安政元年生、孫長男恵作・明治十五年生、孫二男清作・明治十七年生。○十二番屋敷、藤三郎・宝暦十三年死、万右衛門・享和元年死、辰治郎・明治五年死、藤兵衛・明治十七年死、千島藤兵衛亡長男辰次郎亡長男政五郎・天保十四年生、二男忠八・嘉永二年生、政五郎長男艶之助・明治九年生、忠八長男英吉・明治十七年生。○十三番屋敷、藤左衛門・文化十五年死、源蔵・天保十二年死、千島一三九・文政十年生、養子松平・明治元年生(当村千島代吉の子)。○十四番屋敷、弥右衛門・文政三年死、万吉・嘉永元年死、喜三郎・嘉永元年死、鶴吉・文久二年死、千島万吉亡長男弥平・天保七年生、其の長男庄作・文久二年生、二男万次郎・明治元年生。○十五番屋敷、吉兵衛母・延宝八年死、五平父・宝永四年死、五平父・享保十三年死、長兵衛父・宝暦九年死、小左衛門・安永八年死、小左衛門父・天明八年死、奥右衛門・享和元年死、佐兵衛・文政六年死、庄吉・文政十二年死、吾平・安政四年死、甚之助・嘉永二年死、主殿・明治元年死、酒造之助・明治元年死、熊吉・明治元年死、弁蔵・明治三年死、千島義之助養子五平・文政十一年生(小森村黒沢七左衛門六男)、長男定吉・慶応二年生」。明治十年大滝村屋番号に「○強石、千島清吉・千島喜作・千島政五郎・千島弥平・千島松平・千島五平。○大血川、千島善衛。○大達原、千島熊二郎・千島鉄五郎・千島伊太郎・千島熊次郎。○大輪、千島喜平・千島徳三郎(旧百姓代)・千島善蔵・千島志げ・千島豊蔵・千島藤太郎・千島松太郎・千島喜作・千島竹八・千島周助。○神庭、千島常衛・千島由五郎・千島馬太郎・千島宗十郎。○土打、千島与平・千島権三郎・千島浜吉。○大久保、千島金十郎・千島庄吉・千島幸市・千島伊勢松・千島丈太郎・千島久太郎・千島豊吉・千島重蔵・千島広三郎・千島幸吉。○麻生、千島亀蔵、千島八百蔵・千島岩四郎・千島広吉・千島鶴蔵・千島和市・千島六郎次。○寺井、千島保蔵・千島峰松・千島四郎。○上中尾、千島龍次。○栃本、千島佐太郎・千島与平・千島重太郎・千島利吉・千島森太郎・千島直衛・千島庄平・千島定市・千島長四郎・千島亀蔵。○塩沢、千島与十郎・千島吉五郎・千島新之助・千島与作・千島喜作。○浜平、千島嶌太郎・千島九蔵・千島弥四郎・千島わか・千島村吉。○二十六木、千島品次郎」。当時七十軒あり。昭和三年興信録に「大滝村・千島艶之助・所得税十二円・営業税十一円、千島清十郎・所得税十三円」あり。

四 同郡三峰村(大滝村) 三峰神社史料集に「元禄八年三峰山代々名主役木村玄蕃と千島孫左衛門は門前居移の者に而、先師達並に屋敷地持申候。文政三年祭礼に菅平千島彦四郎」。三峰神社寛保元年御神燈に当所千島左京。明治五年名主千島彦太郎。明治六年三峰村徴兵取調に「千島百太郎・安政三年生、千島音八長男仲太郎・安政三年生、千島幸次郎長男元吉・安政六年生、千島豊次郎三男岸次郎・安政元年生、戸長千島彦太郎」。諏訪社宮廻連名帳に「明治二十八年、千島市太郎・千島億四郎・千島米太郎・千島儀平・千島唯一郎。明治三十九年、千島政衛門・千島三郎・千島倉太郎・千島国松・千島子之作」あり。十七戸現存す。

五 同郡薄村(両神村) 出浦文書に「明治五年、竹平香具千島佐平次。明治六年、中郷瀬戸千島きた・千島重吉」。明治九年副戸長千島忠平・文政十一年生あり。十七戸現存す。

六 同郡上田野村(荒川村) 当村に此氏多く存す。古代以来の旧家なり。

七 同郡白久村(荒川村) 当村に此氏多く存す。古代以来の旧家なり。

八 同郡贄川村(荒川村) 風土記稿に「野栗権現社の神主千島対馬」と見ゆ。十戸現存す。

九 同郡大宮郷 当郷に此氏多く存す。私塾師匠千島岫雲・文化十年没六十八歳・白久村出身あり。

一〇 同郡横瀬村 当村に此氏多く存す。明治十四年神輿寄付連名帳に四番耕地根古屋・千島房吉・千島周作・千島友吉、十二番耕地川東・千島末佐あり。

一一 同郡小鹿野町 明治十二年雑穀商千島清蔵。明治二十年上二丁目呉服商千島クラ。小鹿神社明治四十二年玉垣碑に千島五三郎あり。上小鹿野に十一戸、下小鹿野に五戸現存す。

一二 比企郡小川町 当町に此氏の旧家あり。九戸現存す。

千嶋 チシマ 秩父郡に多く存す。

千 チシマ 下小鹿野村・薄村に存す。

樗木 チシャギ 熊谷、入間等に存す。正訓不詳。

千代 チシロ 浦和、和光等に存す。

地代 チシロ 大宮、越生等に存す。

千頭井 チズイ 川越に存す。

千須和 チスワ 浦和、与野、蓮田、行田、新座、所沢、飯能、日高に存す。山梨県南巨摩郡身延町三十戸あり。

千頭和 チズワ 身延町三十七戸あり。

地蔵 ヂゾウ 川口に存す。

知多 チタ 菖蒲に存す。

地田 チダ 埼玉郡太井村字地田あり。浦和、伊奈、東松山、小川、和光、加須、越谷、富士見等に存す。

一 葛飾郡西金野井村(庄和町) 藤塚村香取社江戸末期御神燈に西金野井村地田只七あり。現存無し。

智田 チダ 川口、浦和、行田、越谷、草加等に存す。秋田県山本郡二ツ井村三十戸、能代市八戸あり。

千田 チダ 各市町村に存す。奥州に多く存す。○宮城県栗原郡築館町四十四戸、金成町九十七戸、若柳町二十二戸、石巻市四十三戸。○岩手県西磐井郡平泉町二十六戸、東磐井郡千厩町三十五戸、大東町六十戸、藤沢町二十戸、胆沢郡胆沢町三百七十戸、金ヶ崎町百二十戸、前沢町二百戸、衣川村三十九戸、気仙郡三陸町四十四戸、岩手郡滝沢村二十五戸、一関市二百十戸、水沢市四百八十戸、江刺市百八十六戸、花巻市五十戸、北上市五百戸。○秋田県平鹿郡十文字町二十八戸、増田町二十八戸、南秋田郡昭和町三十二戸、五城目町四十五戸、八郎潟町四十六戸。○青森県西津軽郡木造町二十戸あり。センダ参照。

一 川口町 昭和三年興信録に「千田平吉・所得税七十三円・営業税十九円」あり。

二 草加町 明治三十五年理髪師千田由太郎あり。

知高 チタカ 浦和、越谷等に存す。

一 上野国の知高氏 群馬郡尻高村(吾妻郡高山村)に知高(ちたか)氏四戸現存す。家紋は左ばなれ立葵を用いる。シッタカ参照。

二 忍城士の知高氏 成田分限帳に「四十二貫文・知高茂助、二十五貫文・知高兵右衛門、十五貫文・知高三右衛門」あり。知坂条参照。

知立 チタチ 松伏に存す。

千谷 チタニ 川口、浦和、和光、鷲宮、川越等に存す。センヤ参照。

千種 チタネ 大宮に存す。

乳井 チチイ 川口、浦和、桶川、与野、戸田、志木、所沢等に存す。

千々石 チチイシ 浦和に存す。

千々岩 チチイワ 浦和、大宮、朝霞、新座、春日部、越谷、宮代、富士見、鳩ヶ谷等に存す。

千知岩 チチイワ 草加に存す。

乳久保 チチクボ 北本に存す。

知々田 チチダ 春日部に存す。

千知波 チチバ 上福岡に存す。

知知夫 チチブ 横瀬に存す。

秩父 チチブ 続日本紀・和銅元年正月条に「武蔵国秩父郡献和銅、故改慶雲五年而、和銅元年為而御世年号止定賜」と、秩父郡からの和銅献上にちなみ、年号を和銅と改めるとあり。平城宮跡出土木簡に「天平十七年、武蔵国秩父郡大贄鼓一斗」と見ゆ。承平五年和名抄に秩父郡を知々夫と註す。チチブの名義について記す。日本書紀仲哀天皇八年条に栲衾新羅国。万葉集に多久夫須麻新羅。播磨国風土記に白衾新羅国。出雲国風土記に栲衾志羅紀と見ゆ。栲衾(たくぶすま)は、梶や楮などの木の皮の繊維で織った綿布の夜具で、白いから新羅(しら)の枕詞に使われた。先代旧事本紀卷三・天神本紀に「高皇産霊尊の児思兼神の妹・万幡豊秋津師姫栲幡千々姫命を妃と為して、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊を誕生す」と。日本書記には、栲幡千々姫(たくはたちちひめ)、万幡姫(よろづはたひめ)、栲幡千幡姫(たくはたちはたひめ)、栲幡千千姫万幡姫命(たくはたちちひめよろづはたひめのみこと)、天万栲幡千幡媛(あめのよろづたくはたちはたひめ)と、この姫神は異伝が多いが、秩父国造の祖・思兼神(おもいがねのかみ)の兄弟の万幡は多くの機織、豊秋津師は織物のすぐれた布、千々は多くの幡。千々布(ちちぶ)は布(はた)の数が多いの意味で、八幡(やはた、はちまん)の八も多いの意味である。地名辞書(吉田東吾著)に「此郡(秩父郡)崇神天皇十四年十二月、知々夫彦命を国造とし、美濃国不破郡引常の丘(岐阜県垂井町)より倭文部・長幡部を率い来り、民に養蚕を教へ大いに機織の術を開く、故に其名に因て秩父の国と称す」と見ゆ。栲幡・即ち新羅国出身の思兼神の子孫知々夫彦は織工集団の首領であり、居住地を八幡荘と唱へ、織工の奉斎神である八幡社を祀る。後世秩父氏は八幡社を氏神とし、新羅の白旗を用いる。秩父郡へ鎌倉八幡宮を勧請したわけでも無く、源氏の白旗以前から此の旗を用いていた。秩父郡八幡荘は矢波田・矢羽田とも書き、矢畑荘を唱えた村は、太田村(秩父市)、上吉田村、下吉田村、阿熊村(吉田町)、上日野沢村、下日野沢村(皆野町)、上小鹿野村、下小鹿野村、藤倉村、三山村、河原沢村、日尾村、上飯田村、中飯田村、下飯田村、伊豆沢村、般若村(小鹿野町)、薄村、小森村(両神村)の十九ヶ村であったが、元は秩父郡全域が唱えていたのであろう。秩父氏は、川口、大宮、伊奈、熊谷、羽生、寄居、新座、川越、所沢、富士見、越谷、草加等に存す。秋田県仙北郡田沢湖町四戸、中仙町二十戸、北秋田郡高巣町六戸、能代市十四戸あり。

一 秩父国造 秩父郡は古代の秩父国なり。古代氏族系譜集成に「八意思兼命―天表春命―阿豆佐美命―加祢夜須命―伊豆氐命―阿智別命―阿智山祇命―味見命(秩父国造祖)、弟味津彦命(信濃阿智祝祖)」と見ゆ。延喜式神名帳の阿智神社(長野県下伊那郡阿智村智里)の祭神は思兼命と天表春命にて、思兼命を曲尺・工匠の神として建築業者の信仰となっている。先代旧事本紀卷三・天神本紀に「三十二人を令て並て防衛と為し、天降し供へ奉らしむ。八意思兼神の児、表春命・信乃阿智祝部等祖、天下春命・武蔵秩父国造等祖」。卷十・国造本紀に「知々夫国造。瑞籬朝(崇神天皇)の御世、八意思金命の十世の孫、知知夫彦命を国造(くにのみっこ)に定め賜ふ。大神(おおがみ)を拝詞(いつきまつる)る」と見ゆ。八意思金命(やごころおもいかねのみこと)は、高天原第一の智者と云われるが、思金は重い鉄(くろがね)の意味で鉱山鍛冶師の首領である。子孫の加祢夜須命の金安も鉱山師の意味がある。知々夫彦命は代々の襲名で数代・数百年の人名である。

二 祭神の大神 知々夫彦命は「大神を拝詞る」とあり、大神とは何神であろうか。風土記稿・妙見社条に「当社は神名帳に載せたる秩父神社なり。祭神は知々夫彦命とも、大己貴尊とも云ふ。当今の縁起には大和国三輪大明神を写など記して其説定かならず」と。秩父郡誌に「大神とは果たして何神なるべきか、知知夫彦命が御自らの祖なる八意思兼命を祀られしなるべきか。吉田東吾博士は『崇神の朝、国造を置きたまひし時より国神の祭らしめられしなれば、祭神大己貴命なること疑なかるべし』と論定す。現今県社秩父神社は八思兼命・知知夫彦命を祭神とし、大国主命・素戔鳴尊を配祀せり」と。しかし、延喜式には「秩父神社、一座」と見え、祭神は一柱であった。出雲国風土記には大己貴命(おおなむちのみこと)を大神と称している。別名大物主命、或は大国主命とも云われる。崇神紀に「三輪山の大物主命は腰紐ほどの蛇になって、とぐろを巻いていた」とあり。蛇は大物主命の化身で鍛冶神なり。常陸国風土記逸文・大神の駅家条に「新治郡駅家、名を大神と曰ふ。然称ふ所以は、大蛇(おおかみ)多に在(す)めり。因りて駅家に名づく」と。日本書紀・神代上に「思兼神、石凝姥を以ちて冶工とし、天香山の金を採りて日矛に作る。又真名鹿の皮を全剥にして、天羽鞴(風を起すふいご)に作る。此を用いて造り奉る神は、是即ち紀伊国に坐します日前神なり」と見ゆ。和歌山市秋月の日前国懸神宮の祭神は日前神宮(ひのくま)が日前大神を主神として相殿に思兼命・石凝姥命(鍛冶集団の部族長)を祀り、国懸神宮(くにかかす)が国懸大神を主神として相殿に玉祖命・天御影命・鈿女命(三命は鍛冶神)を祀る。国懸神は寛文九年刊本の日本書紀にはカラクニカラノカミと註す。日本書紀持統天皇六年条に紀伊大神は朝廷から「新羅調」を奉られている。日本書紀・宝剣出現条に素戔鳴尊の子・五十猛命を「即紀伊国所坐大神是也」と見ゆ。以上のことから、大神は天照大神では無く、其地の氏族が奉斎した祖先神である。更級日記に「武蔵国武芝寺あり、ははさうなどいふ所あり」と。足立郡大宮町氷川神社であり、葉葉染(ははそ)の古語は蛇である。秩父神社の社殿が立っている所を「母巣ノ森」と称す。ハハソと云う。妙見宮縁起に「允恭天皇の三十四とせ丁亥ともふすに、命(知々夫彦)の九かえり遠つ世継(九世の子孫)の狭手男臣(さておのおみ)をあげもふして、詔旨を蒙りたうへて、遠き御祖(みおや)の御璽を葉葉染の杜にまつらひ給ふ、此時始めて知知夫神社と請しまつり給ふ也」と見ゆ。秩父神社夜祭に縄蛇を榊樽に巻きつけている。知々彦命は祖先神の鉱山鍛冶師首領思金命を大神として斎き祭り、其の地をハハソの杜と称した。

三 秩父国造族三宅連 高橋氏文(延暦八年記)に「景行天皇五十三年十月、上総国安房浮島宮に到る。その時に磐鹿六獦命は、無邪志国造上祖大多毛比、知々夫国造上祖天上腹・天下腹、人等(子孫)をよばしめて料理を供奉す」。「景行天皇五十七年十一月、武蔵国知知夫大伴部上祖三宅連意由、木綿を以って蒲葉に代えて美頭良を巻く。此より此かた木綿を用い、日影等の葛を副えて用いることと為したりき」と見ゆ。天上腹(あまのうわはる)は天表春命、天下腹は天下春命である。是等の子孫が三宅連(みやけのむらじ)であり、皇室直轄領の屯倉(みやけ)を管理した。姓氏録に「三宅連、新羅国の王子天日桙の後也」とあり。日桙(ひぼこ)は代々の襲名で数代、数十代の名なり。天表春命兄弟は鍛冶師日桙集団の一員である。新羅王の昔(せき)氏が本姓で、三宅連の子孫知々夫氏は昔ノ氏(関野)を称す。シラギ、タジマ条参照。高橋氏文の安房浮島宮は千葉県安房郡鋸南町勝山の鬼ヶ崎西方八百メートルの海上にある無人島の浮島で浮島神社であると伝へるが信用できず。安房浮島宮は常陸国阿波浮島宮である。常陸国風土記逸文に「浮島村あり。景行天皇、此の村の行宮に留まり給ふこと三十日云々」と見ゆ。信太郡浮島村(稲敷郡桜川村浮島)は昭和に入るまでは孤島であった。

四 秩父縣主 秩父志に「芦田館地、吉田郷、古縣主居館并屯倉地。上断館地、寺尾村、秩父縣主居館地」と見ゆ。上野国甘楽郡野栗村(群馬県多野郡上野村大字新羽字野栗)は神流川の南側に位置し武蔵国秩父郡に属していた。元禄十五年幕府の裁断により上野国となる。同村野栗神社に「大日本国知々夫国古森郷鎮守、養老二年六月十五日、従四位下縣主関野太夫創建。武蔵国秩父郡古森郷末、野栗庄長田鎮守野栗宮、文明三年二月三日、幡山三郎藤原資年謹書」と銘あり。秩父縣主の本名は関野氏で、新羅族昔ノ氏なり。セキ条参照。また、秩父志に「薗田家、秩父神社祠官、天下春命神裔、藤原姓、世系不詳」と見ゆ。

五 秩父郡司 武蔵国大里郡及び秩父郡は、藤原冬嗣の子良房、其の孫忠平、其の子右大臣九条家藤原師輔の所領にて、秩父郡司は其の家宰である。大里条参照。秩父郡司の後裔秩父氏は中村郷(秩父神社附近)に居住していたが、武基が秩父牧別当に任ぜられてからは吉田郷を本拠地とする。秩父氏後裔の薩摩国伊地知氏系図(平安遺文十一)に「藤原良房の時、天長中開墾し、承平中に藤原忠平領となり、天暦二年以来藤原師輔領である。天暦三年三月、武蔵国秩父郡司が新墾田、本郡吉田名・柒佰拾捌町伍段(七百十八町五反)、清見保・捌佰仇拾参町八段二百五十歩(八百九十三町八反)は、右大臣家領であることの承認を求める」と見ゆ。但し、これは偽文書の可能性がある。今でも吉田町にこれだけの耕地面積は無い。承平三年四月二日太政官符に「朱雀院秩父牧為勅使牧、秩父郡石田牧一処、児玉郡阿久原牧一処、散位藤原朝臣惟條、充其別当」。西宮記に「承平八年四月十五日、藤原忠平が先年給った秩父牧の馬四疋を朱雀天皇に献上す」。忠平が記した貞信公記抄に「天慶二年二月十三日、秩父御牧別当藤原惟修」と見ゆ。御牧別当職は惟修から在地土豪秩父氏へ移る。別当給田は僅かで家臣を養うことは出来ない。別当条参照。吉田郷へ移住した秩父氏は鉱山開発が目的であった。大宮妙見宮縁起に「朱雀天皇の御宇、秩父別当平の武光在国の任によりて神社を兼たりける。其子七郎武元より孫の十郎武綱等打続てこれを兼けると也」。風土記稿横瀬村条に「朱雀天皇天慶七年、秩父別当武光、同其子七郎武綱、其子孫秩父次郎重忠まで代々郡領」と見ゆ。源威集に「源頼義は、奥入(奥州)先陣譜代の勇士を撰給けるに、秩父別当大夫武基、子息童形六歳・桓武天皇九代、村岡五郎良文には五代、其仁に当の間、七歳に為に用しが、俄に六月朔日を元三に表而円鏡を見せ、七歳と号して元服、秩父武綱是也、白旗を給ふ、十二年末康平五壬寅には実年十七也、合戦度毎に先をかく」と見ゆ。秩父氏は後世桓武平氏を冒す。

六 観音信仰と秩父氏始祖 秩父観音霊場は室町時代より有名になったが、古代は鉱山鍛冶師及びそれにより失明した人達が眼病治癒のために信仰していた。今昔物語卷十二に「播磨国飾磨郡書写山(兵庫県姫路市書写山円教寺)と云所に性空聖人(康保三年開山)と云う人あり、本・京の人也、橘朝臣善根と云いける人の子也。のち筑前国背振山に移り住す」と見え、この性空を聖空に変えて秩父郡内に此人の伝説あり。風土記稿栃谷村条(秩父市)に「第一番観音、永延二年性空上人化者の造によりて播磨国書写山を開き円教寺を草創し、寛弘四年三月十三日入寂す。弟子幻通に遺命して汝秩父観音の霊場を計営すべし云々。一説に羊大夫・納経すと云ふ。観音霊場の開闢は正暦五年三月十八日性空上人を鼻祖とせり」と。時代が下がっても開闢日が三月十八日である。般若村条(小鹿野町)に「三十二番観音、文暦元年三月十八日冥途播磨之書写開山聖空上人奉請、其時秩父鎮守妙見大菩薩導引給云々」と見ゆ。千葉大系図に秩父氏の祖・良文の誕生日を仁和二年三月十八日と記す。観音堂の縁日の三月十八日と同じである。千学集抄に「羊妙見大菩薩が出現し、将門・良文の軍を助けた」とあり。羊は太古の渡来人の別称である。観音霊場の鼻祖性空上人を羊妙見大菩薩が道案内を勤めている。羊大夫は良文或は其の配下である。

七 妙見信仰と良文 妙見様は朝鮮から伝わり、銅鉱山に多く祀られて妙見山と称された鉱山鍛冶師の守り神なり。○武蔵国秩父郡の布教  武蔵志に「大宮郷妙見社・丹生也、此丹生の社へは犬防の願に験あり、猫飼家にて願す」と。性空をひっくりかえたような照空の名あり。秩父大祭(千島寿著)に「十七番堂定林寺縁起に、平将門の子壬生良門の家臣林太郎定元は所領を没収されて、秩父に来り病死す。三歳の遺児がいて、空照という僧が育てた。良門は狩りに出て二人に会い、先非を悔い少年に林源太良元という名を与え、父の旧領を授けた。そして、自ら法花経を金字に書写し、定元夫妻の菩提の為に宮路の里に一宇を建て、定林寺と号す。のちに、嘉禎元年九月に秩父神社が落雷を受けて炎上し、宮地に先祀されていた妙見宮が秩父神社に合祀され再建された社を妙見宮と呼んでいる。桜木町に立てられた十七番堂の管理者は丹生氏(たんしょう)を名乗り、代々秩父神社の、つまり妙見宮に奉職していたいわゆる妙見宮社人を本職としていた。この丹生社(林の姓に変える)の人々が妙見宮の重要な鍵を握っていた」と見ゆ。妙見信仰を布教した導師良文の配下が丹生社(後の妙見宮)の丹生氏である。タンショウ条参照。また、丹生氏のほかに平井氏が布教した。秩父秘話(大西シゲ著)に「我家の先祖は、桓武天皇の子神野親王(別名恵多羅親王、嵯峨帝、即ち初代平井大衛門)であり、上州緑野郡平井村に来り住み、平井大衛門は秩父妙見大菩薩として秩父神社に祭られ、関八州よりあがめられた。即ち関東平氏の祖である。一門秩父重忠は平井大衛門代々の家で育てた」と。秩父神社の北西に大衛門屋敷あり、東方に神野台あり、神宮地とも称す。家伝はかなり混同しているが、平井家に妙見信仰の布教伝承があった。十三項参照。○下総国千葉郡の布教  千葉系図に「平良文。鎮守府将軍、北斗姓北辰大菩薩之落胤、依之満月九曜星胸現。常陸大掾国香為誅伐。養子召供将門、急上州馳下、数度及合戦。於染谷川辺、即時一戦討勝」と見ゆ。群馬郡引間村字花園(群馬町)染谷川流域に天台宗妙見寺あり、七星山息災寺と号す。応永十七年鐘銘に府中妙見寺と見ゆ。千学集抄に「上野国群馬郡府中花園村七星山息災寺より武蔵国藤田へ御渡りありて後、秩父郡武光名の内・大宮へ移し奉り、又陸奥守良文、鎌倉へ御供して同村岡に居住し云々」と。妙見実録千葉記に「粟飯原文次郎は花園妙見の太夫の末子乙寿を伴い、武蔵藤田の良文の御前に参着し、良文は妙見の祭りを行う」と。千葉集抄に「承平三年十二月二十三日粟飯原文次郎が花園妙見より尊体を拝受し、武蔵平井の簑崎にて良文に授けた。良文の在所藤田城に妙見尊を安置す。其れより秩父大宮へ移り、良文鎌倉に移り村岡五郎と号す」と。千葉伝考記に「良文は延長元年坂東に下向し、武蔵国葛飾郡平井村に居館す。染谷川の戦いに妙見菩薩の加護を受け、平井にて妙見尊を迎え上古より在る妙見社に祀る。平井より秩父大宮へ遷し奉る」と。佐倉風土記に「平良文、其の家士粟飯原常時を上野国花園に遣はし、神像を窃取して、之を武蔵平井に祭り、又秩父に移し、後又村岡に移す、而して七世常重に至り、之を千葉に移す」と見ゆ。諸説あるが、導師良文の配下粟飯原氏が下総国千葉氏のもとへ妙見信仰を布教した。千葉市院内町香取神社の境内へ妙見尊を奉祀し妙見宮と称した。明治に千葉神社と改称す。粟飯原氏の子孫は千葉神社旧祠官なり。○相模国鎌倉郡の布教  村岡郷へ妙見信仰を布教したのは良文の配下である漆部姓小坂氏である。相模国風土記稿に「村岡郷鎮守御霊宮。社掌は小坂氏なり。家伝に小坂の祖は村岡次郎忠頼より出で、仁安中、御霊社の神職となる」と。御霊社は鍛冶頭領鎌倉権五郎景政を祭神とする鍛冶神なり。神護景雲二年紀に「漆部直伊波に姓を相模宿祢と賜ひて、相模国造と為す」と。鎌倉市大町の八雲神社棟札に「安永八年・小坂周防守漆部常郷。安政二年・小坂周防守漆部常令。万延元年・小坂周防守漆部常雄」あり。平忠頼後裔説は後世のことで、神主小坂氏は古代漆部(ぬりべ)の後裔なり。○下総国の良文 源平闘諍録に「良文は村岡の五郎、将門がためには伯父たりと雖も、養子となりて其の芸威を伝う。良文に四人の子ありき、嫡男忠輔は父に先立ちて死す。二男忠頼は村岡三郎、奥州介と号す、武蔵国の押領使として上総・下総・武蔵三ヶ国を領す、下総・秩父の先祖なり。三男忠光は三浦郡・安房国を押領す、三浦の先祖これなり。四男忠道は村岡平大夫、村岡を屋敷として鎌倉・大庭・田村などを領地す、鎌倉の先祖これなり。妙見大菩薩と申せるは、承平五年八月上旬のころに、相馬小次郎将門と上総介良兼と、常陸国において合戦を企つる程に、良兼は多勢なり、将門は無勢なり、常陸国より蚕飼河の畔に迫り着かる。俄かに童子来りて、将門の弓をとりて敵を射けりて勝を得る。彼の童子、答えて云く『吾は妙見大菩薩なり、上野の花園という寺にあり』と云いながら失せにけり。のちに、妙見大菩薩は将門の家を出て、村岡の五郎良文のもとへ渡り給う。さて妙見大菩薩は、良文より忠頼に渡り、常胤に至るまでは七代なり」と見ゆ。坂東八平氏は良文の後裔となっているが、羊妙見大菩薩の導師良文の信徒なり。碓氷郡出身の橘良文は上野国花園村で妙見信仰を布教し、下総国岡田郡村岡村(茨城県結城郡千代川村大字村岡)に土着して村岡氏を称す。永正十七年墨書銘に「下総国太方郡村岡館住人仏師弁法眼」と見え、古くから館があった。後世に、子孫と称する千葉氏・秩父氏等が桓武平氏を仮冒し、平良文と称せられた。千代川村の中央に鬼怒川が流れ、西は将門川で、東は小貝川(蚕飼河)があり、将門の本拠地である。隣の八千代町栗山に将門乱の際平良兼によって焼払われた栗栖院常羽御厨がある。近くには千葉氏本貫地の相馬御厨がある。相馬のことは染谷条参照。村岡五郎良文を相模国村岡郷、或は武蔵国村岡郷発祥説とするのは誤りなり。

八 橘姓の良文 将門記に平良文の名は見えず。久米博士は「世に良文を高望の子と云へど疑はし、假冒に過ぎず」と云う。今昔物語卷二十五に「東国に平良文と云有り、字をば村岳の五郎と云ふ。頼光朝臣の郎等に平の貞道と云兵有けり」。卷二十九に「村岡ノ五郎平貞道と云ける者也」と。この書は平安末期の嘉承頃の編纂であり、平良文と記されていても不思議では無い。前太平記に「信濃国碓氷郡の浪人橘氏、諏訪明神に祈りて碓氷荒太郎貞道を生む、後源頼光に仕へ貞光と改め、靭負尉に補せらる」と。薩摩国阿久根郷の英禰(あくね)系図に「源頼光の臣四天王の一人、平貞道碓氷荒太郎より八世孫、英禰に下向す」と見ゆ。良文は俗史に村岡五郎貞光に作り、更に橘姓碓氷荒太郎貞道と云ふ。碓氷荒太郎橘貞道を平貞道に作るのは、後世の作品である為か。平群系図に「良文―忠道(号村岡二郎大夫、源頼光朝臣四天王之内。法性寺関白以来、世之人改忠字、称サダ道)」。桓武平氏金子家系図に「村岡五郎良文(下総国相馬郡御厨下司、天徳四年卒、号東光院)―村岡小五郎貞道(本・忠道、源頼光朝臣郎従)、弟村岡二郎恒明(本・忠頼、相馬郡御厨下司相伝)」と見ゆ。良文の号東光院は上野国碓氷郡上里見村(群馬郡榛名町)の名刹東光寺に関係あるか。上里見村に羊大夫伝説あり、良文が羊妙見大菩薩を唱えたのも是に因るか。上野国碓氷郡より信濃国佐久郡に亘り、新羅渡来人秦族橘姓が多く存す。信濃橘姓は新開条参照。碓氷郡川浦村(群馬郡倉渕村)塚越氏家伝に「碓氷貞光の子貞景を祖として十代まで碓氷姓」と云う。橘姓碓氷氏の本名塚越氏は川浦村・権田村等に二百余戸現存す。

九 秩父氏の祖忠頼 良文の子忠頼を別名経明(恒明)としているが別人なり。尊卑分脈に「村岡五郎良文―村岡次郎忠頼―上総介忠恒―千葉介恒将―常永―常兼―常重―常胤」と見ゆ。下総国平常胤寄進状(伊勢神宮文庫)に「在下総国管相馬郡者、右当郡者、是元平良文朝臣所領、其男経明、其男忠経、其男経政、其男経長、其男経兼、其男常重、常重男常胤・保延元年二月伝領」と。相馬御厨は手下水海(手賀沼)周辺で、蚊虻(茨城県北相馬郡利根町文間)、布施郷(千葉県東葛飾郡沼南町布施、或は我孫子市布施と隣の柏市布施)附近なり。下総権介平経繁私領寄進状に「下総国相馬郡布施郷。四至、限東蚊虻境、限西廻谷并東大路、限南志子多谷并手下水海、限北小阿高并衣河流。右件地、経繁之相伝私地也を伊勢皇大神宮に寄進す、大治五年六月十一日」と見ゆ。千葉氏は千葉国造の後裔大私市部で丹治(たぢひ)姓にて多治(たぢひ)とも記す。千葉氏の祖・経明は多治常明と同人なり。茨城県八千代町栗山の栗栖院常羽御厨の別当多治常明は、上野守護となり、上野国府の染谷川合戦、本国の常羽御厨の蚕飼河合戦に将門と共に妙見大菩薩に助けられ、後に相馬御厨の別当となり、良文の子と称し桓武平氏を仮冒す。将門記に「常羽御厨別当多治常明」。今昔物語に「平将門、諸国の受領を成す。上野守に多治ノ常明を任ず」。扶桑略記に「上野守多治経明・厩之別当」と見ゆ。また、忠頼は、俵藤太物語に「天慶三年(九四〇年)、将門の舎弟将頼を打つ者に、官軍には貞盛の兄弟村岡二郎忠頼、同三郎頼高、余五維盛、維茂なんどとて、打って掛る」と。官軍では諸系図等に合わず。太政官符案に「寛和三年正月二十四日(九八七年)、陸奥介平忠頼・忠光等、移住武蔵国、引率伴類」、将門を追討した平繁盛が、延暦寺に大般若経六百卷を奉納しようとするが、忠頼らに妨げられる。是は実在人物である。井田系図に「忠頼、長元三年(一〇三〇年)・千葉と合戦討死(平忠常討伐)」と、全くの附会にて、年代合わず。

一〇 桓武平氏秩父氏 秩父国造の後裔にて、良文・忠頼流は仮冒なり。尊卑分脈に「村岡五郎良文―次郎忠頼―武蔵権守将恒―秩父別当武基―十郎武綱―秩父権守重綱―太郎大夫重弘―畠山庄司重能」。畠山系図に「村岡五郎良文(重門)―中村武蔵守忠頼(又号村岡)―中村太郎将常―秩父別当武基(康治二年、謀叛の聞に依り佐渡に配流さる)―十郎武綱(伊与守頼義の郎等、武功第一也)―下野権介重綱(武蔵留守所総検校)―太郎重弘―畠山庄司重能」。小野系図に「横山野別当資隆(鳴弦之役三人内・秩父権守武恒)―横山経兼(康平五年頼義奥州合戦に従ふ)―横山孝兼(妹は秩父権守妻、秩父太郎大夫母也)―女子(秩父重弘妻)」。豊島宮城系図に「村岡五郎良文―千葉次郎忠頼―千葉小次郎忠常(住于武州秩父、又居住下総国千葉城)―秩父六郎将恒―秩父別当大夫武基―秩父十郎武綱(初号秩父法師。兄高麗荒太郎武家)―秩父出羽権介重綱。武基の弟秩父五郎左衛門常遠―太郎長恒、弟乙若。将恒の弟秩父七郎恒親―藤橋太郎恒仲。恒親の弟安松八郎恒遠、其の弟周防大掾恒家―周防八郎元宗」あり。常陸大掾伝記に「秩父畠山より分る。武蔵平氏六頭は、河越ノ太郎、高坂ノ次郎、豊島ノ三郎、江戸ノ四郎、高山ノ五郎、足立ノ六郎也」と。源平盛衰記に「秩父十郎重弘、秩父十郎武綱」。「武蔵国多胡郡の住人二郎大夫重澄」と、河越重澄なり。曽我物語に「秩父重忠、秩父六郎」と、畠山重忠・重保父子なり。吾妻鑑卷八に「文治四年三月十五日、秩父三郎重清」と、重忠の弟長野重清なり。

一一 出羽国の秩父氏 源威集に「源頼義は、奥入先陣譜代の勇士を撰給けるに、秩父別当大夫武基の子息秩父武綱是也、白旗を給ふ、康平五壬寅には実年十七也、合戦度毎に先をかく」と。大塚氏系図に「秩父十郎伊与守武綱(八幡太郎義家公・後三年合戦の時、出羽国に軍立す。一番参着したる證、先陣を賜る)―二郎権守重綱」と見ゆ。一番に参着出来たのは、出羽国飽海郡秋田郷(山形県酒田市秋田町)に居住していたからである。武綱・重綱父子は出羽国の鉱山鍛冶頭領にて、重忠の代まで先陣を勤めているのは城塞を取り毀す工兵部隊である。此氏は出羽秋田郷の在名秋田氏を称す。結城系図に「太田太郎行広(母秋田重綱女)、弟大川戸下総守行方(母秋田又太郎重綱女)」。別本結城系図には「太田太郎行広(母秩父重綱女)、弟大河戸下野権守行方(母行広に同じ)」と見ゆ。十三項、秋田、大陽寺、遊佐条参照。

一二 武蔵国留守所総検校職秩父氏 日本歴史大辞典に「総検校職とは、国検の時に文書に連署したりする国衙の在庁官人で、国府に在勤した公吏職者のこと」とある。留守所総検校職が置かれたのは武蔵国と大隈国だけである。この職が国衙在庁官と同じなれば、諸国六十余州にもあってよさうである。また、秩父重綱は出羽国に居住しており、本貫地の秩父郡吉田郷に居住していたとしても、多摩郡府中の国府とはあまりにも遠方すぎる。当時の武蔵国府の在庁官は日奉氏・物部氏等である。秩父氏の代理人の名は見えず。この職は、鉱山鍛冶師の元締めであり、多くの盲人や眼病者を庇護し支配していた。近世の盲官を検校と称すのと同じである。京都の公家に総元締めがいて、東国の留守所の職を勤め、鍛冶・鋳物・石工・船頭・炭焼・マタギ・サンカ・塩商人に至る職業の加判をしていたのであろう。吾妻鑑脱漏に「嘉禄二年、河越三郎重員、武蔵国留守所総検校職に補せらる。これ先祖秩父出羽権守以来代々補し来ると云々」。卷二十八に「寛喜三年四月二日、河越三郎重員は、武蔵国惣検校職也。当職四ヶ条の権限は近来悉く廃されており、先例のように戻してほしいと訴える。同年四月二十日、幕府は去る二日、留守所に尋ね下し被る件につき、秩父権守重綱の時より畠山二郎重忠に至るまで、奉行して来たことについては、重員の申すことが事実である由、在庁散位日奉実直・同弘持・物部宗光等去十四日勘状と、留守代帰寂同十五日副状等が到来したので、先例通り沙汰するように命ず。貞永元年十二月二十三日、武蔵国惣検校職并びに国検の時書等国中文書加判、及び机催促加判等事、父重員譲状の如く沙汰致すべし」。卷四十一に「建長三年、河越修理亮重資、武蔵国惣検校職に任ぜらる」と見ゆ。鍛冶頭領畠山重忠滅亡後、河越氏は足立郡川口郷善光寺附近へ移住して鍛冶鋳物集団を支配していた。故に総検校職を所望したのであろう。

一三 鍛冶頭領秩父氏 武綱以来つねに先陣を勤め、頼朝の奥州征伐にも畠山重忠が先陣をつとめている。先陣の仕事は城塞を取り毀す役目であり、土木に長けた工兵部隊である。秩父氏は石工などの大力の持主を従えていた。重忠の従士、本田氏・榛沢氏・柏原氏・岡部氏等は其の地方の鍛冶・石工等の支配頭である。秩父郡上田野村芭蕉塚に「むかし聞け、秩父殿さえ相撲取り」と句あり。重忠が一ノ谷の坂落しに馬を肩に架て降りる場面があるが、これは大力説で、石工の支配頭を表している。吾妻鑑卷十二に「建久三年六月十三日、頼朝、新造御堂の地に渡御す。畠山次郎等、梁棟を引く。その力すでに力士数十人のごとし、筋力を尽すべき事等、おのおの一時に功を成す。観る者目を驚かす、頼朝感じたまう」と見ゆ。重忠は多くの石屋・庭師を抱えていた。畠山本田の昔話あれこれ(清水寿著)に「東鑑建久三年永福寺の庭園造成の際、重忠は三メートル余もある石を一人で抱え池の中を歩き頼朝の指図通りの位置に据え付けた。怪力の話かも知れないが、巨石を動かす技術を持ち合わせている逸話では。重忠没後、荒川中流域に爆発的に流行してきた板石塔婆の材料の切り出し、加工、荒川を船便で運ぶ船運の支配権、石を加工するための硬質の鋼の生産等あらゆる条件が揃っている。重忠は鋳物師の頭梁である他に、石工の親方であると思われる」。「重忠討死の地、横浜市旭区二俣川に子供たちによって歌われている童謡に畠山重忠をうたった不思議な歌が今も伝わっている。『鎌倉軍勢多そうだ、鎌倉街道飛ぶ鳥は、つうるが峰にて落とされた、落ちたる死骸をたずぬれば、羽が十六、目は一つ』と。つうるが峰(旭区鶴ヶ峰)、羽が十六(製鉄のタタラ、即ち溶鉱炉は羽口、送風口が十六本)、目が一つ(タタラの職人、眼をやられる)。要するに此の歌の云わんとしたのは『飛ぶ鳥を落とす勢いの武蔵武士畠山重忠は殺してみれば鍛冶師、鋳物師の親方であった』と云う。重忠の資料集めをしていると、どうも重忠が支配していた地域は金属関係の産地ではあるまいか」と見ゆ。また、新田義貞の家臣畑時能は重忠の後裔と称し秩父郡藤谷淵村(長瀞町)に生る。太平記卷二十二に「かの畑六郎左衛門と申すは、武蔵国の住人にてありけるが。その後、信濃国に移住して、生涯、山野・江海の、狩り・漁を業として、年久しくありしかば、馬に乗って悪所・岩石を落す事、あたかも神変を得るが如し」と見ゆ。秩父氏以来の鍛冶・石工の頭領であった。漁(すなどり)は砂金鉄の採取である。岩石を落とす石工でもあった。また、重忠は生唼(いけずき)という名馬の声を聞きわけたり、静御前の舞に銅拍子をうって音楽的才能があった。これらは新羅渡来人末裔の伝承である。金属関係者は目をやられるので、観音様を守り本尊とし、後に妙見様を受け入れた。また、畠山重忠(彦久保一光著)に「大滝村大陽寺は、後嵯峨天皇の第三皇子髪僧大師が開山し、この和尚と寺の女(大蛇という)との間に生まれたのが重忠である」と。風土記稿・大陽寺条に「開山鬚僧大師は諱を題日と云ふ、後嵯峨院第三の皇子にして仁治二年生れ、正和五年示寂す。この山に草庵をト居し給ふ。蛇身の異形、師の前に頓首して、我はこれ秩父の惣社妙見宮なり」と見ゆ。大蛇、即ち鍛冶神の妙見大菩薩の子孫が重忠であると云う。秋元藩大陽寺氏が秋田氏に改名しているのは、当所に秩父氏流秋田氏の末裔が居住していた。

一四 平良兼流秩父氏 秩父志に「良兼―公雅―致頼―致経―忠頼―将恒(武蔵男衾秩父に居す)」と。彦久保系図に「良兼四代孫致経五男秩父六郎将恒」。大塚氏系図に「良兼四代孫致経二男秩父六郎将恒(武蔵国に住す)」と見ゆ。仮冒なり。

一五 児玉党秩父氏 桓武平氏秩父氏と姻戚関係により秩父氏を称す。武蔵七党系図に「遠峰―平児玉有三郎別当大夫経行―秩父平太行重(秩父権守平重綱養子、姓平)―平武者行弘(弟に新屋片山二郎行村、片山余二郎行時)―武者太郎行俊(平治乱、中御門、討死二十五歳。弟に武者三郎行綱、稲島五郎友行、武者五郎行成、白倉三郎成季)―五郎右馬允経重―大河原太郎行家。平太行重の弟秩父平四郎行高(秩父権守平重綱養子)―小幡平太郎行頼(弟に大淵平二郎高重、倉賀野三郎高俊、四郎高義)」と見ゆ。此氏の名は、保元物語に「義朝に相従う手勢の者共は、武蔵国には、高家は河越・諸岡・秩父武者」。吾妻鑑卷三に「寿永三年二月五日、一ノ谷合戦に秩父武者四郎行綱」。卷十に「秩父平太、武者次郎」。卷二十五に「承久の乱、秩父平次五郎、秩父次郎太郎」。卷三十二に「秩父左衛門太郎」。卷四十五に「建長六年正月四日、秩父弥五郎」と。典籍古文書に「建治元年五月、武蔵国・秩父平太入道跡六貫、秩父武者次郎跡七貫を京都六条八幡宮の造営役に負担す」と見ゆ。室町時代の紀州那智山米良文書に「児玉の在所の御名字の事、ちゝふ」と見ゆ。

一六 丹党秩父氏 武蔵七党系図に「武信(天慶年中、秩父郡等押領)―丹二峰信―丹貫主峰時―峰房―武経(建朝廷領、秩父郡)―貫主武時―武平(武峰トモ)―秩父黒丹五基房」と。長野勅使河原系図に「峰信―秩父丹二大夫峰時―秩父丹二大夫峰房―秩父三郎五郎武経―秩父三郎大夫武時―秩父三郎大夫武峰―秩父五郎基房(勅使河原丹五)、弟秩父孫三郎基氏、其の弟秩父三郎基兼。武経の弟秩父保木三郎房顕―保木太郎信行―秩父太郎行成」と見ゆ。安保文書に「応永二十五年、秩父宮内左衛門尉跡輩」。長倉追罰記に「永享七年、小もんの皮は秩父殿」。結城戦場物語に「永享十二年、上杉清方は結城城を攻む。三番に武蔵勢、秩父・平山・畠山・猪俣・小玉をさきとして六千騎にて戦ける」と見ゆ。

一七 皆野村の丹党秩父氏 多摩郡連光寺村(多摩市)村長の藤原姓富沢氏は出稼衆にて、丹党秩父氏の名跡を継承して秩父氏を名乗り、皆野村に居住し、其の屋敷地を富沢と云う。皆野村字富沢に富沢坊満福寺あり。連光寺村藤原家富沢由緒に「畠山の祖庄次重忠、一子太郎重安、其の子次郎大夫忠政の三男為政・武州富沢家」と。平姓秩父氏流畠山氏に附会す。円福寺に畠山庄司重能墓あり、是は富沢家先祖の秩父氏墓であろう。秩父志に「重忠の臣、箭納・秩父十郎忠正・皆野大浜円福寺」と。富沢家先祖の忠政と同人にて秩父郡矢納村の領主か。連光寺村富沢家記録に「富沢元祖根元、武州秩父庄畠山家三男、三代の孫畠山治部太夫忠政三男、富沢家祖也。嫡子上野国沼田住・次永家之祖、二男信州に有て小玉家之祖也、三男秩父庄大宮住て、富沢の祖也、丹の頭の棟梁也。丹の六家、畠山の旗本、依て勤仕を成す、之に依り丹七家と号す。秩父、大宮、沢、富川、谷陣屋を建、七百挺を領す、富川沢六角政澄と号す、後入道して六角入道忠景と号す、応仁年中、鎌倉勤仕す、年七十九歳葬す、同境生越墓す、仁義第一士也」と見ゆ。富沢一学忠景三男外記綱政は甲州に居住すと。甲州より越生郷大満村へ来住す。大満村字富沢の富沢八幡社縁起書に「富沢内匠助正次、本国者甲州富士之裾出者、応永二年武州越生郷に而三百町御拝領し居住す」とあり。富沢一族は諸国へ出稼に行って、其地の在名を名乗っている。富沢条に詳細あり。

一八 鳥方館の平姓秩父氏 秩父志に「吉田村鳥方の城跡と伝るは、吉田街八幡宮の社地にて、秩父氏族の居跡と云ふ。秩父殿系図、武基―武綱(吉田郷住)―重綱―重能―重忠」と。当所は平姓秩父氏の本拠地にて、此の後裔と称す。福島県大沼郡の目黒氏系図に「畠山重保の子重行(畠山時麿、後に目黒小太郎と号す、陸奥国大沼郡宮崎村に住す)」と見ゆ。是と同じような先祖の名あり。阿熊村彦久保家系図に「畠山次郎重忠(弟秩父三郎重清は吉田郷清泉寺開基)―畠山六郎重保―長野太郎重利(童名時麿、当歳にて父に後れ、二歳にして祖父に後れ伝人何某養育して、本国武蔵退き秩父に蟄居す)―長野太郎重郷(秩父に住む)―畠山兵衛重定―長野三郎利行―長野次郎忠基―畠山藤内重顕―畠山兵衛顕吉―長野九郎重連―秩父六郎修理亮忠家(足利高氏に仕へ有戦功、観応二年十一月於越後国にて戦死す)―秩父大炊介忠実(犬王丸、仕尊氏、義詮)―畠山右京進重行―長野左衛門時照―畠山修理重遠―秩父十郎備後守忠尚―秩父尾張守忠元―秩父三次郎甲斐守重持―秩父下野守重文―畠山加賀守時家―十次郎久時―秩父右京亮加賀守行家―秩父助三郎憲周(本国に蟄居す)―秩父左衛門元重―秩父次郎重家―秩父孫太郎重信(久六郎、小田原落城後、本国に退く)―秩父八郎左衛門時行(兄秩父孫次郎重国)―秩父修理俊重(秩父郡彦久保に住す、依て氏と為す)。時行の弟彦久保次郎左衛門・番場屋敷へ分地す、其の弟春道・龍穏寺二十世住職、其の弟彦久保九郎左衛門・布里谷を開く、其の弟秩父三十郎彦兵衛重吉・秀忠公に七歳之時召出され五百石賜う、家光公に仕ふ」と見ゆ。風土記稿阿熊村条(吉田町)に「旧家者秀三郎、彦久保氏なり。先祖を秩父重清と云ふ、郡中下吉田村清泉寺の開基なり。其の末孫秩父孫次郎重国とて、北条安房守氏邦に仕へ、天正十八年鉢形落城後当村に蟄居す。重国二子あり、修理俊重、三十郎重吉と云ふ。重吉は慶安年中、御当家へ召出れ、今御旗本秩父三右衛門の家なりと云ふ。俊重の子孫民間に下り、当村小名彦久保と云へる所に居住せり。因りて秩父を改め、彦久保氏を名乗れり。彼が家に秩父孫次郎重国が武器、及び家系古文書十通を蔵す」と見ゆ。当家文書に「天正十年二月二十五日、秩父衆着到。一本鑓・一騎馬上・以上二人・彦窪、合百三十九人、秩父孫二郎殿」。諸州古文書に「天正十四年三月十三日、鉢形城秩父曲輪掃除、二間・彦窪、以上百七十四間、秩父孫次郎殿」とあり。秩父孫次郎重国の兄弟が天正十八年落城後に彦久保氏を名乗る以前から彦久保氏は存し、阿熊村に五戸、下吉田村に十五戸あり。古代以来の苗字なり。出稼衆の在名秩父孫次郎兄弟は本名に復姓し、平姓畠山氏後裔説は附会なり。畠山村満福寺条に「重忠、元久二年八月十八日、宝梁院実山宗真居士と追号す」。畠山村飯野家に「大祖飯野肥後・文治二年没・実山宗無大居士」。下吉田村条に「清泉寺の開基は、秩父重清法号龍泉院殿実山宗心庵主、同人妻清泉院殿月底心公大姉、没年を伝へず。此重清は郡中阿熊村彦久保秀三郎が鼻祖なり」と、重忠の弟重清なり。幕臣秩父系図には重国の父重信・法名宗真と見え、名倉系図には重信の叔父重清・実山崇心居士と見ゆ。系図類は後世の作成にて、何れの法名が真実かわからず。秩父志に「鉢形城主上杉越後守顕実の臣秩父十郎右衛門・吉田鳥方」。「花園城主藤田安邦の臣、鳥方城家族・秩父孫十郎居」。「久長村久長屋敷、秩父氏・吉田鳥方也」と見ゆ。久長屋敷(吉田町)は鉢形落城後に秩父孫次郎重国が居住すと伝へる。鉢形分限帳に「本国武州秩父・阿熊住・秩父孫十郎」と。落城後は阿熊村へ土着す。

一九 奈倉館の平姓秩父氏 下小鹿野村字奈倉に奈倉館あり、前項の一族が居住し奈倉氏を称す。本朝武家諸姓分脈系図(冑山文庫)に「畠山重忠後裔。秩父重顕―重行―重遠―下野守某―次郎右衛門某―小次郎某―秩父加賀守行家―秩父平太郎元重(早世)―畠山三郎大夫重秋(居秩父郡矢畑庄吉田奈倉)―畠山三郎兵衛尉重親(居秩父郡奈倉)―重清(住奈倉)―名倉下野守重則(弟名倉惣助)―名倉数馬重治」と見ゆ。飯能村諏訪社棟札に「永正十三年丙子初春十一日、大檀那加治菊房丸、助願檀那平重清(奈倉)」。天文二十三年小田原旧記に奈倉加賀守と。永禄二年小田原役帳に「奈倉加賀、十六貫八百八十六文・入西郡下河原(毛呂山町)、二十貫文・御蔵出」と。管窺武鑑(上杉文書)に「四月十七日(永禄五年頃)、御嶽筋(児玉郡)へ節々打廻り致し各相稼の由・用土新左衛門被申越候、秩父左衛門尉殿、乙千代判(氏邦)」と。関八州古戦録に「元亀元年、謙信・桐生へ出勢す。藤田能登守信吉が郎等、石毛平馬允・早瀬川修理亮・秩父下野守・吉岡式部丞等八百余兵を引きいて黒川谷(勢多郡黒保根村)へ押入る」と。北越軍談には「用土が陣代秩父下野守等八百余兵」と見ゆ。尚、足立区千住名倉系譜に「重忠十三代名倉加賀守行家(明応四年北条早雲旗下)―秩父平太郎元重(永正八年死、二十九歳)―畠山三郎大夫重秋―畠山三郎兵衛重親(無子に依て重清遺跡を継ぐ)。元重の弟杢頭重清(元重養子、秩父郡清泉寺開基法号龍泉院実山崇心居士、妻法号清泉院月底心公大姉)―名倉下野守重則(氏政に属す。永禄十三年名倉城に於て討死)―名倉数馬助重治(永禄の戦いに敗れ岩槻浄安寺に住す。後に新方領大泊村に帰農し善兵衛と称し元和二年没す)、弟惣助(天正十八年戦死)」と見ゆ。千住接骨医名倉氏は埼玉郡大泊村(越谷市)出身の苗字那倉氏にて、秩父氏後裔は附会なり。大泊村元禄八年検地帳に「年寄善兵衛・田畑四町四反三畝歩・屋敷一反三畝歩」とあり。当村に那倉氏十五戸現存し、古代以来の居住者なり。

二〇 幕臣秩父氏 快元僧都記に「天文二年二月二十二日、北条氏綱は武蔵・上野の武士に鶴岡八幡宮に奉加せしむ。秩父孫次郎・鉢形藤田小三郎・久下左近将監・忍杉本伊豆守・成田等、令領状、馬・太刀等奉加也」と見ゆ。幕臣及び彦久保系図に孫次郎の名は見えず。鉢形分限帳に「本国武州秩父・阿熊住・秩父孫十郎、本国武州秩父・秩父三十郎。秩父三十郎の如きは器量抜群の勇士といひ伝ふれども、何れの所に居住せしといふ事、聞伝へたる人嘗てなし、定て姓名を改め仕官せしが、又遠国へ奔流したるなるべし」と。幕臣寛政呈譜には二人の名は見えず。分限帳編纂者は幕臣秩父家も調査したであろう。彦久保系図には幕臣彦兵衛重能を三十郎重吉とし、両系図は慶長五年生としており、分限帳の三十郎は別人なり。彦久保家文書に「武州鉢形常就寺より、孫次郎重国納室処之書物を以て尋ね来り。伝来する処の家系、併に信玄・氏康・大閤光間其余武田共之頭一覧為致候由。江戸三ヶ寺の内青松寺伯室和尚は元当家籍、其清泉寺住職として後青松寺三十世の住職となりし時、旧縁を以て家伝の重宝一覧を願う。書幅歩々武綱末操不有起之印証して賜う、今に伝来す。万国五男三十郎退身後、行方不知。重英(風土記稿秀三郎の父)・種々詮議せし処、三十郎・秀忠公に召出され子孫代々勤仕し由を聞伝う。其尤重英の弟桃和尚と心を同うして其旧系を尋行けり、松日記に詳なり」と見ゆ。此の三十郎は幕臣にて彦久保系図には孫太郎重信の六男三十郎重吉・慶長五年生とある。万国の子と無い。彦久保系図は幕臣寛永系図を基に重英の代に作成したか。幕臣孫次郎重国(天文二十二年生)が四十七歳の時の子彦兵衛重吉は信用できず。重吉は分限帳の三十郎の子であろう。小柱村条(秩父市)に「薬師堂へ里正庄左衛門が家に蔵する鞍鐙を納め置けり。此鞍は土人、秩父殿の乗鞍と云伝へけるが、是を俗家に置時は悪しかりしなんとて此堂に納めけるとぞ。然るに鞍の紋・三本傘の打違なり」と。寛政年間の武蔵志に「下吉田、当町長坂本氏の古文書。天正十四年三月十三日鉢形城掃除役、秩父孫次郎殿同心衆中宛の文書を所蔵す」と、現在は諸州古文書(内閣文庫)となっている。また、下吉田村彦久保基正所蔵に「天正十年二月二十五日、秩父衆着到、秩父孫二郎殿同心衆中」とあり。在名秩父孫次郎は小柱村名主庄左衛門家の出身にて、下吉田村鳥方館に土着して、所蔵文書は同村の坂本家及び彦久保家に伝来されたか。著名な孫次郎を重国と記すが、幕臣にはならず、本名に復姓して何処か遠方へ移住したか。寛政呈譜に「家紋、三花菱、三本傘。寛永系図に、小紋村濃とす。平氏良文流。秩父六郎経泰―亀王丸信清(兄犬王丸宗能は建武二年三月朔日、尊氏より安堵状を賜ふ)―次郎行宗法名玄靖(兄六郎左衛門能行)―大炊助家周―孫太郎某―右京亮加賀守行家―助三郎憲周―右兵衛督重次―又六郎重信法名宗真―孫次郎重国(代々武蔵国秩父を領し、北条家に属す。天正十八年小田原没落のとき、秩父を去て處士となる。寛永七年十一月五日死す。年七十七.。法名宗半)―彦兵衛重能(今の呈譜、重吉に作る。東照宮かつて祖父重信をしろしめされ、たづねさせ給ひしに、重信すでに世を辞せり。よりて重能をめさる。慶長十三年はじめて拝謁し、秀忠につかえたてまつる。時に八歳。十五年駿河大納言忠長に附属せられ、小姓を勤む。寛永九年處士となり秩父に閑居し、十九年めしかへされ、家光に仕へ、二百石をたまう。明暦元年死す。年五十五.。法名宗授。四谷正覚寺に葬る。のち代々葬地とす)―彦兵衛重富―久左衛門忠高―三右衛門忠明―三右衛門忠清―三右衛門忠春―忠量(寛政二年遺跡を継。時に十五歳、二百石)」と見ゆ。

二一 小菅姓秩父氏 多摩郡下長房村(八王子市)条に「長泉寺開基は、秩父刑部少輔某なりと云へり。是人天文十七年九月八日卒し、法名長泉寺殿久峯徳昌居士と号す」と見ゆ。甲斐国北都留郡小菅村より起る小菅氏は、秩父刑部少輔の名跡を継承して秩父氏を称す。南部藩小菅氏系図(子孫岩手県和賀郡東和町住)に「秩父豊後守(初小菅刑部少輔重晴。本国甲斐の人にして、天正中武田勝頼の旗下に属し、上野国利根郡小川城主也。後勝頼の命に依て秩父豊後守と改む。勝頼書状に『天正八年二月二十四日、領地、後閑領・間庭・政所・小菅雅楽助分、小菅刑部少輔殿』。真田昌幸書状に『天正十年六月十七日、秩父豊後守殿、昌幸花押』とあり)―小菅刑部左衛門尉重張(天正十年二月勝頼滅亡して浪人となり、小菅に復す)―小菅次郎兵衛重政(生国上野の人也、能筆を以て召抱られ、二百石を賜ふ)。紋五七桐」と見ゆ。

二二 長尾姓秩父氏  犬懸長尾氏は秩父郡を所領とし、秩父左近、或は秩父将監と称す。白井長尾氏は代々孫四郎を称し、白井より犬懸へ養子に入った者は秩父孫四郎を称す。黒谷村(秩父市)瑞岩寺の裏山を堀ノ内城、又は長尾城とも云う。秩父風土記に「金沢城(皆野町)は、上杉定正の家臣長尾左近将監嫡子左衛門尉、次男尾張守が居城す」。同書に「下黒谷、長尾後秩父将監景光夫婦籠る」。風土記稿黒谷村条に「秩父将監景光が妻尼某が墓所なり」と見ゆ。鎌倉長尾系図に「長尾出雲守満景(白井長尾景直二男也、鎌倉犬懸に住して犬懸長尾の元祖也。相州より御霊宮を武州の領地秩父郡に勧招して氏神に成す。延文五年卒)―左近将監景永(明徳四年卒)―六郎景住(応永二十三年討死)―出雲守憲景(享徳二年討死)―出雲守景明(実は白井長尾景仲三男也。犬懸長尾憲景遺跡本領武州秩父郡を賜る。文明三年卒)―左近将監景利(山内に勤仕、山内と扇谷合戦時武州秩父にて討死)―出雲守景義(上州利根郡大友流沼田刑部大夫憲義末子也、母は白井長尾景信の娘也。景明娘婿にて犬懸長尾相続す、管領顕定公に勤仕す、天文十七年卒)―孫八郎」と。別本長尾系図に「左近将監景利(秩父黒谷討死)と見ゆ。名門犬懸長尾氏の一族秩父氏は北条氏に仕へ、伊豆衆一番の大身である。鎌倉鶴岡御造営日記に「天文十三年六月十二日、鶴岡社中掃除法度之事。二間・江戸衆、十二間・北条氏康弟彦九郎殿、六間・北条氏綱弟幻庵、六間・北条庶子左衛大夫、六間・大道駿河守等四人、六間・朝倉与四郎等九人、六間・狩野介等六人、六間・南条左京亮等六人、六間・秩父二郎左衛門尉・板部岡彦太郎・篠窪・松田新次郎の四人」あり。みな北条氏の重臣なり。永禄二年小田原所領役帳に「伊豆衆秩父次郎左衛門、百二十六貫二十三文・相州中郡津古久(厚木市)、二百貫文・豆州間宮(田方郡函南町)、九十貫文・同国江間(君沢郡伊豆長岡町)、八十八貫文・同所検地増分、七十二貫文・同国白浜(下田市)、以上五百七十八貫二十三文。御馬廻衆秩父孫四郎、二十五貫文・豆州大野(田方郡修善寺町)・下畑(大仁町)」。伊豆国に秩父氏は現存無し。鉢形分限帳に「本国武州久良岐・秩父孫四郎」あり。小田原役帳と同人にて、相州鎌倉郡長尾郷(横浜市戸塚区)の隣が久良岐郡(横浜市)で当地方出身なり。田方郡函南町西原源右衛門文書に「永禄七年正月四日、達者之者共、不残可召連候、土屋・大見衆へ此分堅可申遣候、秩父殿・西原殿、氏康花押」と。田方郡長浜村(沼津市)大川文書に「天正八年十一月十四日、伊豆国長浜代官舟持中、秩父左近奉之(北条家奉行)」。黒谷村の隣村寺尾村内田氏は長尾秩父氏に仕へ、豆州賀茂郡河津代官(河津町)を勤める。寺尾村八幡社神職名主内田左膳文書に「天正十一年十二月一日、なまりすな弐駄、鉛師并松田兵衛大夫代如申可云々、河津代官百姓中、秩父左近奉之」と見ゆ。相模国足柄下郡飯泉村(小田原市)勝福寺文書に「天正十七年正月二十五日、北条家は、御神馬銭九貫文を、秩父勝菊代前より請取り、飯泉之供僧別当に渡すべし」と見ゆ。

二三 北条氏族秩父氏 北条氏康三男氏邦は犬懸長尾氏族秩父氏の名跡を継承して秩父氏を称す。風土記稿横瀬村条に「天文年中、上杉管領憲政・鎌倉より落入て此ほとり持山生川に屯し小御嶽ら物見をす、しばらく根古谷に住せしが、秩父将監平景光・当山に誓いて旗を揚げ軍勢を引卒て戦いに及びす。又永禄十二年七月甲斐武田乱入て郡中を放火し責動かす、此時に景光養子秩父新太郎氏邦、改名して北条安房守と名乗り、信玄を甲州へ追退く」と見ゆ。諸書に花園城主藤田康邦は、娘大福御前にめあわせて、秩父新太郎氏邦と名乗らせたとあるが、藤田氏は秩父氏を称したことは無い。

二四 品沢村(秩父市)の秩父氏 天幸院開基は永禄四年に秩父国重・天幸思公庵主と云う。但し同院は明応四年の開山とも伝へる。

二五 鉢形城家臣の秩父衆 下吉田村彦久保基正文書に「午二月二十五日(天正十年)、四方田雅楽之介、中野源五郎、閑野平左衛門、猪大炊助、畑織部、大浜伊与守、大浜新八郎、中因嶽介、引間弾正、石間土源五郎、彦窪、逸見三郎五郎、中四郎兵衛、福田大和守、吉橋内匠介、同大膳亮、小林藤六郎、白石代、以上八十一人。此外秩父差引之外嗜、水野隼人、青山雅楽之介、林孫兵衛、友井外部介、松本十左衛門、長浜、室新四郎、吉田弥太郎、木助、与三右衛門、藤助、以上二十一人。折原衆、黒瀬又衛門、保泉新三郎、長浜九郎右衛門、秋山衆田中彦右衛門、以上五十八人、合百三十九人秩父衆、秩父孫二郎殿・同心衆中」と。下吉田村名主坂本文書(諸州古文書・内閣文庫)に「戌三月十三日(天正十四年)、鉢形城秩父曲輪掃除分担、白石、福田大和守、中四郎兵衛、同因嶽助、大浜新八郎、同伊与守、吉橋大膳亮、同内匠助、新居玄蕃助、猪野与次郎、引間弾正、同又次郎、小林代、中野新左衛門、彦窪、石間土、四方田雅楽助、畑源太郎、逸見与八郎、同三郎五郎、以上百七十四間、秩父孫次郎殿・同心衆中」と見ゆ。秩父孫次郎が率いた秩父土豪衆なり。秩父郡薄村(両神村)薬師堂十二神将像に「天正十三年八月、子神・旦那吉田存札、丑神・田代氏・阿部氏、寅神・旦那猪豊後守久繁、辰神・藤田六口、巳神・猪俣氏、午神・岩田氏、未神・日尾城主旦那諏訪部遠江守、未神・猪俣氏、申神・旦那安房守氏邦、酉神・旦那宝積坊、戌神・本郷越前守。前立像座下に、願主大旦那氏邦、小旦那秩父孫次郎」と銘あり。

二六 日蓮宗信徒の秩父衆 松山城家臣にて、秩父郡三沢村、皆野村、蒔田村、栃谷村字越腰、上名栗村字細谷(ほそがい)等の住人なり。福島、関根条参照。川越行伝寺過去帳に「妙悦・聖順母・秩父衆・卯年十二月。善忠・秩父ノ雅之助・未年十一月。日養・秩父ノ正因坊・丑年二月。安立院日述・秩父ノ妙円寺・申年四月(栃谷村)」あり。秩父郡御堂村浄蓮寺過去帳に「日養・秩父ノ正因坊・丑年二月。雅楽院善忠・秩父雅之介・慶長未年十二月。妙久・秩父ノ雅楽助内・元和辛巳年三月。常祐・秩父兵部・慶長十年八月。法祐・秩父ノ兵庫・己卯年九月。宗円・チチブ兵庫・戌年七月。妙常・チチブ福島兵庫内・元和戌年三月。法近・秩父ノ内膳・子年十一月。朝清・秩父甚衛門・慶長八年十月。妙賢・秩父・又右衛門内・慶長十一年七月。宗珍院妙信・秩父又右衛門内・承応三年七月。法源院蓮信・秩父又右衛門・明暦二年六月。道沢・チチブミサワ・慶長酉年十月。妙上・秩父三郎右衛門内儀・壬辰年七月。浄慶・チチブノ三郎左衛門・元和八年九月。実相院法信・秩父ノ九右衛門・酉年十二月。蓮清・チチブ細井父・子年六月。浄信・チチブ細井・寛永二年六月。妙近・秩父ノ二郎右衛門母・甲申年六月。妙養・秩父二郎右衛門尉・元和三年十月。法順・秩父越腰ノ大膳・寛文七年八月。法泉・秩父ノ善左衛門・未年十月。常林・秩父善左衛門・未年十月。妙立・チチブ権三郎・万治四年二月。道玄・秩父・戌年正月。常林・秩父・承応四年五月。浄心・ミナノ・チチブ。道秀・秩父・寛永三年五月。宗源・チチブ・亥年九月。妙忍・チチブ・マイタ・子年十二月」あり。

二七 越後国の秩父氏 色部条参照。

二八 葛飾郡下高野村(杉戸町)の秩父氏 真言宗永福寺伝に「当寺第三十八世覚阿法師は俗姓畠山氏、秩父庄司重忠一族、初名を秩父小弥太重隆と云、十三歳の時に京都に上り、仁和寺宮寺覚法親王に随従し奉る。成長の後、宮・思召しに依り元服す、嘉禄二丙戌年四月三日示寂す。第三十九世妙算尼は覚阿在俗妻也、同年十月五日示寂す。第四十世鑁海は覚阿・妙算尼の嫡男也、元福元癸巳年七月二日示寂す。第四十一世立本は鑁海嫡子也、寛元三乙巳年二月十五日示寂す。第四十二世道興。第四十三世鏡寛房日道は立本の嫡孫にて秩父太郎治忠と云、正応四辛卯年九月二十三日示寂す」と見ゆ。

千々松 チチマツ 大宮、伊奈、川越、狭山等に存す。

縮 チヂミ 浦和、越谷、川越等に存す。山形県米沢市二十四戸あり。

千々和 チチワ 浦和、草加、宮代、大井等に存す。

千千輪 チチワ 浦和に存す。

千塚 チヅカ 葛飾郡千塚村(幸手市)あり。

遅塚 チヅカ 大宮、三郷等に存す。

千月 チヅキ 上尾、和光等に存す。

地土 チド 児玉に存す。

地土井 チドイ 浦和に存す。

千藤 チトウ 東松山に存す。

地藤 チトウ 鳩ヶ谷に存す。

地頭 ヂトウ ジトウ参照。

地頭江 ヂトウエ 越谷に存す。

地頭方 ヂトウカタ 足立郡地頭方村(上尾市)及び横見郡地頭方村(吉見町)は武蔵志にヂトウボウと註す。ジトウカタ参照。

千歳 チトセ 川口、上尾、桶川、加須、越谷、所沢、富士見等に存す。

千鳥 チドリ 大宮、上尾等に存す。

千頭和 チトワ 川口に存す。

知名 チナ 大宮、与野等に存す。

智内 チナイ 川口、蕨等に存す。

因 チナミ 鳩山に存す。

千貫 チヌキ 浦和に存す。

地主 チヌシ 浦和に存す。

千根 チネ 春日部に存す。

茅根 チネ 川越に存す。カヤネ参照。

千年      チネン 草加、吉川、杉戸に存す。

知念 チネン 各市町村に存す。

児野 チノ 新座に存す。チコノ参照。

千野 チノ ○山梨県東八代郡中道町二十七戸、北巨摩郡大泉村三十九戸、中巨摩郡敷島町十七戸、竜王町二十二戸、韮崎市三十八戸、甲府市百四十六戸。○長野県埴科郡戸倉町十二戸、坂城町二十五戸、南安曇郡豊科町十八戸。○新潟県栃尾市四十戸あり。茅野、知野条参照。

一 松山城士の千野氏 天正庚寅松山合戦記に「北曲輪大将千野織部正昌勝、本郷・町屋・原・野久・野本方面城方・茅野宮内」あり。嵐山町史に千野織部正は古里村へ帰農すと。

二 忍藩阿部氏家臣 慶安年中忍藩分限帳に「忍・秩父山廻・二十俵二人扶持・千野市兵衛」あり。

三 葛飾郡茨島村(杉戸町) 明治三十年人名録に高野小学校長千野菊三郎・慶応二年生あり。現存無し。

四 川越町 明治三十五年材木商千野八十郎あり。

五 毛呂本郷 明治五年名主千野佐太郎。明治九年副戸長千野歌之助・文政二年生。出雲伊波比神社明治二十年御神燈に毛呂本郷千野銀十郎。越生銀行発起人織物商千野歌之助・百二十五株六千二百五十円所有あり。一戸現存す。

六 深谷町 明治三十五年生魚商千野長吉あり。

七 榛沢郡小前田村(花園町) 町田文書に「天正十八年十月十七日、町田土佐守一族同心衆、千野備後守」。町田日記に「慶長元年、浪人の一味同心の者千野備後等小前田新田を切開く」と見ゆ。町田条参照。用土村明治十三年仙元碑に小前田村千野富造あり。四戸現存す。

八 男衾郡塩村(江南町) 当村文政十一年庚申塔に千野儀衛門。野原村文殊寺明治二年碑に塩村千野文太郎。明治十一年副戸長千野文太郎あり。二戸現存す。

九 同郡西古里村(小川町) 大里郡神社誌に「鷹巣村矢弓神社は、正保年中に西古里村の千野某・横瀬某両氏の造営なり」と。古里村兵執神社安政三年水鉢に西方千野初太郎、明治十五年碑に西古里村千野賀津あり。七戸現存す。

一〇 比企郡古里村(嵐山町) 一項参照。小川村八宮社文化頃石御宮寄進碑に古里村千野鉄五郎。兵執神社安政三年水鉢に千野孫十郎・千野平蔵・千野勝五郎、明治十三年碑に千野熊吉。明治二十一年皇国武術英名録に甲源一刀流古里村千野弥三郎。兵執神社明治二十三年碑に千野銀太郎・千野重兵衛・千野兼吉・千野直次郎・千野多一郎・千野カツ、明治三十一年碑に千野房吉・千野安五郎・千野安右衛門・千野多十郎あり。十七戸現存す。

一一 同郡小川村 字久保文化十年供養塔に千野治右衛門、文化十一年馬頭尊に千野勘衛門。明治十七年比企銀行発起人千野仙三郎・十株五百円所有。明治三十五年料理店千野磯吉・餅菓子製造ときわや千野新五郎・千野荒次郎あり。二十戸現存す。

一二 同郡奈良梨村(小川町) 風土記稿奈良梨村条に「諏訪社は村の鎮守なり。相伝ふ、当社は何の頃にや、知野・鈴木など氏とせるもの信州より来りて勧請せしと云ふ。但し鈴木氏の系図に載るところには、信州より移りしことは見へず」と。当村は鎌倉街道の駅家(うまや)が置かれた所で馬谷郷と称す。正安三年宴曲抄に「槻河の、流もはやく比企野が原、梢もさびしくならぬ梨」と、是以前からあった宿駅なり。甲府市清運寺鰐口銘に「永享十年六月日、奉施入鰐口武州比企郡北方馬谷郷内奈良梨宿十王堂」とあり。諏訪社神主大沢信濃は、野々宮神社文書に「天文十六年十一月十九日、府中六所宮祭事に付参集覚、五番ならぬなし大沢殿」。諏訪社鰐口銘に「弘治三年七月二十六日、奉諏訪大明神寄進施主者、男衾郡鉢形錦入新井土佐守」あり。天文年間より遥か以前から諏訪社は鎮座し、大沢氏が神職を勤めていた。千野備後は諏訪氏滅亡の天文十一年に三十二歳の時、信州茅野から来住したと伝へられるが、当地方には古代以来から千野氏多く存し、諏訪郡茅野村出身説は地名附会なり。千野家由緒書に「信濃国諏訪郡茅野村茅野信武孫茅野一統、年代不知武州比企郡奈良梨子村に引越住居仕り候事、其節大沢氏と備後両人彼之地に罷越諏訪御社奉守護候由、然処大沢氏者当所之神職に相成、茅野氏は郷士にて罷在候」と見ゆ。千野昭三家墓地に「広林寂賢覚治・千野備後・天正元年七月十五日。永山本智慶観・天正三年八月十日。浄心禅定門・寛永二十年七月二十五日」あり。鈴木浦太郎家系図に「鈴木隼人佐重親(北条氏直に仕へ、松山十騎之内。慶長十七年卒六十七歳。室千野備後娘)」と。下横田村嘉永二年百庚申に奈良梨村千野栄吉。八和田神社(旧諏訪社)明治三十三年碑にナラナシ千野清治郎あり。三戸現存す。

一三 同郡伊勢根村(小川町) 当村天和二年庚申塔に千野新五郎。普済寺宝永七年碑に千野助衛門、享保元年供養塔に千野新五兵衛宗光、宝暦三年碑に伊勢根村千野半助、宝暦十三年碑に伊勢根邑千野平助。字宮前延享二年供養塔に伊勢根村千野半助・千野角左衛門。明治九年誓約書に千野熊重郎・千野吉五郎あり。三戸現存す。

一四 同郡上横田村(小川町) 輪禅寺文化四年地蔵尊に願主遍山智徹尼・千野鉄五郎祖母。八和田神社明治三十三年碑にカミヨコタ千野実太郎あり。七戸現存す。

一五 雑載 昭和三年興信録・所得税に「毛呂村(毛呂山町)・千野銀十郎・十二円、七郷村(嵐山町)・千野久良・十円、八和田村(小川町)・千野幸三郎・二十七円、千野幸次郎・十一円」あり。

茅野 チノ 埼玉郡篠津村字茅野あり。各市町村に存す。○山梨県北巨摩郡小淵沢町三十七戸。○長野県南安曇郡穂高町二十戸、北安曇郡松川村五十四戸、上伊那郡辰野町十四戸、上田市三十二戸、茅野市四十八戸、諏訪市百十四戸あり。カヤノ参照。

一 川越町 明治三十五年理髪師茅野源吉あり。

知野 チノ 各市町村に存す。○長野県埴科郡戸倉町十五戸。○新潟県白根市二十七戸、三条市二十五戸、加茂市四十二戸あり。

智野 チノ 川口に存す。

地野 チノ 前各条参照。

一 足立郡上野村(上尾市) 橘神社安政四年御神燈に上野村千野寅吉、明治三十年御神燈に大字上野・地野留五郎・地野庄蔵。昭和三年興信録に「平方村・地野庄蔵・所得税二十八円」あり。七戸現存す。

二 入間郡上浅羽村(坂戸市) 当村に此氏の旧家あり。四戸現存す。

地濃 チノ 浦和、朝霞、新座、和光、三郷、上福岡、川越、鶴ヶ島等に存す。新潟県五泉市三十五戸あり。

地の塩 チノシオ 所沢に存す。

千野田 チノダ 深谷、寄居等に存す。

知能田 チノダ 埼玉郡下忍村の知能田伊兵衛(弘化四年生)は熊谷町銀座の稲木伊奈利神社再建に尽す。現存無し。

茅根 チノネ 各市町村に存す。茨城県久慈郡金砂郷町八十五戸、水府村四十戸、那珂郡那珂町二十四戸、東海村二十戸、日立市八十二戸、水戸市五十戸あり。

千野根 チノネ 上尾、蓮田、春日部、加須、栗橋、坂戸等に存す。

知野根 チノネ 八潮に存す。

知野見 チノミ 新座に存す。島根県大田市二十九戸あり。

地葉 チバ 三郷に存す。青森県上北郡百石町十一戸あり。

一 忍城士の地葉氏 成田分限帳に「三百石・地葉源九郎、百五十石・地葉伊助」あり。

知場 チバ 浦和、大宮、新座等に存す。

稚波 チバ 深谷宿西島稲荷社文久二年御神燈に稚波和之助。現存無し。

千馬 チバ 飯能に存す。センバ参照。

千羽 チバ 春日部に存す。センバ参照。

千場 チバ 与野、草加等に存す。センバ参照。

千葉 チバ 京都府桂川流域は、和名抄に山城国葛野郡と見え、加度乃(かどの)と註す。桂川(かつらがわ)は承和五紀に葛野川と見ゆ。元は葛野をカツラノと呼んでいた。日本書紀・応神天皇六年条に「天皇、菟道野の辺りにおでましになり、歌を詠まれて、『千葉の、葛野を見れば、百千足る、家庭も見ゆ、国の秀も見湯』と仰せられた」とあり。菟道野(うじの)は宇治市附近、百千足る(ももちだる)は、数が多く満ち足りている、家庭(やにわ)は村里の意味。千葉(ちば)は葛野(かどの)にかかる枕詞である。葛野はクズノ、フヂノとも読まれ、藤野とも書く。備前国邑久・赤坂二郡の郷を割いて、養老五年藤原郡を置き、五年後の神亀三年には藤野郡と改め、神護景雲三年に和気郡(岡山県和気町)と改称した。和名抄に下総国相馬郡意部郷(おふ)あり。正倉院文書養老五年戸籍に下総国倉麻郡意布郷に多くの藤原部の住人が見える。藤原部参照。手賀沼附近の相馬御厨のあった所で、藤原部は葛原部(くずはらべ)とも書き、枕詞の千葉姓を名乗り、御厨の下司は平姓千葉氏を称す。意布郷は正倉院文書に下総国邑郷(おお)、邑保郷(おほ)とも見ゆ。オフ、オホ、オオは大ノ国(後の百済、伽耶諸国)の渡来人集落を称す。神武天皇東征以前の大ノ国渡来人藤原族は千葉氏を名乗り土着す。奥州平泉の豪族藤原秀衡は是等千葉氏の酋長なり。また、相模国足柄下郡千代村(ちよ、小田原市)は千葉(ちよう)、千世(ちよ)と称し、当村に日蓮宗千葉山蓮華寺あり。横山党千与宇氏は当村より起る。嘉禄三年将軍頼経袖判に相模国千葉郷と見ゆ。○茨城県西茨城郡岩間町四十戸、日立市百八十戸。○福島県いわき市百五十戸、郡山市百九十戸、福島市百三十戸。○宮城県宮城郡松島町百十戸、利府町七十戸、黒川郡大郷町百七戸、大和町百十六戸、富谷町百五十戸、桃生郡河南町九十戸、河北町百十戸、北上町六十八戸、鳴瀬町九十七戸、桃生町九十四戸、矢本町百八十戸、牡鹿郡女川町四十五戸、本吉郡歌津町百六十戸、唐桑町百八十戸、志津川町九十六戸、本吉町百戸、加美郡中新田町百十三戸、宮崎町六十戸、志田郡鹿島台町六十戸、玉造郡岩出山町百三十八戸、鳴子町四十四戸、遠田郡小牛田町百十四戸、田尻町九十三戸、涌谷町六十二戸、栗原郡築館町二百十戸、一迫町百二十六戸、鶯沢町六十戸、金成町九十戸、栗駒町二百三十戸、志波姫町九十二戸、瀬峰町九十八戸、若柳町二百五十七戸、花山村百十八戸、登米郡迫町二百八十五戸、東和町二百戸、石越町二百戸、豊里町七十六戸、登米町五十八戸、中田町四百二十戸、南方町百六十戸、米山町百九十戸、塩釜市二百四十戸、多賀城市百五十戸、石巻市六百十戸、気仙沼市五百戸、古川市三百八十戸。○岩手県磐井郡花泉町四百五十戸、平泉町四百五十戸、東磐井郡千厩町三百四十戸、大東町百六十四戸、東山町百十四戸、藤沢町四百三十六戸、川崎村百七十戸、室根村百戸、胆沢郡胆沢町二百四十戸、金ヶ崎町百九十五戸、前沢町三百三十戸、衣川村百五十戸、気仙郡住田町八十二戸、和賀郡東和町七十七戸、上閉伊郡大槌町四十戸、下閉伊郡岩泉町五十五戸、岩手郡雫石町四十五戸、滝沢村百二十五戸、玉山村七十戸、岩手町百七十五戸、葛巻町七十戸、一関市千三百戸、水沢市千二十戸、江刺市三百二十戸、大船渡市四百戸、陸前高田市百五十戸、釜石市二百四十戸、花巻市百八十戸、北上市二百五十戸、二戸市百戸。○秋田県仙北郡角館町百三十七戸、田沢湖町百九十戸、中仙町六十六戸、北秋田郡鷹巣町九十七戸、比内町五十八戸。○青森県上北郡上北町五十三戸、黒石市二百二十七戸、八戸市百四十戸、弘前市二百八十戸、青森市六百戸あり。武蔵国は藤野氏が多く、千葉氏は無し。

一 平姓千葉氏 和名抄に下総国千葉郡を知波(ちば)と註す。藤原族の居住地で千葉の地名を称す。歴史地理に「上総国大椎村、千葉小高氏妙見縁起に、相州鎌倉郡・村岡五郎忠頼、秩父より御神体を供奉し、彼所に安置し奉る。かくて忠頼の嫡子忠常に及んで、鎌倉より上野郷へ居城を移さるゝ時、仁見の郷に遷座有りて、上野郷に暫く安置しけれども、こゝも神居・然るべからずとて、海上の郡大友と云ふ所へ遷し奉り、東の大友の妙見と申す、是なり。是よりして、忠常、常将、常長、常兼、常重、数代を経て、海上に鎮座有ける。常兼、常重父子、亦上総国大椎へ移されけり」と見ゆ。是に因れば、千葉氏の居住地は、鎌倉郡村岡村から、上総国伊北庄上野郷(勝浦市)に居城し、同国周准郡人見神社(君津市人見)に妙見を祀り、更に下総国海上郡大友村(香取郡東庄町)へ移り、亦居城を上総国山辺郡大椎郷(千葉市)へ移し、常重が下総国千葉城(千葉市亥鼻町)に移住したと云う。千葉氏を称号としたのは遥か先祖にて、千葉郷附近より発祥したのでは無い。千葉郡は古代の千葉国にて、藤原族の渡来地より枕詞の千葉国に転訛す。千葉国造大私市部は丹治(たぢひ)と同族で多治(たぢひ)とも書く。丹(たん)、私市(きさい)条参照。大私市部後裔の多治常明は同族藤原部の居住する相馬郡意布郷の相馬御厨の下司となる。常明の先祖は藤原部の首領で別称を千葉氏と称していた。後世桓武平氏を称したのは仮冒なり。良文・忠頼父子のことは秩父条参照。千葉系図(問話休題)に「村岡五郎平良文―経明(初村岡二郎忠頼、相馬御厨下司)―下総介忠常(同下司、住下総千葉)―千葉小次郎常将(同下司、居下総千葉)―千葉四郎太夫常永(同下司、法名覚永)―千葉太夫常兼(法名観宥。)―常重(常晴養子として天治元年補下司、法名善応)―千葉介常胤(同下司)。常兼の弟相馬五郎常晴(又常時、相承相馬御厨)―上総介常澄―上総介広常」と。村岡忠頼と経明は別人にて仮冒なり。代々相馬郡布施郷(古代の意布郷)に居住し、千葉城の地へ移住したのは常重からである。相馬御厨は手賀沼(手下水海)周辺にて、沼南町布瀬、或は我孫子市布施・柏市布施。蚊虻は茨城県北相馬郡文間。衣川は鬼怒川である。大治五年六月十一日下総権介平経繁私領寄進状写(伊勢神宮文庫)に「下総相馬郡布施郷。四至、限東蚊虻境・限西廻谷并東大路・限南志子多谷并手下水海・限北小阿高并衣河流、右件地経繁之相伝私地也、を伊勢皇大神宮に寄進す」と。同年十二月文書には「相馬郡司権介平経重寄進す」と見ゆ。また、久安二年八月十日下総国平常胤寄進状写に「在下総国管相馬郡者、右当郡者、是元平良文朝臣所領、其男経明、其男忠経、其男経政、其男経長、其男経兼、其男常重。而経兼三郎弟常晴相承之当初、為国役不輸之地、令進退領掌之時、立常重於養子、大治元年六月所譲与彼郡也。常重男常胤、保延元年二月伝領。源義朝就于件、常時男常澄之浮言、自常重之手、康治二年雖責取壓状之文、恐神威、永可為大神宮御厨之由、相馬地者、任親父常重契状、下司職者、令相伝常胤子孫」と見ゆ。千葉氏は代々相馬郡司で、吾妻鑑承元三年十二月十五日条に「千葉介成胤が、先祖千葉太夫・元永以後、為千葉庄検非違所」とあり、常重の頃に千葉郡司となる。

二 嫡流千葉氏 千葉系図に「千葉介常胤―胤正―成胤―胤綱―時胤―頼胤―胤宗―貞胤―氏胤―満胤(応永三十二年卒)―兼胤(永享二年卒)―康胤(馬加陸奥守、康正二年戦死)―孝胤(永正二年卒。兄輔胤・延徳四年卒)―勝胤(享禄五年卒六十三歳)―昌胤(天文十五年卒五十一歳)―利胤(弘治三年卒三十歳)―胤富(天正十五年卒五十五歳)―郡胤(天正十六年卒)―重胤(寛永十年卒於江戸、五十二歳)」と見ゆ。小田原編年録に「千葉介孝胤(文明三年生、天文二年卒)―昌胤(明応四年生、天文十五年卒)―胤富(大永七年生、天正七年卒)―邦胤(弘治三年生、天正十三年卒二十九歳)―長胤(初重胤、天正四年生、寛永十年卒)、弟俊胤(天正六年生、寛永十六年卒、下総国佐倉海隣寺に葬る)―正胤(慶長十九年佐倉にて生る、延宝五年浅草の宅にて死す、浅草梅園院に葬る)―尚胤」と見ゆ。康正元年千葉落城後は、文明十六年に至って千葉輔胤が佐倉海隣寺(酒々井町)を本城とし、以後天正十八年の滅亡まで居城す。千葉郡馬加村にあった真言宗海隣寺は、時宗を信仰する貞胤の代に至って改宗し、千葉氏の菩提寺となり、輔胤が居城を佐倉に移ると当寺も移転す。

三 武蔵国の千葉氏 千葉系図に「千葉介兼胤(永享二年卒於鎌倉、三十九歳)―胤直(享徳四年自殺於上総多胡、四十二歳)―宣胤(享徳四年自殺於下総)、胤直の弟賢胤(兄胤直と同時に戦死、法名了心)―実胤(後遁世、美濃国にて卒)、弟自胤(文明十年、下総臼井城を攻めて之を取り、遂に下総海上、武蔵葛西、石浜、赤塚を領す)―盛胤(武州千葉)―良胤(同二郎、松月院と号す)―惟胤」と見ゆ。鎌倉大草紙に「千葉介実胤・市川の城に楯籠り、成氏と数度合戦して、康正二年正月十九日没落し、実胤は武州石浜へ落行き、自胤は武州赤塚へ移る。両総州の兵ども、大半成氏へ降参す」と見ゆ。小田原記に「天正二年の頃、石浜の千葉殿に女子ありて男子なし。氏政の御下知にて北条常陸守氏繁の三男を養子して、彼の息女に合せ、千葉の一跡を相続あり。然れども此の千葉次郎幼少なればとて与力の侍、並びに石浜の城を木内上野に預けらる。上野討死の後は、子息木内宮内少輔支配あり」と。永禄二年小田原役帳に「木内宮内少輔、十二貫四百八十文・石浜今津(台東区浅草今戸)」と見ゆ。○石浜城は台東区橋場・荒川区南千住三丁目石浜神社附近なり。橋場二丁目曹洞宗総泉寺(昭和四年板橋区小豆沢三丁目に移転)に馬加陸奥守康胤の異母弟次郎惟胤を葬り千葉塚と号す。石浜神社の摂社真先稲荷は天文年間に石浜城主千葉盛胤の建立と云う。○赤塚城は板橋区赤塚五丁目にあり、六丁目に菩提寺の曹洞宗松月院がある。寛正三年頃に千葉実胤・自胤兄弟が太田道灌に組して赤塚郷を押領す。千葉自秀は延徳四年十一月五日、赤塚郷内を松月院の前身宝持寺に寄進、千葉憲胤は天文二十一年八月に赤塚郷内を松月院に寄進す(松月院文書)。赤塚六ヶ村とは上赤塚村・下赤塚村・成増村・徳丸本村・徳丸脇村・四ツ葉村を云う。千葉氏の赤塚六ヶ村支配は天正十八年まで続く。永禄二年小田原所領役帳に「千葉殿。八十貫文・江戸赤塚六ヶ村、四十貫文・同新倉(埼玉県和光市)、二十貫文・小机丸子(川崎市)、二十五貫文・葛西上平井(葛飾区)、百八十五貫文・下足立淵江、三十五貫文・同沼田村、三十貫文・同伊興村、十五貫文・同保木間村、十五貫文・同専住村、六貫文・三俣(北三谷村か、以上足立区)、十貫文・上足立内野郷(大宮市)、三貫文・同大窪村(浦和市)、一貫文・同大多窪(浦和市)、以上四百七十五貫文」と見ゆ。千葉嫡流家は時宗にて、石浜千葉氏は曹洞宗なれど、日蓮宗の者は他家の人で名跡継承者なり。伊興村日蓮宗長勝寺に千葉勝胤墓あり。島根村(足立区)日蓮宗安穏寺開山日通は応永二十年寂す、開基は千葉満胤と云う。永禄七年高橋某知行に「足立之内島根之村、右千葉殿御老母為御堪忍分」と。日蓮宗本土寺過去帳(松戸市)に「千葉介邦胤・鍬田孫五郎狂乱し、額をきりつけ、天正第十三乙酉五月、二十九歳逝去」。胤富の子なり。

四 足立郡太田窪村の千葉氏 風土記稿に「今村内弥五郎といへるもの千葉にゆかりありとて千葉を氏とせり。されど家系もなく考ふべきなし。それが所蔵の文書左にのす。また曹洞宗守光院は、天正年中に至り、下総の国主千葉介国胤・当国の木崎庄を領し、国胤は千葉に在城し、家臣木内右衛門をして当地の堀ノ内に於て陣屋を構へてここに居らしむ」。国胤は前項の日蓮宗信徒邦胤なり。武州文書(農民弥五郎所蔵)に「丁丑十月二十日(天正五年)、二十束・しの・増戸内蔵助、十五束・同・西泉坊、大田窪千葉分」と、増戸氏は当村に八戸存す。同人所蔵文書に「辛巳六月二十六日(天正九年)、当郷大田窪へ申付陣夫百姓一人持来候、大田窪千葉殿領百姓中」。「当郷淵江郷へ陣夫百姓一人持来候、淵江百姓中」。「丁亥十月十八日(天正十五年)、岩槻城塀、可致修復、たいたくほ千葉領百姓中」と見ゆ。千葉弥五郎の先祖は代官木内氏か。寛政頃の武蔵志に「大田窪村熊野妙見は千葉氏が屋敷に有り」。堀ノ内の千葉氏は明治維新後は神官となる。鎮守氷川社明治二十八年碑に千葉愛作・千葉藤蔵あり。大字太田窪に千葉氏四戸現存す。木内氏は無し。

五 忍城士の千葉氏 成田分限帳に「二百貫文・千葉十郎胤忠」あり。成田記に「天正十八年、重臣千葉十郎は二ノ丸に籠城す」と見ゆ。

六 岩槻藩板倉氏家臣 天和二年岩槻藩分限帳に「六両・千葉吉兵衛」。

七 岩槻藩松平伊賀守(藤井)家臣 元禄七年岩槻藩分限帳に「十人扶持・千葉左内」あり。

八 川越藩秋元氏家臣 明治四年館林藩士族帳に「十二俵二人扶持・千葉与作」あり。

九 忍藩松平下総守(奥平)家臣 嘉永六年忍藩分限帳に「奥御小姓・百六十石三人扶持・千葉善之丞」。明治四年忍藩士族名簿に「百六十三石十三人扶持・千葉胤昌、四石二人扶持・千葉周助」。榛沢郡折之口村(深谷市)私塾師匠千葉如一碑に「諱胤晴、通称作蔵、善之丞、後改如一、忍藩士千葉胤邑養子、明治十八年没、折之口村之居、享年七十四」あり。子孫千葉胤次なり。現存無し。

一〇 足立郡金右衛門新田(草加市) 旭神社文政五年供養塔に千葉吉五郎・千葉平左衛門、天保四年碑に千葉門治郎あり。二戸現存す。

一一 川口町 川口神社明治三十九年碑に千葉寅吉。昭和三年興信録に「千葉寅吉・所得税六百三十二円・営業税二百二十四円」あり。

一二 加須町 明治三十五年飲食店千葉保之助あり。

一三 高麗郡虎秀村(飯能市) 暦算家千葉助之進歳胤・号陽生は正徳二年虎秀村農民に生まれ、幕府天文方となり、晩年は当村に帰り、寛政元年没す。現存無し。

一四 松山町 昭和三年興信録に「千葉浦治・所得税十一円」あり。

一五 秩父郡横瀬村 気楽流柔術加藤門弟に当村千葉皆三郎あり。一戸現存す。

千葉井 チバイ 川口に存す。

地畑 チハタ 鶴ヶ島に存す。

知花 チハナ 川口、大宮、川越、坂戸、所沢等に存す。

千葉原 チバハラ 川越に存す。

千濱 チハマ 庄和に存す。

千早 チハヤ 狭山に存す。

千原 チハラ 埼玉郡下高柳村字千原あり。新潟県柏崎市二十三戸。島根県仁多郡仁多町十四戸、横田町十八戸、大原郡大東町十二戸あり。

一 大宮町 昭和三年興信録に「千原まさ・所得税二十七円」あり。

二 埼玉郡本川俣村(羽生市) 千手院元禄七年地蔵尊に千原金兵衛、文政四年筆子碑に千原金兵衛あり。一戸現存す。

三 比企郡神戸村(東松山市) 明治九年副戸長千原茂吉・天保元年生あり。現存無し。

四 同郡三保谷郷表村(川島町) 松山町箭弓神社明治三十一年碑に三保谷村千原伊吉。昭和三年興信録に「三保谷村・千原伊吉・所得税二百五十三円」あり。一戸現存す。

五 同郡宮前村(滑川町) 唐子神社忠魂碑に千原右膳。昭和三年興信録に「宮前村・千原右膳・所得税二十二円」あり。現存無し。

六 熊谷町 明治三十五年菓子商千原米三郎あり。一戸現存す。

地原 チハラ 川口に存す。鳥取県気高郡気高町十七戸あり。

知原 チハラ 岩槻に存す。

智原 チハラ 春日部に存す。

茅原 チハラ 新潟県中蒲原郡横越町十戸あり。カヤハラ参照。

一 児玉町 八幡社明治三十五年碑に茅原金太郎(金物商)。昭和三年興信録に「児玉町・茅原金太郎・所得税二十七円・営業税三十九円」あり。一戸現存す。

千春 チハル 長瀞に存す。

千引 チビキ 和光、越谷等に存す。

地引 チビキ 蕨、大宮、草加、三芳等に存す。ジビキ参照。

地曳 チビキ 朝霞、幸手等に存す。

知久 チヒサ 栗橋に存す。

千尋 チヒロ 八潮、松江等に存す。宮城県亘理郡山元町二十四戸あり。

千布 チブ 大宮、上尾、児玉、蕨、上福岡等に存す。

地福 チフク 和光に存す。

千船 チブネ 杉戸に存す。青森県下北郡脇野沢村十五戸あり。

地巻 チマキ 越谷に存す。

街 チマタ 三郷に存す。

千股 チマタ 所沢に存す。

千丸 チマル 草加に存す。

千村 チムラ 長野県南安曇郡三郷村九戸、上伊那郡飯島町十八戸、木曽郡開田村十一戸あり。

一 足立郡滝馬室村(鴻巣市) 氷川社明治三十九年碑に千村泰助あり。三戸現存す。

二 川越町 明治三十五年荒物商千村繁造・鉄物商千村勝五郎。昭和三年興信録に「川越市・千村善吉・所得税六十六円・営業税五十九円」あり。

三 入間郡黒山村(越生町) 明治三年議定連印帳に千村留五郎あり。一戸現存す。

地村 チムラ 足立郡上青木村(川口市)安楽寺明治三十三年大日堂碑に地村善二郎あり。現存無し。

千本 チモト 浦和、戸田、新座、越谷等に存す。

地元 チモト 狭山に存す。

地本 チモト 幸手に存す。

知本 チモト 上里、騎西、三郷、大井等に存す。新潟県佐渡郡真野町十戸あり。

千守 チモリ 浦和に存す。

千谷 チヤ 所沢、富士見等に存す。

千矢 チヤ 坂戸に存す。

千屋 チヤ 北本、和光等に存す。

茶位 チャイ 浦和、蓮田、八潮に存す。

茶円 チャエン 鳩山、新座等に存す。

茶圓 チャエン 浦和、上尾、小鹿野等に存す。

茶木 チャキ 足立郡大成村(大宮市)に四戸現存す。

茶久 チャク 賀美郡石神村(上里町)安盛寺江戸末期庚申塔に沢下講中・茶久和□あり。現存無し。

千安 チヤス 川越、富士見等に存す。

茶谷 チャタニ 浦和、上尾、入間、川越、所沢、飯能、富士見等に存す。

茶堂 チャドウ 入間に存す。

茶内 チャナイ 高麗郡赤沢村字茶内(飯能市)は古の村名にて、中山村智観寺万延元年覚書に茶内と見ゆ。

茶之木 チャノキ 戸田に存す。

茶畑 チャバタケ 川越に存す。黒須条参照。

茶花 チャバナ 所沢に存す。茨城県真壁郡関城町七戸あり。

茶原 チャハラ 小川、富士見等に存す。

茶間 チャマ 寄居に存す。

地山 チヤマ 狭山に存す。

茶村 チャムラ 志木に存す。

茶本 チャモト 浦和、入間等に存す。

茶谷 チャヤ 各市町村に存す。青森県西津軽郡鯵ヶ沢町十七戸あり。

茶家 チャヤ 桶川に存す。

茶屋 チャヤ 上尾、朝霞、吉川に存す。

茶山 チャヤマ 吹上、朝霞、所沢に存す。島根県隠岐郡西郷町十三戸あり。

茶碗 チャワン 浦和に存す。

忠 チュウ 川口、浦和、北本、志木、新座、鷲宮、坂戸、所沢等に存す。新潟県岩船郡神林村二十八戸あり。

中華 チュウカ 富士見に存す。

中鏡 チュウカガミ 大宮、伊奈に存す。

中願寺 チュウガンジ 富士見に存す。

中軍 チュウグン 茨城県北茨城市十四戸あり。

中郡 チュウグン 大宮、嵐山、草加、日高等に存す。茨城県久慈郡水府村十五戸、大子町十戸、那珂郡山方町十四戸あり。ナカゴオリ参照。

中言 チュウゲン 茨城県久慈郡水府町八戸あり。

中元寺 チュウゲンジ 川口、新座等に存す。

仲元寺 チュウゲンジ 朝霞、春日部、越谷等に存す。

中古 チュウコ 久喜に存す。

中後 チュウゴ 鳩山、草加等に存す。千葉県富津市二十二戸あり。

中社 チュウシャ 白岡、越谷、富士見等に存す。千葉県夷隅郡岬町七戸あり。ナカシャ参照。

中所 チュウショ 富士見に存す。

中条 チュウジョウ 埼玉郡上中条村(熊谷市)は、上野国世良田村長楽寺建長四年文書に武蔵国中条保内水越郷古政所南深町と見ゆ、当村字水越あり。同郡下中条村(行田市)は、日光輪王寺応永三年大般若経に武蔵国崎西郡中条興徳寺大蔵坊と見ゆ、当村に曹洞宗興徳寺あり。長野県南佐久郡臼田町十七戸あり。ナカジョウ参照。

一 河原党中条氏 埼玉郡中条村より起る。武蔵志に「河原氏古文書に云。治承四年三月、惣侍列位・中条八郎次・同一十郎、是は河原太郎家の武家法令也」と見ゆ。

二 私市党中条氏 埼玉郡中条村より起る。保元物語に「義朝に相随う手勢の者共は、武蔵国には中条ノ新五、新六、成田太郎、箱田次郎、是等も寄て、大事の手負て引退く」と。四項参照。鎌倉九代記に「成田は武州の住人にて私党の旗頭なり、同党に忍、酒巻、中条、別府、久下、須賀などいえる侍あり」と見ゆ。

三 児玉党中条氏 埼玉郡中条村より起る。小代文書(肥後古記集覧)に「小代八郎行平が曽祖父児玉の有大夫弘行の所領武蔵一ヶ国の分には、児玉・入西郡両郡并に久下、村岡、中条、忍、津戸、野村、広田、崛須、小見野、三尾乃野、弘行の所領なり」と見ゆ。尚、児玉党塩谷氏流の近江中条氏はナカジョウ参照。

四 藤原姓日野氏流中条氏 埼玉郡上中条村より起る。中条系譜(中江袋村江袋寅二所蔵)に「藤原姓、家紋七宝木瓜。日野三位資業―実綱―有信―実光―常光(中条氏元祖、武蔵判官、長承元年当地下降保延三年迄六年間在国、保延三年五月一日卒)―中条新五有家(保元年中武家列す。弟中条新六家資、其の子中条下総守左衛門尉盛綱は承久三年官軍に属す)―中条藤次家長(前出羽守、鎌倉評定衆、右馬允、左衛門尉、文暦元年十月卒、年七十三)―中条小藤次長光(七郎左衛門、右衛門尉、宝治元年於鎌倉法華堂三浦泰村一所討死。兄中条藤五次郎左衛門有秀は宝治元年泰村一所討死)―中条小六有秀(三郎右衛門。兄中条藤五次郎左衛門尉長宗は盛綱と相共官軍属供御瀬向討死)―中条藤助顕長―中条六郎有光(同姓有武の男)―金津四郎通秀(後中条四郎左衛門)―中条新六郎光衡(出羽介、応長元年秋田城介時顕意違武州中条蟄居、正慶二年楠正成金剛山討手)―中条二郎常衡(正慶二年金剛山麓流矢中死)―白根三郎常依(中条内匠、剃髪号了勧房、実常衡之弟、常衡討死後北条高時入道依命白根改中条復、至徳二年死)―中条三郎左衛門雅常―中条次郎左衛門惟常―中条大炊介貞篤(応永二十三年上杉禅秀同意)―中条六郎次郎出羽守貞国(永享九年上杉憲実加勢)―中条四郎兵衛常篤(享徳三年上杉房顕与力)―中条三右衛門出羽守英俊(延徳年中、成田下総守親泰忍城移受其律令)―中条孫太郎次俊(弟中条権次郎勝常白根隼人介、其の弟中条権三郎吉清白根四郎兵衛)―中条弥八郎高俊―中条次郎兵衛出羽守常安(元亀二年越後逃去)―中条孫太郎奥住(田山佐十郎、又名中条数馬、母田山氏、父常安越後逃去依為家没収、外祖父田山氏受養育、後蒙免許家復興、初江袋地賜為住所、天正十八年忍城に籠於皿尾口外張討死。長兄中条庄太郎清住は越後住天正合戦討死。次兄宮田左内恒篤)―中条孫次郎常住(江袋七左衛門、宝永二十年死、法名平岳良均禅定門、母坂井氏之女、天正十八年忍開城于時六歳崎西郡江袋郷住居、慶長年中地頭依命当郷為名主職、改中条氏以地名江袋氏)」と見ゆ。公家の日野氏流は仮冒なり。また、中条家長は武蔵国出身にあらず、子孫出羽守は埼玉郡中条村には無関係なり。此氏は私市党中条氏にて、小名水越の光屋敷居住の白根氏が本名なり。埼玉史談第十一巻に「中条常光の館跡は中条村字水越にあり、東西六十間余、南北凡七十間、今も外壕と土塁とを存す、土人呼んで、光屋敷と称す。村民白根氏の住む所、これ中条氏と縁故深きが為か」と。常光墓誌に「中条氏と最も関係深き村内白根某等と胥議り古き台石を用えて碑石を建て、邦教自ら碑文を新刊す、時に寛延二年四月八日也。当院現住堅者邦教題銘、施主白根氏族・庄右衛門貞雄・六郎右衛門高徳・貞順賢津」とあり。風土記稿常光院条に「当寺開基は中条判官常光といへり、よりて院号とせりと。されど中条のこと卒年も伝へざれば其事蹟を詳にせず。当寺元は下忍村清水と云所にありて聖天院と号せしと云ふ。既に天正十八年禁制の文中に武蔵国忍の内清水正伝院とあり。其後文禄三年当所に移され、今の院号に改めしなれば、中条判官常光の開基にして院号もそれによりて銘すと云は疑しきことなり」と見ゆ。江袋、白根条参照。文禄元年松平忠吉が忍城主になり、文禄三年筆頭家老小笠原三郎左衛門尉は下忍聖天院屋敷を小笠原半右衛門尉(忍藩五百石)に与えたので、その替地として「於上中条之郷中ニ野畑弐町、彼坊主へ渡可被申者也」と、聖天院の坊主に渡すよう命じている。常光院の名は見えず、当時は野畑であった。院号は是以後なり。

五 菅原姓中条氏 下中条村名主長谷川氏記録(埼玉史談五卷)に「大祖は菅原氏後裔にして、世々武蔵国中条の郷士中条判官常光と称す。判官の二男主水は文治年中に源範頼に従って平氏を一之谷に征して戦功あり」と見ゆ。在名の私市党中条氏の本名にて、私市は土師(菅原氏先祖)と同族なり。

六 忍城士の中条氏 成田分限帳に「五十一貫文・中条丹後、三十五貫文・中条数馬、三十貫文・中条安房」。長久寺本に「忍籠城の者に御番頭中条修理之助」。行田史譚に「備頭中条数馬は皿尾口出張を守る」と見ゆ。

七 横山党中条氏 伊豆国田方郡中条村(静岡県田方郡韮山町中条)より起る。吾妻鑑卷九に「文治五年六月、当所は田方郡の内なり。所謂南条・北条・上条・中条、各境をならべ」と、北条時政は出身地の北条に氏寺の願成就院を建立す。北条村と南条村との中間に中条村(ちゅうじょう)がある。また、保元二年太政管符(兵範記)に相模国足柄下郡成田庄(小田原市)あり。横山党成田氏、及び中条氏は是等の地より起り、武蔵国埼玉郡成田村・中条村の発祥説は誤りなり。武蔵七党系図(冑山本)に「横山野三郎大夫成任(東鑑、成田)―野三刑部丞成綱(東鑑、成田)、弟中条義勝法橋成尋―中条家長」と。小野氏系図に「横山野三別当資孝―野三郎大夫成任―野三刑部丞成綱(弟義勝法橋成尋・頼朝石橋合戦有功)―判官義成(承元二年在京死去)―野二郎左衛門尉成時、義成の弟に下総守盛綱(承久乱院方)、其の弟兵衛大夫成季、其の弟兼綱、其の妹(梶原景高妻)」と。小野氏系図(畠山牛庵本)に「横山野別当資隆―野三大夫成任―野三刑部丞成綱―兵衛尉兼綱(号中条義勝法橋)」と見ゆ。吾妻鑑卷一に「治承四年八月二十日、武衛まづ伊豆・相模両国の御家人ばかりを相率して、伊豆国を出で、相模国土肥郷に赴かしめたまふなり。扈従の輩、北条四郎・子息三郎・同四郎・平六時定、藤九郎盛長、工藤介茂光・子息五郎親光、宇佐美三郎助茂、土肥次郎実平・同弥大郎遠平、土屋三郎宗遠・同次郎義清・同弥次郎忠光、岡崎四郎義実・同与一義忠、佐々木太郎定綱・同次郎経高・同三郎盛綱・同四郎高綱、天野藤内遠景・同六郎政景、宇佐美平太政光・同平次実政、大庭平太景義、豊田五郎景俊、新田四郎忠常、加藤五景員・同藤太光員・同藤次景廉、堀藤次親家・同平四郎助政、天野平内光家、中村太郎景平・同次郎盛平、鮫島四郎宗家、七郎武者宣親、大見平次家秀、近藤七国平、平佐古太郎為重、那古谷橘次頼時、沢六郎宗家、義勝房成尋、中四郎惟重・中八惟平、新藤次俊長、小中太光家、これ皆将の恃むところなり。二十三日、武衛、北条殿父子・盛長・茂光・実平以下三百騎を相率して、相模国石橋山に陣したまふ」と見ゆ。石橋山合戦(小田原市)には、相模国足柄郡土肥郷(湯河原町)、大住郡土屋村・岡崎村・豊田庄、余綾郡中村郷、高座郡大庭郷、三浦郡平佐古郷、相模国波多野氏の家にいた太神宮祠官中氏、相模国渋谷氏の家にいた佐々木氏。伊豆国田方郡北条庄・大見庄・沢郷・奈古屋村(近藤氏は当村住人)、宇佐美庄・天野郷・新田村、伊東住人の新藤氏、伊豆国住人の堀氏・工藤氏・加藤氏・七郎武者氏・鮫島氏等である。全員相模・伊豆の住人にて、義勝房成尋も伊豆国中条村出身であり、武蔵国住人では無い。

八 藤原姓中条氏 伊豆国住人中条義勝法橋の子家長は八田知家の養子となり藤原姓中条氏を称す。弟義季は平姓和田義盛の養子となり苅田平右衛門尉と称す。中興武家諸系図(宮内庁書陵部所蔵)に「中条、藤姓、八田分流、出羽守家長・これを称す」。「苅田、藤、中条法印次男、平右衛門義季・これを称す」と見ゆ。尊卑分脈に「八田知家―出羽守左衛門尉家長(義勝法印子也、擬祖父子)―越後守時泰―出羽守家平―時家―中条弥藤次判官出羽守頼平―出羽守景長(関東奉行、評定衆。兄伊与守長宗、弟常陸前司秀長)―備前守兵庫頭長秀(兄伊豆守時長)―秀孝―詮秀―満秀」。小野氏系図に「家長―家衡―時家―頼平―出羽判官、弟に伊賀守、長家、景長、季長、長綱。家衡の弟光家(弟家親、家国)―家泰―家時、弟家成」。宇都宮系図に「八田知家―中条宗長」。小山系図に「小山長村(文永六年卒、五十三歳。母中条宗長女)」。二階堂系図に「二階堂行章(文永十一年卒)―行員(妹は中条出羽守頼平妻)―女子(中条伊賀守長宗妻)」と見ゆ。

九 藤原姓中条氏の名は、平家物語に「一ノ谷合戦、範頼に従う中条藤次家長」。曽我物語に「建久四年五月、中条藤次家本は那須野狩りに参加す」。吾妻鑑卷二に「養和元年七月二十日、成尋・奉行す」。卷三に「寿永三年二月五日、一谷合戦の軍勢に中条藤次家長」。卷五に「文治元年九月二十二日、義勝房成尋は使節として上洛す」。卷十に「文治六年二月十二日、奥州軍を撃破する内に、中条義勝法橋・同子息藤次」。卷十に「建久元年十一月七日、頼朝上洛随兵に中条平六、中条藤次」。卷十五に「建久六年正月八日、毛呂豊後守と中条右馬允家長と喧嘩を起し、すでに合戦に及ばんと欲するの間、両方の縁者等馳せ参る。家長においては、八田前右衛門尉知家に仰せて出仕を止めらる、養子たるが故なり。家長壮年の身として、知家が養子たり、威権り誇り、無礼を現すによって、季光相咎む」。卷十八に「元久二年六月二十二日、畠山討伐に中条藤右衛門尉家長・同苅田平右衛門尉義季」。承久記に「京方の中条下総守盛綱、中条弥二郎左衛門尉(成時)等は、近江供御瀬に向い関東勢の攻撃に備う。中条次郎左衛門尉は、山城宇治河の合戦に討死す」と。吾妻鑑卷二十六に「貞応三年正月一日、年始の儀に、出羽守家長、中条出羽二郎家平、苅田右衛門三郎義行」。脱漏に「嘉禄元年十二月二十日、中条出羽前司、中条次郎左衛門尉」。卷三十一に「嘉禎二年正月二日、垸飯の御馬、出羽三郎左衛門尉・同四郎左衛門尉。八月二十五日、前出羽守従五位下藤原朝臣家長卒す、年七十二.。同三年六月二十三日、将軍家・大慈寺供奉随兵出羽四郎左衛門尉光宗」。卷三十二に「嘉禎四年二月十七日、将軍頼経入京随兵出羽四郎左衛門尉・出羽判官。二月二十八日、頼経の衛府出羽三郎左衛門尉光家。六月五日、頼経春日社詣の随兵出羽判官家平」。卷三十三に「仁治元年八月二日、将軍家二所詣の随兵中条右近大夫将監」。卷三十六に「寛元二年八月十五日、頼経父子鶴岡詣の随兵出羽四郎左衛門尉光家」。卷四十に「建長二年三月一日、中条出羽前司が跡・中条右馬助入道」。卷四十二に「建長四年四月三日、頼嗣供奉人出羽藤次郎左衛門尉頼平」。卷四十六に「建長八年六月二日、奥州路の盗賊横行し、路地の地頭出羽四郎左衛門尉・和賀三郎兵衛尉・同五郎右衛門尉等、二十四人に警備の沙汰あり」。卷五十一に「弘長三年八月九日、将軍上洛供奉人出羽弥藤次左衛門尉頼平・中条出羽四郎左衛門尉」と見ゆ。また、鎌倉円覚寺文書に「元亨三年十月二十七日、中条山城前司は、北条貞時十三回忌の供養に禄役人等をつとむ」。御的日記に「嘉暦二年正月十一日、中条新兵衛尉清貞は弓射をつとむ」。建武記に「延元元年四月、中条因幡左近将監貞茂は、武者所に結番せらる」。鶴岡八幡宮神主家伝文書に「永和二年正月二十九日、荏原郡世田谷領主吉良治家は、中条新兵衛入道をして、武蔵国世田谷郷内上弦巻を八幡宮神主代に渡付せしむ」。十一項参照。長倉追罰記に「永享七年、鎌倉殿御勢(足利持氏)、左は山内殿(上杉憲実)、右は扇谷殿(上杉持朝)、中条はさゝの丸あしなし」。鎌倉大草紙に「嘉吉元年四月、古河城攻めに上杉清方被官の人々分捕り。中条判官分捕、里見修理亮首・大須賀越後守首・芦間刑部少輔首・上曽三郎首・水谷大炊介首・森戸宮内左衛門首・大野左近将監首、已上八并名字不知首一、合九、中条判官大夫取之」と見ゆ。

一〇 埼玉郡中条郷の藤原姓中条氏 上野国世良田村長楽寺々領目録に「建長四年七月五日、左衛門尉藤原時家寄進之、武蔵国中条保内水越郷古政所南深町水田一町、近江国上坂在家田地・中条水越類地也」と見ゆ。近江国坂田郡上坂郷(こうざか、滋賀県長浜市上坂)は、中条兵衛尉兼綱義勝法橋の妹が梶原景時の子景高妻となっている関係から、梶原氏滅亡後に中条氏が賜る。中条氏は自己の名字と同じ地名の中条保(上中条村小名水越)を勲功の賞として所望し賜る。二十三年後の建治元年五月京都六条八幡宮造営役に武蔵国のほとんどの武士が所領地より負担しているが中条氏の名は無い。中条保水越郷は先祖伝来の所領地では無かった。長楽寺正和四年注進状に「近江国香坂寄進状一通、寄進今居郷二反田状一通、中条伊賀禅門」と見ゆ。新田郡今居郷(境町)は時家の孫伊賀守長宗が寄進す。

一一 足立郡の中条氏 相模文書(栃木県大田原市川上茂久所蔵)に「永徳二年四月五日、武蔵国荏原郡世田郷(世田谷区瀬田)世田左衛門入道跡・同国足立郡芝郷大牧村(浦和市)地頭職中条出羽入道跡事、寄進状之旨、沙汰下地於法泉寺雑掌候、足利氏満花押」と見ゆ。出羽入道は、永和二年の世田谷郷代官中条新兵衛入道と同人か。

一二 多摩郡布田宿(調布市)の中条氏 当地方は世田谷城主吉良氏の所領地にて、前項の中条出羽入道の後裔か。北条氏の重臣なり。永禄二年小田原所領役帳に「中条出羽守、二百七十四貫三十文・多東郡府田郷・甲寅検地辻、八貫四百文・吉見郡大串内北分、三十貫文・御蔵出、以上」と。天文二十三甲寅年以前からの領主なり。六所社(府中市)条に「永禄四年、上杉景虎当社へ参詣せしことものに出たり。北条家人中条出羽守等、景虎が小荷駄奉行柿崎某を追くつし荷物を悉く奪いければ、景虎府中に逗留して民家を追捕し兵粮をととのえて上州へ帰とす」と。鎌倉九代記に「永禄七年正月七日、北条氏の臣中条出羽守は、下総国府台にて討死す」と。此氏は日蓮宗信徒なり。下布田宿条に「惺誉山蓮慶寺は日蓮宗池上本門寺の末なり。天文元年、中条出羽守檀越となりて真言宗より改宗し再興す。出羽守法謚を正天院日誉と号す、卒年月を詳にせず」と。小田原編年録に中条出羽守は上州新田金山城攻に討死すと。鎌倉日蓮宗妙本寺過去帳に「生天院日誉・中条出羽守・天正十一年十月新田討死。真如院妙惺・武州江戸中条出羽守内室・天正十八年七月」。江戸城詰なり。川越日蓮宗行伝寺過去帳に「妙清・中条佐太夫姑・辰年七月。双樹院常林・中条佐太夫・辰年六月」。慶長頃なり。中条出羽守景信の子出羽守景正は北条氏康に仕へ、甥の景定が跡を継いで小田原籠城す。景定の子宗閑景忠は浪人して外科医となり伊達藩に仕える。其子宗閑景長、其子理閑寛僚は元禄八年に勝田氏を称す。

一三 幕臣中条氏 日蓮宗信徒にて、前項の一族か。寛政呈譜に「中条左京信慶(父樋口宰相信孝が母は中条出羽守某が女なりしかば、信慶明暦三年めされしとき家綱の仰により、外家の称を冒して中条を称す。五百石。正徳二年死す。法名日映)。家紋、釣巴、五枚笹竜胆」と見ゆ。

一四 三河国の中条氏 加茂郡高橋庄猿投郷(愛知県豊田市)は、元暦元年横山党小野成綱に給せられ、其子小野義成、其の弟小野盛綱と伝領され、盛綱が承久の乱に京方につき処刑されたのちは、従弟の中条家長に与えられ、霜月騒動後に中条景長が衣郷金谷村(豊田市金谷町)に居館を造営して入部す。其子備前守秀長は貞和四年に菩提寺臨済宗長興寺(豊田市長興寺町)を創建す。中原師守記に「暦応四年二月十日、中条大夫判官秀長等は、足利直義の石清水八幡宮参詣に従ふ。康永四年八月二十九日、中条刑部少輔・中条備前守等は、足利尊氏の天龍寺供養参向に従ふ。貞和三年正月十二日、中条備前守秀長は、足利直義邸にて二階堂美濃守行通と座席相論す。貞和五年四月七日、中条刑部少輔挙房は、武家任官叙位の先例を中原師守に尋ね申す」と見ゆ。太平記卷二十七に「貞和五年八月十三日、執事高師直の館へ馳せ加わる中条備前守秀長等は、将軍の邸を包囲す」。園太暦に「貞和五年八月十三日、中条備前守倫定は、武家の使者として仙洞に参候す。観応二年七月二十八日、中条備前々司挙房は、使者として仙洞に参候す」。建武三年以来記に「文和元年五月十三日、足利義詮は、東寺より錦小路京極の中条備前々司の邸に移る」と見ゆ。子孫は室町幕府評定衆となる。猿投(さなげ)神社寄進状に「延慶二年、高橋庄地頭中条出羽守景長。延文四年、中条判官秀孝。貞治三年、中条兵庫頭秀長。応安四年、中条左衛門尉詮秀。応永四年、高橋庄地頭中条詮秀。長禄三年、中条出羽入道常周」。永正の見聞諸家紋に「中条、中の竪引上下の輪ニツカヅ」と見ゆ。永禄四年挙母(衣)城中条氏は織田信長に攻められ滅亡す。

一五 若狭国の中条氏 京都東寺百合文書に「若狭国守護、建久年中以後、中条出羽守家長に宛給ふ」と。若狭国守護職次第に「遠敷郡内九箇所(福井県小浜市)に於いては、左兵衛尉藤原家長、建仁三年十二月二十二日にこれを給ふ」と見ゆ。

一六 尾張国の中条氏 鎌倉円覚寺文書に「暦応元年十二月十八日、尾張国守護中条大夫判官秀長」と見ゆ。

一七 陸奥国の中条氏 遠野南部文書に「建武元年十月六日、中条出羽前司時長・申す、糠部郡一戸(岩手県二戸郡一戸町)の事云々。南部又次郎殿」と見ゆ。結城文書に「興国二年四月二十日、稗貫出羽権守」と、稗貫郡地頭中条時長なり。和賀郡地頭職は、中条兼綱盛尋を始祖とし、義秀西念―義行行蓮―泰義と続き和賀氏を称す。苅田、和賀条参照。

一八 中条氏の本名 多摩郡沢井下村(青梅市)名主福島氏は、中条家長八代目中条武蔵守秀信が足利義詮に仕へ、福島武蔵守と名乗り土着す伝へる。当村に福島氏二十数戸現存す。出稼衆にて中条氏の名跡を継承して中条氏を称し、土着後は本名福島氏に復姓す。

一九 埼玉郡大沢町(越谷市) 昭和三年興信録に「大沢町・中条金蔵・所得税十三円・営業税三十九円」あり。一戸現存す。

二〇 同郡上大崎村(菖蒲町) 長松寺文化十四年湯殿山碑に仲条吉五郎・仲条藤吉・仲条儀左衛門。明治二十一年皇国武術英名録に神道無念流上大崎村中条秋之助。私塾師匠中条藤四郎恩喜・号子章・豊山・明治三十六年没八十六歳あり。六戸現存す。

二一 秩父町 昭和三年興信録に「秩父町・中条重蔵・所得税十五円」あり。一戸現存す。

中條 チュウジョウ 上大崎に存す。

仲条 チュウジョウ 川口に存す。

中城 チュウジョウ 浦和、朝霞、所沢等に存す。ナカジョウ参照。

中善寺 チュウゼンジ 山形県西置賜郡飯豊町十一戸あり。

一 所沢町 昭和三年興信録に「所沢町・中善寺清五郎・所得税二百五十三円」あり。一戸現存す。

二 高麗郡上鹿山村(日高市) 多摩郡青梅御嶽神社明治二十四年文書に上鹿山村中善寺又五郎あり。八戸現存す。

中田 チュウタ 川口に存す。

忠田 チュウタ 加須に存す。

中徳 チュウトク 久喜に存す。

中場 チュウバ 川口に存す。

昼八 チュウハチ 久喜に存す。宮城県栗原郡築館町十一戸あり。

中鉢 チュウハチ 各市町村に存す。チュウバチとも称す。○山形県最上郡最上町十六戸、戸沢村二十六戸、新庄市六十六戸。○宮城県玉造郡岩出山町六十四戸、鳴子町百三十三戸、古川市六十戸あり。ナカハチ参照。

仲鉢 チュウハチ 川口、大宮、蓮田、児玉、上福岡等に存す。山形県飽海郡平田町十戸、遊佐町十二戸、酒田市十六戸あり。チュウバチとも称す。

忠鉢 チュウハチ 川口、大宮、草加等に存す。山形県西田川郡温海町二十四戸、鶴岡市二十七戸あり。

中馬 チュウマ 各市町村に存す。

中前 チュウマエ 春日部に存す。

中礼 チュウレイ 富士見に存す。

中禮 チュウレイ 草加に存す。

中老 チュウロウ 大宮に存す。

千代 チヨ 各市町村に存す。福島県大沼郡会津本郷町八戸、新鶴村十五戸あり。センダイ参照。

一 足立郡原市町(上尾市) 明治三十五年飲食店千代やす・鳥商千代藤蔵あり。三戸現存す。

丁 チョウ 与野、川越等に存す。

長 チョウ ○群馬県邑楽郡邑楽町十戸。○栃木県下都賀郡大平町九戸、都賀町十五戸、壬生町三十一戸、佐野市四十九戸、栃木市百七十戸、小山市五十戸、足利市百六十戸。○新潟県岩船郡荒川町十一戸、南魚沼郡六日町十一戸、佐渡郡真野町二十二戸、村上市四十一戸あり。オサ、ナガ参照。

一 佐野氏流長氏 下野国佐野庄安蘇郡小見村(田沼町)の在名小見氏にて、埼玉郡小見村は附会なり。武州に長村は無し。長氏は安蘇・都賀郡地方出身の苗字長氏にて、小見氏の本名なり。田原族譜に「佐野越前守成綱(正和五年卒)―小見是綱―盛綱―義綱―行綱―行清―小見武蔵守行秀(武州小見城主)、弟長七郎行高(武州長城主、長氏を称す)―長七郎二郎忠秀」と見ゆ。

二 大川戸氏流長氏 葛飾郡大川戸御厨(松伏町)より起る大川戸氏の本名なり。安蘇郡寺久保村(佐野市)出身の苗字長氏にて、当村に長氏二十五戸現存す。大川戸御厨及び安蘇郡犬伏村字関川(佐野市関川町)・同郡閑馬村(田沼町)、上州群馬郡箕輪村等へ出稼衆なり。田原族譜に「大川戸下野権守行方―行平―行俊―大川右京助政光(佐野関川住)―政義―政行―行元―行道(尊氏に仕ふ)―行春―行信―政久(閑馬村住)―久行―重行―長但馬守政方(上野箕輪住)―長丹波守政高(天文より永禄元年迄佐野家に仕ふ)、弟長但馬守兼政」と見ゆ。

三 埼玉郡須久毛郷の領主長氏 笹久保村字須久毛(岩槻市)附近は古の須久毛郷なり。鎌倉鶴岡八幡宮神主金子文書に「嘉暦元年八月二十日、鶴岡八幡宮相撲奉行猿渡九郎三郎盛重子息又三郎盛信は、相撲右方長貫首左近次郎守吉と武蔵国須久毛郷の給田畠を和与す」と見ゆ。長氏は八幡宮の社人か。

四 鎌倉幕府御家人の長氏 前項と同族か。永禄二年新田家臣祖裔記(金山城客人の楠入道著)に「長は鎌倉北条九代の御家人、武州中瀬に流浪し後、義貞公謀叛に組し御家臣となる、長源内兵衛と云ふ。其末葉金山にて長半十郎と申士也」と見ゆ。榛沢郡中瀬村(深谷市)に現存無し。

五 八王子城士の長氏 中山備前守信吉は家康の命により頼房の家老となり、慶長十三年正月に北条家臣の国分(二人)・山崎・島村・久下・鈴木・山口(四人)・長・横手・岡部・若林・神田・加治(二人)の十七騎を家臣とし、水戸藩へ連れて行く。中山家譜に「信吉の妹(水戸家の臣長市右衛門繁由が妻)。信吉の兄照守が養子重良(実は水戸家の臣長市右衛門繁由が二男)」。若林家譜に「若林新左衛門直則―三由(実は水戸家の臣長市右衛門繁由が男)―長彦四郎信好(祖父長市右衛門繁由が家号を冒して長を称す、家綱に仕へ、三百俵を賜ふ)」。水府系纂に「長市右衛門某、初八王子に住して北条氏照に仕ふ、北条家没落して慶長年中幕下の歩行士となる中山信吉組たり、十三年駿府に於て二百五十石を賜て信吉が与力となる、元和年中故ありて暇を賜ひ後死す。信吉が妹を娶て二男を生む」と見ゆ。

六 葛飾郡松伏町 二項の後裔なり。大川戸御厨(松伏町大川戸)は埼玉・足立郡にも及ぶ広範囲なり。下野国出身の出稼衆長氏は大川戸御厨の下司職となり、在名大川戸氏を称し、末裔は土着帰農して本名長氏に復姓す。宝珠寺文政四年碑に長平六.。岩槻町秋葉社天保三年狛犬に松伏村長弥兵衛。明治三十年人名録に長亀太郎・明治二年生あり。十三戸現存す。

七 同郡上金崎村(庄和町) 大川戸村の近郷にて、前項と同族であろう。香取社天保六年御神燈に上金崎村長岩次郎・長与兵衛・長松五郎・長源兵衛あり。二戸現存す。

八 同郡金崎村(庄和町) 藤塚村香取社江戸末期御神燈に金崎村長徳五郎・長長右衛門あり。現存無し。

九 同郡西金野井村(庄和町) 藤塚村香取社江戸末期御神燈に西金野井村長与左衛門。当村香取社文久三年水鉢に長与左衛門、明治三十年寄付碑に長八十八あり。一戸現存す。

一〇 同郡上柳村(庄和町) 三宮神社元治元年寄進碑に長次三郎。藤塚村香取社江戸末期御神燈に上柳村長治三郎あり。現存無し。

長因 チョウイン 児玉党にて、武蔵七党系図に「浅羽三郎行親―行元―行忠―長因四郎盛行」。別本に長岡四郎盛行と見ゆ。長岡条参照。

鳥海 チョウカイ 所沢、大井等に存す。新潟県新発田市十三戸、岩手県二戸郡一戸町七戸。トミ、トリウミ参照。

長ヶ原 チョウガハラ 鶴ヶ島、富士見等に存す。

長川 チョウカワ 所沢に存す。ナガカワ参照。

長木 チョウギ 浦和、与野、深谷、朝霞、入間、所沢に存す。ナガキ参照。

長久 チョウク 狭山に存す。

潮湖 チョウコ 川越に存す。

帖佐 チョウサ 川口、浦和、上尾、加須、三郷、松伏、川越、狭山に存す。

丁子 チョウシ 蕨、大宮、上尾、新座、和光、所沢、飯能等に存す。

調子 チョウシ 蓮田、白岡等に存す。

銚子口 チョウシクチ 葛飾郡銚子口村(春日部市)あり。

長者 チョウジャ 所沢村字長者久保あり。秩父郡横瀬村に蕨長者、朝日長者、夕日長者、入間郡木ノ目村に木ノ目長者、志木に田面長者の伝説あり。各条参照。

長者森 チョウジャモリ 伊奈、春日部、久喜等に存す。岩手県九戸郡軽米町五戸あり。

長寿 チョウジュ 鶴ヶ島に存す。

調所 チョウショ 浦和に存す。

長正路 チョウショウジ 春日部に存す。

長曽 チョウソ 坂戸に存す。

長曽我部 チョウソカベ 浦和、大宮、朝霞、越谷、狭山等に存す。

長曾我部 チョウソカベ 浦和、草加等に存す。

長田 チョウダ 浦和、大宮等に存す。新潟県南魚沼郡六日町十八戸あり。オサダ、ナガタ参照。

帳地 チョウチ 川口に存す。

帖地 チョウチ 越谷、幸手に存す。

長徳 チョウトク 越谷に存す。

蝶名林 チョウナリン 三郷、鶴ヶ島、富士見等に存す。新潟県南蒲原郡下田村三十戸、三条市二十七戸あり。

長南 チョウナン 各市町村に存す。○茨城県稲敷郡阿見町五十四戸。○福島市七十四戸。○宮城県塩釜市二十七戸。○山形県東田川郡櫛引町十戸、朝日村十五戸、余目町三十六戸、立川町九十四戸、最上郡大蔵村三十六戸、鶴岡市七十戸、酒田市三十五戸、新庄市三十一戸あり。

銚沼 チョウヌマ 葛飾郡銚子口村(春日部市)に二戸現存す。

長根 チョウネ 上尾に存す。ナガネ参照。

丁野 チョウノ 川口、越谷、川越等に存す。

長野 チョウノ 浦和、上尾、与野、飯能等に存す。ナガノ参照。

長濃 チョウノ 草加に存す。

蝶野 チョウノ 川口、羽生、岩槻、越谷、草加等に存す。栃木県佐野市八戸、島根県簸川郡大社町七戸あり。

庁鼻和 チョウノハナ 幡羅郡庁鼻和郷(深谷市)あり、江戸時代の国済寺村・東方村・柴崎村附近を称す。深谷条参照。庁鼻・庁鼻祖・固庁鼻とも書き、コバナワとも称す。風土記稿に「ちゃうのはなと云しは此地のことにて、今国済寺境内庁鼻祖郷の名残れり。この辺元は概して庁鼻祖の唱なりしならん。されど祖の字を添しは其故を詳にせず」と見ゆ。日光輪王寺応永三年大般若経に幡羅郡西庁鼻和柴前(しばさき)と。応永二十四年別府文書に「去二日馳参庁鼻和御陣」と。紀州那智山米良文書に「応仁二年三月五日、旦那在所注文。みかしり一円、ます田一円、西ちゃうのはな一円、東ちゃうのはな一円、ふかい一円、大ぬま一円、野口一円、おかのや一円、かしま一円」と。加賀国白山修験堯恵法印の文明十八年北国紀行に「十二月のなかばに、むさしの国へうつりぬ、曙をこめて、ちゃうのはなといふ所をおき出云々」と。旅宿問答に「長享年中云々、別府郷の神職彦右衛門、越後米山寺参詣に出で立つ。庁ノ鼻和・深谷薬師堂を透りて、岡ノ谷ノ原を過れば、其日白井に着にけり」と見ゆ。当時の地元の人はチョウノハナと呼んでいる。

一 羊後裔の庁鼻和氏 粟生系図に「御堂関白道長公―宇治関白頼道公―民部大輔(任隆是也。多胡庄玉村ミドリ片山庄を知行す。上野国に住す)―羊大夫(カラシナノ大明神と号)―伴太次郎―玉村次郎―片山武者五郎師綱―粟生五郎左衛門尉広隆(能登国粟生保雌雄保知行)―粟生左衛門四郎師広法名敬願(秦梨子郷、寺岡屋敷)―粟生六郎行広(知行分。ムサシイヒ島郷、安房ヘタテノ郷、ヲワリ高鼻郷、アシ利ノ十岡郷、三河重原公文名足利屋敷、武蔵庁鼻シノブアマルベ)」と見ゆ。多胡郡辛科神社(吉井町)居住の羊は渡来人の総称なり。ヒツジ、バンタ参照。任隆は私市党成田氏の先祖にて、関白藤原氏の家宰となり藤原姓を称す。能登国羽咋郡粟生保(羽咋市粟生町、あお)、同郡雌雄保(志雄町)より起る粟生氏は下野国出身の出稼衆にて足利氏の被官なり。十岡郷は一本に稲岡郷(足利市)。三河国額田郡秦梨子郷(愛知県岡崎市秦梨町)梅藪屋敷、碧海郡重原庄(刈谷市重原)は足利氏領なり。嘉元三年足利貞氏は秦梨子郷の郷司職に粟生師広を任ず。師広は正和三年寺岡郷の内屋敷(足利市)等を子息盛広へ譲り、盛広の子為広は観応二年に秋広へ譲る。盛広の弟行広は安房国朝夷郡平館郷(千葉県安房郡千倉町平館、へだて)、武蔵国飯島郷(川島町か)、幡羅郡庁鼻和郷、シノブノアマルベは和名抄の埼玉郡余戸郷(あまるべ)で忍(しのぶ、今のオシ)の附近か。粟生系図は平安時代の片山武者所から、南北朝時代の粟生氏迄の間に庁鼻和氏・成田氏等がいたのを省略している。成田氏及び庁鼻和氏も他国出身の出稼衆なり。吾妻鑑卷四十に「建長二年三月一日、成田入道が跡、庁鼻和左衛門が跡」と。金沢文庫文書(文保頃)に「頭番成田左衛門尉跡、埼西郡友末・真道、幡羅郡庁鼻和両名・別府・相石・益田・友成・玉井・藤□□名・近正・真道・新開・大子良林・国時」と見ゆ。庁鼻和・友成(別府村の内)・新開(東方村の内)・玉井村・増田村・別府村等は成田氏の本拠地にて、庁鼻和氏は成田氏の一族なり。コバナワ条参照。

二 上杉氏族庁鼻和氏 常陸国出身の出稼衆深谷憲英は、上杉氏の名跡を継承して上杉氏を称し、庁鼻和郷に居住す。上杉系図に「上杉陸奥守憲英(庁鼻和祖、号国済寺)―憲光(庁鼻和左馬助)―上杉右馬助(号固庁鼻和入道性順)」と見ゆ。上杉、深谷条参照。

丁場 チョウバ 鴻巣に存す。

町張 チョウハリ 小名町張は、足立郡北草加村、宿篠場村、弥惣右衛門新田、与左衛門新田、太郎左衛門新田、庄左衛門新田(以上草加市)、前川村、藤八新田、安行村(以上川口市)、塚越村、葛飾郡吉川村、蓮沼村、埼玉郡柏戸村等にあり。丁張とも書く。

長府 チョウフ 浦和に存す。

長藤 チョウフヂ 狭山に存す。

長宝 チョウホウ 戸田に存す。青森県八戸市十戸あり。

長間 チョウマ 越谷に存す。

張間 チョウマ 鶴ヶ島に存す。

蝶間林 チョウマリン 富士見に存す。新潟県三条市九戸あり。

蝶谷 チョウヤ 庄和に存す。

挺屋 チョウヤ 飯能に存す。

晁山 チョウヤマ 丹党系図に「白鳥四郎政家―晁山弥五八郎家経―小五郎基家―孫五郎基行」と見ゆ。一本に罪山に作る。

千代川 チヨカワ 川口、所沢、富士見等に存す。岩手県下閉伊郡山田町五十六戸あり。

千代窪 チヨクボ 草加に存す。宮城県遠田郡南郷町七戸あり。

千代倉 チヨクラ 吹上、春日部、坂戸等に存す。

一 葛飾郡平沼村(吉川市) 津島家文化十五年馬頭尊に平沼村千代倉新八あり。現存無し。

二 埼玉郡二丁目村(八潮市) 字若柳嘉永二年供養塔に千代倉十郎あり。現存無し。

千代崎 チヨザキ 東松山に存す。

千代沢 チヨサワ 大宮、春日部に存す。

千代澤 チヨサワ 春日部に存す。

千代田 チヨダ 入間郡長瀬村字千代田あり。

一 太田氏流千代田氏 豊島郡千代田村(今の皇居の地)より起る。太田道灌雄飛録に「永享四年太田資清・一子を設く、則ち鶴千代と名づける、加冠して太田源六郎持資とぞ名のらせける。二男は図書助、三男は千代田若狭守、四は宝田源八郎、五は潮田出羽守・又式部少輔と号し武州足立郡大宮に住す。是を太田の四家とぞ号しける。道灌始に縄張せし所は岩渕庄稲付村の自得山静勝寺(赤羽駅西口)といふ寺院の云々。或曰又従卒を連れて荏土(江戸)に来り、所の者を召し寄せ假に縄をはりたる地の村名を問ふ、村老等答へて、御縄張の中は千代田・宝田・祝田と申す三ヶ村にて、千代田は御舎弟若狭守殿の御領所、宝田は同じく源八郎殿の御領所にて候と申す。夫より千代田若狭守・宝田源八郎を奉行とし石を曳き木を集へ土居を築き堀を堀て昼夜人夫の力を励まし、長禄元年三月朔日経営全く成就して土木の功を終ふ。今小伝馬町といへるは昔の千代田村なり、また六本木村とも云ひしとぞ、此所往古は奥州海道にして駅家也しとかや」と見ゆ。室町時代の奥州海道の宿村六本木(今の中央区小伝馬町)へ、慶長十一年江戸城外郭の整備が行われ、千代田村の住人は今の小伝馬町へ、宝田村住人は今の大伝馬町へ移転す。

二 里見氏流千代田氏 房総里見誌等に「里見忠義は大久保忠隣の孫娘を妻とし、慶長十九年大久保石見守長安の改易事件に連座して、鳥取県倉吉へ国替へとなり、元和八年死す、二十九歳。法号を雲晴院殿前捨遺心叟賢凉大居士と云い倉吉の大岳院に葬る」と。忠義は千代田氏を名乗っていない。此の後裔説は附会なり。

三 葛飾郡下彦川戸村(三郷市) 風土記稿下彦川戸村条に「旧家者源左衛門、千代田を氏とす。先祖は江戸御築城前、千代田村に住して在名を氏とす。千代田図書が時、当所に移住し、寛永十一年九月三日死すと云ふ。世々名主役たりしが今は然らず」と。江戸の千代田村は地名附会なり。千代田守亥家系図に「家紋五三ノ桐、後断絶して丸之内三ツ柏。里見源太郎義康(秀吉公北条持城を責合玉ひし節里見遅着せし故、秀吉公里見領分不残被召取、此より武陽武蔵野ヶ原当城地之内を宝田・千代田・万歳と云、右三ヶ邑之内千代田邑に居住する処、家康公達御耳被召出)―里見源太郎忠義(安房国稲村之城主里見安房守忠義と被名。其後大久保石見守長安謀叛を企て、忠義も一味之由にて領地を被召上、忠義遠流に被仰付、故断絶す。然るに忠義は名を改め、図書忠次と云、里見は天下へ対し憚在之故、前に住する地名を名乗り、千代田と云、是則千代田氏の元祖也。自是父子此地に住す、是則彦河戸草切百姓にて名主役相勤、時に慶長六・七歳の頃に住し候わん、玉蔵院香取明神などは慶長十八歳□開基也、則御検地も同十八歳に入、忠次寛永十一年九月三日死す、六十才、法名法源居士)―千代田五右衛門忠高(寛文二年八月四日死去、法庵征真居士。忠高公弟共にて候や仁蔵邑弥左右門先祖、扨仁蔵邑弥左右門先祖は仁蔵之助と云邑開発の由。又当邑我等まえの甚左衛門・伝兵衛事也、なども家持之由、但し是は吉川宿武蔵屋弥兵衛ならん、弥兵衛は昔し甚左右門株を買取、吉川へ引越候由、然ども伝兵衛方にては弥兵衛へ田地半分くれ候由を申す、但し伝兵衛は鈴木と氏を名乗り、弥兵衛は千代田を名乗る)―五右衛門高教(忠高先妻の嫡子也、元禄十六年四月二十二日卒去)―重綱(次女ヲルイ婿養子、後谷村小櫃氏より来る、享保十四年卒)―清太夫」と見ゆ。里見忠義は文禄元年生で、図書忠次は天正二年生にて別人なり。千代田氏は二郷半領に慶長以前より居住す。宝暦五年香取社祭礼帳(千代田守亥文書)に千代田清太夫。私塾師匠名主八代目千代田源左衛門・文政七年没、同九代目千代田源左衛門・明治二十二年没。明治九年戸長千代田源左衛門・文化六年生。明治三十年人名録に千代田里太郎・慶応二年生・地租五十五円あり。六戸現存す。

四 同郡仁蔵村(三郷市) 前項参照。稲荷社寛政九年庚申塔に仁蔵村千代田弥兵衛、天保十二年浅間碑に仁蔵村・彦成新田講中・千代田庄左衛門。信州善光寺本堂北嘉永六年常夜燈に葛飾郡二郷半領仁蔵村千代田弥左衛門。恩間新田稲荷社明治二十九年碑に仁蔵村千代田清六あり。二戸現存す。

五 同郡彦成村(三郷市) 共同墓地明治四年筆子碑に千代田栄蔵あり。一戸現存す。

六 同郡彦糸村(三郷市) 下彦川戸村玉蔵院安永九年銅鉢銘に彦糸村千代田半兵衛・千代田喜左衛門。万延元年武術英名録に彦糸村千代田平五郎。彦成村香取社明治初年御嶽碑に彦糸村千代田音次郎。彦成村共同墓地明治四年筆子碑に彦糸村千代田喜左衛門・千代田小左衛門。明治三十年人名録に千代田寅蔵・天保十三年生・地租四十円、千代田佐兵衛・天保十三年生・地租三十八円。明治四十三年剣士豊田梅吉碑に千代田亀太郎・千代田善吉・千代田寅蔵・千代田菊次郎あり。九戸現存す。

七 同郡彦音村(三郷市) 彦成村共同墓地明治四年筆子碑に彦音村千代田安左衛門。明治三十年人名録に千代田三代松・弘化四年生・地租四十五円あり。二戸現存す。

八 同郡平沼村(吉川市) 当村は室町時代の平沼郷吉川宿なり。三項参照。昭和三年興信録に「吉川町・千代田冬吉・所得税二十二円・営業税三十三円、千代田長吉・所得税十一円・営業税三十九円」あり。九戸現存す。

九 埼玉郡大曽根村(八潮市) 当村に此氏の旧家あり。四戸現存す。

一〇 同郡新宿村(吹上町) 山神社明治十一年浅間碑に千代田彦次郎・千代田栄蔵・千代田豊吉・千代田芳松、明治四十二年碑に北新宿・千代田峰次郎・千代田亀吉・千代田成太郎あり。四戸現存す。

一一 川口町 明治三十五年氷店千代田巳之吉あり。

一二 鳩ヶ谷町 明治三十五年煎餅菓子商千代田松蔵あり。

一三 鴻巣町 明治三十五年飲食店千代田むら・素麺屋千代田伊三郎あり。

一四 足立郡寺谷村(鴻巣市) 当村吉田氏由緒書に「幡羅郡四方寺村吉田茂左衛門二男孫三郎(箕田郷之内新田百姓五人有之候処開発被仰付、慶長年中御縄を受、村名寺谷村と号、新田百姓五人は、加村・千代田・飛田・中島・森田也)」と。現存無し。

一五 同郡下石戸村(北本市) 当村に此氏の旧家あり。四戸現存す。

一六 比企郡早俣村(東松山市) 当村に此氏多く存す。本宿村岡田文書に寛政頃伊勢参宮・早俣村千代田甚左衛門・千代田藤兵衛。当村文政元年弁財天碑に早又村千代田□兵衛。明治十九年惣代千代田勝四郎あり。

一七 同郡今泉村(東松山市) 延宝七年屋代文書に今泉村組頭千代田吉兵衛。明治九年副戸長質屋千代田福次郎・文政十年生。昭和三年興信録に「野本村・千代田伴治・所得税百三十三円」あり。五戸現存す。

一八 同郡正代村(東松山市) 世明寿寺文政十一年馬頭尊に当村千代田吉左衛門。嘉永五年頼母子講に正代村千代田市太郎。明治九年副戸長千代田恒右衛門・天保十一年生、副戸長千代田三郎・嘉永五年生。松山町箭弓神社明治三十一年碑に高坂村千代田三郎(県会議員)あり。十一戸あり。

一九 本庄町 明治三十五年荒物商千代田安五郎・糸繭商千代田倉吉あり。

二〇 川越藩秋元氏家臣 明治四年館林藩士族帳に「五両余二人扶持・千代田重太郎」あり。

千代反田 チヨタンダ 浦和に存す。

一寸木 チョットギ 朝霞、吉川、所沢等に存す。小田原市百三十戸あり。

千代延 チヨノベ 川口、浦和、草加、入間、川越等に存す。島根県那賀郡金城町八戸、邑智郡桜江町八戸、江津市三十七戸あり。チヨノブか。

千代原 チヨハラ 飯能に存す。

千代間 チヨマ

一 桶川宿 代々問屋千代間太郎兵衛あり。稲荷社天保九年御神燈に千代間六郎兵衛。明治十七年蚕糸業千代間安太郎。明治三十五年飲食店千代間勝五郎あり。六戸現存す。

二 横見郡丸貫村(吉見町) 鴻巣町法要寺嘉永四年供養塔に丸貫村千代田由蔵あり。一戸現存す。

三 同郡飯島新田(吉見町) 大和田村文化八年聖徳太子碑に飯島新田千代間文左衛門あり。現存無し。

千代村 チヨムラ 北川辺に存す。

千代本 チヨモト 鴻巣町鴻神社明治十四年御神燈に千代本万吉あり。現存無し。

千代盛 チヨモリ 入間郡下松原村字千代盛あり。

千代森 チヨモリ 新座に存す。

千代谷 チヨヤ 大宮、上尾、春日部等に存す。青森県東津軽郡平内町四十四戸、青森市五十二戸あり。

知覧 チラン 所沢に存す。

千里久 チリク 上尾に存す。

池鯉鮒 チリブナ 川越に存す。

知留間 チルマ 越谷に存す。

智和 チワ 大宮、与野等に存す。

千脇 チワキ 大宮、白岡、行田、新座、川越、所沢、日高、江南等に存す。

知脇 チワキ 浦和に存す。

地脇 チワキ 和光に存す。

血脇 チワキ 本庄に存す。

血分 チワケ 川口、北本、東松山等に存す。

千綿 チワタ 浦和、大宮、熊谷、朝霞、川越等に存す。

鎮守 チンジュ 浦和、与野、熊谷、加須、越谷等に存す。

鎮西 チンゼイ 上尾、深谷、川越等に存す。

珍田 チンダ 各市町村に存す。秋田県平鹿郡増田町十八戸、河辺郡雄和町七戸、山本郡山本町十五戸、青森県北津軽郡中里町二十二戸あり。

陳田 チンダ 杉戸に存す。

珎道 チンドウ 行田、春日部等に存す。

陳野 チンノ 越谷、三郷等に存す。

珍部 チンベ 富士見に存す。島根県簸川郡大社町六戸、出雲市十六戸あり。

 

 

 

 

チの部 苗字数三百九十六

 

津 ツ 人や物の集まる所を津と云い、港の古名なり。二字の制度により津宇、都宇(つう)と記す。大宮、児玉等に存す。

一 忍藩阿部氏家臣 享保八年忍藩軍役帳に「百五十石・津幸助」あり。

二 菖蒲町 明治三十五年に津藤平あり。現存無し。

都秋 ツアキ 蕨に存す。

立木 ツイキ 上尾、北本、伊奈、草加、戸田、坂戸、所沢等に存す。小田原市二十七戸あり。タチキ参照。

対木 ツイキ 伊奈に存す。小田原市九戸あり。

築城 ツイキ 大宮、三郷、宮代、朝霞、狭山、飯能、富士見、深谷、寄居等に存す。ツヅキ参照。

崩口 ツイクチ 越谷に存す。

対崎 ツイザキ 入間郡岸村(川越市)に十戸現存す。明治九年副戸長対崎平右衛門・文政八年生。木野目村稲荷社明治八年御嶽碑に岸村対崎三五郎、明治十五年碑に岸村対崎弁全、明治十七年碑に岸村対崎万蔵・対崎平蔵、明治二十二年碑に岸村対崎弁恵・対崎三造。昭和三年興信録に「川越市・対崎長太郎・所得税九十八円」あり。

對崎 ツイザキ 川越、東松山に存す。

堆朱 ツイシュ 蓮田に存す。

対田 ツイタ 浦和に存す。

筑地 ツイチ 三郷に存す。

築地 ツイチ 浦和、新座等に存す。ツキヂ参照。

築地原 ツイチハラ 川口、伊奈、草加等に存す。ツキヂハラ参照。

六十里 ツイヒヂ 正訓はムソリか。

一 忍城士の六十里氏 成田分限帳に「二十貫文・六十里主殿」あり。

二 熊谷宿 前項の後裔なり。宝暦十年新町南屋敷持主六十里五兵衛、同所六十里次右衛門あり。現存無し。

対比地 ツイヒチ 各市町村に存す。群馬県邑楽郡大泉町四十四戸、太田市五十四戸あり。

對比地 ツイヒチ 志木、熊谷、羽生等に存す。

筑比地 ツイヒチ 群馬県邑楽郡千代田町十戸あり。

一 幡羅郡飯塚村(妻沼町) 妻沼村聖天宮天保八年筆子碑に筑比地亦兵衛保俊あり。一戸現存す。

築比地 ツイヒチ 葛飾郡築比地村(松伏町)あり、ツイヒヂと云う。元亨三年金沢文庫に下総国下河辺荘築地郷と。遊歴雑記に二十五里村と見ゆ。川口、八潮、宮代等に存す。群馬県邑楽郡邑楽町十六戸あり。

一 葛飾郡下赤岩村(松伏町) 蓮福寺寛政十年碑に築比地藤右衛門あり。現存無し。築比地村住人か。

通木 ツウキ 大宮、所沢等に存す。

通次 ツウジ 浦和に存す。

通堂 ツウドウ 朝霞に存す。

津宇殿 ツウドノ 入間郡厚川村字津宇殿あり。

通野 ツウノ 浦和に存す。

都楳 ツウメ 川越、深谷等に存す。

通山 ツウヤマ 草加、朝霞等に存す。

津浦 ツウラ 浦和、蓮田、杉戸、行田等に存す。栃木県塩谷郡喜連川町二十戸あり。

津江 ツエ 北川辺、庄和、志木等に存す。秋田県鹿角市十四戸あり。

津恵 ツエ 鷲宮に存す。

津枝 ツエダ 大宮に存す。

塚 ツカ 津加、津賀、都賀の佳字に束、柄、塚を用いる。津は港の古名にて人や物の集まる所を云う、加は古代朝鮮語の曷(か)で村、集落の意味。海洋民の職業集団の集落を津加と称す。和名抄に石見国邑智郡都賀郷(島根県大和村)を都加波と註す。隣の出雲国飯石郡都加賀村(頓原町)は蹈鞴の製鉄村なり。伯耆国河村郡笏賀村(つが、鳥取県三朝町)は木地師・蹈鞴師の集落なり。和名抄に下野国都賀郡(栃木県)あり、三毳山一帯は蹈鞴の集落なり。常陸国鹿島郡津賀村(茨城県大野村)は応安頃の海夫注文(香取文書)に「かけさきの津、ぬま里の津」と、津賀村字掛崎にて、水上交通の要路である。津加、塚は海洋民の非農民集落なり。ウツミ条参照。岩槻、越谷等に存す。

一 豊島氏族塚氏 荏原郡八幡塚村(大田区)より起る。紀州那智山米良文書に「文安五年、豊島年貢目録、三百文・塚殿」と見ゆ。

都香 ツカ 越谷に存す。

津賀 ツガ 塚条参照。大宮、春日部、加須、越谷、吉川等に存す。茨城県鹿嶋市二十戸あり。

都賀 ツガ 塚条参照。浦和、所沢、富士見等に存す。

塚井 ツカイ 川口、川越、所沢に存す。

塚上 ツカウエ 上福岡に存す。

塚内 ツカウチ 埼玉郡内牧村字塚内・梅田村字塚ノ内は同所にて古の村名なり、堤根村香取社安永六年庚申塔に塚内と見ゆ、今の春日部市栄町二丁目より梅田三丁目附近なり。入間に存す。

一 忍城士の塚内氏 成田分限帳に「十三貫文・塚内庄五郎」あり。別本に堀内と見ゆ。

塚生 ツカオ 忍藩松平下総守(奥平)家臣にて、明治四年忍藩士族名簿に「五石二人扶持・塚生十蔵、同高・塚生初太郎」あり。

塚尾 ツカオ 上尾、入間等に存す。青森県上北郡七戸町十五戸あり。

塚岡 ツカオカ 所沢に存す。

塚形 ツカガタ 蓮田、戸田等に存す。山形県酒田市二十五戸あり。

塚川 ツカガワ 川口、与野、春日部、宮代、志木、和光、川越、狭山等に存す。鳥取県八頭郡智頭町六戸あり。

塚口 ツカグチ 入間郡下新井村字塚口あり。上尾、春日部、坂戸、所沢等に存す。茨城県鹿島郡波崎町十八戸あり。

塚腰 ツカコシ 塚越に同じ。川口、蕨、草加、越谷、深谷等に存す。

塚越 ツカコシ 海洋民越族の集落を塚越と称す。塚及び越(こし)条参照。足立郡塚越村(蕨市)、入間郡塚越村(坂戸市)あり。秩父郡上吉田村字塚越は元文三年秩父領御用日記に秩父郡塚越村と見ゆ。足立郡芝村字塚越(川口市)は古の村名にて文政三年成就庵筆子にツカノコシと見ゆ。小名塚越は、葛飾郡大衾村、埼玉郡向古河村、酒巻村、足立郡川口町、横曽根村、浦和宿、道合村、上平塚村、小針新宿村、入間郡如意村、加佐志村、赤尾村、高麗郡笠幡村、比企郡安塚村、男衾郡富田村、柴村、榛沢郡武蔵野村、上野台村等にあり。小名塚ノ越は、埼玉郡柿木村、足立郡膝子村、入間郡藤沢村、上谷ヶ貫村、下南畑村、大久保村、横沼村、関間新田、横見郡大串村、比企郡北園部村等にあり。此氏は北武蔵国及び上野国に多く存し、奥州には無し。○群馬県群馬郡榛名町三十七戸、倉渕村百十八戸、群馬町四十四戸、新田郡新田町三十五戸、太田市七十五戸、藤岡市四十八戸、高崎市二百四十戸、前橋市七十戸。○栃木県足利市七十戸。○山梨県東八代郡御坂町三十七戸あり。多くはツカゴシと称す。

一 丹党勅使河原氏の本名塚越氏 五十六項参照。

二 渋川氏家臣の塚越氏 足立郡塚越村より起る。蕨城主渋川公戦死略暦(庄野文書)に「永禄十年、上総三舟山合戦において、渋川左衛門尉正清は塚越五郎左衛門勝成等を統率し、渋川兵三百は討死す」と見ゆ。

三 深谷城士の塚越氏 深谷記に「天正十年、神流川合戦に深谷衆塚越大学」と見ゆ。

四 河合城士(玉村町)の塚越氏 神流川合戦記に「天正十年六月、上野国那波郡河合村露之城主斎藤石見守基盛家臣塚越善右衛門」あり。基盛は金窪城主斎藤摂津守の弟なり。

五 川越藩秋元氏家臣 明治四年館林藩士族帳に「百五十石・塚越平八」。

六 岡部藩安倍氏家臣 慶応四年岡部藩分限帳に「御給人・十人扶持・塚越又右衛門、御中小姓・五石二人扶持・塚越銭五郎」あり。

七 葛飾郡上高野村(幸手市) 大阿寺嘉永三年敷石碑に大蔵村塚越亀治郎。下野村福正院明治二十九年筆子碑に上タカノ塚越梢次郎あり。二戸現存す。

八 同郡栗橋宿 八坂社文化十四年御神燈に塚越源五郎。明治三十五年に塚越半兵衛あり。

九 同郡小右衛門村(栗橋町) 幸手町雷電社明治十七年御嶽碑に小右衛門・塚越市太郎。外国府間村雷電宮明治四十二年碑に小右衛門・塚越幾造あり。三戸現存す。

一〇 同郡島川村(栗橋町) 八幡社明治十五年伊勢講碑に塚越常五郎あり。現存無し。

一一 埼玉郡久喜町 明治三十五年荒物商中屋塚越正五郎あり。

一二 同郡騎西町 久伊豆社文化四年算額に塚越清三郎金重。明治三十五年木綿織物商塚越留五郎あり。

一三 同郡柴山村(白岡町) 字荒田万延元年庚申塔に塚越宗助あり。一戸現存す。

一四 同郡柴山枝郷(菖蒲町) 当村に此氏の旧家あり。十一戸現存す。

一五 同郡戸川村(加須市) 明治九年副戸長塚越与市・文政四年生あり。一戸現存す。

一六 同郡琴寄村(大利根町) 明治四年百万遍証書に前新田組惣代塚越要蔵。浅間社明治三十六年絵馬に塚越利右衛門・塚越清五郎・塚越新蔵あり。九戸現存す。

一七 同郡北大桑村(大利根町) 円満寺宝暦四年絵馬に北大桑村塚越忠右衛門。当村寛政八年庚申塔に塚越富五郎・塚越勘次郎。大願寺文化六年供養塔に塚越佐左衛門。八幡社文政九年天満宮碑に塚越留八.。香取社弘化三年狛犬に塚越藤右衛門・塚越万右衛門、文久二年幟碑に塚越弥平太あり。七戸現存す。

一八 同郡間口村(大利根町) 慶応三年三俣村堀越文書に間口村塚越宇兵衛。八幡社明治二十六年碑に塚越市太郎・塚越勘次郎・塚越今七あり。八戸現存す。

一九 同郡弥勒村(羽生市) 円照寺天保十四年廻国塔に塚越清右衛門。荻島村天満宮明治二十年碑に弥勒・塚越喜太郎あり。一戸現存す。

二〇 同郡本川俣村(羽生市) 明治九年戸長塚越伊勢次郎・天保元年生あり。現存無し。

二一 同郡藤井村上組(羽生市) 明治九年副戸長塚越善右衛門・天保八年生あり。現存無し。

二二 足立郡五関村(浦和市) 稲荷社明治三十年碑に塚越初五郎・塚越蔦五郎、同年頃御神燈に塚越文三郎あり。三戸現存す。

二三 同郡大宮町 明治三十五年飲食店塚越林蔵あり。

二四 同郡八幡田村(鴻巣市) 旧八幡寺延享五年庚申塔に八幡田村塚越彦右衛門・塚越与五郎・塚越彦八・塚越宗五郎・塚越利助、天明八年宝篋印塔に八幡田村塚越治右衛門母。箕田村観音堂文化元年聖徳太子碑に八幡田村塚越伊助・塚越岩五郎・塚越源左衛門。安政三年剣術義集館(持田村三田文書)に八幡田村塚越良助。明治四年組頭塚越良吉・四十二歳あり。十三戸現存す。

二五 同郡箕田村(鴻巣市) 真相寺寛政四年供養塔に塚越八郎あり。一戸現存す。

二六 同郡登戸村(鴻巣市) 当村元禄十三年庚申塔に塚越清左衛門、享和三年馬頭尊に登戸村塚越宗右衛門・塚越吉次郎・塚越専五郎。勝願寺天保四年筆子碑に当村塚越唯右衛門・塚越吉蔵。明治九年副戸長塚越源左衛門・文政四年生(名主)。原馬室村観音堂明治三十四年馬頭観音碑に登戸塚越専五郎あり。三戸現存す。

二七 同郡大間村(鴻巣市) 久保寺天明六年筆子碑に当村塚越金之助、天保十一年鐘銘に惣村役人中・塚越浅右衛門。津賀守稲荷明治十一年馬頭尊に塚越清次郎。大野神社明治二十六年幟碑に塚越菊次郎・塚越久兵衛・塚越健之助・塚越伝之助・塚越周蔵・塚越角次郎・塚越覚助、明治三十九年碑に塚越善太郎・塚越宇一・塚越金之助。原馬室村観音堂明治三十四年馬頭観音碑に大間塚越角次郎。鴻巣町勝願寺明治三十五年馬頭尊に大間塚越宇市・塚越武兵衛あり。三戸現存す。

二八 同郡糠田村(鴻巣市) 登戸村勝願寺天保四年筆子碑に糠田村塚越作治郎あり。現存無し。

二九 志木町 引又河岸跡明治十三年水神講に志木宿塚越重造あり。

三〇 比企郡高谷村(小川町) 当村に此氏多く存す。弘化二年馬頭尊に塚越彦四郎、嘉永二年馬頭尊に中谷ツ・塚越権右衛門、万延元年碑に塚越権左衛門。字中関文久二年馬頭尊に塚越民五郎。八和田神社明治三十三年碑にカウヤ・塚越保吉・塚越鷲蔵・塚越寅吉・塚越留次郎・塚越長次郎あり。

三一 大里郡石原村(熊谷市) 広瀬村富士浅間社慶応三年小御嶽碑に上石原村塚越源吉。明治五年准副戸長塚越伊八.。明治九年地租改正惣代人塚越源吉。明治二十一年重立塚越祐三郎・重立塚越甚蔵・重立塚越清三郎あり。十二戸現存す。

三二 同郡成沢村(江南町) 赤城社天保十一年御神燈に塚越栄吉あり。現存無し。

三三 幡羅郡久保島村(熊谷市) 観照院弘化二年供養塔に塚越豊八あり。十一戸現存す。

三四 同郡拾六間村(熊谷市) 三ヶ尻村幸安寺慶応二年権田門人碑に十六間村塚越百五郎あり。三戸現存す。

三五 同郡太田村(妻沼町) 妻沼村聖天宮慶応三年石道之碑に太田村塚越八十蔵・塚越国之助・塚越喜惣次あり。三戸現存す。

三六 同郡原郷(深谷市) 上州榛名神社明治四十年御神燈に武蔵国幡羅村原郷塚越梅吉。深谷町呑龍院明治四十五年馬頭尊に原郷塚越喜之八.。幡羅村会議員に塚越梅吉・明治元年生、塚越高三郎・明治二十二年生あり。十戸現存す。

三七 同郡東方村(深谷市) 熊野社明治三十年碑に塚越要作あり。一戸現存す。

三八 榛沢郡西島村(深谷市) 明治九年副戸長塚越才次郎・天保三年生。瑠璃光寺明治二十九年筆子碑に塚越鞍次郎・塚越常太郎。上州榛名神社明治四十年御神燈に武蔵国深谷町西島塚越鞍治郎・塚越常太郎。原郷楡山神社明治四十二年碑に深谷町塚越菊次郎。中瀬村向島不動堂明治四十四年従軍馬匹碑に深谷町塚越徳衛。呑龍院明治四十五年馬頭尊に深谷蹄鉄組合塚越徳衛。深谷町会議員西島農業塚越鞍治郎・明治元年生あり。

三九 同郡東大沼村(深谷市) 深谷町会議員塚越福次・明治三十三年生あり。二戸現存す。

四〇 同郡伊勢方村(深谷市) 八幡社天保四年御神燈に塚越佐吉あり。現存無し。

四一 同郡戸森村(深谷市) 雷電寺宝暦三年庚申塔に戸森村塚越清右衛門あり。現存無し。

四二 同郡内ヶ島村(深谷市) 熊野社天保十年諏訪碑に塚越丈助。大塚島村鹿島社弘化二年御神燈に内ヶ島村塚越安右衛門。東方村熊野社元治元年小御嶽講碑に内ヶ島村信心三代目塚越保右衛門定経。明治九年戸長塚越太平・嘉永六年生。備前堀史料に明治十一年内ヶ島村惣代人塚越常吉。明治十八年最上農名簿に塚越太平・耕宅地□町歩所有、虫食いの為読めず。永光寺江戸末期庚申塔に塚越市郎右衛門、明治二十四年筆子碑に塚越太平・塚越常吉、明治四十年碑に塚越安太・塚越龍八・塚越文雄・塚越栄作。高畑村円能寺明治三十二年筆子碑に内ヶ島村塚越弥三郎。上州榛名神社明治四十年御神燈に武蔵国大寄村内ヶ島塚越太平・塚越弥三郎・塚越龍八.。大寄村会議員に塚越太平・嘉永六年生、塚越安太・明治六年生、塚越勝義・明治二十七年生あり。八戸現存す。

四三 同郡矢島村(深谷市) 矢島村史料に「○塚越次郎八―梅次郎(文政五年生)―力三郎(嘉永三年生)―千代吉(明治三年生)、弟倉吉(明治八年生)。梅次郎二男岩吉(安政元年生)、同人三男勘次郎(文久三年生)。○塚越保五郎(文政二年生)―鷲五郎(天保十年生)―三之助(明治六年生)。○塚越吉五郎―四郎次―元次郎(嘉永元年生)―和吉(明治七年生)、弟庄吉(明治十年生)」。本庄宿石川剣道場門下生に寛政元年・矢島村塚越助三郎。慶福寺嘉永四年碑に塚越鷲次郎。神明社安政二年御神燈に塚越四郎右衛門。上州榛名神社明治四十年御神燈に武蔵国大寄村矢島塚越元次郎。大寄村会議員塚越鶴五郎・明治三十七年生あり。三戸現存す。

四四 同郡下手計村(深谷市) 鹿島社文政五年御神燈に塚越半内あり。四戸現存す。

四五 同郡中瀬村(深谷市) 中瀬神社明治四十一年碑に塚越啓三郎・塚越芳十郎あり。二戸現存す。

四六 同郡上野台村(深谷市) 小名塚越あり。当村に此氏多く存す。字台坂文政五年馬頭尊に鼠新田邑塚越常五郎・塚越辰五郎・塚越要蔵・塚越熊五郎・塚越竹次郎。光厳寺天保十一年供養塔に当所塚越太郎右衛門・塚越善左衛門。白川家門人帳に天保十三年・上野台村番匠佐金吾事・塚越出雲。柏合村明治十三年八海山講碑にウハノ塚越清次郎。八幡社明治五年筆子碑に上野塚越健司、当所塚越金三郎・塚越宇平治・塚越宇之吉・塚越市四郎、明治四十四年碑に塚越円次郎・塚越宇平治・塚越幸三郎・塚越政吉・塚越新次郎・塚越林次郎・塚越松五郎・塚越金三郎。上州榛名神社明治四十年御神燈に武蔵国藤沢村上野台塚越宇平治・塚越政吉。藤沢村会議員塚越艶松・明治二十九年生あり。

四七 同郡柏合村(深谷市) 私塾師匠塚越升・明治八年没三十五歳。明治十三年八海山講碑に当村塚越安太郎・塚越武一郎・塚越孫太郎。上野台村八幡社明治四十四年碑に柏合塚越幸太郎。深谷町呑龍院明治四十五年馬頭尊に柏合塚越幸太郎。藤沢村会議員に塚越幸太郎・明治四年生、塚越正治・明治九年生、塚越徳太郎・明治三十三年生、塚越又一・明治三十六年生あり。十六戸現存す。

四八 同郡山崎村(岡部町) 当村に此氏の旧家あり。十五戸現存す。

四九 同郡原村(川本町) 明治元年上原村に改称す。白髭社安政四年水鉢に塚越浅治郎、安政六年御神燈に塚越利右衛門。長在家村稲荷社明治六年筆子碑に上原塚越幸之助。用土村明治十三年仙元碑に上原村塚越幸之助あり。五戸現存す。

五〇 同郡寄居町 明治三十五年畳職塚越房次郎あり。

五一 男衾郡小園村(寄居町) 明治十年石田文書に塚越丑五郎・塚越喜三郎。用土村明治十三年仙元碑に小園村塚越暁行嶋山あり。三戸現存す。

五二 児玉郡本庄町 明治十三年本庄町会議員乾物商塚越伊三郎あり。

五三 同郡小島村(本庄市) 本庄宿石川剣道場門下生に寛政四年・尾島村塚越太郎吉・塚越藤太郎・塚越幸八.。長松寺文久四年庚申塔に塚越幸八あり。五戸現存す。

五四 同郡下浅見村(児玉町) 成就院元禄十六年庚申塔に塚越七郎兵衛あり。現存無し。

五五 那賀郡古郡村(美里町) 安光寺嘉永元年地蔵尊に当村塚越六右衛門・塚越吉兵衛・塚越乙次郎。明治三年佐藤文書に塚越文蔵・塚越常吉・塚越喜平。北向神社明治三十七年仙元碑に塚越鷲太郎あり。四戸現存す。

五六 賀美郡勅使河原村(上里町) 丹党勅使河原氏の本名なり。安原氏族の碑に「而るに安原・春日・塚越の三家は遠祖を古く鎌倉時代勅使河原十郎に発し、爾後戦国の頃先祖喜兵衛永禄三年小田原北条氏政に従い鉢形城の家臣であったが、三男二女があり、男子は安原・春日・塚越として分家を為す」と見ゆ。安原(勅使河原氏)喜兵衛の子三人は実子では無く、兄弟分で丹党勅使河原氏に所属して勅使河原氏を称すが、古代以来の本名塚越氏にて復姓して土着す。安永九年勅使河原村家名附(久保文書)に「勝場村・塚越万右衛門・塚越伝兵衛・塚越源右衛門・塚越六兵衛・塚越八郎兵衛・塚越伊右衛門・塚越五郎兵衛・塚越九兵衛・塚越藤兵衛・塚越新右衛門・塚越新五右衛門・塚越友右衛門・塚越岡五郎・塚越六郎兵衛、地頭津金様名主塚越瀬左衛門・組頭塚越七平」。上州神成村新堀神社(富岡市)嘉永二年算額に賀美郡勅使河原村塚越久蔵以政・塚越栄吉郎亮都・塚越浅蔵補寿。高崎市石原町清水寺千手観音堂安政五年算額に勅使河原村塚越久米蔵広成。字勝場万延元年庚申塔に塚越八郎兵衛・塚越甚五右衛門・塚越源右衛門・塚越六郎兵衛・塚越儀兵衛・塚越常右衛門・塚越周輔・塚越藤七・塚越伝兵衛・塚越六兵衛・塚越助左衛門・塚越瀬左衛門・塚越広吉・塚越金十郎・塚越紋兵衛・塚越九兵衛・塚越与兵衛。明治九年副戸長塚越太平・天保五年生、副戸長塚越徳蔵。関流算学者安原翁(明治十六年没)碑に門弟本村塚越太平あり。十五戸現存す。

五七 同郡帯刀村(上里町) 児玉記考に「旧家塚越翁太郎、新田家の臣塚越図書の正系なり。新田家滅ぶるに及び当地に来り農に帰す。慶長十九年川田隼人と共に縄入の案内者たり、爾後源左衛門と称し、維新前は世々小西家知行の名主役を勤めたり」と見ゆ。出稼衆にて、隣村勅使河原村塚越氏と同じく鎌倉時代以前からの居住者なり。福昌寺文化十年供養塔に塚越重之丞。大御堂村吉祥院天保五年供養塔に帯刀村塚越源蔵。菅原神社文政十三年御神燈に塚越儀兵衛。明治九年副戸長塚越源蔵・天保七年生。明治十一年副戸長塚越源三郎。菅原神社明治四十三年御神燈に塚越源三郎・塚越宗三郎あり。十六戸現存す。

五八 同郡五明村(上里町) 御嶽社明治四十一年碑に塚越半次郎あり。現存無し。

五九 同郡原新田村(神川町) 児玉記考に「旧家塚越三吉、先代を政右衛門と云ひ、旧幕の頃は地頭黒田豊前守所領の名主組頭役を勤めし家柄なり」と見ゆ。三戸現存す。

六〇 雑載 昭和三年興信録・所得税及び営業税(下段)に「田間宮村(鴻巣市)・塚越専五郎・二十五円、八和田村(小川町)・塚越儀三郎・十八円、加須町・塚越柳助・十四円、大寄村(深谷市)・塚越太平・四十三円、藤沢村(深谷市)・塚越幸太郎・四十八円・五十六円、塚越慶八・十三円、本庄町・塚越伊三郎・百一円、塚越林五郎・二十四円・五十円、塚越茂夫・十一円、賀美村(上里町)・塚越弥寿次・十円」あり。

司 ツカサ 川口、鳩山等に存す。

政 ツカサ 大宮、上尾、桶川、蓮田、越谷、草加等に存す。

司城 ツカサキ 所沢に存す。

柄崎 ツカザキ 吹上に存す。

墳崎 ツカザキ 蓮田、幸手に存す。茨城県稲敷郡江戸崎町二十三戸あり。

塚嵜 ツカザキ 所沢に存す。

塚崎 ツカザキ 崎は浦の意味で、海洋民の集落を塚崎と称す。入間郡塚崎村(坂戸市)あり、当村開発のことは加藤条参照。葛飾郡塚崎村(庄和町)あり。各市町村に存す。栃木県足利市二十二戸、茨城県新治郡新治村十戸あり。

一 児玉党浅羽氏族塚崎氏 入間郡塚崎村より起る。本名根本氏にて、子孫は幕臣加々爪氏に仕へる。新堀村根本家記録に「応仁十八年二月十日、根本帯刀義成花押、塚崎兵庫清定花押」。「浅羽左衛門大夫成恒―有道根本肥後清行―根本帯刀義成、弟兵庫助清定(分地塚崎根本兵庫清政養子)―四郎太郎清広―織部清春(天正二十年武州高坂城主加々爪家に仕ふ)」と見ゆ。根本条参照。

塚沢 ツカサワ 草加、吉川等に存す。岩手県花巻市十六戸あり。

塚澤 ツカサワ 吉川、熊谷等に存す。

塚下 ツカシタ 足立郡大谷口村字塚下、貝塚村字塚下、宮下村字塚ノ下、秩父郡白石村字塚下あり。鴻巣、越谷、川越等に存す。

塚島 ツカシマ 浦和、大宮等に存す。

塚瀬 ツカセ 昭和三年興信録に「浦和町・塚瀬薫・所得税三十三円」あり。

塚副 ツカゾエ 北本に存す。

塚田 ツカダ 海洋民の集落を塚田と称す。田は郡県・村の意味。塚条参照。男衾郡赤浜村字塚田(寄居町)は古の村名にて、三島社応永二年鰐口銘に武蔵国男衾郡塚田宿三島宮鰐口とあり。埼玉郡戸ヶ崎村字塚田(菖蒲町)は、騎西町大英寺元禄十年阿弥陀如来に「中種足村、塚田村、牛重村、下之村」と見ゆ、今の塚田集落なり。小名塚田は、埼玉郡登戸村、大泊村、足立郡市右衛門新田、彦右衛門新田、苗塚村、花栗村、飯田村、中野林村、水判土村、三条町村、入間郡松郷、大仙波村、小中居村、古谷本郷、大袋新田、粟生田村、黒岩村等にあり。此氏は常陸国、信濃国に多く存し、奥州には無し。武蔵国は利根川流域に多し。○群馬県群馬郡群馬町三十戸、前橋市百六十戸。○栃木県芳賀郡二宮町三十四戸、小山市七十戸。○茨城県西茨城郡岩瀬町二十六戸、東茨城郡美野里町二十五戸、新治郡八郷町四十七戸、真壁郡明野町五十二戸、協和町六十五戸、関城町六十二戸、真壁町二十六戸、結城郡千代川村二十二戸、猿島郡総和町三十二戸、つくば市百三十戸、下館市六十八戸、下妻市二百五戸。○山梨県東八代郡豊富村二十四戸。○長野県上水内郡戸隠村五十六戸、埴科郡戸倉町百五十戸、坂城町五十八戸、小県郡真田町二十七戸、東部町六十四戸、南安曇郡穂高町三十二戸、堀金村二十一戸、三郷村四十三戸、下伊那郡阿智村二十二戸、平谷村二十五戸、更埴市五十三戸、上田市百戸、松本市百二十五戸。○新潟県中頸城郡大潟町二十二戸、西頸城郡名立町二十九戸、能生町七十戸、上越市二百戸。○鳥取県米子市六十戸あり。

一 塚田鋳物師 埼玉郡金重村と平林寺村(岩槻市)は一村なり。平林寺鐘銘に「嘉慶元年丁卯十一月十三日、大日本国武蔵州崎西県渋江郷金重村金鳳山平林禅寺、大工沙弥道善」。千葉県天津小湊町清澄寺鐘銘に「明徳三年壬申八月日、房州千光山清澄寺、大工武州塚田道禅」とあり。道善と道禅は同人なり。渋江鋳物師の一派で埼玉郡塚田村住人か。或は男衾郡塚田宿住人か。

二 松山城士の塚田氏 男衾郡塚田宿住人にて本名は不詳。秩父郡御堂村日蓮宗浄蓮寺過去帳に「妙通・ツカタ。道林・ツカタ。妙浄・ツカタ」と見ゆ。

三 忍城士の塚田氏 成田分限帳に「百貫文・塚田大炊介」あり。

四 深谷城士の塚田氏 折之口村慶応三年慈眼山観音寺略縁起に「憲盛卒して後、上杉の景絶ゆ。北条氏政関東を押領し、之に依り家臣皆分離す。其の内、清水・大沢・向井・塚田・其外朋友の士、当村観音の精舎に集合し、面々の行く末を考ふ」と見ゆ。上野台村に塚田氏五戸現存す。

五 鳩谷・岩槻藩阿部氏家臣 慶安元年岩槻藩軍役積に「百石・塚田十右衛門」。寛文二年岩槻藩分限帳に「百石・塚田十右衛門、三十俵・塚田四郎兵衛」あり。

六 葛飾郡権現堂村(幸手市) 熊野社宝暦五年俳諧奉納に塚田庄左衛門・塚田甚左衛門。幸手宿宝持寺文化九年文書に横町塚田庄左衛門。明治三十年人名録に権現堂村塚田祐次・天保九年生。白山社明治三十三年鳥居碑に本村塚田馬三郎・塚田利八.。熊野社明治三十四年碑に塚田馬三郎・塚田鉄五郎・塚田利八・塚田喜蔵・塚田祐治。明治三十五年足袋商塚田助次郎・白米商塚田馬三郎あり。三戸現存す。

七 埼玉郡平方村(越谷市) 鹿島社天保九年庚申塔に平方東組塚田源右衛門・塚田幸助、安政二年庚申塔に平方東組塚田善次あり。一戸現存す。

八 同郡大枝村(春日部市) 当村文政十三年御神燈に塚田幸内あり。現存無し。

九 同郡和戸村(宮代町) 太田袋村琴平社文政三年水鉢に和戸村塚田彦重あり。現存無し。

一〇 同郡樋ノ口村(久喜市) 風土記稿樋ノ口村条に「旧家者岡安氏の先祖は当所に土着し、園部内膳・借浦左近・早川主計・塚田主水といへるものと此地を開きしと云ふ。此四人の子孫は詳ならず」と見ゆ。太田袋村琴平社文政二年御神燈に樋口村塚田又七.。明治四年議定書に塚田文次郎・塚田友七・塚田平七あり。三戸現存す。

一一 同郡戸ヶ崎村(菖蒲町) 小名塚田あり。明治三十五年菓子商塚田宇三郎あり。一戸現存す。

一二 同郡騎西町 正能村諏訪社嘉永五年富士講碑に騎西町塚田小兵衛・塚田久五郎。鴻茎村久伊豆社慶応元年水鉢にキサイ塚田治郎八・塚田文平。明治九年副戸長塚田孝蔵・文政十年生、副戸長塚田文平・文化十三年生。明治三十五年豆腐商塚田輪寿吉・旅人宿塚田金造・薬種商塚田太平・陶器肥料商塚田徳平あり。七戸現存す。

一三 同郡不動岡村(加須市) 三俣村龍蔵寺天明七年巡拝塔に不動岡村塚田伝左衛門母もん。下谷村生善院文化十年水鉢に不動岡村塚田忠蔵。文政七年戸賀崎門人帳に不動岡村塚田善蔵。上三俣村菊地家筆子控に万延二年不動岡村入谷・清兵衛倅塚田仁三郎、同人倅塚田清吉。明治三十五年飲食店塚田鶴吉・豆腐商塚田清助・青縞商米屋塚田嘉吉あり。四戸現存す。

一四 同郡三俣村(加須市) 諏訪社文化四年水鉢に観音寺塚田五郎兵衛、明治二十一年伊勢講碑に塚田織蔵あり。三戸現存す。

一五 同郡北篠崎村(加須市) 熊野社文久四年御神燈に塚田浅次郎あり。現存無し。

一六 同郡岡古井村(加須市) 通殿社明治二十八年御神燈に塚田茂吉あり。一戸現存す。

一七 同郡北大桑村(大利根町) 当村に此氏多く存す。円満寺宝暦四年絵馬に北大桑村塚田伝七・塚田伝右衛門・塚田弥惣次・塚田弥右衛門・塚田安右衛門。当村安永六年庚申塔に塚田平七、寛政八年庚申塔に塚田与市。宝蔵寺寛政元年庚申塔に塚田杢左衛門・塚田勘六・塚田喜助・塚田杢右衛門。香取社寛政十三年絵馬に塚田岩五郎。八幡社文政九年天満宮碑に塚田平次郎。香取社弘化三年狛犬に塚田久兵衛・塚田孫三郎・塚田三四郎・塚田忠左衛門・塚田新蔵・塚田林蔵・塚田弥太郎・塚田幸太郎・塚田紋蔵・塚田音松、明治九年絵馬に当村塚田啓三、明治十六年水鉢に塚田久五郎あり。

一八 同郡上新郷(羽生市) 須賀村熊野社明治十五年水鉢に上新郷塚田源太郎あり。一戸現存す。

一九 同郡馬見塚村(南河原村) 西善院享保十七年供養塔に塚田源六あり。一戸現存す。

二〇 足立郡鴻巣町 明治三十五年飲食店塚田光之助あり。

二一 同郡上谷村(鴻巣市) 明治十年古道具商塚田仙太郎あり。現存無し。

二二 同郡吹上村 明治九年副戸長塚田仙之助・天保九年生(組頭)あり。一戸現存す。

二三 新座郡志木町 明治三十五年酒商塚田健次郎あり。

二四 同郡上新倉村(和光市) 漆台不動滝前嘉永六年庚申塔に上新倉村塚田七三郎。安政二年勧進帳に塚田七三郎・塚田半右衛門。明治十九年小間物商塚田健次郎。明治三十一年演劇寄付に漆台組塚田万蔵。明治四十四年県税届に塚田佐右衛門・塚田文治郎あり。四戸現存す。

二五 松山町 明治三十五年呉服商塚田健吉あり。

二六 横見郡江川新田(吉見町) 明治九年江和井村副戸長廻船問屋塚田清蔵・天保十年生あり。三戸現存す。

二七 大里郡原島村(熊谷市) 代村八幡社弘化四年水鉢に原島村塚田幸吉。広瀬村富士浅間社慶応三年小御嶽碑に原島村塚田伝二郎・塚田才助。西別府村湯殿神社明治元年富士嶽碑に原島村塚田利京。明治九年副戸長塚田貞吉・文政八年生。高畑村円能寺明治二十八年馬頭尊に原島塚田栄作あり。十八戸現存す。

二八 榛沢郡高畑村(深谷市) 中瀬村向島不動堂明治四十四年従軍馬匹碑に高畑村塚田忠作。深谷町呑龍院明治四十五年馬頭尊に高畑塚田忠作。大正七年金井元治碑に当所塚田忠三郎あり。一戸現存す。

二九 幡羅郡柿沼村(熊谷市) 雀宮明和二年碑に石工塚田安右衛門あり。現存無し。他村の人か。

三〇 同郡蓮沼村(深谷市) 永禄三年石塚合戦に金山城主横瀬氏家臣に塚田氏あり。坂田条参照。明治九年戸長塚田源三郎・天保七年生。明治十八年最上農名簿に塚田源三郎・耕宅地十二町一反歩・山林三反歩所有。明治二十一年皇国武術英名録に甲源一刀流塚田源三郎。県会議員・衆議院議員塚田啓太郎・安政六年生、其子県会議員塚田九五・明治二十一年生あり。十戸現存す。

三一 同郡西野村(妻沼町) 当村に此氏多く存す。旧家なり。

三二 同郡上江袋村(妻沼町) 当村に此氏多く存す。旧家なり。

三三 雑載 昭和三年興信録・所得税及び営業税(下段)に「川口町・塚田数吉・百二十円、大宮町・塚田誠一・六十九円、騎西町・塚田俊輔・九十七円、塚田徳平・十九円・三十九円、御正村(江南町)・塚田隆斎・十六円、大幡村(熊谷市)・塚田永悦・十四円、別府村(熊谷市)・塚田慶作・十円、明戸村(深谷市)・塚田啓太郎・百十二円」あり。

束田 ツカダ 浦和、戸田、春日部、吉川、狭山、東松山、深谷等に存す。

柄田 ツカダ 大宮に存す。

津堅 ツカダ 久喜に存す。

津賀田 ツカダ 坂戸に存す。 

塚平 ツカダイラ 川口、岩槻、八潮等に存す。長野県下伊那郡高森町十戸、飯田市四十四戸あり。

塚谷 ツカタニ 大宮、春日部、幸手、草加、三郷、宮代、入間等に存す。鳥取県米子市七戸あり。ツカヤ参照。

一 忍・川越藩松平伊豆守信綱(大河内)家臣 万治元年川越藩分限帳に「六十石・本国越後生国山城・塚谷又左衛門・三十九歳」あり。

塚辺 ツカナベ 鳩ヶ谷に存す。

塚西 ツカニシ 大宮に存す。

塚根 ツカネ 比企郡下押垂村字塚根あり、ツカノネと註す。岩手県二戸市十戸、鳥取県倉吉市十五戸あり。

津金 ツガネ 各市町村に存す。○群馬県富岡市三十四戸。○山梨県北巨摩郡須玉町三十九戸、高根町十一戸、中巨摩郡竜王町十戸、甲府市二十九戸。○長野県下水内郡豊田村二十三戸、南佐久郡南牧村十七戸、諏訪郡下諏訪町十一戸、原村二十七戸あり。

津賀根 ツガネ 新座、熊谷等に存す。

津金沢 ツガネサワ 川口、与野、蕨、越谷、朝霞、深谷、本庄等に存す。

津金澤 ツガネサワ 大宮、春日部、越谷、草加、新座、本庄等に存す。

塚野 ツカノ 各市町村に存す。新潟県北蒲原郡中条町二十戸、水原町十七戸、中蒲原郡村松町九十五戸、五泉市百二戸あり。

束野 ツカノ 三郷、志木等に存す。

柄野 ツカノ 所沢に存す。

柄目 ツカノメ 川越に存す。宮城県角田市十七戸あり。ツカメ参照。

塚場 ツカバ 小名塚場は、埼玉郡境村、入間郡矢寺村、滝野入村、上野村、毛呂本郷、長瀬村、比企郡角山村等にあり。

塚畑 ツカハタ 入間に存す。

塚林 ツカバヤシ 岩槻、越谷等に存す。

塚原 ツカハラ 原は村の意味。海洋民の集落を塚原と称す。足立郡芝村字塚原(川口市)は古の村名にて、太子堂寛文三年地蔵尊に塚原村と見ゆ。那賀郡秋山村字塚原(児玉町)は古の村名にて、地蔵堂安永四年供養塔に塚原講中と見ゆ。秩父郡下吉田村字塚原は、永法寺寛文五年文書に「武州下吉田村之内、番戸、福田、鳥方、塚原四ヶ村」と見ゆ。小名塚原は、埼玉郡尾崎村、稲子村、入間郡苦林村、善能寺村、玉林寺村、長岡村、比企郡下唐子村等にあり。○群馬県邑楽郡大泉町三十四戸。○栃木県塩谷郡塩谷町十九戸、高根沢町二十七戸、那須郡小川町十八戸、馬頭町十七戸、河内郡河内町二十六戸、小山市百四十戸。○茨城県稲敷郡阿見町十六戸、真壁郡関城町二十九戸、真壁町四十二戸、猿島郡猿島町三十戸、三和町百四十七戸、土浦市百二十戸、結城市五十戸。○山梨県中巨摩郡白根町四十三戸、竜王町十八戸、若草町三十五戸、甲府市五十七戸。○長野県埴科郡戸倉町十五戸、東筑摩郡麻績村六十四戸、塩尻市百戸。○新潟県西蒲原郡吉田町二十八戸。○福島県田村郡大越町二十三戸、耶麻郡塩川町三十四戸。○山形県西置賜郡小国町六十一戸あり。

一 葛飾郡関宿向下河岸(幸手市) 浅間社天明二年庚申塔に塚原源三郎あり。現存無し。

二 榛沢郡大塚村(深谷市) 明治九年戸長塚原健治・天保十年生、副戸長塚原藤衛・文化十年生。明治十八年最上農名簿に塚原健治・耕宅地十町歩所有。八基村会議員に塚原新三郎・安政六年生、塚原長平・明治三十四年生あり。十四戸現存す。

三 雑載 昭和三年興信録・所得税及び営業税(下段)に「浦和町・塚原盛・二十八円、川口町・塚原敬作・十三円・三十九円、幡羅村(深谷市)・塚原利三郎・百四十五円」あり。

束原 ツカハラ 各市町村に存す。栃木県那須郡烏山町十四戸、福島県大沼郡昭和村十八戸あり。

津ヶ原 ツカハラ ツケハラと読まれて津氣原と書き、さらにツギハラと読まれて次原と書かれた。次原(つぎはら)条参照。

一 入間郡川越町 御嶽社明治三十年碑に津ヶ原善次郎。氷川社明治三十三年玉垣碑に津ヶ原弥吉。明治三十五年織物業津ヶ原直吉・織物商津ヶ原四十吉・染物業長島屋津ヶ原善次郎・団子屋津ヶ原三吉・下駄商津ヶ原忠蔵。古谷本郷八幡社明治三十八年碑に古谷村津ヶ原直吉。昭和三年興信録に「川越市・津ヶ原猶吉・所得税十八円・営業税十一円」あり。四戸現存す。

二 同郡伊佐沼村(川越市) 芳野村郷土誌稿に「伊佐沼村は開墾六軒と称され、元来当地は河越方面より来住したらしく、各宗派の混集せるを見てもこのことがわかろう。津ヶ原一家は日蓮宗行伝寺を檀信徒としている」と見ゆ。一戸現存す。

津賀原 ツカハラ 川越、春日部、草加等に存す。

塚平 ツカヒラ 寄居に存す。

塚辺 ツカベ 宮城県亘理郡亘理町十九戸あり。ツカナベ参照。

塚邊 ツカベ 鳩ヶ谷に存す。

塚部 ツカベ 浦和、所沢、飯能等に存す。宮城県亘理郡亘理町八戸あり。

塚間 ツカマ 熊谷、本庄、上里に存す。

塚見 ツカミ 上尾に存す。

津上 ツガミ 川口、大宮、与野、蓮田、岩槻、春日部、杉戸、川越、狭山等に存す。

塚村 ツカムラ 武蔵古文書に「正応元年十月二十日、亡父私左衛門尉光方法師法名光真、領地武蔵国石神郷塚村」と、賀美郡石神村(上里町)か。越谷、志木、戸田、日高等に存す。

塚目 ツカメ 庄和、鳩ヶ谷、川越等に存す。福島県岩瀬郡天栄村六戸、宮城県角田市九戸あり。ツカノメ参照。

塚元 ツカモト 北本、志木、鳩ヶ谷、和光、川越、小川等に存す。

塚本 ツカモト 下(もと)は浦の意味で、海洋民の集落を塚本と称す。塚条参照。足立郡塚本村(浦和市)は明治二十二年大久保村大字塚本となり、一部は大宮市に編入す。正木文書に「応安二年七月二十八日、足立郡大窪郷地頭方三分一方田畠注文、彦六分、四反小・しらくハほり上・五百文、一反六十分・つかもと・四百五十文」と見ゆ。塚本村は白鍬村と入り混じっている。また、乾元二年安保文書に武蔵国安保郷つかもと田一丁と見ゆ。また、大里郡上恩田村字塚本、秩父郡白石村字塚本あり。此氏は常陸国に多く存す。○茨城県東茨城郡内原町二十八戸、行方郡潮来町三十五戸、稲敷郡河内町二十二戸、阿見町四十七戸、江戸崎町二十戸、美浦村六十五戸、新治郡霞ヶ浦町七十戸、新治村二十六戸、真壁郡真壁町二十四戸、北相馬郡藤代町三十五戸、筑波郡石下町二十二戸、つくば市二百戸、土浦市二百戸、龍ヶ崎市九十戸、水戸市七十戸。○千葉県銚子市六十四戸、八日市場市五十八戸。○新潟県中蒲原郡亀田町二十八戸。○秋田県能代市百五十七戸。○青森県北津軽郡中里町四十戸あり。

一 忍城士の塚本氏 永禄元年成田左衛門佐家中之覚(比企郡山田村贄田文書)に「二十貫文・津田住・塚本監物」あり。大里郡津田郷中曽根村住人か。

二 川越藩柳沢出羽守保明(松平吉保)家臣 元禄七年川越藩分限帳に「兵部様御抱守・百石・塚本文蔵、表御中小姓・七両四人扶持・塚本庄太夫、同役同高・塚本条助、御大小姓・七両三人扶持・塚本治太夫」あり。

三 忍藩松平下総守(奥平)家臣 明治四年忍藩士族名簿に「四石余二人扶持・塚本峰三」あり。

四 葛飾郡金杉村(松伏町) 剣術家木原周輔門人帳に嘉永六年金杉村塚本倉吉あり。一戸現存す。

五 同郡栗橋町 明治三十五年書籍商塚本元二郎あり。

六 埼玉郡駒崎村(蓮田市) 久伊豆社明治二十年水鉢に塚本金五郎。明治二十年柴山伏越改造碑に駒崎村塚本金五郎・塚本利七・塚本平八.。上州榛名神社明治二十二年御神燈に武蔵国南埼玉郡駒崎村塚本金五郎。明治三十年人名録に塚本金左衛門・嘉永五年生・反別十二町一反歩・地租八十円、塚本百之助・明治二年生あり。十六戸現存す。

七 同郡菖蒲町 菖蒲神社明治十年神道無念流奉納額に塚本春吉あり。他村の人か。現存無し。

八 同郡旗井村(大利根町) 旗井神社日露戦役碑に塚本弁吉・塚本善・塚本重次郎・塚本久助・塚本元治郎・塚本盛彦・塚本理応あり。九戸存す。

九 同郡忍町 明治三十五年飲食店塚本豊次郎あり。

一〇 足立郡金右衛門新田(草加市) 宝積寺宝暦八年宝篋印塔に塚本士郎あり。現存無し。

一一 同郡蕨町 明治三十五年酒商塚本貞次郎あり。

一二 同郡深井村(北本市) 寿明院寛政九年寄付帳に深井村塚本加左衛門・塚本七右衛門あり。一戸現存す。

一三 同郡鴻巣宿 鴻神社延宝五年棟札に大旦那当町庄屋塚本縫之助・当町年寄塚本藤右衛門。生出塚神社貞享四年天神像に鴻巣町塚本孫左衛門・塚本庄右衛門。慶応四年鴻巣宿年寄塚本孫三郎・年寄塚本惣右衛門。明治四年伝馬所元締補助塚本孫三郎・二十七歳。明治十五年旅館塚本弥五郎。明治三十五年旅館塚本春蔵、本一町塚本竹次郎あり。六戸現存す。

一四 同郡箕田村(鴻巣市) 真相寺文政十三年地蔵尊に塚本八五郎。加納村天神社嘉永二年御神燈に箕田村塚本仙五郎あり。一戸現存す。

一五 同郡常光村(鴻巣市) 深井村寿明院寛政九年寄付帳に下常光村塚本市右衛門あり。現存無し。

一六 比企郡岩殿村(東松山市) 当村に此氏の旧家あり。七戸現存す。

一七 大里郡熊谷町 明治十三年張物業塚本勝之助あり。

一八 同郡中曽根村(大里町) 一項参照。御所村息障院宝永六年文書に「岩殿山造営願文、大檀那武州大里郡中曽祢郷塚本氏清男、施主塚本武兵衛尉」。野原村文殊寺寛延元年水鉢に上吉見領中曽根村塚本仙右衛門国常。大日堂明和五年馬頭尊に中曽根村塚本瀬兵衛・塚本鉄五郎、明和六年碑に当所塚本武兵衛、弘化二年六地蔵に塚本玄雄・塚本彦七娘。野原村文殊寺明治二年碑に中曽根村塚本政治。明治十二年戸長塚本房次郎。上岡妙安寺観音堂明治三十一年碑に上中ソネ塚本彦作あり。十三戸現存す。

一九 同郡小泉村(大里町) 沼黒村正福寺元禄元年棟札に大檀那小泉村塚本甚右衛門。常永寺寛延二年愛宕碑に塚本民七.。明治九年副戸長塚本保造・文政四年生。明治十二年戸長塚本福斉。明治十八年最上農名簿に塚本福斉・耕宅地十四町七反歩・山林二町歩所有あり。一戸現存す。

二〇 幡羅郡中奈良村(熊谷市) 長慶寺天保九年弘法大師碑に塚本佐十郎あり。四戸現存す。

二一 榛沢郡深谷宿 日野久商店塚本氏は近江国から来住す。上野台村八幡社明治五年筆子碑に深谷宿塚本米吉。中瀬村字向島不動堂明治四十四年従軍馬匹碑に深谷町塚本久蔵。深谷町会議員に塚本久蔵・嘉永二年生、米穀商塚本久蔵・明治十一年生あり。

二二 同郡沓掛村(岡部町) 当村に此氏の旧家あり。七戸現存す。

二三 児玉郡本庄宿 明治四年諸井文書に台町塚本惣吉。明治三十五年菓子商塚本栄五郎・豆腐商塚本辰五郎あり。

二四 同郡下児玉村(美里町) 当村に此氏の旧家あり。十八戸現存す。

二五 賀美郡七本木村(上里町) 当村天明五年碑に久保新田村塚本伊右衛門あり。十八戸現存す。

二六 同郡八日市村(神川町) 当村に此氏の旧家あり。五戸現存す。

二七 秩父郡大宮郷 明治三年足袋商塚本金兵衛・二十歳あり。

二八 同郡小鹿野町 明治三十五年穀荒物商日野屋塚本寅吉あり。

二九 雑載 昭和三年興信録・所得税及び営業税(下段)に「川口町・塚本常吉・十五円・四十二円、蕨町・塚本貞次・五百円・百八十二円、高坂村(東松山市)・塚本国平・二十三円、平野村(蓮田市)・塚本貞作・三十四円、塚本百之助・二十九円、塚本栄次郎・十円、栗橋町・塚本英吉・十八円・五十六円、忍町・塚本豊次郎・十五円・四十二円、元和村(大利根町)・塚本亀吉・十五円、熊谷町・塚本政次・十九円・四十二円、塚本学治・五十三円、深谷町・塚本久蔵・五千六百八十円・百十四円、塚本栄平・四十四円・五十六円、塚本亀次郎・十八円・三十九円、市田村(大里町)・塚本近蔵・百四十三円、塚本福寿・八十五円、本庄町・塚本与吉・十三円・五十円」あり。

束本 ツカモト 大宮に存す。

柄本 ツカモト 大宮、朝霞、毛呂山、熊谷等に存す。

墳本 ツカモト 狭山に存す。茨城県稲敷郡江戸崎町八戸あり。

塚谷 ツカヤ 比企郡下小見野村字塚谷戸あり、ツカガヤトと註す。川口、大宮、上尾等に存す。茨城県新治郡八郷町十二戸あり。ツカタニ参照。

塚屋 ツカヤ 榛沢郡小前田村字塚屋と桜沢村字塚屋は同所なり。

津ヶ谷 ツガヤ 岩槻、深谷等に存す。

塚山 ツカヤマ 蓮田、幸手等に存す。

津嘉山 ツカヤマ 大宮、鴻巣、狭山、小川等に存す。

津軽 ツガル 大宮に存す。

津川 ツガワ 和名抄に石見国邑智郡都賀郷を都加波(つかわ)と註す。塚条参照。各市町村に存す。青森県南津軽郡浪岡町四十二戸、黒石市四十八戸、青森市七十七戸あり。

一 忍城士の津川氏 成田分限帳に「六十貫文・津川庄三郎、二十貫文・津川半八郎」あり。別本に津崎と見ゆ。

二 岩槻藩板倉氏家臣 天和二年岩槻藩分限帳に「十三石・津川十之丞」あり。

三 所沢町 明治二十一年幼稚園名簿に入寄留・金山・津川俊一郎・明治十六年生あり。

頭川 ツガワ 越生に存す。

塚脇 ツカワキ 浦和、大宮、白岡、岩槻、和光、熊谷等に存す。

柄脇 ツカワキ 大宮、川越等に存す。

調 ツキ 古代の租税の徴収に当たる職名にて、シラベ、チョウ、ミツギとも云う。佳字に月、築、槻、附、都幾等を用いる。

一 百済族の調氏 応神朝に渡来した努理使主の後裔と称す。姓氏録・河内諸蕃に「水海連、百済国人・努理使主より出づる也」。「調曰佐、水海連と同祖」。左京諸蕃に「調連、水海連と同祖、百済国努理使主の後也、誉田天皇(応神)の御世、帰化す」と見ゆ。

二 漢族の調氏 漢(あや)は阿耶国(韓半島南部)の渡来人にて坂上氏の一族なり。桧前調使、高向調使、調忌寸等あり。サカノウエ参照。

三 武蔵国の調氏 風土記稿足立郡岸村(浦和市)条に「調神社は延喜式神名帳に足立郡調神社と載る所なりと云ふ。足立郡大調郷、或は大都幾調神社云々」と見ゆ。調使(つきつかい)は、朝集・調集(ちょうしゅう)と称す。古代氏族系譜集成に「大原宗継(武蔵大允、足立郡調物使)―実継(足立郡主政、朝集雑掌)―太郎信助(坂東精兵)―信時(住武蔵国足立郡)」と見ゆ。調吉士の居住地を岸と唱える。大原、大調、吉士(きし)条参照。

月 ツキ 大宮に存す。

築 ツキ 越谷に存す。チク参照。

都幾 ツキ 現在の槻川(つきがわ)は、秩父郡東秩父村白石峠から源を発し、皆谷・坂本・奥沢・御堂・安戸を経て、比企郡小川町腰越・青山・下里・嵐山町遠山・鎌形を経て菅谷と大蔵で都幾川に合流す。都幾川(ときがわ)は、都幾川村大野峠から源を発し、平・田中・番匠・玉川村玉川・嵐山町鎌形を経て菅谷と大蔵で槻川に合流し、大川となり東松山市上唐子・下唐子・石橋を経て、北岸の下青鳥・下押垂と南岸の本宿・高坂を経て川島町長楽で越辺川に合流す。都幾川に架かる上唐子・大蔵両村の橋を月田橋と云う。比企郡条に「都幾川は郡の中程を流る。源平盛衰記に木曽・越後へ退きしに、頼朝勝に乗に及ばずとて、武蔵国月田川の端アヲトリ野に陣取とあり、今下青鳥村は郡の中央にて、則この川・槻川と合せしより遥に下流の崖にありざれば、此川をさすこと明なり。田の字もし衍字ならん」と。大蔵村で槻川と合流して、その下流の下青鳥村と本宿村附近の都幾川を月(田)川と称している。また、正安三年宴曲抄に「大蔵に槻河の流もはやく比企野が原」と見ゆ。合流している大蔵村の都幾川を槻川と称している。石橋村字附川(つきかわ)あり、都幾川のことなり。都幾川は古代にはツキカワと唱えていた。平村の慈光寺は都幾山(つきざん)と称し、平村と雲河原村は都幾庄(とき)を唱えているのは、慈光寺の山頂にある標高五百四十メートルの都幾山(ときざん)より起る。和名抄に比企郡都家郷を載せ、都介(つけ)と註し、高山寺本は豆計と註す。大石氏系図に「大石信重は貞和□年・武州比企郡津下郷三百貫文を賜ふ」とあり。都幾(つき)は都気(つき)と書かれ、ツケと読まれて都家(つけ)とも称した。本宿村(承応年間に高坂村より分村す)の都幾川流域は和名抄の都家郷(つけ)にて、都幾郷(つき)とも唱えていたものと考えられる。当郷は百済族の調氏一族の居住地にて、唐子村及び青鳥村(おおとり)は百済渡来人の居住地より唱える。

月足 ツキアシ 上尾、三郷、入間、吉見等に存す。

月脚 ツキアシ 浦和、上尾等に存す。

月井 ツキイ 各市町村に存す。栃木県黒磯市百四十戸あり。

月居 ツキイ 三芳に存す。

築井山 ツキイヤマ 宮代に存す。

月生田 ツキウダ 大宮、本庄等に存す。

月内 ツキウチ 入間に存す。

月江 ツキエ 川口、戸田、吉見に存す。

月尾 ツキオ 所沢に存す。

月岡 ツキオカ 各市町村に存す。千葉県香取郡干潟町八戸、長野県下高井郡山ノ内町十五戸、上高井郡小布施町十三戸、下水内郡栄村二十七戸、飯山市五十戸、新潟県糸魚川市二十二戸あり。

一 忍城士の月岡氏 成田分限帳に「百五十貫文・月岡主殿介頼景」あり。

二 葛飾郡松伏村 松伏神社寛延二年庚申塔に月岡角兵衛あり。五戸存す。

槻岡 ツキオカ 川口、浦和等に存す。群馬県邑楽郡大泉町二十一戸あり。

継岡 ツギオカ 新座に存す。

月生田 ツキオダ 与野に存す。

月居 ツキオレ 越谷、三芳、三郷等に存す。

月形 ツキガタ 所沢に存す。

月川 ツキカワ 浦和、大宮、越谷、草加、新座、川越、所沢等に存す。

槻川 ツキカワ 都幾(つき)条参照。

次川 ツギカワ 忍城士にて、成田分限帳に「十貫文・次川重次郎」あり。

月木 ツキギ 草加、東松山等に存す。

次木 ツギキ 大宮に存す。

次子 ツギコ 埼玉郡中手子林村字次子あり、スノコと註す。

月越 ツキコシ 足立郡与野町字月越、北原村字築越、砂村字築越あり。

月坂 ツキサカ 桶川、川越等に存す。島根県松江市十五戸あり。

月崎 ツキザキ 浦和、春日部、熊谷等に存す。

一 深谷・川越藩酒井讃岐守忠勝家臣 寛永十四年小浜藩分限帳に「百六十石・月崎介十郎」あり。

月沢 ツキサワ 栗橋、坂戸、富士見、鳩山等に存す。秋田県横手市十九戸あり・

槻澤 ツキサワ 大宮に存す。

槻木澤 ツキサワ 坂戸に存す。

築紫 ツキシ 大宮に存す。

築地 ツキジ 草加に存す。ツキヂ参照。

月下 ツキシタ 和光に存す。

月島 ツキシマ 川口に存す。

築島 ツキシマ 大宮に存す。

築嶋 ツキシマ 鳩ヶ谷に存す。

月城 ツキシロ 上尾に存す。岩手県水沢市七戸あり。

月田 ツキダ 大里郡甲山村字月田あり。各市町村に存す。群馬県佐波郡玉村町十八戸、富岡市十七戸、福島県南会津郡南郷村十三戸あり。

突田 ツキダ 狭山に存す。

一 足立郡上加村(大宮市) 日進駅北元禄十六年庚申塔に突田長兵衛あり。現存無し。

槻田 ツキダ 大宮、上尾、三郷に存す。

筑田 ツキダ 忍城士にて、成田分限帳に「十五貫文・筑田源太右衛門」。行田史譚に「天正十八年忍城攻めの時、筑田越前は佐間口を守る」と。

築田 チクダ 昭和三年興信録に「秩父町・築田安次郎・所得税二十四円」あり。現存無し。

次田 ツギタ 大宮、与野、草加、所沢、日高等に存す。福島県郡山市十一戸あり。スダ参照。

一 忍城士の次田氏 成田分限帳に「十貫五百文・次田武兵衛」あり。

継田 ツギタ 岩槻、志木、蕨に存す。

月館 ツキダテ 大宮、北本、春日部、草加、所沢等に存す。青森県三戸郡南部町十七戸、三沢市三十四戸、八戸市九十戸あり。

月舘 ツキダテ 蓮田、八潮等に存す。

築館 ツキダテ 浦和、越谷、草加、吉川等に存す。青森県中津軽郡岩木町九戸、南津軽郡大鰐町三十九戸、碇ヶ関村七戸あり。チクダテ参照。

築舘 ツキダテ 春日部、越谷等に存す。

槻館 ツキダテ 上尾、岩槻、越生、羽生等に存す。岩手県二戸市四十五戸、青森県八戸市十六戸あり。

槻舘 ツキダテ 嵐山に存す。

築地 ツキヂ 高麗郡築地新田(入間市)あり。小名築地(ツキヂ)は、足立郡砂村、入間郡北秋津村、久米村、入間川村、比企郡月輪村、幡羅郡西城村等にあり。また、小名築地(ツイヂ)は、高麗郡田木村、入間郡長瀬村、大久保村、大里郡箕輪村等にあり。東京都青梅市四十戸あり。

一 男衾郡本田村(川本町) 風土記稿本田村条に「薬師堂は親王家の枝属下向ありし時、真下、亀井、近藤、築地などいへる者共従いて当所に移れり」と見ゆ。現存無し。

二 入間郡堀兼村(狭山市) 当村に此氏の旧家あり。四戸現存す。

三 同郡入間川町(狭山市) 明治三十五年川魚料理狭山之里築地弥十郎あり。現存無し。

四 高麗郡飯能町 明治十四年荒物商築地清左衛門・築地菊次郎。中山村智観寺明治十八年馬鳴菩薩信徒録に飯能河原町築地菊五郎あり。三戸現存す。

五 同郡岩淵村(飯能市) 中山村智観寺宝永三年大般若経奉納に岩淵村築地半兵衛・築地永寿・築地五兵衛・築地勝右門。勝楽寺村開闢記に「糟屋権兵衛秀之(安永九年没八十一歳。岩淵村築地杢右衛門女・従弟を娶る)―伊左衛門秀豊(築地勘平二女・従弟を娶る)」。勘平は糟屋伊左衛門秀茂四男なり。岩井堂橋寛政三年地蔵尊に築地善太郎。明治九年戸長築地佐源治・文政四年生あり。五戸現存す。

六 同郡野田村(入間市) 当村に此氏多く存す。山王塚宝永三年庚申塔に加治領野田村築地忠左衛門。吹上観音堂元文二年庚申塔に野田村築地七左衛門・築地松之助。笹井村宗源寺文書に「弘化四年、観音堂へ大般若経寄進、野田村築地五郎兵衛」。白鬚社慶応二年富士講碑に野田村築地五郎兵衛。円照寺明治二十七年鰐口銘に野田築地高五郎あり。

築地原 ツキヂハラ 大宮、和光に存す。

突出 ツキデ 久喜、狭山等に存す。鳥取県八頭郡智頭町八戸あり。

月永 ツキナガ 川口、浦和、大宮、朝霞、狭山、所沢、富士見等に存す。青森県西津軽郡鯵ヶ沢町八戸あり。

次長 ツギナガ 須長、須永条参照。

月成 ツキナリ 新座、鶴ヶ島等に存す。

築根 ツキネ 上尾に存す。チクネ、ツクネ参照。

月野 ツキノ 川口、浦和、大宮、与野、越谷、草加、上福岡、杉戸に存す。

槻木 ツキノキ 大宮に存す。岩手県二戸市二十五戸あり。

月野木 ツキノキ 日高に存す。

槻木沢 ツキノキサワ 浦和、杉戸に存す。岩手県九戸郡軽米町十二戸あり。

月野原 ツキノハラ 入間郡中富村字月野原あり。

月輪 ツキノワ 比企郡月輪村(滑川町)あり、文化五年馬頭尊に月野輪村と見ゆ。小名築地あり。当村は唐子村の隣村にて、百済族調氏の居住地より、築地或は月ノ輪と唱えたか。輪は周囲の意味。調(つき)、都幾(つき)条参照。勢至堂の勢至菩薩は月輪某の守護仏と伝へ、鎮守氷川社の祭神は月輪某と伝へる。古代調氏の氏神にて、公卿九条家は附会なり。風土記稿に「往古月輪某と云ふ公卿、罪ありて当国に左遷せられ、此の地に住せし故、村名起れりと云へり。然れども、当国は古へより配流の国にあらず。又九条家の祖兼実及び基家、家輔等、月輪と号せしかど、罪ありて配流せられし事を聞かず。よりて按ずるに、古へ月輪家庄園の地なりしかば、後年村名となりしを、土人かく伝へ誤りしなるべし」と見ゆ。九条家領は大里条参照。

月橋 ツキハシ 浦和、上尾、桶川、北本、岩槻、春日部、久喜、杉戸、鶴ヶ島等に存す。新潟県柏崎市二十六戸あり。

月花 ツキハナ 吹上に存す。

槻林 ツキバヤシ 浦和に存す。

月原 ツキハラ 川口、戸田、白岡、越谷、草加、庄和、入間、川越に存す。

次原 ツギハラ 元は津ヶ原(つかはら)氏にて、ツケハラと読まれ、津氣原(つけはら、つぎはら)と書き、次原と記された。浦和、大宮、新座等に存す。

一 川越宿 唐人小路は江戸町に改称され、今の川越市大手町なり。多濃武の雁(宝暦三年)に「町方草分之者として、加茂下与一右衛門、次原新兵衛、鈴木弥兵衛の三人の名が見え、かつては同様の者が二十八軒あったが大方断絶して、今この三人のみになった」。岸文書に「天明三年江戸町新兵衛苗字御免願書。新兵衛家筋儀は、御当所に而は至而古来草分同様之町人に御座候而、新兵衛家筋より外には古来之者は無御座候、其以前大道寺駿河守様御城主之砌、新兵衛先祖は苗字も相名乗次原と相唱候由」。風土記稿江戸町条に「旧家者新兵衛、次原氏なり。家にもとの城主大道寺政繁及び酒井重忠よりの文書を蔵す」。大道寺政繁判物写(武州文書)に「未十一月二十日(元亀二年)、宿中道造并掃除奉行、一、唐人小路、津氣原新兵衛・金谷彦右衛門尉・内村将監・清田庄左衛門尉、右小路ノ悪所候者、其町之衆申合、時々刻々可為造之候、花押」。「繁、元亀四年癸酉十一月二十八日、次原新三郎殿、政繁花押」、政繁は繁の一字を授ける。「戌十月十九日(天正二年)、次原新兵衛殿」と、政繁印判状なり。日蓮宗行伝寺過去帳に「妙心・次原七郎右衛門息女・戌年十二月」。津ヶ原氏は同寺檀那なり。元禄十一年川越市街屋敷社事記に酒役人次原太左衛門。宝暦三年江戸町名主次原新兵衛。文久元年江戸町名主次原新兵衛あり。現存無し。津ヶ原(つかはら)氏に復姓したか。

二 高麗郡中山村(飯能市) 智観寺宝永三年大般若経に中山郷次原治兵衛あり。現存無し。

月間 ツキマ 庄和、戸田等に存す。

月又 ツキマタ 鳩山に存す。

月俣 ツキマタ 伊奈、八潮、行田等に存す。

月見 ツキミ 入間郡神谷新田字月見、那賀郡広木村字月見原あり。加須、杉戸、川越、所沢等に存す。

築道 ツキミチ 京都醍醐寺文書に慶長十七年関東八州真言宗連判留書案・武州崎西築道金剛院と見ゆ、騎西町根古屋の金剛院付近を称す。武麦倉村字築道(北川辺町)は古の村名にて、宝暦十四年供養塔に麦倉村築道と見ゆ。ツキミチと註す。

月村 ツキムラ 川口、大宮、与野、朝霞、本庄、嵐山、鳩ヶ谷等に存す。

月邨 ツキムラ 久喜に存す。

月元 ツキモト 明治三十五年入間川町(狭山市)棒細工商月元小三郎あり。現存無し。

月本 ツキモト 与野、志木、坂戸、狭山等に存す。

一 松山町 明治三十五年下宿業月本イトあり。現存無し。

槻本 ツキモト 浦和、深谷、本庄等に存す。

一 槻本首 摂津国西成郡槻本郷(大阪市淀川区)は和名抄に都木乃毛止と註す。日本書紀・神功皇后四十七年条に「千熊長彦は、分明しく其の姓を知らざる人なり。一に云わく、武蔵国の人。今は是額田部槻本首等が始祖なりという」と。千熊条参照。

次本 ツギモト 草加に存す。

月森 ツキモリ 春日部、鷲宮、狭山、川島、羽生、神川等に存す。島根県邑智郡石見町七戸、大田市百戸あり。

月守 ツキモリ 川口に存す。

月安 ツキヤス 久喜に存す。

月山 ツキヤマ 川口、浦和、蓮田、久喜、毛呂山等に存す。

築山 ツキヤマ 比企郡赤沼村字築山あり。各市町村に存す。昭和三年興信録に「大宮町・築山清・所得税十五円」あり。

槻山 ツキヤマ 大井に存す。岩手県一関市二十戸あり。

月吉 ツキヨシ 川口、大宮、鴻巣、川越、行田、吹上等に存す。

一 入間郡今成村 小名月吉(川越市月吉町)あり。風土記稿今成村条に「月吉屋敷蹟あり、月吉氏は今成村を開く、文明頃の人なり」と見ゆ。現存無し。神田、日吉条参照。

二 川越町 連雀町熊野社文化二年水鉢に御門前・月吉富五郎あり。現存無し。市内に五戸存す。

三 鴻巣町 大間村久保寺天明六年筆子碑に鴻巣宿月吉文太郎。明治三十五年菓子製造大黒屋月吉敬助あり。一戸現存す。

四 足立郡大芦村(吹上町) 氷川社明治二十年碑に月吉森之助あり。一戸現存す。

月芳 ツキヨシ 和光、所沢、鳩山等に存す。

月輪 ツキワ 蓮田に存す。

築穴 ツクアナ 鶴ヶ島に存す。

筑 ツクイ 

一 埼玉郡羽生町 明治三十五年傘商筑春吉あり。一戸現存す。

二 同郡戸崎村(騎西町) 諏訪社明治初年碑に筑丑松。八坂社明治十六年天満宮碑に筑翁助あり。二戸現存す。

三 児玉郡新里村(神川町) 明治五年小前議定書に筑甚五郎あり。二戸現存す。

佃井 ツクイ 大宮、杉戸等に存す。群馬県桐生市七戸あり。

筑井 ツクイ 群馬県佐波郡玉村町十戸、前橋市十七戸あり。チクイ参照。

一 忍城士の筑井氏 成田分限帳に「十貫文・筑井宗左衛門」あり。

二 埼玉郡上中条村(熊谷市) 前項は当村住人か。江戸末期に名主筑井次郎右衛門。明治五年組頭筑井三郎兵衛。明治九年副戸長筑井易之助・弘化元年生あり。三戸現存す。

三 幡羅郡弁財村(妻沼町) 当村に此氏の旧家あり。三戸現存す。

四 同郡善ヶ島村(妻沼町) 当村に此氏の旧家あり。二戸現存す。

五 横見郡前河内村(吉見町) 当村に此氏の旧家あり。四戸現存す。

六 本庄町 昭和三年興信録に「筑井広太郎・所得税十五円・営業税四十二円」あり。二戸現存す。

築井 ツクイ チクイ参照。

一 比企郡高見村(小川町) 八和田神社明治三十三年碑にタカミ築井栄助あり。現存無し。

二 男衾郡靭負村(小川町) 当村に此氏の旧家あり。二戸現存す。

撞井 ツクイ 志木、熊谷等に存す。

次井 ツグイ 越谷に存す。

津久井 ツクイ 入間郡中富村字津久井、大仙波村字津久井、秩父郡横瀬村字津久井沢川あり。○群馬県勢多郡赤城村七十戸、新田郡新田町五十四戸、佐波郡境町三十一戸、沼田市四十戸、高崎市五十戸、桐生市百十戸、太田市百十戸、伊勢崎市四十戸。○栃木県黒磯市五十六戸、大田原市四十三戸、矢板市四十戸、佐野市四十三戸、足利市百六十戸。○山梨県中巨摩郡櫛形町二十九戸あり。

一 鉢形城士の津久井氏 新寄居村正龍寺文書に「天正六年七月十日、氏邦奉行三山は、津久井五郎太郎の六具(古寄居村字六供)における戦功を賞す」と。鉢形分限帳に「本国三州中瀬・寄居住・津久井又次郎、本国武州久良岐・津久井惣十」あり。三河国に中瀬村は無し。尾張国愛知郡中瀬村(名古屋市熱田区)あり。分限帳の本国は信用できず。

二 榛沢郡寄居村 津久井和泉・津久井又次郎は寄居村に屋敷を構へていた寄居十六騎の内なり。鉢形落城後定住鏡に「天正中鉢形落城後、慶安四年定住、榛沢郡寄居住・津久井又次郎」と見ゆ。用土村明治十三年仙元碑に寄居村津久井定八.。明治三十五年材木商酒井商店津久井英作あり。三戸現存す。

三 岩槻藩板倉氏家臣 天和二年岩槻藩分限帳に「十二石三人扶持・津久井弥市郎」あり。

四 岩槻藩松平伊賀守(藤井)家臣 元禄七年岩槻藩分限帳に「八石四人扶持・津久井定右衛門」あり。

五 桶川宿 稲荷社安政六年碑に津久井安左衛門あり。現存無し。

六 入間郡寺山村(川越市) 上寺山村八咫神社明治四十年碑に上中下寺山・津久井平八あり。現存無し。

七 男衾郡小原村(江南町) 昭和三年興信録に「小原村・津久井雄一・所得税二十八円」あり。現存無し。

八 児玉郡本庄町 明治三十五年理髪店津久井門平あり。

九 同郡久々宇村(本庄市) 稲荷社明治十七年碑に津久井鶴吉・津久井伊之吉あり。十戸現存す。

津久浦 ツクウラ 茨城県鹿島郡波崎町二十戸あり。

机 ツクエ 大宮、所沢等に存す。栃木県足利市十五戸、茨城県鹿島郡鉾田町十五戸、東京都青梅市十五戸あり。

一 入間郡北野村(所沢市) 正徳四年北田文書に北野天神社々人机佐内あり。現存無し。

継枝 ツグエダ 岩手県稗貫郡石鳥谷町二十三戸あり。

机谷 ツクエダニ 朝霞に存す。

築木 ツクギ 与野、志木等に存す。

附木 ツグキ 栗橋に存す。

継国 ツグクニ 越谷に存す。

土筆 ツクシ 八潮に存す。群馬県甘楽郡甘楽町十戸あり。

筑紫 ツクシ 埼玉郡平野村字筑紫あり。チクシ、ツキシ参照。

一 児玉町 本庄宿石川剣道場門下生に寛政五年児玉郡八幡山・筑紫助五郎。明治九年副戸長筑紫善太郎・安政元年生。八幡社明治二十三年御嶽講碑に筑紫善太郎、明治三十五年碑に筑紫孫三郎。貴族院多額納税者議員互選人名簿に大正十四年醤油製造業筑紫孫三郎・明治十年生・国税千三百三十七円・県下百二十四位。昭和三年興信録に「筑紫孫三郎・所得税千二百十三円・営業税二百四十七円、筑紫権四郎・所得税十八円」あり。二戸現存す。

築紫 ツクシ 浦和、越谷、川越に存す。

佃 ツクダ 入間郡宗岡村字佃あり。各市町村に存す。茨城県鹿島郡神栖町二十戸、鳥取県気高郡気高町八戸、鳥取市十一戸あり。

一 川越藩秋元氏家臣 明治四年館林藩士族帳に「十八人扶持・佃七郎、十五俵二人扶持・佃雅十郎」あり。

二 浦和町 昭和三年興信録に「佃喜代次・所得税三十五円・営業税五十六円」あり。市内に十一戸存す。

佃田 ツクダ 浦和に存す。

附田 ツクダ 川口、浦和、上尾、越谷、三郷、八潮、庄和、松伏、川越等に存す。青森県上北郡上北町十戸、七戸町十三戸、六戸町五十六戸、天間林村百二十六戸、東北町十六戸、十和田市七十戸あり。

筑田 ツクダ 埼玉郡中曽根村字筑田堀あり。川越に存す。青森県下北郡大間町五戸あり。チクダ参照。

築田 ツクダ 浦和、与野、川越、所沢等に存す。新潟県中頸城郡妙高高原町十一戸あり。チクダ参照。

継田 ツグタ 秋田県仙北郡仙南村二十五戸あり。ママダ参照。

津久田 ツクダ 岩槻、入間、所沢等に存す。

津口 ツクチ 浦和、大宮、川越、鶴ヶ島等に存す。

作手 ツクデ 三河国南設楽郡作手村は忍藩松平下総守の先祖奥平氏の出身地なり。嘉永六年忍藩分限帳に「御勘定頭・百石・作手進、御小姓・十二両三人扶持・作手守」。明治四年忍藩士族名簿に「百四十石・作手量」あり。

津久戸 ツクド 狭山に存す。

津國 ツクニ 春日部に存す。

筑根 ツクネ 所沢に存す。

築根 ツクネ チクネ参照。

一 足立郡川田谷村(桶川市) 弥勒院享和二年普門品に狐塚村築根伝次郎、安政五年常夜燈に筑根政右衛門。泉福寺天保五年供養塔に狐塚村筑根伝次郎。明治九年副戸長築根柳吉・文政十年生。上日出谷村氷川社明治二十年水鉢に川田谷村築根伝次郎。上州榛名神社明治二十二年御神燈に武蔵国北足立郡川田谷村狐塚築根伝次郎。諏訪社明治三十九年幟碑に築根伝次郎・築根惣右衛門あり。十二戸現存す。

二 入間郡厚川村(坂戸市) 明治十三年北三芳野学校副議長築根弥助。明治十七年紺屋築根佐四郎あり。三戸現存す。

三 高麗郡中新田村(鶴ヶ島市) 明治十三年誓約証に築根米吉・津久根五十吉あり。築根氏三戸現存す。

四 雑載 昭和三年興信録に「大谷村(上尾市)・築根喜平・所得税三十四円」あり。現存無し。

津久根 ツクネ 入間郡津久根村(越生町)は付根村とも書く。同郡大鐘村字津久根(所沢市)あり。

築野 ツクノ 白岡、新座、入間に存す。山梨県中巨摩郡櫛形町二十戸あり。

筑波 ツクバ 浦和、大宮、上尾、春日部、川越、狭山、所沢等に存す。茨城県筑波郡石下町十二戸あり。

築羽 ツクバ 富士見に存す。

筑肱 ツクヒジ 埼玉郡下中条村(行田市)に此氏の旧家あり。三戸現存す。

築肱 ツクヒジ 草加に存す。

津隈 ツクマ 川口、草加等に存す。

津組 ツクミ 入間に存す。

津雲 ツクモ 越谷に存す。

築茂 ツクモ 飯能市十戸存す。東京都青梅市十七戸あり。ツヅラ参照。

一 高麗郡上直竹村下分(飯能市) 宝光寺年不詳絵馬に築茂儀三あり。現存無し。

九十九 ツクモ 比企郡岩殿山(東松山市)より発する九十九川あり。大宮、新座等に存す。ツヅラ参照。

九十九田 ツクモダ 入間郡上南畑村字津久藻田あり。浦和に存す。

津倉 ツクラ 所沢、深谷等に存す。

造 ツクリ 大宮に存す。

造山 ツクリヤマ 岩槻に存す。

告 ツゲ 川口、春日部、富士見に存す。茨城県真壁郡真壁町二十六戸あり。

都家 ツケ 和名抄に比企郡都家郷を載せ、都介と註し、高山寺本には豆計と註す。大石氏系図に「大石遠江守信重(貞和□年、武州比企郡津下郷三百貫文を賜ふ)」と見ゆ。高坂郷本宿村(東松山市)の都幾川流域なり。ツキ条に詳細あり。

津下 ツゲ 白岡、三郷、川越に存す。

柘植 ツゲ 各市町村に存す。茨城県新治郡八郷町三十三戸、島根県邑智郡石見町十五戸、出雲市七十一戸あり。

一 川越藩柳沢出羽守保明(松平吉保)家臣 元禄七年川越藩分限帳に「御番頭・柘植七左衛門、兵部様御抱守・百石・柘植宗右衛門、御使番・五十石四人扶持・柘植理右衛門、御近習・七両四人扶持・柘植平蔵、表御中小姓・同高・柘植平左衛門」。

二 川越藩松平大和守家臣 天保十二年川越藩分限帳に「御馬廻・百石・姫路取立・柘植鉄太郎」あり。

三 忍藩阿部氏家臣 享保八年忍藩軍役帳に「十五人扶持・柘植助之丞、五両二人扶持・柘植源太左衛門」。文化四年忍藩分限帳に「宗旨奉行・二十人扶持・柘植源太右衛門」あり。

四 忍藩松平下総守(奥平)家臣 嘉永六年忍藩分限帳に「御使番・百三十石・柘植左中、御徒頭・百石・柘植八十右衛門、御目付・百石・柘植金八郎、御大小姓・六十六石余・柘植広、御馬廻・高不明・柘植宕馬」。明治四年忍藩士族名簿に「百石・柘植糺、八十六石余・柘植磯之丞、同高・柘植益雄、十人扶持・柘植宗馬」あり。

五 秩父郡大淵村(皆野町) 国神神社明治三十四年碑に大淵・柘植明賢あり。現存無し。

柘植井 ツゲイ 大宮、草加、幸手等に存す。

柘上 ツゲガミ 川口、上尾等に存す。

告川 ツゲカワ 東松山に存す。

附木 ツケギ 浦和に存す。

附柴 ツケシバ 川越、坂戸等に存す。

附島 ツケシマ 足立郡附島村(浦和市)あり。

柘野 ツゲノ 川口に存す。足利市十戸。

一 川越藩秋元氏家臣 明治四年館林藩士族帳に「十八俵二人扶持・柘野九一郎」あり。

柘植野 ツゲノ 所沢に存す。

告宮 ツゲミヤ 越谷に存す。

柘本 ツゲモト 行田に存す。

柘山 ツゲヤマ 北本、戸田等に存す。

柘植山 ツゲヤマ 坂戸に存す。

詫 ツゲル 八潮、吉川等に存す。正訓不詳。

貫 ツゲル 越谷に存す。正訓不詳。

津郷 ツゴウ 浦和、狭山等に存す。

津越 ツコシ 和光に存す。

津佐 ツサ 宮代に存す。

津坂 ツザカ 蓮田、春日部、越谷、新座、富士見等に存す。

一 騎西・川越藩松平周防守(松井)家臣 明治元年川越藩分限帳に「御中小姓・十二人扶持・七左衛門名跡・津坂七左衛門・五十六歳」あり。

二 忍藩松平下総守(奥平)家臣 明治四年忍藩士族名簿に「又者(家老等の臣)・六石二人扶持・津坂千三」あり。

津崎 ツザキ 各市町村に存す。

一 忍城士の津崎氏 成田分限帳に「六十貫文・津崎庄三郎」あり。

津嵜 ツザキ 熊谷に存す。

都崎 ツザキ 川越、所沢等に存す。

津沢 ツザワ 越谷、本庄等に存す。

辻 ツジ 津地、津知の佳字にて、摂津国兎原郡津知村(つじ、芦屋市津知町)は辻とも書く。土(ツヂ)の転訛にて土師(はにし)の居住地を辻、土と称す。此氏は古墳のある関西地方に多く存す。滋賀県犬上郡甲良町三十六戸、多賀町十四戸、豊郷町十八戸、愛知郡愛東町十七戸、愛知川町三十四戸、秦荘町二十六戸、蒲生郡安土町二十戸、日野町三十戸、神崎郡能登川町八十戸、栗太郡栗東町三十六戸、甲賀郡甲賀町七十八戸、甲南町二十戸、信楽町四十戸、水口町三十七戸、野洲郡中主町百戸、野洲町三十四戸、また市部に多し。近県も多く存す。埼玉郡岩槻領辻村(岩槻市)、騎西領辻村(加須市)、足立郡平柳領辻村(鳩ヶ谷市)、浦和領辻村(浦和市)、南部領辻村(浦和市)、差扇領辻村(大宮市)、新座郡野方領辻村(新座市)あり。埼玉郡上手子林村字辻(羽生市)は安永二年庚申塔に辻村と見ゆ。秩父郡野上下郷字辻(長瀞町)は遍照寺万治三年に秩父郡辻村と見ゆ。また、小名辻は、埼玉郡三箇村、大沢町、見田方村、常木村、小見村、足立郡芝村、小室領別所村、高麗郡唐竹村、比企郡今宿村、幡羅郡東方村、拾六間村、秩父郡山田村等にあり。○千葉県銚子市五十四戸。○山梨県中巨摩郡敷島町十六戸、南巨摩郡早川町十九戸、東山梨郡勝沼町六十戸、山梨市五十三戸、甲府市八十戸。○新潟県佐渡郡相川町十四戸。○秋田県仙北郡角館町四十二戸、北秋田郡阿仁町三十五戸。○島根県邇摩郡仁摩町十七戸。○鳥取県岩美郡岩美町十一戸あり。

一 鉢形城士の辻氏 北条氏直感状(飯能市中山・平沼伊兵衛文書)に「正月二十八日、去二十四日、於足利表敵一人討捕候、高名之至神妙候、辻新三郎殿、花押(氏直)」、後筆に「天正六年下野足利にて佐竹義重との合戦の砌りの感状也、辻加賀左衛門記」と見ゆ。深谷記に「天正十年神流川合戦、鉢形衆辻加賀」あり。

二 会津藩上杉氏家臣 小鹿野町吉田系図に「慶長四年十二月晦日、吉田新左衛門実重は、会津上杉景勝に仕へ、元鉢形城士辻郷左衛門は吉田新左衛門組に属す」と見ゆ。

三 忍藩松平下野守忠吉家臣 慶長十二年清洲藩分限帳に「三百石・辻勘右衛門・是は忍にて罷出・尾張之者」あり。

四 忍藩阿部氏家臣 慶安年中忍藩分限帳に「御目付・六十石・辻太兵衛、御蔵役・二十俵二人扶持・辻市左衛門」。享保八年忍藩軍役帳に「六十石・辻角左衛門」あり。

五 忍藩松平下総守(奥平)家臣 嘉永六年忍藩分限帳に「御長柄奉行・百石・辻市右衛門」。明治四年忍藩士族名簿に「百石・辻兵次郎」あり。

六 深谷・川越藩酒井讃岐守忠勝家臣 寛永十四年小浜藩分限帳に「三百七十石・辻小作」あり。

七 川越藩秋元氏家臣 明治四年館林藩士族帳に「八両二人扶持・辻鏡治」あり。

八 川越藩松平大和守家臣 天保十二年川越藩分限帳に「御馬廻・二百石・山形取立・辻源五郎、御医師・百五十石・村上取立・辻尚益」。万延二年に「御勘定奉行・二百石・辻源五郎、御医師・百五十石・辻幸宅、御馬廻・十人扶持・辻京次郎、御小姓・辻虎次郎」あり。

九 騎西・川越藩松平周防守(松井)家臣 明治元年川越藩分限帳に「御馬廻・十二人扶持・亡養父郡右衛門・辻伝之丞・三十三歳」あり。

一〇 岩槻藩松平伊賀守(藤井)家臣 元禄七年岩槻藩分限帳に「七両五人扶持・辻権左衛門」あり。

一一 足立郡平柳領辻村(鳩ヶ谷市) 日蓮宗常住寺過去帳に「金二分・安永二年三月納之・施主辻兵右衛門。深明院日理大徳・辻市之助弟・安永五年九月」。明治三十五年医師辻熊次郎あり。三戸現存す。また、川越日蓮宗行伝寺過去帳に「妙浄・辻ノ与右衛門・乙巳年十二月。蓮意・辻ノ所左衛門息・辰年六月。妙長・辻善左衛門息・辰年十月」あり。平柳領辻村の住人か。

一二 同郡浦和町 昭和三年興信録に「辻利吉・所得税三十九円」あり。

一三 同郡草加宿 成田山新勝寺享和二年奉納額に草加宿辻仁右衛門、文久三年碑に草加駅岩木屋長七.。南草加村東福寺文政十三年筆子奉納額に辻金之助・九歳、辻金太郎・六歳。市神祠官筆学門人控に文久四年五丁目(北草加村)岩木や倅辻長三郎、明治二年五丁目古着屋息子辻新吉。明治二年頃に五丁目岩木屋辻長七、五丁目古着屋辻三五郎。剣術神文鑑に明治十六年北草加村辻新吉あり。

一四 埼玉郡越ヶ谷町 久伊豆社文化元年御神燈に辻新八.。明治三十五年下駄商辻茂助あり。

一五 同郡谷原新田(春日部市) 下蛭田村明治四十一年古峰院碑に谷原新田・辻定次郎あり。一戸現存す。

一六 同郡久喜町 明治四年久喜新田五人組帳に辻トヨあり。

一七 同郡下栢間村(菖蒲町) 神明社文政十一年太子講碑に辻左市。蓮華院天保七年筆子碑に辻惣吉。諏訪社嘉永三年水鉢に辻初右衛門。加納村天神社明治二十五年碑に栢間辻弥五郎。明治三十年人名録に辻幸右衛門・天保八年生・地租二十九円。柴山村諏訪八幡社明治四十二年御神燈に下栢間辻新五郎あり。二戸存す。

一八 入間郡川越町 明治二十二埼玉勧業会員辻詮明廸あり。

一九 同郡所沢町 昭和三年興信録に「辻俊春・所得税十七円」あり。

二〇 同郡小沼村(坂戸市) 当村天保十四年馬頭尊に小沼村辻市太郎。三芳野村消防組に辻級治・明治九年生あり。十二戸現存す。

二一 深谷町 瑠璃光寺明治二十九年筆子碑に辻又吉(鳶頭)。深谷町会議員辻貞・明治三十九年生あり。

二二 秩父郡薄村(両神村) 薬師堂万延元年庚申塔に当所辻喜作。明治五年薬師堂香具辻金平あり。一戸存す。

二三 同郡下吉田村 金剛院明治三十年筆子碑に辻林太郎あり。三戸存す。

二四 同郡小野原村(荒川村) 明治四年酒造業辻清五郎あり。現存無し。

逵 ツジ 浦和、志木、東松山に存す。

十字 ツジ 埼玉郡慈恩寺村慈恩寺文政九年碑に埼玉郡十字村(岩槻領辻村)と見ゆ。また、浦和領辻村条に「古へ十字村と書けり。其故は昔此地に鎌倉街道かかりて、其頃十字をなせし道ありしにより、かく記せし由を伝ふ」と見ゆ。附会なり。

津志 ツシ 岩槻藩板倉氏家臣にて、天和二年岩槻藩分限帳に「十五石・津志平太夫」あり。

津司 ツシ 川越に存す。

都志 ツシ 川越に存す。ズシ参照。

都司 ツシ 所沢に存す。

辻合 ツジアイ 狭山、日高等に存す。

辻井 ツジイ 各市町村に存す。

辻内 ツジウチ 各市町村に存す。

辻浦 ツジウラ 浦和、大宮、宮代等に存す。青森県上北郡六ヶ所村十三戸あり。

辻永 ツジエイ 浦和に存す。

対尾 ツシオ 桶川、鴻巣、鳩山に存す。

辻尾 ツジオ 越谷に存す。

辻岡 ツジオカ 各市町村に存す。

辻奥 ツジオク 所沢に存す。

辻角 ツジカド 与野、北本、蕨、朝霞等に存す。

辻上 ツジガミ 桶川、春日部等に存す。

辻川 ツジカワ 各市町村に存す。新潟県中蒲原郡村松町四十二戸、五泉市十五戸あり。

辻木 ツジキ 川口、春日部等に存す。

辻口 ツジクチ 各市町村に存す。

辻窪 ツジクボ 浦和に存す。

辻倉 ツジクラ 春日部、小川等に存す。

辻崎 ツジザキ 川口、桶川、春日部、所沢、三芳等に存す。

辻沢 ツジサワ 松伏、日高、嵐山等に存す。

一 小川町 明治三十五年洋物商辻屋辻沢文作あり。現存無し。

辻澤 ツジサワ 上尾に存す。

対田 ツシタ 所沢に存す。青森県南津軽郡平賀町五戸あり。

辻田 ツジタ 秋田県平鹿郡雄物川町二十戸あり。

一 比企郡小川町 明治三十五年材木商辻田武五郎あり。現存無し。

二 同郡上古寺村(小川町) 字宮ノ平文久四年馬頭尊に辻田房之助。明治三年生糸税金三十八両・辻田房之助。明治九年副戸長辻田房之助・文政六年生。明治十七年比企銀行発起人辻田百三郎・十五株七百五十円所有あり。一戸現存す。

三 本庄町 明治三十五年菓子商辻田森蔵・生魚商辻田新三郎あり。現存無し。

四 秩父町 昭和三年興信録に「辻田勝太郎・所得税九円」あり。一戸存す。

津志田 ツシタ 岩槻、幸手、草加、鷲宮、川越、大井等に存す。岩手県岩手郡西根町六十三戸あり。

辻谷 ツジタニ 春日部、富士見に存す。

辻出 ツジデ 越谷、三郷等に存す。

辻中 ツジナカ 浦和、大宮、狭山、所沢等に存す。鳥取市八戸あり。

辻永 ツジナガ 浦和、伊奈等に存す。

辻野 ツジノ 各市町村に存す。栃木県那須郡西那須野町二十二戸、千葉県銚子市十九戸あり。

辻葩 ツジハ 鶴ヶ島、熊谷、深谷等に存す。

辻橋 ツジハシ 越谷、吉川等に存す。

辻林 ツジバヤシ 伊奈に存す。

辻原 ツジハラ 川口、蕨、浦和、大宮、桶川、菖蒲、川越等に存す。

津島 ツシマ 対馬国(長崎県)は古事記・先代旧事本紀などには津島と見え、日本書紀は対馬と見ゆ。津ノ島にて、津は港、島は集落の意味。尾張国海部郡津島村(愛知県津島市)あり、津島神社は、祭神須佐之男命が対馬より来臨したことから、当地を津島と呼ばれたと伝へるが附会なり。海洋民の海部の集落なり。各市町村に存す。○茨城県鹿嶋市十八戸。○千葉県香取郡多古町二十戸。○山梨県東八代郡一宮町九戸。○新潟県村上市十五戸。○秋田県仙北郡田沢湖町二十二戸、北秋田郡田代町三十戸。○宮城県気仙沼市二十二戸。○青森県北津軽郡金木町五十三戸、東津軽郡蟹田町十五戸、平内町十二戸、青森市八十戸あり。

一 雑載 昭和三年興信録・所得税に「大宮町・津島桝蔵・十五円、吉川町・津島貞義・九円」あり。

津嶋 ツシマ 各市町村に存す。鳥取県東伯郡関金町九戸あり。

津洲 ツシマ 大宮に存す。

対馬 ツシマ 津島に同じ。各市町村に存す。此氏は津軽に多く存す。青森県北津軽郡金木町十五戸、鶴田町三十八戸、板柳町五十四戸、中津軽郡岩木町五十七戸、南津軽郡大鰐町四十七戸、尾上町十五戸、浪岡町百五十六戸、平賀町百四十三戸、常盤村四十戸、西津軽郡鯵ヶ沢町三十戸、木造町百三十戸、柏村二十四戸、東津軽郡蟹田町十一戸、平内町十一戸、黒石市六十七戸、五所川原市百五十四戸、弘前市五百六十戸、青森市三百九十戸あり。

對馬 ツシマ 川口、春日部、吉川、栗橋、庄和、新座、川越等に存す。

対島 ツシマ 浦和、上尾、蓮田、草加、川越、狭山、鶴ヶ島等に存す。

対間 ツシマ 川口に存す。

辻馬 ツジマ 騎西・川越藩松平周防守(松井)家臣にて、明治元年川越藩分限帳に「勘定奉行支配・五石余二人扶持・辻馬源太郎・十歳」あり。

辻牧 ツジマキ 岩槻藩松平伊賀守(藤井)家臣にて、元禄七年岩槻藩分限帳に「十石三人扶持・辻牧亦六」。

辻松 ツジマツ 川口、白岡、越谷、日高、富士見、寄居等に存す。

辻丸 ツジマル 吉川に存す。

都志見 ツシミ 越谷に存す。島根県邑智郡邑智町八戸あり。

辻道 ツジミチ 草加に存す。

辻村 ツジムラ 辻条参照。神奈川県足柄上郡開成町四十五戸、山形県東根市四十三戸、岩手県稗貫郡石鳥谷町二十三戸、青森県東津軽郡平内町八十三戸あり。

一 岩槻藩板倉氏家臣 天和二年岩槻藩分限帳に「五石余・辻村喜惣兵衛」あり。

二 忍藩松平下総守(奥平)家臣 嘉永六年忍藩分限帳に「御広敷御用達奉行・九十石・辻村本右衛門、御馬廻・高不明・辻村作馬」。明治四年忍藩士族名簿に「九十石・辻村成敏」。

三 岡部藩安部氏家臣 明治四年半原県分限帳に「卒・辻村篤之助・士族」あり。

四 浦和町 白幡村睦神社明治三十六年碑に浦和辻村義孝。昭和三年興信録に「浦和町・辻村義孝・所得税百六十円・営業税八十四円」あり。

五 大宮町 昭和三年興信録に「大宮町・辻村浜之助・所得税十四円・営業税二十八円」あり。

六 足立郡下落合村(与野町) 当村に此氏多く存す。元禄三年落合村検地帳(辻村文書)に「屋敷三畝二十四歩・金左衛門(明治の追筆に辻村半兵衛)、屋敷三畝歩・源兵衛(追筆辻村彦八)、屋敷二畝二十歩・庄左衛門(追筆辻村庄太郎)、屋敷一畝二十二歩・三左衛門(追筆辻村新一郎)、屋敷五畝二十歩・八右衛門(追筆辻村仲次郎再興)、屋敷七畝十一歩・名主市郎左衛門(追筆辻村市吉)、屋敷三畝二十歩・組頭忠右衛門(追筆辻村弥吉)」。当村寛保二年地蔵尊に下落合村辻村三右衛門。東光寺宝暦七年供養塔に辻村安右衛門・辻村宗右衛門、宝暦九年供養塔に辻村安右衛門・辻村久左衛門・辻村三右衛門・辻村宇右衛門、安永六年庚申塔に辻村彦八郎・辻村太七郎・辻村吉兵衛・辻村太右衛門・辻村吉右衛門・辻村仁右衛門。氷川社明和七年棟札に名主辻村久左衛門。明治五年戸長辻村彦八.。明治十一年地主惣代辻村兵八、同辻村市吉。明治二十一年皇国武術英名録に天自流落合村辻村彦八あり。

七 騎西町 明治三十五年郵便局長辻村盛敏あり。現存無し。

八 入間郡宗岡村(志木市) 与野町一山神社慶応二年碑に宗岡村辻村庄太郎あり。現存無し。

辻元 ツジモト 北本、白岡、狭山、熊谷、吹上等に存す。

辻本 ツジモト

一 足立郡小室村(伊奈町) 当村に此氏多く存す。旧家なり。

二 雑載 昭和三年興信録に「浦和町・辻本友之助・所得税三十九円、大宮町・辻本仙蔵・所得税六十六円・営業税七十円」あり。

逵本 ツジモト 所沢に存す。

辻森 ツジモリ 川口、大宮、上尾、越谷、宮代、所沢、飯能等に存す。

辻谷 ツジヤ 埼玉郡馬込村字辻谷はツジガヤと註す。比企郡下小見野村字辻ヶ谷戸あり。浦和、越谷、川越等に存す。秋田県仙北郡角館町十二戸あり。

辻山 ツジヤマ 川口、浦和、大宮、草加、戸田、川越、熊谷等に存す。岩手県東磐井郡藤沢町九戸、水沢市十九戸あり。

津城 ツシロ 新座に存す。

辻脇 ツジワキ 川口、新座、所沢等に存す。

津末 ツスエ 白岡、宮代、新座に存す。

都築 ツズキ 浦和に存す。

蔦 ツタ 津田の佳字なり。浦和、春日部、久喜、越谷、志木、新座、和光、坂戸等に存す。

津田 ツダ 津は港の古名、田は郡県・村の意味。海洋民の集落を津田と称す。大里郡津田郷(大里町)あり、津田村・恩田村附近を唱える。明治七年村岡村小林文書に「中恩田替津田村清水幸右衛門」と見ゆ、中恩田村の清水氏なり。津田郷は古代の幡田(はんだ)の里にて、後世は別称に伴田(はんだ、ばんた)と称す。伴・蕃は姓氏録に渡来人を記す。ハンダ参照。九条家延喜式裏文書の大里郡条里坪付に「幡田里」と見え、津田村旗本鈴木氏知行所に大里郡伴田村と見ゆ。本田村寛政六年供養塔に大里郡伴田村石工齋藤半七、樋春村真光寺寛政六年供養塔に大里郡津田村齋藤半七と見ゆ。津田村に齋藤氏多く存す。鎌倉円覚寺貞和五年文書に武蔵国津田郷内長福寺住持祖広、永和二年文書に津田長福寺と見ゆ、津田新田村の永福寺なり。京都鹿王院貞治五年文書に天龍寺領武蔵国津田郷。鎌倉鶴岡八幡宮応永二十一年文書に武蔵国津田郷と見ゆ。○茨城県那珂郡那珂町十九戸。○神奈川県足柄上郡山北町二十九戸、南足柄市三十一戸。○長野県松本市三十六戸。○福島県伊達郡桑折町十一戸、保原町三十七戸、梁川町二十三戸、福島市四十五戸。○宮城県桃生郡矢本町九十六戸、栗原郡築館町十七戸、一迫町十九戸、塩釜市三十五戸、石巻市二百十四戸。○青森県北津軽郡金木町十三戸。○島根県簸川郡斐川町十四戸、松江市五十戸あり。

一 河原党津田氏 武蔵志に「河原氏古文書に云。治承四年三月、惣侍列位・津田定五郎・同藤八郎、是は河原太郎家の武家法令也」と見ゆ。

二 忍城士の津田氏 成田分限帳に「六十貫文・津田庄五郎、三十貫文・津田将監」あり。

三 深谷・川越藩酒井讃岐守忠勝家臣 寛永十四年小浜藩分限帳に「四百石・津田左馬助、百五十石・津田佐左衛門」あり。

四 忍・川越藩松平伊豆守信綱(大河内)家臣 万治元年川越藩分限帳に「百石・本国近江生国尾張・津田次郎四郎・二十二歳、百石・本国武蔵生国同・津田玄達・四十歳」。野火留宿平林寺大河内廟所燈籠に「元禄八年・津田恵左衛門次方。天明元年・津田恵左衛門平次蔵。文政八年・津田恵左衛門平充成。文久二年・津田恵左衛門平次幹」あり。近江国蒲生郡津田庄(近江八幡市)より起る平姓にて、戦国期には、庄内に津田弾正・津田藤兵衛・津田二郎兵衛などの土豪がいた。

五 川越藩柳沢出羽守保明(松平吉保)家臣 元禄七年川越藩分限帳に「御祐筆・百石三人扶持・津田清兵衛」あり。

六 川越藩秋元氏家臣 明治四年館林藩士族帳に「六両二人扶持・津田平一郎」あり。

七 忍藩阿部氏家臣 享保八年忍藩軍役帳に「四十俵二人扶持・津田浅右衛門」あり。

八 忍藩松平下総守(奥平)家臣 嘉永六年忍藩分限帳に「御物頭・百三十石・津田安左衛門、弓之者小頭・六石余・津田宇左衛門」。明治四年忍藩士族名簿に「百三十石・津田正充、六石四人扶持・津田峰五郎、一人扶持・津田菊蔵」あり。

九 鳩谷・岩槻藩阿部氏家臣 慶安元年岩槻藩軍役積に「百石・津田小右衛門」。寛文二年岩槻藩分限帳に「百石・津田四郎右衛門、三十五俵・津田五右衛門」あり。

一〇 岩槻藩松平伊賀守(藤井)家臣 元禄七年岩槻藩分限帳に「百五十石・津田源太夫、五両三人扶持・津田十左衛門」あり。

一一 岡部藩安部氏家臣 明治三年岡部藩分限帳に「御中小姓・四人扶持・大坂・津田玄良」。明治四年半原県分限帳に「雇・津田金吾・平民」あり。

一二 葛飾郡松伏村 明治九年副戸長津田半兵衛・天保五年生。貴族院多額納税者議員互選人名簿に明治四十四年農業津田住太郎・元治元年生・国税六百九十六円・県下百十四位。昭和三年興信録に「松伏領村・津田栄蔵・所得税八十三円」あり。五戸現存す。

一三 浦和町 昭和三年興信録に「浦和町・津田宗助・所得税十八円」あり。

一四 鴻巣町 明治三十五年糸繭商津田スイあり。

一五 横見郡地頭方村(吉見町) 当村寛政三年供養塔に当所出生・津田三次郎あり。現存無し。

一六 比企郡白井沼村(川島町) 字烏足文政五年馬頭尊に白井沼村津田清左衛門。平方村馬蹄寺明治十年馬頭尊に白井沼村津田清吉あり。二戸現存す。

一七 同郡腰越村(小川町) 明治十七年蚕種業津田要三郎あり。現存無し。

一八 熊谷町 賢勝院明治十四年妙法講碑に当駅津田庄五郎あり。

伝井 ツタイ 上尾、所沢等に存す。新潟県新発田市七戸あり。

津多 ツタ 岩槻に存す。

都田 ツダ 所沢に存す。

蔦市 ツタイチ 所沢に存す。

蔦尾 ツタオ 所沢に存す。鳥取市六戸あり。

蔦岡 ツタオカ 与野に存す。

津高 ツダカ 東松山に存す。

伝川 ツタガワ 大宮、越谷、朝霞、志木、川越等に存す。新潟県西蒲原郡西川町十四戸、巻町十四戸あり。

蔦川 ツタガワ 上尾、幸手等に存す。青森県弘前市十八戸、島根県仁多郡横田町五戸あり。

蔦木 ツタキ 入間郡網代村字蔦木あり。各市町村に存す。山梨県北巨摩郡武川村十戸、大月市四十二戸、青森県三戸郡階上町六戸あり。

蔦沢 ツタザワ 埼玉郡篠津村(白岡町)馬立地蔵堂享保十三年地蔵尊に蔦沢五兵衛あり。二戸現存す。

蔦澤 ツタザワ 上尾、蓮田、八潮、上福岡等に存す。

蔦田 ツタダ 川口に存す。

蔦野 ツタノ 埼玉郡川崎村(越谷市)川崎神社文政十年水鉢に蔦野惣治郎、弘化二年供養塔に蔦野兵右衛門あり。現存無し。

蔦林 ツタバヤシ 越谷、入間等に存す。青森県八戸市三十戸あり。

蔦原 ツタハラ 埼玉郡大沢町(越谷市)に平安時代からの旧家蔦原氏・深野氏あり。大沢町古馬筥(江沢文書)に「真蔵院、元祖覚露連盛居士といふは播磨国印南郡蔦原庄伊三郎といふ者なりと云、長徳二年七月十五日死すと云。五世蔦原小左衛門と云者山伏と也、行善坊錚宗法印といふ、是真蔵院の開山なり。夫より代々山伏にて相続、行善坊倅淨賢代より真蔵院といふなり。右は同寺系譜にて相分り申候。天保十二年の当代迄二十七代の永続也。永久二甲午年正月より仙間の別当と成・是は淨賢の代也、深野武兵衛といふ者より仙間の宮居を寄付すといふ。仙間記録にて知べし」と見ゆ。明治九年大沢町副戸長蔦原角太郎・嘉永六年生あり。三戸現存す。深野条参照。播磨国印南郡(兵庫県加古川市・高砂市)に蔦原の地名は無し。

蔦村 ツタムラ 三郷に存す。

蔦本 ツタモト 浦和、八潮等に存す。

一 丹治姓蔦本氏 高麗郡青木村丹治姓青木氏系図に「青木次郎左衛門尉真忠(正治元年武蔵野原に於て鎌倉勢と戦ひしが、譜代老中蔦本主計孟房四十三歳討死す)」と見ゆ。飯能市内に現存無し。

二 草加宿 成田山新勝寺享和二年奉納額に草加宿蔦本平蔵。現存無し。

蔦森 ツタモリ 岩槻、狭山等に存す。

伝谷 ツタヤ 上福岡に存す。

蔦谷 ツタヤ 岩槻、春日部、幸手、志木、入間、日高、東松山等に存す。秋田県横手市十五戸、青森県弘前市十七戸あり。

一 深谷宿 上野台村光厳寺天保十一年供養塔に深谷宿蔦屋新三郎。西島稲荷社文久二年御神燈に蔦谷伊八あり。現存無し。

津田谷 ツタヤ 坂戸、狭山等に存す。

津田和 ツタワ 八潮に存す。

土 ツチ 土は「ハニ」のことにて、土田、土屋は土師(はにし)の居住地なり。和名抄の能登国羽咋郡都知郷(つち)は土田庄(つちだ、石川県志賀町)となる。辻(つぢ、つじ)も津知と書く。辻条参照。古事記に波邇夜須毘古神・波邇夜須毘売神と見え、日本書紀に土神埴安神・土神埴山姫と見ゆ。伊勢国度会郡宇治郷の土神は、倭姫命世記に「猿田彦神の裔・宇治土公の祖大田命、参り相ひき」。大神宮諸雑事記に「宇治土公遠祖大田命神は当土の土神也」と見ゆ。陶村の大田田根子命と大田命は同人なり。大田命は諸国の陶器作りの首領を指し、代々の襲名にて複数の名なり。オオタ条参照。

土赤 ツチアカ 山形県東根市十三戸。

土井 ツチイ 浦和、桶川、小川等に存す。ドイ参照。

土内 ツチウチ 新座、三芳等に存す。

槌内 ツチウチ 秩父郡大滝村字槌内は古の村名にて、武蔵志に「古大滝土打村」と見ゆ。

土浦 ツチウラ 狭山に存す。

一 志木町 明治二十年中野消防組土浦善太郎あり。現存無し。

土江 ツチエ 浦和、岩槻、越谷、松伏、入間、川越等に存す。島根県(出雲国)簸川郡斐川町五十四戸、大原郡加茂町四十一戸、八束郡宍道町八十一戸、松江市八十戸、平田市百三十七戸、出雲市八十戸あり。

土尾 ツチオ 上里に存す。

土賀 ツチガ 与野に存す。

土方 ツチカタ 新座に存す。ヒジカタ参照。

土金 ツチカネ 入間郡今福村(川越市)志村文書に「今福村開発人、明暦元年家作引移る・土金武兵衛(現主土金要作)」。堀兼神社文政四年御神燈に今福村土金武兵衛。菅原神社文久三年碑に土金惣吉、明治十六年碑に村会議員土金平助。明見院慶応二年普門品に土金半次郎・土金善六.。昭和三年興信録に「福原村・土金徳太郎・所得税二十一円」あり。六戸現存す。親切な住職様に大変お世話になりました。

土壁 ツチカベ 狭山に存す。

土釜 ツチガマ 川口に存す。

土川 ツチカワ 各市町村に存す。岩手県二戸郡一戸町十六戸、青森県三戸郡田子町九戸あり。

一 葛飾郡不動院野村(春日部市) 大杉神社明治二十四年碑に土川茂三郎あり。現存無し。

二 粕壁町 東八幡社天保十三年御神燈に土川重兵衛あり。現存無し。

三 浦和町 昭和三年興信録に「土川松太郎・所得税十七円」あり。

四 秩父町 明治三十五年煙草商土川徳三郎あり。現存無し。

土切 ツチキリ 与野、越谷、大井等に存す。

土蜘蛛 ツチグモ 古代鉱山師集団なり。アラハバキ条参照。

土倉 ツチクラ 浦和、上尾、蓮田、越谷、草加、志木、狭山等に存す。

一 埼玉郡大沢町(越谷市) 大沢猫の爪(福井文書)に「本多彦兵衛親類之三升屋平蔵、横道の勘平、土倉佐次右衛門は吉良家之落浪人之由申伝ふ」と見ゆ。市内に二戸現存す。

土蔵 ツチクラ 所沢、富士見等に存す。

土黒 ツチクロ 大宮に存す。

土子 ツチコ 各市町村に存す。茨城県鹿島郡鉾田町十二戸、行方郡麻生町五十一戸、潮来町五十六戸、牛堀町十五戸、玉造町十四戸あり。

一 浦和宿 玉蔵院明和三年短才見聞録は同寺の土子清の著なり。市内に一戸現存す。

土古 ツチコ 坂戸に存す。

土坂 ツチサカ 秩父郡吉田町と群馬県万場町との県境に土坂峠あり。永禄十二年北条氏邦感状に「甲州勢、夜中土坂を忍入、阿熊より屯し候」と見ゆ。朝霞、新座、所沢、富士見等に存す。トサカ参照。

土崎 ツチザキ 川口、坂戸、狭山、東松山等に存す。

土沢 ツチサワ 大宮、加須、草加、北川辺、所沢、深谷等に存す。栃木県安蘇郡葛生町四十七戸あり。

土澤 ツチサワ 浦和、越谷、草加、三郷、八潮、日高、花園等に存す。トザワ参照。

土塩 ツチシオ 比企郡土塩村(滑川町)あり。春日部、草加等に存す。

土島 ツチシマ 所沢、吹上等に存す。トシマ参照。

土田 ツチダ 田は郡県・村の意味。土師(はにし)の集落を土田と称す。能登国羽咋郡都知郷(つち)は後世土田庄となる。○茨城県筑波郡谷和原村三十一戸、つくば市九十戸。○○新潟県中蒲原郡村松町三十五戸、亀田町三十戸、西蒲原郡西川町三十七戸、巻町六十五戸、西頸城郡能生町三十八戸、新津市百三十戸、五泉市五十四戸、三条市二百戸、加茂市五十三戸、燕市百十六戸、長岡市四百戸、栃尾市七十六戸、見附市九十二戸、柏崎市七十八戸。○山形県西村山郡西川町三十四戸、飽海郡平田町三十二戸、最上郡鮭川村四十七戸、寒河江市百四十五戸、鶴岡市五十五戸、酒田市百二十戸。○秋田県由利郡鳥海町四十戸、矢島町百二十戸、平鹿郡雄物川町三十戸、十文字町四十二戸、雄勝郡羽後町百九戸あり。

一 忍城士の土田氏 成田分限帳に「百貫文・土田内膳」あり。別本に上田と見ゆ。

二 忍藩阿部氏家臣 享保八年忍藩軍役帳に「三両二人扶持・土田戸右衛門」あり。

三 川越藩秋元氏家臣 明治四年館林藩士族帳に「医師・百石・土田鉄造」あり。

四 埼玉郡長野村(行田市) 成就院寛政十一年供養塔に土田又六あり。四戸現存す。

五 比企郡松山町 明治三十五年呉服商土田奥七あり。一戸現存す。

六 同郡神戸村(東松山市) 明治十二年売薬商土田三省あり。現存無し。

七 大里郡河原明戸村(熊谷市) 熊谷町高城神社天保十二年紺屋碑に河原明戸村土田惣太郎あり。一戸存す。

八 秩父郡横瀬村 気楽流柔術加藤門弟に明治四十三年横瀬村土田源平・二十五歳あり。一戸現存す。

九 雑載 昭和三年興信録・所得税及び営業税(下段)に「浦和町・土田作雄・十五円、川口町・土田三吉・十円、松山町・土田粂助・三十八円・六十一円、長野村(行田市)・土田亦四郎・二十七円」あり。

槌田 ツチダ 川口、浦和、北本、蓮田、幸手、吉川、川越、富士見等に存す。

土平 ツチダイラ 飯能に存す。

土高 ツチタカ 川口に存す。

土館 ツチダテ 大宮、岩槻、北川辺等に存す。秋田県鹿角市二十一戸あり。

土舘 ツチダテ 狭山に存す。

土棚 ツチダナ 浦和に存す。

土谷 ツチタニ 所沢に存す。島根県松江市十一戸あり。ツチヤ参照。

槌谷 ツチタニ 与野、越谷、栗橋、川越等に存す。

土出 ツチデ 草加に存す。

土戸 ツチド 大宮、上尾、与野、幸手、新座、入間等に存す。

土道 ツチドウ 葛飾郡島川村(栗橋町)八幡社明治十五年伊勢講碑に土道森次あり。現存無し。

土取 ツチトリ 桶川、大井等に存す。

土永 ツチナガ 春日部、新座、坂戸、毛呂山等に存す。

土野 ツチノ 杉戸、入間、川越に存す。

土橋 ツチハシ 正木文書に「応安二年七月二十八日、足立郡大窪郷地頭方三分一方田畠注文。八郎二郎分、五反・しらくハ、大九反・つちハし」と見ゆ、白鍬村(浦和市)付近なり。各市町村に存す。○山梨県北巨摩郡双葉町十六戸。○長野県諏訪市四十四戸、茅野市八十五戸。○岩手県岩手郡雫石町二十戸、岩手町九戸。○青森県上北郡上北町十戸、東北町四十八戸あり。ドバシ参照。

土畑 ツチハタ 春日部、新座等に存す。岩手県九戸郡種市町十九戸あり。

土花 ツチハナ 入間郡塚越村字土花。

土浜 ツチハマ 越谷、三郷等に存す。

土林 ツチバヤシ 栗橋に存す。

土原 ツチハラ 蓮田、所沢等に存す。

土袋 ツチブクロ 比企郡土袋庄あり、川島里(川島町、川越市、東松山市)附近を称す。風土記稿に「東鑑元久二年二月二十一日の条に武蔵国土袋郷と見えたり。又入間郡今市村法恩寺年譜録応安元年七月の条にも土袋郷内井草村とあり。今上井草村金乗寺を土袋山と号するときは、此辺古の土袋郷なることしるべし」と。宝暦九年沢田文書に比企郡中老袋村土袋庄河島里(川越市)と見ゆ。

土会平 ツチフタベ 大宮に存す。正訓不詳なり。

土淵 ツチブチ

一 葛飾郡金崎村(庄和町) 藤塚村香取社江戸末期御神燈に金崎村土淵六蔵あり。一戸現存す。

二 同郡上金崎村(庄和町) 香取社天保六年御神燈に上金崎村土渕岩太郎あり。土淵氏一戸、土渕氏一戸現存す。

三 同郡倉常村(庄和町) 愛宕社寛政六年庚申塔に土淵林蔵。現存無し。

四 同郡才羽村(杉戸町) 字本田文政元年庚申塔に才羽村本田土淵重右衛門。字内谷明治三十年鳥居碑に才羽村字内谷土淵庄五郎・土淵金太郎・土淵平蔵あり。一戸現存す。

五 同郡堤根村(杉戸町) 諏訪社明治二十年御神燈に諏訪土淵新次郎あり。土淵氏五戸、土渕氏七戸現存す。

土渕 ツチブチ 前条参照。

土丸 ツチマル 横見郡土丸村(吉見町)あり。

土嶺 ツチミネ 吉見に存す。青森県三戸郡倉石村十三戸あり。

土棟 ツチムネ 毛呂山に存す。青森県十和田市十一戸あり。

土村 ツチムラ 川口、浦和、大宮、蕨、戸田、鴻巣、久喜、和光等に存す。

土室 ツチムロ 坂戸に存す。

土持 ツチモチ 浦和、大宮、久喜、松伏、蕨、坂戸、所沢等に存す。

土元 ツチモト 川口、大宮、坂戸、三芳等に存す。

土本 ツチモト 各市町村に存す。

槌本 ツチモト 浦和、桶川、和光等に存す。

土森 ツチモリ 所沢に存す。

土谷 ツチヤ 谷(がい)は集落の意味。土師(はにし)の集落を土谷・土屋、槌谷、槌屋と称す。土(つち)条参照。秩父郡田村郷字土谷あり。各市町村に存す。○群馬県甘楽郡下仁田町三十三戸。○秋田県平鹿郡十文字町四十三戸、雄勝郡東成瀬村十三戸。○島根県大原郡大東町十七戸あり。

一 浦和町 本太村山神社明治三十年碑に浦和町土谷喜代松。昭和三年興信録・所得税に「浦和町・土谷盛吉・三十八円、土谷益・二十五円、土谷福太郎・十一円」あり。現存無し。

二 与野町 氷川社享保四年水鉢に土谷左兵衛あり。現存無し。

三 小川町 明治十四年本街一丁目消防委員土谷平次郎あり。現存無し。

土家 ツチヤ 浦和、狭山等に存す。

土屋 ツチヤ 土谷の佳字なり。足立郡土屋村(大宮市)あり。入間郡上浅羽村(坂戸市)に土屋権現社あり。幡羅郡男沼村字土屋は屋敷名なり。入間郡中野村新田(入間市)は旗本土屋氏知行地ゆへに土屋新田と称す。土屋家譜に「采地宮寺郷中野村に一宇を建立して長久寺と号す」と。文政三年狭山本場茶製連名帳に「土屋新田吉川利兵衛」。天保三年狭山茶場碑に「中野村新田吉川利兵衛」と見ゆ。○群馬県吾妻郡嬬恋村百四十戸、甘楽郡下仁田町三十六戸、群馬郡群馬町五十三戸、碓氷郡松井田町五十五戸、富岡市六十七戸、安中市八十戸、高崎市百四十戸、前橋市九十戸。○千葉県海上郡飯岡町三十二戸、印旛郡富里町三十戸、香取郡東庄町四十四戸、山武郡横芝町四十五戸、松尾町八十戸、大網白里町七十七戸、山武町五十二戸、成東町九十六戸、蓮沼村五十六戸、匝瑳郡野栄町四十戸、光町六十八戸、夷隅郡大原町七十八戸、八日市場市百六戸、市原市七十戸。○山梨県東八代郡石和町三十六戸、中巨摩郡櫛形町三十戸、竜王町三十七戸、東山梨郡勝沼町三十四戸、富士吉田市八十六戸、甲府市二百二十戸。○長野県下高井郡木島平村四十六戸、小県郡東部町百九十戸、丸子町五十二戸、北佐久郡軽井沢町四百四十戸、立科町四十三戸、御代田町百六十八戸、望月町百八戸、浅科村四十戸、南佐久郡臼田町百二十戸、飯田市八十四戸、佐久市三百三十戸、小諸市五百戸、上田市二百戸、須坂市百十戸、中野市百八十戸。○新潟県東蒲原郡上川村四十戸、佐渡郡金井町四十六戸、佐和田町三十戸、畑野町四十戸、新穂村百三十七戸、両津市七十七戸。○福島県耶麻郡猪苗代町六十五戸、郡山市百戸。○山形県西置賜郡白鷹町八十五戸、長井市九十戸、上山市百十戸、天童市百七十戸、山形市百四十戸。○岩手県二戸郡一戸町四十戸あり。

一 忍城士の土屋氏 成田分限帳に「百貫文・土屋大学虎吉」。行田史譚に「天正十八年忍城攻めの時、土屋大学は下忍口を守る」と見ゆ。

二 武田氏家臣の土屋氏 埼玉郡羽生領藤井村上組源長寺文書に「元亀二年二月二十六日、高札(武田家)、源長寺。当手甲乙之軍勢、於彼寺中濫妨狼藉、一切被禁之、土屋右衛門尉奉之」と見ゆ。寛政呈譜に「土屋右衛門昌次(信玄に仕へ、使番となりてしばしば戦功ありしかば、武田家の長臣土屋の称号をゆるされ、侍大将となりて兵士五十騎を預かる。天正三年五月長篠の戦に討死す、年三十一)」と見え、子無し。

三 深谷・川越藩酒井讃岐守忠勝家臣 寛永十四年小浜藩分限帳に「百十石・土屋小左衛門」あり。

四 忍・川越藩松平伊豆守信綱(大河内)家臣 万治元年川越藩分限帳に「八百石・生国武蔵羽生・土屋新右衛門・六十三歳、三百石・本国武蔵生国信濃・土屋外記・三十五歳」あり。重臣なり。

五 川越藩柳沢出羽守保明(松平吉保)家臣 元禄七年川越藩分限帳に「御料理人・六両三人扶持・土屋喜左衛門」あり。

六 川越藩秋元氏家臣 明治四年館林藩士族帳に「百三十石・土屋鉱八郎、二十六俵二人扶持・土屋又作」あり。

七 忍藩松平下野守忠吉家臣 慶長十二年清洲藩分限帳に「二百五十石・土屋清九郎・是は忍にて罷出・甲州之者」あり。

八 忍藩松平下総守(奥平)家臣 嘉永六年忍藩分限帳に「御徒目付・十石二人扶持・土屋左馬蔵、元方改役・八石二人扶持・土屋小伝治、子供・四両二人扶持・土屋鉄之助、子供・二人扶持・土屋寛治」。明治四年忍藩士族名簿に「十石二人扶持・土屋為八郎、五石二人扶持・土屋早枝、四石余二人扶持・土屋泰三、四両二人扶持・土屋真蔵」あり。

九 鳩谷・岩槻藩阿部氏家臣 寛文二年岩槻藩分限帳に「二十俵・土屋三右衛門」あり。

一〇 岩槻藩松平伊賀守(藤井)家臣 元禄七年岩槻藩分限帳に「二百石・土屋又左衛門、六石二人扶持・大工・土屋杢右衛門」あり。

一一 関東郡代伊奈氏家臣 寛政三年に「広間定番使者兼・五人扶持格・上屋敷住・土屋宗助」あり。

一二 葛飾郡魚沼村(松伏町) 常金寺文化十五年普門品に土屋三右衛門。東稲荷社文久元年成田山碑に土屋武兵衛。築比地村下香取社明治十六年浅間碑に魚沼村土屋文造あり。一戸現存す。

一三 同郡木崎村(庄和町) 香取社文政九年庚申塔に土屋忠左衛門あり。現存無し。

一四 同郡幸手町 雷電社安政五年二十三夜塔に土屋武左衛門。明治二十一年新道工事寄付に土屋与市あり。

一五 同郡天神島村(幸手市) 天満宮寛政四年升堂雁行現額に土屋千太郎あり。現存無し。他村住人か。

一六 同郡下高野村(杉戸町) 木々子神社天保四年供養塔に土屋文五郎あり。四戸現存す。

一七 埼玉郡大沢町(越谷市) 大沢町古馬筥(江沢文書)に「仙元宮、むかし当町つちや所左衛門の先祖此地に祭りしと云」と見ゆ。先祖は平安時代の人か。蔦原条参照。

一八 同郡篠津村(白岡町) 当村嘉永二年庚申塔に篠津里宿組土屋常吉・土屋杢右衛門。阿弥陀堂嘉永五年筆子碑に土屋吉五郎あり。六戸現存す。

一九 同郡久喜町 太田袋村琴平社文政三年水鉢に久喜中町土屋与市。鷲宮村鷲宮神社嘉永五年狛犬に久喜町土屋与市。明治四年久喜新町五人組帳に土屋宇太郎・土屋政七.。明治九年久喜新町副戸長土屋与市・天保十四年生。明治三十年所得税下調査簿に薬師商土屋与市・反別二町五反歩・地租三十三円あり。

二〇 同郡中曽根村(久喜市) 明治九年副戸長土屋喜蔵・天保五年生あり。六戸現存す。

二一 同郡鷲宮村 寛文十二年鷲宮神社文書に「神主大内美作殿家来之内・土屋利兵衛と云ふあり」と見ゆ。二戸現存す。

二二 同郡騎西町 明治三十五年白木綿商土屋末吉あり。

二三 同郡根古屋村(騎西町) 前玉神社明治二十七年碑に土屋春吉あり。

二四 同郡今鉾村(加須市) 久伊豆社弘化三年水鉢に三代目土屋富右衛門。正能村諏訪社嘉永五年富士講碑に今鉾村土屋富右衛門あり。二戸現存す。

二五 同郡箱田村(熊谷市) 文珠院天保十四年馬頭尊に土谷三五郎。蓮生寺嘉永元年供養塔に土屋伊之右衛門。信州木曽御嶽山清滝不動尊明治十五年碑に武蔵国北埼玉郡箱田村土屋儀四郎あり。十五戸現存す。

二六 足立郡川口町 明治二十一年皇国武術英名録に柳剛流川口町土屋与惣五郎あり。

二七 同郡戸塚村(川口市) 七郷神社明治中期碑に土屋勝太郎あり。三戸現存す。

二八 同郡上青木村(川口市) 風土記稿上青木村条に「日蓮宗宗信寺は、寛永六年、村民土屋治郎右衛門が父豊前守追福のため中興開基す。かの豊前守は甲斐国武田氏に仕へ、同国にて卒せりと云のみにて其伝詳ならず。又子孫近き頃まで村内に住せしが今は絶たり」と。治郎右衛門は治右衛門ともあるが、次左衛門が正確か。宗信寺日通本尊に「中興願主大檀那土屋宗次戒号宗信院日宗、当時大檀那宗次孫土屋次左衛門宗重戒号日悟信士、寛文八年七月」。同寺碑に「慶安元年、為宗信院日宗逆修、施主土屋次左衛門」。「寛文四年、永寿院宗蓮日悟、上青木村長陽山宗信寺開基之旦那興宗信院日宗嬉字土屋次左衛門尉重家逆修七分全得起立之者也」。「当山大檀那土屋備前守宗次之子孫土屋貴、昭和四十九年」とあり。立野村住の土屋貴なり。氷川社明治二十八年碑に土屋佐兵衛・土屋助五郎・土屋喜平・土屋粂次郎。真義真言宗安楽寺明治三十三年大日堂碑に土屋与左衛門・土屋惣一郎・土屋喜三郎・土屋又次郎・土屋八三郎・土屋奥次郎あり。十二戸現存す。

二九 同郡立野村(川口市) 前項土屋豊前守・備前守父子及び当村土屋七郎右衛門先祖は、岩附城家臣の戸塚城主小見山弾正介(日蓮宗信徒)の家来にて、武田氏・北条氏・成田氏等の家臣説は附会なり。小見山条参照。風土記稿立野村条に「旧家七郎右衛門、世々里正にて土屋を氏とす。先祖は甲斐の武田に仕へたるものと云ひ伝ふれど、前の陣屋跡にも記すごとく、赤山領長蔵新田の伝へによれば、北条氏の家人藤波和泉が子孫なりしに、後年土屋氏の人を養子とせしにより、今の氏に改めし由なり」。当村陣屋跡条に「長蔵新田の民の伝へしは、古へ北条氏の家人藤波和泉なる者萱野奉行と云ふ役を勤めて、此の陣屋に住居し、北条氏没落の後、其の侭土着して農民となれり。其の後子孫の内、土屋氏の人を養いて家を嗣がせしより土屋を氏とせりと云ふ。今其の子孫を七郎右衛門と云ふ。かれ陣屋跡に住せば和泉が居跡たること知るべし。されど七郎右衛門が家につきて見れば、和泉がことは総べて口碑にも伝へず。思ふに此の人、北条氏の家人なりといへど、当村の伝へに拠れば、戸塚村の塁に住せし成田家の旗下小宮山弾正介忠孝が家人ともいへり」と見ゆ。上青木村宗信寺正徳四年常夜燈に赤山領立野村土屋与三左衛門秀勝・土屋七郎右衛門宗明。藤波氏は真義真言宗西福寺檀家にて、日蓮宗檀家の土屋七郎右衛門家とは全くの別家なり。西福寺文政二年湯殿山碑に立野村土屋栄治郎、弘化三年百観音に当所土屋喜三郎・土屋栄治郎・土屋豊吉。二宮神社文政十三年鳥居碑に当村土屋七郎右衛門。赤山領領家村稲荷社慶応二年筆子碑に土屋良右衛門。明治二十一年皇国武術英名録に柳剛流西立野村土屋良右衛門。明治三十五年植木商土屋久五郎あり。十四戸現存す。

三〇 同郡平柳領辻村(鳩ヶ谷市) 日蓮宗常住寺過去帳に「蓮華院宗秀日経・元禄十五年九月二日、当寺旦那土屋源六父」あり。二戸現存す。

三一 同郡浦和町 玉蔵院享和三年供養塔に土屋政治郎。明治三十五年織物商土屋竹蔵あり。

三二 同郡内谷村(浦和市) 風土記稿に「氷川社の神主土屋下野」と見ゆ。二戸現存す。

三三 同郡美女木村(戸田市) 八幡社嘉永七年御神燈に土屋音吉、明治三十二年碑に土屋万次郎。明治三十一年染物業土屋七五郎あり。

三四 同郡与野町 円乗院寛文十二年石幢に与野町土屋次右衛門あり。

三五 同郡小針領家村(桶川市) 倉田村明星院文政六年新西国塔に領家村土谷弥右衛門・土谷伊八・土谷吉平。明治九年副戸長土屋伊八郎・嘉永三年生あり。二戸現存す。

三六 同郡染谷村(大宮市) 氷川社明治二十八年碑に土屋左京あり。三戸現存す。

三七 同郡鴻巣町 明治三十五年に土屋馬太郎あり。

三八 新座郡溝沼村(朝霞市) 氷川社明治三十九年碑に土屋金太郎あり。四戸現存す。

三九 同郡志木町 明治三十一年中野組土屋金蔵、米穀商土屋仲次郎あり。

四〇 同郡上新倉村(和光市) 明治三十一年演劇寄付に上之郷組土屋春吉あり。

四一 同郡野火止宿(新座市) 明治十六年西堀村物産表に土屋国吉・土屋金次郎・土屋弥市・土屋半造・土屋卯之吉・土屋勘蔵・土屋次郎吉・土屋滝蔵あり。

四二 同郡小榑村(練馬区) 本郷村東福寺明治九年御神燈に下小榑村土屋源次郎・土屋長五郎あり。

四三 入間郡亀久保村(大井町) 明治四十四年若者名簿に土屋松五郎あり。三戸現存す。

四四 同郡北永井村(三芳町) 竹間沢村泉蔵院明治二十九年碑に北永井村土屋弥左衛門あり。三戸現存す。

四五 同郡川崎村(上福岡市) 氷川社隣文久三年仙元碑に川崎村土屋作蔵。明治六年荒物酒商土屋丹蔵。明治九年副戸長土屋源八.。明治三十六年鳶職土屋市太郎あり。

四六 同郡中福岡村(上福岡市) 駒林村安楽寺安政四年筆子碑に中福岡村土屋伊之助・土屋安五郎。長宮氷川社明治十年水鉢に中福岡・土屋伝右衛門・土屋金太郎。明治十一年荷車持主に中福岡村土屋文治郎・土屋伊左衛門・土屋伊右衛門・土屋伊之助・土屋武平治・土屋五三郎・土屋吉之助・土屋治助。大杉神社明治十二年拝殿碑に福岡村土屋啓次郎・土屋初五郎、中福岡村土屋伊之助。水天宮明治二十四年水鉢に中福岡・土屋梅五郎・土屋直吉・土屋伝蔵・土屋金太郎・土屋乕吉。長宮氷川社明治二十七年正殿碑に中福岡・土屋伊之助・土屋幸次郎・土屋吉三郎・土屋金太郎・土屋初五郎・土屋梅五郎・土屋菊太郎・土屋五三郎・土屋金蔵・土屋伝蔵・土屋源兵衛・土屋治助・土屋嘉右衛門・土屋兼吉・土屋松蔵あり。

四七 同郡宮寺村(入間市) 明治十六年人力車業飲食店土屋伊十郎あり。

四八 同郡川越町 御嶽社明治三十年碑に土屋伊之助・土屋品吉。明治三十五年荒物商土屋佐平あり。

四九 同郡池辺村(川越市) 稲荷社明治三十三年碑に土屋金次郎・土屋弥吉・土屋房吉・土屋佐十郎・土屋関蔵。熊野社明治三十九年碑に土屋半次郎・土屋房吉・土屋宗蔵あり。三戸現存す。

五〇 同郡上浅羽村(坂戸市) 風土記稿上浅羽村条に「土屋権現社あり、土屋某なんと云る人領せしこと有て、其人の石像を安じ土屋の神号を加へしや。或は土を穿つてかかる屋を設けたれば、それらの名によるにや、すべて土人の伝へを失ひたれば今よりはそれと定むべからず」と見ゆ。現存無し。土師の奉斎神なり。

五一 高麗郡飯能町 飯能郷土史に「飯能土屋氏は、もと馬具の製造を以って本業としたとある。恐らく戦国の頃土着した土屋昌玄の後と思はれ、その頃から馬具の製作に従っていたのではあるまいか」と見ゆ。笹井村宗源寺開基の幕臣土屋昌言・元和九年没に附会す。当村土屋氏は中世以来の土豪なり。中山村智観寺宝永三年大般若経奉納に真能寺村土屋平左衛門。明治十四年飯能村荒物商土屋弥助、真能寺村土屋三次郎・土屋喜平次。明治三十五年煙草商土屋栄太郎。諏訪社明治四十四年碑に三丁目土屋栄三郎あり。

五二 同郡下加治村(飯能市) 笹井村宗源寺文書に「弘化四年、観音堂へ大般若経寄進、下加治村土屋民造・土屋筆吉・土屋久左衛門・土屋八郎左衛門・土屋伊助・土屋弥五郎・土屋林右衛門・土屋七左衛門・土屋弥兵衛」。明治九年副戸長土屋豊吉・文政十二年生あり。十六戸現存す。

五三 同郡川寺村(飯能市) 当村享保二十年庚申塔に川寺村土屋新右衛門。明治九年副戸長土屋万治郎・天保元年生あり。十五戸現存す。

五四 同郡中山村(飯能市) 智観寺宝永三年大般若経奉納に中山町土屋市郎右衛門、安政七年筆子奉納額に中山村橋合土屋利介あり。

五五 同郡原市場村(飯能市) 明治九年副戸長土屋幸太郎・安政六年生(気楽流柔術家、県会議員)あり。九戸現存す。

五六 比企郡松山町 明治三十二年不動産業務合資会社発起人土屋島吉・出資額千五百円。明治三十五年材木商土屋啓三郎あり。

五七 同郡小川町 貴族院多額納税者議員互選人名簿に大正十四年煙草荒物商土屋平吉・安政五年生・国税千九百四十七円・県下六十八位あり。

五八 同郡平村(都幾川村) 字生田文化十一年地蔵尊に土屋金兵衛。字森戸不動堂文化十四年常夜燈に当村施主土屋氏・弥七・金兵衛・当右衛門・安治郎。全長寺天保三年巡拝塔に平村土屋常右衛門。正法寺明治三十年廻国塔に平村土屋金平・土屋八十八.。荻日吉社明治四十一年碑に土屋周一郎あり。三戸現存す。

五九 大里郡上新田村(江南町) 成沢村赤城社文化五年御神燈に上新田土屋源兵衛あり。現存無し。

六〇 幡羅郡男沼村(妻沼町) 小名土屋は屋敷名なり。高橋条参照。男沼村誌に「貞享以前よりの家・土屋吉兵衛、貞享元年以後新たに出来た家・土屋吉郎兵衛。明治四年人別改に土屋惣太郎・土屋貞蔵」と見ゆ。長勝寺享和三年供養塔に土屋吉右衛門あり。現存無し。

六一 榛沢郡深谷宿 秘書深谷根元録に寛政七年・当宿土屋六郎右衛門。渡辺崋山書に「天保二年、深谷のはたごや・横町・土屋万右衛門」。長福寺土屋家墓碑に「祖先は本庄駅土屋平左衛門の三男佐吉・当駅に移住し、平蔵・政兵衛の二子あり。初代政兵衛分家して当家の祖となり弘化四年没す。二代勝平」。明治十八年最上農名簿に土屋勝平・耕宅地一町三反歩所有。瑠璃光寺明治二十九年筆子碑に土屋勝平・土屋作次郎。滝宮神社明治三十三年碑に深谷宿本町仲町氏子・土屋祐治郎(呉服商伊勢勝)・土屋佐吉(煉油小間物商伊勢屋)・土屋作治郎。貴族院多額納税者議員互選人名簿に大正十四年土屋祐治郎・明治三年生・国税千三百円・県下百二十八位あり。

六二 同郡上野台村(深谷市) 八幡社明治四十四年碑に土屋源太郎あり。九戸現存す。

六三 同郡田中村(川本町) 当村地頭津金氏は甲州巨摩郡逸見筋下津金村(須玉町)より入国し、須玉町大蔵(土屋氏十三戸存す)の土屋氏は共に来村して土着し名主役を勤む。寛永二年記録御用所に田中村四百三十石を旗本津金助之進胤卜に宛行ふと。土屋家御先祖様(土屋貢文書)に「御殿様甲州より田中村御入国被遊候節、拙者先祖土屋佐右衛門御供仕田中村へ罷越申候、其子円喜共に二代家老家へ仕、其子七郎兵衛名主役仕罷在候、其子文蔵名主役仕候、是も御殿様より文蔵と申名を被下候、其弟拙者親にて御座候、名主役被仰付罷在候」と見ゆ。延享三年名主土屋亀右衛門。天保元年名主土屋政右衛門・名主土屋亀右衛門。明治九年副戸長土屋佐平・嘉永元年生あり。五戸現存す。

六四 同郡小和瀬村(本庄市) 稲荷社明治四十四年碑に土屋清次郎あり。現存無し。

六五 児玉郡本庄宿 旧本庄村(元宿十八軒)の土屋氏は草分けなり。安養院延宝五年鐘銘に土屋平左衛門。円心寺元禄八年鐘銘に土屋彦左衛門。金鑚社享和三年水鉢に土屋忠兵衛。明治三十五年青物商土屋団平あり。

六六 同郡田端村(児玉町) 児玉町八幡社明治三十五年碑にタハタ土屋栄次郎あり。二戸現存す。

六七 同郡保木野村(児玉町) 明治二十一年皇国武術英名録に奥山念流柔術保木野村土屋栄次郎あり。現存無し。隣村の田端村住人のことか。

六八 賀美郡七本木村(上里町) 法泉寺文政十一年普門品に土屋八十八.。石川流木村源蔵(天保十年没)門人に七本木村四ツ屋・土屋常七.。明治十九年総代人土屋多七あり。十四戸現存す。

六九 秩父郡大宮郷 安永七年松本日記に大宮郷絹仲買土屋万蔵。明治三十五年小間物商土屋勝重郎あり。

七〇 同郡金崎村(皆野町) 国神神社明治三十四年碑に当所土屋九兵衛・土屋新作・土屋喜三郎あり。四戸現存す。

七一 同郡飯田村(小鹿野町) 八幡社慶応元年御神燈に土屋吉五郎あり。現存無し。

七二 同郡北川村(飯能市) 阿弥陀堂の阿弥陀三尊像台座に「文亀三年癸亥五月六日作者、武州秩父郡吾那郷之内北河大施主右馬次郎、奉造立阿弥陀三尊、開眼大僧都頼曇并大□□□、土屋□三郎」と銘あり。土豪なり。現存無し。飯能市内に多し。

七三 雑載 昭和三年興信録・所得税及び営業税(下段)に「芝村(川口市)・土屋信康・十三円・三十九円、大和田村(新座市)・土屋弥市・二十九円・十四円、所沢町・土屋与作・十円、小手指村(所沢市)・土屋弁吉・二十三円、小川町・土屋平吉・千八百八十九円・四百五十四円、久喜町・土屋うた・百四十二円・九十四円、深谷町・土屋祐次郎・九百十九円・三百二十八円、土屋佐吉・六十四円・六十七円、本庄町・土屋猪五郎・三十三円・五十円」あり。

槌谷 ツチヤ 川口、浦和、鴻巣、岩槻、春日部、新座、入間、日高、毛呂山等に存す。福島県郡山市十戸あり。

槌屋 ツチヤ 浦和、北本、蓮田等に存す。山梨県南都留郡山中湖町十六戸、中巨摩郡敷島町十戸あり。

槌矢 ツチヤ 越谷、三郷等に存す。

土屋津 ツチヤツ 秩父郡田村郷字土谷はツチヤツと称す。

一 忍城士の土屋津氏 成田分限帳に「五貫文・土屋津与兵衛」あり。

土山 ツチヤマ 播磨国加古郡土山村(兵庫県加古川市)は、元ハニヤマと称し、良質の埴土を産出したと云う。入間郡権現堂村字土山あり。各市町村に存す。島根県大田市十戸あり。トヤマ参照。

槌山 ツチヤマ 川越に存す。

筒 ツツ 管羅(くだら)は百済にて、管(つつ)の佳字に筒を用いる。都筑条参照。狭山に存す。

筒井 ツツイ 筒は二字の制により筒井と称す。○茨城県久慈郡里美村八戸。○山梨県東八代郡石和町二十三戸、塩山市二十七戸。○長野県東筑摩郡朝日村二十九戸、下伊那郡喬木村三十二戸、豊丘村二十六戸、根羽村十二戸、松本市七十戸、飯田市八十六戸。○新潟県西蒲原郡西川町十六戸。○山形県西田川郡温海町八戸。岩手県北上市十六戸。○島根県大原郡大東町十二戸あり。

一 丹党弥郡氏の本名筒井氏 イヤゴオリ条参照。

二 忍城士の筒井氏 成田分限帳に「七貫文・筒井源五左衛門」あり。

三 川越藩松平大和守家臣 天保十二年川越藩分限帳に「御馬廻・三十石五人扶持・筒井孫太夫」あり。

四 忍藩松平下総守(奥平)家臣 嘉永六年忍藩分限帳に「御金預り・八石二人扶持・筒井領助、勘定見習・二人扶持・筒井孝助」。明治四年忍藩士族名簿に「六石四人扶持・筒井孫之助、二両余二人扶持・筒井領三」あり。

五 岩槻藩大岡氏家臣 天明四年岩槻藩分限帳に「平席之分・筒井覚内」あり。

六 葛飾郡金崎村(庄和町) 道善寺文化七年普門品に筒井勇右衛門。香取社安政二年小御嶽碑に下金崎村筒井熊次郎あり。二戸現存す。

七 同郡立野村(庄和町) 嘉永五年組頭筒井善右衛門。明治三十年人名録に筒井源一郎・明治七年生・地租二十二円、富多村助役筒井善一・安政三年生。昭和三年興信録に「富多村・筒井善一・所得税十一円」あり。三戸現存す。

八 同郡八丁目村(春日部市) 下蛭田村明治四十一年古峯院碑に八丁目村筒井彦兵衛あり。二戸現存す。

九 埼玉郡川崎村(越谷市) 川崎神社文政十年水鉢に筒井民八あり。二戸現存す。

一〇 足立郡鳩ヶ谷町 明治三十五年織物商和泉屋筒井郁太郎あり。

一一 同郡小谷村(吹上町) 金乗寺明治四十五年碑に筒井孫之助あり。現存無し。

一二 新座郡下新倉村(和光市) 東明寺嘉永七年地蔵尊に筒井市兵衛あり。現存無し。

廿浦 ツツウラ 埼玉郡高虫村(蓮田市)歓喜寺跡安永三年地蔵尊に廿浦儀左衛門・廿浦文蔵。妙楽寺文政七年地蔵尊に高虫村廿浦佐右衛門、天保七年馬頭尊に廿浦茂右衛門・廿浦三郎右衛門・廿浦音松。明治九年副戸長廿浦新五郎・天保二年生。明治二十年柴山伏越改造碑に高虫村廿浦栄次郎あり。十三戸現存す。

十九浦 ツツウラ 足立郡上日出谷村(桶川市)氷川社明治三十九年碑に十九浦九十九あり。一戸現存す。

筒江 ツツエ 秩父に存す。

筒川 ツツカワ 丹後国与謝郡日置里筒川村(京都府伊根町)は、日本書紀・雄略天皇二十二年条に余社郡管川(つつかわ)と。管羅川(くだらがわ)の転訛なり。春日部に存す。

筒木 ツツキ 都筑条参照。川口、新座等に存す。長野県南安曇郡安曇村三十二戸あり。

津々木 ツツキ 都筑条参照。浦和、大宮、上尾、戸田、越生等に存す。

都々木 ツツキ 比企郡宮前村(川島町)寛文十二年庚申塔に宮前村都々木彦左門あり。現存無し。

続 ツヅキ 都筑条参照。川口、大宮、和光、狭山、富士見、吉見等に存す。

一 猪俣党続氏 小野氏系図に「藤田政行―行保(一谷合戦討死)―好国―好兼―能行―氏行―行盛―続四郎左衛門尉能連―野二郎宗連」。別本小野氏系図に「藤田政行―行安―能国―飯塚掃部左衛門尉氏行―四郎左衛門尉行盛―続四郎能連」と見ゆ。秩父郡久那村新井家譜に「天正二十年秩父妙見宮棟札に藤田重利は大旦那都築右近衛門尉古長の名で記されている」とあり。藤田氏の本名は続氏、或は都築氏なり。

續 ツヅキ 滑川に存す。

続木 ツヅキ 川口、浦和、越谷、入間、川越、狭山等に存す。

續木 ツヅキ 久喜に存す。

筑木 ツヅキ 所沢に存す。

都筑 ツヅキ 続、綴、筒木、都築、綴喜とも書く。百済(くだら)は管羅(くだら)と書き、カンラとも読まれ上野国甘楽郡百済庄(後の多胡郡長根村附近)あり。管はツツとも読み、羅は新羅(しらぎ)と同じくキと読み、管羅(つつき)は都筑の佳字を用いる。和名抄に山城国綴喜郡綴喜郷(京都府田辺町)を載せ、郡名を豆々岐、郷名を豆々木と訓ず。日本書紀・仁徳天皇三十年条に「山背の筒城宮」と見え、都都紀能美夜と訓ず。。万葉集卷十三に「山代の管木の原」と、管木(つつき)と記す。古事記・仁徳天皇条に「大后、山代に上幸し給ふ。此の時歌ひて曰はく云々。此の如く歌ひて還り給ひ、暫く筒木韓人・名は奴理能美の家に入り坐す也」と。奴理能美(ぬりのみ)の家は筒城宮を指す。姓氏録・河内諸蕃に「水海連、百済国人・努理使主より出づる也」。左京諸蕃に「調連、水海連と同祖、百済国努理使主の後也。応神天皇の御世、帰化す」と見ゆ。百済族努理使主(ぬりのおみ)の居住地を綴喜と称す。遠江国浜名郡都築郷(静岡県引佐郡三ヶ日町都筑)は津々木郷と見え、津々崎村もある。百済族海洋民の渡来地なり。多くは百済国海洋民の斎藤族集落を都筑と称す。和名抄に武蔵国都筑郡(川崎市、横浜市)を豆々岐と訓ず。伊呂波字類抄に「ツゝキ」と見ゆ。各市町村に存す。群馬県吾妻郡高山村二十五戸、茨城県久慈郡大子町十一戸あり。

一 斎藤氏族都筑氏 越前河合(福井市)、坂南郡(福井市)の斎藤氏は武蔵国都筑郡に来住して都筑氏を称す。是以前より斎藤氏の所領であったのであろう。尊卑分脈に「河合斎藤助宗―左衛門尉成実―坂南太郎成行―都筑四郎成利―都筑民部丞利用―修理亮利継(実は外孫也、河島と号す)―弥三郎長正―用綱」。成利は斎藤別当実盛と亦従弟なり。中興武家諸系図(宮内庁書陵部所蔵)に「都筑。藤原、本国武蔵、モン七星蛇目、吉原四郎則光七代四郎成利・之を称す」と見ゆ。幕臣都筑氏は寛政呈譜に「四郎成利・武蔵国都筑郡に住するがゆえに都筑と称す。成利が十一代の後胤市左衛門景久・越前国に居住す。その子市大夫景成・文明三年遠江国にうつり住し、のち三河国にいたり松平氏に仕ふ」と見ゆ。

二 斎藤氏族綴喜党 武蔵国都筑郡より起る。平家物語に綴喜党と見ゆ。源平盛衰記に「武蔵国住人綴党の大将に太郎、五郎とて兄弟二人あり」。東日流三郡誌に「畠山重忠が部将、綴太郎、弟五郎」。古今著聞集卷十に「平家の郎等であったため召し捕えられていた『武蔵国住人、つづきの平太経家』が馬術にすぐれていたことから頼朝にゆるされて、厩の別当になった」とあり。

三 長井斎藤氏族都筑氏 幡羅郡長井庄の斎藤別当実盛の後裔にて児玉郡御嶽城・上野国緑野郡三ツ山城の両城主なり。管窺武鑑に「三ツ山城主長井豊前守の舎弟右衛門大夫は、豊前の死後三ツ山を牢人す。豊前は上杉家臣藤田能登守伯母婿なる縁を以って、藤田を頼み越後へ参られ候は天正十三年六月也」。上野国志に「長井右衛門尉信実は、北条に敵し、上杉に帰して越後に走る」と見ゆ。長井豊前守信実の子は上杉景勝に仕へ、本姓都筑氏を称す。文禄三年上杉景勝定納員数目録に「三十二石・豊前守嫡子長井金左衛門、同高・豊前守次男都筑藤拾郎」とあり。

四 斎藤氏流野本氏の本名都筑氏 比企郡野本村より起る野本氏は、尊卑分脈に「疋田斎藤為頼―竹田頼基―基親―野本基員(武蔵国に住す)―時基―押垂重基」と見ゆ。野本村に旧家都築氏現存し、野本氏の本名なり。都築条二十項参照。

五 猪俣党都築氏 続条参照。

六 松山城士の都筑氏 相模国風土記稿大住郡条に「天正九年五月十日、相定法度、糟屋之郷八幡御社頭、出陣之砌、松山家中衆云々。右三ヶ条、有違犯之輩者、以書付、都筑豊後守所へ可申来候、其断明白可申付候、別当法禅坊、能登守長則花押(松山城主上田長則)」と見ゆ。下糟屋村(伊勢原市)八幡宮は高部屋神社と称す。同社の別当糟屋山神宮寺は旧号を法禅坊と云う。

七 忍城士の都筑氏 成田分限帳に「十五貫文・都筑彦兵衛」。行田史譚に「天正十八年忍城攻めの時、都筑甚太郎は佐間口を守る」と見ゆ。

八 信州松本藩戸田氏家臣 元深谷城士にて、東方城主戸田康長に仕える。享保十一年松本藩戸田光慈御抱諸士知行附に「天正年中・武州東方御抱。三百石・都筑茂左衛門」あり。友成条参照。

九 忍藩松平下野守忠吉家臣 慶長十二年清洲藩分限帳に「二百石・都筑孫兵衛・是は忍にて罷出・三州之者、百五十石・都筑喜平次・是は忍にて罷出・尾張之者」あり。

一〇 深谷・川越藩酒井讃岐守忠勝家臣 寛永十四年小浜藩分限帳に「千石・都筑外記、千石・都筑平右衛門、二百五十石・都筑喜右衛門、二百石・都筑五郎兵衛、二百石・都筑平六、百六十石・都筑七郎兵衛、五十石・都筑勘兵衛」あり。

一一 川越藩柳沢出羽守保明(松平吉保)家臣 元禄七年川越藩分限帳に「大近習・百石五人扶持・都筑又七郎、御近習・七両四人扶持・都筑又十郎」あり。

一二 川越藩秋元氏家臣 明治四年館林藩士族帳に「六両余二人扶持・都筑斧七」あり。

一三 騎西・川越藩松平周防守(松井)家臣 明治元年川越藩分限帳に「御年寄・二百七十石・亡養父草斎・都筑右門・四十七歳、十人扶持・養父右門・都筑新九郎・二十七歳、御近習・九十石・亡養父幸之助・都筑源十郎・三十歳、御馬廻・九十石・亡父安左衛門・都筑保左衛門・四十一歳」あり。

一四 岩槻藩松平伊賀守(藤井)家臣 元禄七年岩槻藩分限帳に「六両三人扶持・都筑吉兵衛」あり。

一五 関東郡代伊奈氏家臣 慶長十七年足立郡堀崎村検地帳(大宮市)に手代都筑久三郎あり。

都築 ツヅキ 都筑条参照。東京都保谷市六十八戸、山梨県西八代郡六郷町十戸、宮城県古川市二十六戸あり。

一 葛飾郡小淵村(春日部市) 大杉神社元治元年敷石碑に当所新町組都築和助あり。都筑氏一戸現存す。

二 同郡八丁目村(春日部市) 小淵村大杉神社文政八年御神燈に八丁目新町都築清右衛門。香取社文政十年御神燈に都築清右衛門・都築三五郎・都築久蔵・都築甚助、明治三年碑に都築富蔵あり。一戸現存す。

三 同郡天神島村(幸手市) 天満宮寛政四年升堂雁行現額に当村都築彦七、天保八年庚申塔に都築菊次郎・都築長五郎、天保十五年庚申塔に都築勝右衛門、万延元年庚申塔に都築彦次郎・都築藤次郎、明治十七年庚申塔に都築銀蔵・都築伝八・都築太七.。島川村八幡社明治十五年伊勢講碑に天神島村津々木竹次郎あり。都築氏二戸現存す。

四 同郡杉戸町 昭和三年興信録に「杉戸町・都築清次郎・所得税二十七円・営業税五十六円」あり。

五 埼玉郡越ヶ谷町 明治二十一年皇国武術英名録に北辰一刀流越ヶ谷宿都築清五郎。明治三十年所得税下調査簿に味噌醸造業麹屋都築八右衛門・安政四年生・反別十七町二反歩・地租百九十八円。明治三十五年焼芋商都築岩次郎。貴族院多額納税者議員互選人名簿に明治四十四年都築八右衛門・国税五百九十一円・県下百四十一位。昭和三年興信録・所得税及び営業税(下段)に「越ヶ谷町・都築八右衛門・四百八十一円・五十六円、都築政一・七十三円・五十三円」あり。

六 同郡岩槻町 明治三十五年に都築与四郎・都築佐助・都築きん・都築吉五郎あり。旧家なり。

七 同郡粕壁町 春日部八幡社天保十三年御神燈に都築惣兵衛。明治三十五年小間物商都築彦次郎・蕎麦屋都築仲蔵。春日部稲荷社明治四十三年鳥居碑に都築彦次郎あり。

八 同郡下種足村(騎西町) 西ノ谷村久伊豆社慶応二年御嶽碑に下種足筑城伊吉。明治四年組頭都築源右衛門・三十八歳。秩父郡秩父神社明治二十年算額に埼玉郡種足村都築利治。上州榛名神社明治三十三年算額に北埼玉郡種足村都築源右衛門利治(天保五年生、明治四十一年没)。其の門人に当村都築菊造利長あり。四戸現存す。

九 足立郡草加町 明治三十五年米穀商都築正三郎あり。

一〇 同郡三室村(浦和市) 大牧村清泰寺嘉永五年供養塔に馬場都築四郎次、万延元年庚申塔に馬場都築要吉。明治八年騎西町釜屋文書に三室村酒造人都築四郎治あり。小名馬場に十三戸現存す。

一一 同郡深作村(大宮市) 当村元禄五年碑に都築儀兵衛あり。現存無し。

一二 同郡遊馬村(大宮市) 当村に此氏多く存す。八幡社正徳五年地蔵尊に都築八兵衛・都築庄右衛門・都築忠右衛門、文化四年天満宮碑に都築久作、明治四年水鉢に遊馬村上サ・都築要右衛門・都築喜代次郎・都築孫右衛門・都築啓次郎・都築栄吉・都築助八、アソマ都築貞太郎。川越喜多院五百羅漢像銘文寛政頃に遊馬村都築孫右衛門母。高城寺寛政八年普門品に本村・都築多右衛門・都築彦兵衛・都築五平治・都築太郎右衛門。文政十一年幕府領名主都築宗八.。氷川社天保四年御神燈に都築民治郎・都築万右衛門、明治三十一年碑に都築皆蔵・都築陸蔵・都築民次郎・都築喜代次郎。万延元年武術英名録に北辰一刀流大宮在遊馬村都築兵庫。明治九年戸長都築孫右衛門・文化十三年生、副戸長都築啓次郎・天保六年生、副戸長都築喜代次郎・天保九年生、副戸長都築兵語・文政十二年生、副戸長都築民次郎・天保五年生。明治二十一年皇国武術英名録に天自流西遊馬村都築兵作。並木村氷川社明治三十八年碑に都築貞太郎。昭和三年興信録に「馬宮村・都築喜一・所得税十三円・営業税四十四円」あり。

一三 同郡上尾町 遍照院宝永七年庚申塔に都築五兵衛、元文五年庚申塔に上尾町都築五兵衛。明治三十五年荒物商都築喜八・米穀商都築広吉。

一四 同郡下石戸村(北本市) 明治三十九年三峰山講に下石戸上下組都築権兵衛あり。現存無し。

一五 新座郡館村(志木市) 館村旧記に「天正四年三上氏来て新屋敷に居住す。中道山中通りに至って都築等の輩住居す」。宝暦九年石橋供養塔に館村都築弥三郎あり。一戸現存す。

一六 入間郡川越町 日蓮宗行伝寺過去帳に「西月・都築殿内ノ父。利円・都築右馬助・辰年五月。妙讃・都築又左衛門内・子年九月。順正・都築又左衛門・辰年六月。調円・都築庄三郎・辰年六月。妙養・都築八右衛門内方・卯年四月」。江戸初期なり。明治三十五年薬種商明寿堂都築信蔵あり。

一七 同郡古谷上村(川越市) 善仲寺明治二十七年敷石供養塔に都築利助あり。一戸現存す。

一八 高麗郡白子村(飯能市) 長念寺享保五年碑に都築長右衛門あり。五戸現存す。

一九 同郡双柳村(飯能市) 当村に此氏の旧家あり。十戸現存す。

二〇 比企郡下野本村(東松山市) 土豪にて都筑条四項の後裔なり。延宝八年屋代文書に曲輪村組頭都木六右衛門。字曲輪天神社明治二十八年地蔵尊に都築建蔵あり。六戸現存す。

続池 ツヅキイケ 杉戸に存す。

続橋 ツヅキバシ 蕨、大宮、朝霞、富士見等に存す。福島県郡山市三十六戸あり。

續橋 ツヅキバシ 蓮田に存す。

続谷 ツヅキヤ 越谷、幸手、三郷等に存す。

都筑屋 ツヅキヤ 忍城士にて、成田分限帳に「七貫五百文・都筑屋五右衛門」あり。

続山 ツヅキヤマ 行田に存す。

都竹 ツヅク 川口、浦和、北本、草加、和光、狭山、熊谷等に存す。

都筑 ツヅク 川口、越谷等に存す。

都築 ツヅク 川越に存す。

続石 ツヅクイシ 岩槻、入間等に存す。岩手県九戸郡種市町十一戸、青森県三戸郡階上町十一戸あり。

筒口 ツツグチ 朝霞、所沢等に存す。

都々古 ツツコ 近津条参照。

筒治 ツツジ 川越に存す。

筒塩 ツツシオ 川口に存す。

躑躅森 ツツジモリ 鷲宮、熊谷、吹上等に存す。岩手県岩手郡雫石町十戸あり。

筒田 ツツダ 久喜に存す。

筒野 ツツノ 筒条参照。ノは助詞なり。

一 葛飾郡大川戸村(松伏町) 明治六年大川戸学校人員録に筒野次右衛門四女よ□十二歳あり。四戸現存す。

二 埼玉郡川崎村(越谷市) 明治三十年人名録に筒野藤左衛門・天保十三年生・地租十九円あり。現存無し。

廿野 ツツノ 都野条参照

一 埼玉郡大沢町(越谷市) 清地村近津神社明治二十二年伊勢講碑に大沢町廿野利助。明治三十五年白米商廿野粂吉あり。

二 同郡大間野村(越谷市) 当村に此氏の旧家あり。五戸現存す。

三 同郡下大崎村(白岡町) 全竜寺正徳五年庚申塔に廿野九左衛門・廿野敬次郎あり。九戸現存す。次条参照。

都野 ツツノ 前後条参照。

一 埼玉郡柴山村(白岡町) 菖蒲城主佐々木氏系図に「佐々木源四郎秀綱―治部(天正十八年埼玉郡下大崎村に蟄居・田宅あり、是秀綱より居城住相継者か。然其地心に不叶同郡柴山村に移住。然に柴山村移住の伝に曰く、其田宅は都野将監と云従者の由緒ある者居住す。下大崎の住地不叶の事平生是を語りに聞て、己が田宅に移り替、事を述る。依て移替と云々、下大崎に都野が末今に是あり)」と見ゆ。下大崎村に都野氏は無く、廿野氏存す。字稲荷崎万延元年庚申塔に下分・都野栄吉・都野長吉・都野浅五郎・都野清蔵。明治二十年柴山伏越改造碑に柴山村都野重治郎・都野治右衛門。明治三十年人名録に都々野重治郎・安政二年生・地租三十五円、都々野治右衛門・天保十年生。諏訪八幡社明治三十九年碑に都野七五郎、明治四十二年御神燈に当所都野重治郎・都野房吉あり。ツツノ氏八戸、ツノ氏二戸現存す。

二 同郡閏戸村(蓮田市) 私塾師匠都野茂重郎・号諏訪竜山・明治二十一年没・七十九歳あり。現存無し。

都々野 ツツノ 久喜に存す。

筒場 ツツバ 桶川、川越、都幾川等に存す。

筒淵 ツツブチ 越谷、大井等に存す。

筒渕 ツツブチ 川口、深谷等に存す。

続麻 ツヅマ 狭山に存す。

塘 ツツミ 浦和、宮代、蕨等に存す。堤条十項及びトモ条参照。

堤 ツツミ 筒見、管見、津積に同じ。筒生(つつう、つつうみ)の転訛にて、百済国渡来人集落を称す。例として浅見条参照。和名抄に大和国忍海郡津積郷(奈良県御所市十三に比定す)、河内国大県郡津積郷(大阪府柏原市法善寺附近に比定す)、尾張国海部郡津積郷(名古屋市中川区に比定す)を載せ、上総国長柄郡管見郷(千葉県長柄町附近に比定す)は豆々美と訓ず。賀美郡堤村(上里町)あり、東京市ヶ谷八幡社永禄六年文書に「安中丹後守知行、堤郷、篠塚、中島(藤岡市)」と見ゆ。埼玉郡堤村(羽生市)あり。比企郡上井草村(川島町)永禄六年牛村文書に「井草之郷政所免・つゝミ免、其方に預置申」と見ゆ。小名堤は、葛飾郡中川崎村、道庭村、埼玉郡三之宮村、道地村、生出村、秩父郡栃谷村、伊古田村等にあり。此氏は山間部に存し、堤のある平野部には少ない。○ 群馬県利根郡昭和村五十五戸、勢多郡赤城村二十戸、宮城村二十戸、高崎市百戸、前橋市九十戸。○茨城県東茨城郡小川町二十一戸、真壁郡明野町二十六戸、結城郡八千代町二十七戸。○山梨県北巨摩郡長坂町五十二戸。○長野県東筑摩郡山形村三十戸。○新潟県西蒲原郡味方村三十五戸。○山形県米沢市五十三戸。○青森県上北郡下田町六十戸、青森市百戸あり。

一 丹党堤氏 武乾記に「賀美郡堤村は、堤平次郎時氏と云武士の居し所なり、丹の分類なり」と見ゆ。

二 忍城士の堤氏 成田分限帳に「十三貫五百文・堤勘助」。成田記に「天正十五年、成田氏長の小姓桂千菊・横地虎一・堤笹千代らが連歌に加わる」と見ゆ。

三 忍・川越藩松平伊豆守信綱(大河内)家臣 万治元年川越藩分限帳に「三男因幡守信興臣・五両二人扶持・本国近江生国武蔵・堤新五左衛門・四十一歳」。野火止宿平林寺大河内廟所燈籠に「元禄六年・堤半蔵幸継。天保十年・堤新五左衛門藤原順美」あり。

四 川越藩松平大和守家臣 天保十二年川越藩分限帳に「医師・三百五十石・堤愛郷」。万延二年に「医師・二百五十石・堤愛郷、医師惣領堤玄昌」。二十項参照。

五 埼玉郡久喜町 明治三十五年餅菓子製造堤平左衛門あり。九戸現存す。

六 同郡太田吉羽村(久喜市) 鷲宮村鷲宮神社文政十二年金燈籠に太田吉羽村堤忠助・堤兵右衛門あり。二戸現存す。

七 同郡上種足村(騎西町) 当村年不詳庚申塔に上種足村堤杢左衛門あり。現存無し。

八 同郡広田村(川里町) 鷺栖神社嘉永六年幟碑に堤四方吉あり。五戸現存す。

九 足立郡寺山村(浦和市) 代山村成田不動尊明治四十年碑に寺山堤忠兵衛あり。現存無し。

一〇 入間郡中神村(入間市) 豊泉寺寛文九年鐘銘に中神村塘六兵衛。慶応四年筆子碑に中神村堤鶴吉。明治十一年議定書に堤徳平・堤作平、明治十六年議定書に堤鶴吉・堤作次郎あり。四戸現存す。

一一 同郡善蔵新田(入間市) 明治二十二年埼玉勧業会員堤常七あり。現存無し。

一二 同郡川越町 明治三十五年足袋商騎西屋堤安三郎あり。

一三 同郡如意村(越生町) 字六反田寛政十二年庚申塔に堤五郎兵衛・堤重右衛門・堤吉兵衛・堤惣兵衛。明治九年副戸長堤利平・天保十三年生。明治二十九年越生町農会発起人堤才作あり。十一戸現存す。

一四 高麗郡真能寺村(飯能市) 中山村八幡社天保年中棟札に真能寺村組頭堤治郎助。相州大山阿夫利神社下社嘉永四年御神燈に飯能町織物商講中・堤治助(真能寺村組頭)。明治九年副戸長堤治助・文政元年生。明治十四年炭材木商堤寛蔵・穀炭商堤治助あり。一戸現存す。

一五 同郡赤沢村(飯能市) 土豪にて、星宮神社棟札に「元亀二年二月三日、施主堤相馬佐」と銘あり。明治十三年山稼議定書に赤沢村堤国太郎あり。二戸現存す。

一六 幡羅郡原郷(深谷市) 国済寺村国済寺明和九年廻国塔に原ノ郷邑堤伊右衛門・行年五十一歳。明治九年副戸長堤惣三郎・文化十四年生あり。七戸現存す。

一七 本庄宿 安養院延宝五年鐘銘に堤与兵衛。明治四年諸井文書に台町立会人堤平吉あり。一戸現存す。

一八 児玉町 八幡社享保十一年鳥居碑に堤吉三郎。明治三十五年時計商堤巳之吉あり。現存無し。

一九 秩父郡伊古田村(秩父市) 小名堤あり。国神神社明治三十四年碑に伊古田・堤夘作あり。一戸現存す。

二〇 同郡薄村(両神村) 四項参照。私塾師匠医師堤保造玄篤・号守篤・鋤月・明治八年没六十七歳。明治六年両神神社祠掌願に薄村医師堤玄篤の甥堤盛久・当酉四十七歳。明治九年副戸長堤玄昌。大正四年県会議員調に薄村医師堤新六・明治四年生・国税三十八円あり。一戸現存す。

二一 雑載 昭和三年興信録・所得税及び営業税(下段)に「浦和町・堤常雄・十一円、小見野村(川島町)・堤清作・十七円・十一円、広田村(川里町)・堤紋兵衛・二十一円、秩父町・堤深・八十七円・五十六円、両神村・堤新六・十円」あり。

堤見 ツツミ 川越、熊谷等に存す。

津々見 ツツミ 新座に存す。

堤内 ツツミウチ 川口、戸田、志木、新座、所沢等に存す。岩手県九戸郡大野村十戸あり。

堤腰 ツツミコシ 春日部に存す。

堤崎 ツツミザキ 足立郡堤崎村(上尾市)あり。埼玉郡大越村字堤崎(加須市)は古の村名にて、八坂社安永八年碑に堤崎村と見ゆ。足立郡九左衛門新田字堤崎、入間郡新堀村字堤崎、竹之内村字堤崎あり。川口、浦和、越谷、草加、松伏、川越、飯能、行田等に存す。

堤田 ツツミダ 埼玉郡堤村字堤田、阿良川村字堤田、秩父郡黒谷村字堤田あり。各市町村に存す。

堤竹 ツツミダケ 大宮、越谷、三郷等に存す。栃木県下都賀郡岩舟町七戸あり。

津々路 ツツミチ 幸手に存す。

堤内 ツツミナイ 浦和、草加等に存す。

堤根 ツツミネ 葛飾郡堤根村(杉戸町)、埼玉郡堤根村(行田市)あり。

堤野 ツツミノ 浦和に存す。

堤原 ツツミハラ 越谷に存す。

堤本 ツツミモト 川越に存す。

堤谷 ツツミヤ 川口、浦和、川越、所沢等に存す。

皷谷 ツツミヤ 吉川に存す。

筒本 ツツモト 大宮に存す。

筒山 ツツヤマ 大井に存す。

廿楽 ツヅラ 管羅(つつら)の佳字にて、管羅(くだら)は百済なり。尚、管羅(かんら)と呼んで甘楽(かんら)とも書く。

一 埼玉郡加須町 明治二十二年医師廿楽強哉あり。現存無し。

二 同郡下三ツ俣村(加須市) 諏訪社文化四年水鉢に道下・廿楽岩右衛門。菊地家筆子控に安政四年当村正蓮由右衛門孫廿楽与七、安政五年同所太四郎倅廿楽忠次郎、元治元年当村通殿太四郎倅廿楽要助、慶応二年道下米三郎倅廿楽慶次郎、慶応三年当村太四郎三男廿楽今朝次郎、慶応四年道下太右衛門倅廿楽多賀造。明治五年副戸長廿楽由右衛門・文化十二年生・持高十四石余あり。五戸存す。

三 足立郡上尾町 愛宕社明治四十四年碑に廿楽国五郎あり。一戸現存す。

四 同郡加納村(桶川市) 当村に此氏多く存す。光照寺文政二年廻国塔に上・廿楽伊之助・廿楽清吉、下・廿楽清助。字宮ノ脇天保二年馬頭尊に下加納村廿楽源太・廿楽吉右衛門・廿楽富蔵。明治九年副戸長廿楽作次郎・安政元年生、副戸長廿楽助十郎・文政十二年生。天神社明治十一年御神燈に加納村廿楽助十郎。明治二十六年文書に廿楽徳右衛門・廿楽甲子太郎。字原明治三十七年馬頭尊に廿楽甚右衛門。昭和三年興信録・所得税に「加納村・廿楽浜次・百四十円、廿楽喜惣次・百八円、廿楽甚左衛門・十一円」あり。

五 同郡五町台村(桶川市) 大日堂天和三年大日如来坐像銘に廿禾左右門・廿禾十右門。稲荷社安政三年碑に廿楽麻右衛門・廿楽捨五郎・廿楽常二郎、明治八年碑に新田・廿楽八十右衛門・廿楽留八・廿楽清太郎・廿楽弥右衛門あり。七戸現存す。

六 同郡宮内村(北本市) 深井村寿明院寛政九年寄付帳に上宮内村廿楽喜四郎あり。一戸現存す。

七 同郡鴻巣町 明治三十五年籠屋廿楽才助・籠屋廿楽啓助あり。二戸現存す。

八 同郡吹上村 吹上神社明治四十三年碑に廿楽ふく。一戸現存す。

九 川越町 三芳野神社明治四十年碑に志多町廿楽多吉あり。現存無し。

一〇 幡羅郡葛和田村(妻沼町) 熊谷町日蓮宗賢勝院明治十四年妙法講碑に葛和田廿楽忠兵衛。現存無し。

甘楽 ツヅラ 鴻巣、北本、加須等に存す。カンラ参照。

葛篭 ツヅラ 百済の管羅(くだら、つつら)の佳字なり。次条参照。

葛籠 ツヅラ 鷲宮村霊樹寺文書に「葛飾郡八甫村。寛永四年検地二町一反九畝二十歩・吉左衛門、元禄八年検地先祖雅楽豊後・葛籠甚五右衛門。岩井金左衛門妻は葛籠豊後娘。光厳寺過去帳、喜翁銀西信士・葛籠雅楽也・寛永三年十一月十九日、道音信士・葛籠豊後也・寛永十五年十一月二十四日」と見ゆ。八甫村(鷲宮町)光厳寺寛政三年棟札に本村掛ケ講中・葛籠惣七あり。葛篭氏一戸、葛籠氏一戸現存す。

津々良 ツヅラ 狭山に存す。

九十九 ツヅラ 管羅(つつら)の佳字にて、百済人渡来地なり。比企郡岩殿村(東松山市)より発し、正代村で越辺川に合流する九十九川あり。今はツクモガワと称す。

葛籠入 ツヅライリ 入間郡三ヶ島村字ツヅラ入・糀谷村字ツヅラ入(所沢市)は同所にて、葛籠入と書く。

葛貫 ツヅラヌキ 葛籠木(つづらぬき)、葛籠貫を用る。。野(ぬ)はノで助詞。百済木の管羅木(くだらき)をツツラヌキと読み、葛貫(つづらぬき)の佳字をもちいる。大和国葛城郡(かつらぎ)も神武天皇東征以前の百済人渡来地なり。百済族武内宿祢の子葛城長江曽都毘古あり。ウツミ、蘇我条参照。入間郡葛貫村(毛呂山町)あり、塚越村住吉神社貞享三年文書に入間郡葛籠ぬき村と見ゆ。当村住吉四所神社寛文十二年文書に入間郡葛貫庄弥蔵村と、葛貫村字矢倉なり。クズヌキ参照。

一 川越氏族葛貫氏 入間郡葛貫村より起る。千葉上総系図に「秩父下野権守重綱―川越秩父次郎大夫重隆―葛貫別当能隆―河越太郎重頼」と。小代系図に「小代小次郎俊平の弟小太郎弘家(母葛貫別当平義隆女、河越太郎重頼妹也)」と見ゆ。吾妻鑑卷二十一に「建暦三年五月二日、和田の乱に、北条方の葛貫三郎盛重は害せられる」。典籍古文書に「建治元年五月、武蔵国・葛貫三郎跡四貫を京都六条八幡宮の造営役に負担す」と。太平記に葛貫大膳亮あり。

二 斎藤氏流葛貫氏 入間郡葛貫村より起る。所沢町斎藤系図に「斎藤別当実盛―盛房(葛貫次所、葛貫一子在て早世す。一子信州海野西仙の家を相続なす、海野小太郎仲光と云ふ)」と見ゆ。

三 入間郡川越町 明治三十五年魚商葛籠木繁五郎あり。葛貫氏一戸存す。

四 同郡砂村(川越市) 大仙波村浅間社文化十一年水鉢に今福原・葛貫重右衛門。当村のことか。砂村氷川社文政三年仙元碑に砂村葛貫重右衛門、明治十八年御神燈に葛貫龍吉・葛貫金五郎。昭和三年興信録に「高階村・葛貫金三郎・所得税百二十三円」あり。六戸現存す。

五 同郡勝瀬村(富士見市) 護国寺文政八年湯殿山碑に葛貫源七.。榛名社寛政四年水鉢に葛籠貫源七・葛籠貫長八、明治四十年碑に葛貫初五郎あり。九戸現存す。

葛篭貫 ツヅラヌキ 大宮に存す。

葛籠貫 ツヅラヌキ 入間郡駒林村(上福岡市)安楽寺安政四年筆子碑に駒林村葛籠貫富五郎。明治二十三年素麺製造業葛籠貫嘉平次。福岡村御嶽社明治二十五年碑に駒林葛籠貫源右衛門・葛籠貫幸太郎あり。六戸現存す。

黒葛野 ツヅラノ 川越に存す。

黒葛原 ツヅラハラ 上尾、北本、草加、三郷、戸田等に存す。

伝 ツテ 新座に存す。

津出 ツデ 大宮、伊奈、草加等に存す。

津寺 ツデラ 毛呂山に存す。

津戸 ツド 鴻巣、鶴ヶ島等に存す。島根県簸川郡大社町七戸、平田市八戸あり。ツノト参照。

都通 ツトウ 所沢に存す。

津藤 ツトウ 川口、戸田、吹上、北本、岩槻、越谷、三郷、吉川、杉戸、大里等に存す。山形県最上郡鮭川村二十戸、新庄市十三戸あり。ツドウとも称す。

都富 ツトミ 上尾に存す。

津止 ツトメ 滑川に存す。

津留 ツトメ 春日部、三郷、鳩ヶ谷、川越、所沢等に存す。

津取場 ツトリバ 川口に存す。岩手県九戸郡種市町六戸あり。

綱 ツナ 上尾、桶川、北川辺、朝霞、新座、狭山、富士見等に存す。新潟県北魚沼郡川口町二十八戸あり。

津名 ツナ 浦和に存す。

綱井 ツナイ 川口、浦和、越谷に存す。

綱内口 ツナイクチ 新座、狭山等に存す。岩手県久慈市三十戸あり。

綱内 ツナウチ 川口に存す。

津永 ツナガ 上尾に存す。

綱川 ツナカワ ○栃木県塩谷郡氏家町三十八戸、高根沢町二十七戸、芳賀郡芳賀町四十戸、茂木町五十戸、河内郡河内町十六戸。○茨城県東茨城郡前山村七戸あり。

一 埼玉郡日出安村(騎西町) 当村享和元年地蔵尊に日出安村綱川清左衛門。神明社文化十四年天満宮碑に日出安村綱川富五郎・綱川音治郎・綱川丈七・綱川小吉・綱川松蔵。駒形社天保二年天満宮碑に綱川岩五郎・綱川栄造・綱川武兵衛、天保九年碑に綱川清左衛門・綱川源右衛門。正能村諏訪社嘉永五年富士講碑に日出安村綱川富五郎・綱川栄造・綱川岡右衛門・綱川清左衛門。下村君村永明寺文久二年仙元碑にヒデヤス村綱川富五郎。加須町光明寺慶応二年筆子碑に日出安村綱川清左衛門あり。四戸現存す。

二 鴻巣町 明治三十五年暖炉製造業綱川喜三郎あり。四戸現存す。

三 熊谷町 明治三十五年木賃宿綱川半蔵あり。現存無し。

綱河 ツナカワ 松伏、川越等に存す。

繋 ツナギ 大宮に存す。岩手県九戸郡大野村六戸、二戸市五戸あり。

綱木 ツナキ 大宮、越谷、新座、鶴ヶ島、狭山、所沢、川島等に存す。秋田県鹿角市二十一戸あり。

綱紫 ツナシ 忍城士にて、成田分限帳に「増加二百石・綱紫喜五丞」あり。正訓は綱柴か。

綱柴 ツナシバ 成田分限帳に「二百石・綱柴何右衛門」。別本に「二百石・綱代木何右衛門、五貫文・綱代木左門」と見ゆ。

綱島 ツナシマ 神奈川県綾瀬市二十六戸、長野県上田市十九戸、新潟県刈羽郡西山町十七戸、糸魚川市三十一戸あり。

一 古河衆綱島氏 関東幕注文に「古河衆、梁田家風・綱島小三郎・丸之内之立相雲」あり。

二 岡部藩安部氏家臣 慶応四年岡部藩分限帳に「御用人・百石・綱島波江、隠居・五人扶持・綱島可山」。明治四年半原県分限帳に「大参事・綱島可笑男・士族」あり。

三 足立郡浦和町 昭和三年興信録に「綱島孫作・所得税五十四円・営業税五十六円」あり。

四 同郡三室村(浦和市) 中尾村吉祥寺文政三年六地蔵に芝原綱島武右衛門。明治七年製糸会社人名録に三室村綱島武右衛門。氷川女体社明治二十五年御神燈に芝原綱島喜輔。昭和三年興信録に「三室村・綱島俊平・所得税十二円・営業税十一円」あり。三戸現存す。

五 同郡大宮町 明治三十五年呉服商綱島簾太郎あり。

六 同郡上尾町 愛宕社明治四十四年碑に綱島太十郎あり。

七 同郡大間村(鴻巣市) 大野神社明治三十九年碑に綱島賀市。昭和三年興信録に「田間宮村・綱島安五郎・所得税十五円」あり。五戸現存す。

八 新座郡館村(志木市) 館村旧記に「天正四年三上氏来て新屋敷に居住す。次に程あって大塚通りに綱島(中興所沢村より来る)等追々に来って住する百姓也」。宝暦九年石橋供養塔に館村綱島太右衛門・綱島徳左衛門。千手堂天保十四年供養塔に館村大塚綱島七右衛門。嘉永四年氷川宮寄進帳に館村綱島太右衛門・綱島平吉・綱島丑蔵・綱島由五郎・綱島市郎兵衛。敷島社明治五年御神燈に館村綱島市郎兵衛。本郷村東福寺明治十年供養塔に館村綱島平吉・綱島太右衛門。不動堂明治十四年不動尊に志木宿綱島太吉・綱島平吉・綱島太平・綱島虎次郎。明治三十五年小間物商綱島元一郎あり。十四戸現存す。

九 入間郡岩崎村(所沢市) 明治十五年北広堂碑名簿に旧岩崎綱島三亀あり。一戸現存す。

一〇 同郡豊田本村(川越市) 白髪社明治二十二年碑に綱島小平次あり。六戸現存す。

一一 深谷町 瑠璃光寺明治二十九年筆子碑に綱島桃治郎あり。現存無し。

綱嶋 ツナシマ 川口、狭山等に存す。

綱田 ツナダ 宮城県古川市十七戸。

綱取 ツナトリ 

一 羽生町 昭和三年興信録に「羽生町・綱取伝三郎・所得税二十四円・営業税五十六円」あり。三戸現存す。

二 不動岡村(加須市) 当村明和八年馬頭尊に不動岡村綱取清六・綱取伝八あり。一戸現存す。

綱野 ツナノ 久喜に存す。

綱渕 ツナブチ 鳩ヶ谷に存す。山形県飽海郡遊佐町八戸、酒田市十戸あり。

綱淵 ツナブチ 八潮、新座等に存す。

綱本 ツナモト 大宮、朝霞、深谷等に存す。茨城県結城市十二戸、鳥取県倉吉市十三戸あり。

綱山 ツナヤマ 忍城士にて、成田分限帳に「百五十石・綱山大学」あり。

常 ツネ 鉢形城士にて、小鹿野町吉田系図に「軍役書上、御扶持方衆、三十五文目鉄砲衆三人ふち・常三内」あり。上野国の士なり。

津根 ツネ 上里に存す。千葉県市原市十九戸あり。

恒儀 ツネアリ 恒木条参照。

常在 ツネアリ 松山城士にて、秩父郡御堂村日蓮宗浄蓮寺過去帳に「妙賢・常在下総守・六月。法香・常在下総守内・二月」あり。恒儀(つねあり)の当字か。恒木条参照。

常井 ツネイ 越谷に存す。

常石 ツネイシ 浦和、上尾等に存す。

恒石 ツネイシ 川口、大宮、越谷、新座等に存す。

常泉 ツネイヅミ 埼玉郡常泉村(加須市)あり。各市町村に存す。千葉県夷隅郡大多喜町九戸、市原市三十七戸、茂原市二十一戸あり。

経江 ツネエ 埼玉郡下村君村鷲大明神の神体に経江大明神とあり。キョウエ参照。

常尾 ツネオ 川口に存す。

常岡 ツネオカ 

一 入間郡勝瀬村(富士見市) 護国寺文政八年湯殿山碑に常岡権左衛門。福岡村大杉神社明治十二年拝殿碑に勝瀬村常岡浅次郎。明治十三年埼玉県老農名簿に篤農者常岡藤次郎。明治二十二年埼玉勧業会員常岡勝蔵あり。二戸現存す。

二 同郡本郷村(所沢市) 明治七年成田山月参護摩講に常岡久蔵・常岡平兵衛・常岡甚右衛門。昭和三年興信録に「柳瀬村・常岡治平・所得税八十九円・営業税四十五円」あり。十三戸現存す。

三 同郡中野村(入間市) 慶応元年加藤義快翁石碑造立連銘帳に当所常岡徳次郎・常岡銀蔵あり。二戸現存す。二本木村に六戸存す。

四 同郡砂村(川越市) 氷川社明治五年碑に当所常岡吉五郎、明治十八年御神燈に常岡福太郎・常岡文吉あり。四戸現存す。

恒岡 ツネオカ

一 清和源氏恒岡氏 源三位頼政の家臣猪早太(多田源氏太田広政の子)の末流と称し、相模国恒岡郷より起ると伝へるが、相模国に恒岡郷は無し。頼政の子孫とも称す。恒岡系図(常陸誌料雑記)に「源頼政十三代恒岡源三郎頼資(三郎左衛門尉。扇谷に隷す。相模国恒岡郷に住するを以て称す。正平九年八月上総国武射郡及び越後国にて所領を賜わりし文書あり)―源左衛門尉越後守某(扇谷に隷す。法名祥歓。文安元年十一月、一色伊与七郎出張の時、二男源四郎と共に討死す)―源左衛門尉某(扇谷に隷す)―源左衛門尉某(扇谷に隷す)―弾正忠某(永禄七年八月二十三日太田氏資と共に安房国三船台にて討死)―越後守某(天正十八年小田原没落の時、関宿城開退、行方詳ならず)、弟長門守資氏(岩槻に属す)―内記資政(岩槻に隷す。慶長五年大番組となり三百五十俵を賜る)、弟源左衛門某(御旗本となる)、其の弟三左衛門某(御旗本となる)」と見ゆ。足利直冬書下(保坂潤治文書)に「正平十年七月十八日、恩賞事、恒岡源三郎殿」。常陸誌料雑記に「康暦元年七月二日、常陸国南小栗之庄内細谷郷之事(茨城県真壁郡協和町)、右之所充行也、恒岡三郎左衛門入道殿」。上杉持定宛行状写に「応永十二年六月二十五日、常陸国小栗御厨内八幡島半分荒野掃部助跡事(協和町)、右之所充行也、恒岡三郎殿」。上杉持定書状写に「応永二十六年正月三十日、恒岡源左衛門尉殿」。上杉定頼宛行状写に「応永二十八年七月二十六日、安房国三原郷内西小田村三分一之事(千葉県安房郡和田町)、為新恩所充行也、恒岡源左衛門殿」。上杉持朝感状写に「文安元年十一月二十四日、親父越後入道・同源四郎討死之条、恒岡源左衛門尉殿」。常陸誌料雑記に「永正十五年四月二十六日、扇谷上杉氏の臣恒岡源左衛門尉入道」。八代文書に「恒岡常陸介資勝花押」と見ゆ。以下各条参照。

二 小田原城士の恒岡氏 永禄二年小田原所領役帳に「恒岡弾正忠、三十二貫五百文・稲毛高田村(横浜市港北区)、二十八貫百八十文・江戸下平川五分一(千代田区)、一貫五百文・江戸菅面之内中丸(板橋区)、五貫文・江戸牛込之内富塚(新宿区)、一貫文・江戸北見之内養安寺分(世田谷区)、十三貫文・江戸板橋高本方共ニ、十六貫五百七十文・江戸小日向之内(文京区)、以上九十三貫二百五十文」と。北条氏康書状写(内閣文庫)に「正月朔日(永禄七年)、江戸城の中城へ入候而、可走廻候、恒岡弾正忠殿」。北越軍談に「永禄九年八月二十三日、上総国三船の戦に岩附太田氏の臣恒岡越後守は討死す」。岩槻臨済宗平林寺は寛文三年新座郡野火止宿へ移転す。平林寺文書に「永禄十一年戊辰六月二十三日、其方私領之内、埼玉郡加倉十分一之事、越後討死忠信之跡之儀ニ候間。比企郡野本之事、任法度代官職可被相改者也。恒岡代安首座へ」。野火止宿条に「岩槻平林寺は、天正の頃に至り、泰翁禅師といへる人住職たり。此禅師は北条の旧臣恒岡越後守が舎弟なり。兄の越後守は永禄九年の秋、上総国三船の台の合戦に太田五郎氏資と共に討死せり。されば身は仏門に入ながら戦国のならいにて武事に預り兵卒を率いたり。その頃、安首座と書したる北条家の文書あり、今も当寺に所蔵せるは此禅師へ賜りしなり」と。北条氏政判物写(内閣文庫)に「天正五丑九月二十一日、江戸衆の恒岡越後守に江戸城を出立し、関宿城の警備を命ず」。小田原編年録に「氏康文書に恒岡弾正忠殿と見ゆ、此文書永禄七年下総鴻台合戦の年なるにや。氏政より賜ひしものに恒岡越後守殿としるせしもの二通あり。さればこの越後守は弾正忠が後の名にや。されど又別に疑うべき事あり、関東古戦録云永禄九年の秋八月二十三日太田源五郎氏資上総国三船の台加勢として赴き、源五郎を始め恒岡越後守以下五十二人の郎等枕をならべて討死すと云云、これによれば氏政書簡に見えたる越後守は此人の子歟。されど平林寺安首座のもとへ氏政の書簡に越後守討死後、子孫なしなどいえば、いよいよ疑うべし。猶後考を待つのみ」と見ゆ。恒岡越後守の名跡を継承した出稼衆の人々にて、血縁の無い別家の複数の越後守である。

三 岩附城士の恒岡氏 太田家譜に「太田譜代之士、井伊隼太末流・経岡源四郎、右当家股肱之臣たり」。一項の猪早太の末流で文安元年討死した源四郎なり。高麗文書(家伝史料)に「永禄中、しゅいの次第、恒岡越後殿」と、太田三楽の子で常陸国柿岡城主梶原政景家臣なり。牛村文書(武州文書)に「閏十二月五日(永禄六年)、太田氏資の家臣恒岡資宗・佐枝信宗の両人は、岩附より比企郡井草郷の牛村助十郎に連署状を発給し、入間川の堤防築造を命ず」。資宗は永禄九年に氏資と共に討死した越後守なり。埼玉郡東村(宮代町)鈴木文書に「亥六月十四日(天正十五年)、太田氏房は、百間の代官鈴木雅楽助に、一人半・恒岡三郎左衛門尉等一手組二十人の出役を命ず」。遠藤文書に「天正十四年丙戌十一月二十三日、下総国葛飾郡金野井本郷検地書出、代官恒岡長門・佐枝若狭・百姓中」。同文書に「戊子十月十一日(天正十六年)、金野井本郷代官百姓共、岩附衆恒岡越後殿へ、太田下野守殿へ、長崎殿へ、三橋殿へ、金野井本郷百姓中」と見ゆ。

四 幕臣恒岡氏 道祖土氏系図に「道祖土土佐守康玄(天正七年没)の姉は(恒岡長門守妻、長門守岩付に仕ふ。男子に内記、源左衛門、三郎左衛門の三人共被召出御旗本となる)」と。寛政呈譜に「清和源氏頼光流、太田の庶流なり。恒岡常陸資重(上杉家につかふ)―長門資吉(北条家につかふ)―内記資正(母は道祖土土佐康兼が女。はじめ北条十郎氏房に属し、慶長五年大番となり、三百五十俵をたまふ。十七年(今の呈譜十八年五月十日)死す。法名盛春。牛込の松源寺に葬る。後代々葬地とす)―源兵衛資久(五百五十石。貞享二年正月二十七日死す。法名了春)―権之丞資直(今の呈譜資勝。法名禅隆)―源八郎資房(法名光寒)―源兵衛資剛(法名玄教)―資福―資広(法名法余)―資懿(安永元年継、五百五十石)。資勝の弟資儀(二百俵。法名道雪)―資広(法名全祥。甲府東光寺村臨済宗能成寺に葬る。後代々葬地とす)。家紋、丸に桔梗、鏑矢打違」と見ゆ。

五 日蓮宗信徒の恒岡氏 前項の家とは血縁の無い別家なり。鎌倉日蓮宗妙本寺回向帳に「行純・恒岡越後守・永正十五戊寅十二月朔日。行純・恒岡・九日。道純・恒岡越後守・六日。妙安・恒岡源左右衛門女中・三月。覚林院日勢・恒岡大林軒・天正十九年七月・六十九歳」。秩父郡御堂村日蓮宗浄蓮寺過去帳に「行悦・恒岡源左衛門・天文十五年四月二十日。行純・恒岡・十五日。道純・恒岡・二十四日。妙法・恒岡母・正月二日」あり、永禄七年(或は九年)八月二十三日討死の越後守は日蓮宗以外の家か。入間郡片柳村日蓮宗休台寺棟札に「元亀二年九月二十三日、当所の地頭松山ノ旗下恒岡入道大林軒道会日勢トイヘル人、三十番神ヲ勧請セリ」と。天正庚寅松山合戦記に「黒岩・長谷・田甲方面城方、恒岡入道大林軒」と見ゆ。

常賀 ツネガ 川越、日高等に存す。

常陰 ツネカゲ 浦和、深谷等に存す。

常数 ツネカズ 川口に存す。

常包 ツネカネ 和光、所沢等に存す。

常川 ツネカワ 川口、浦和、大宮、桶川、越谷、草加、戸田等に存す。

恒川 ツネカワ 各市町村に存す。

恒儀 ツネギ 風土記稿比企郡石橋村(東松山市)条に「小名内青鳥・村の中程を云ふ。当所に城跡あり、相伝ふ往昔青鳥判官藤原恒儀と云人住せしと。是いかなる人といふことを知らず。隣村羽尾村(滑川町)の鎮守に恒儀の社あり」と。武蔵志に「比企郡羽尾村恒儀社(ごうぎ)、此は天長六年九月二十日卒去せし青鳥判官藤原恒儀の霊社の由。享保中に土人神宮を乞に京都吉田へ上りしに、雑掌云、『藤原恒儀は角力を捕り、相手清原熊鷹を投殺せしに依て勅勘を蒙りたる事、玉政玉と云書に見へたれば、官授け難し、今よりツネギをゴウギと唱へよ』と有て、吉田の官帳に着と云ふ」と見ゆ。享保以前迄はツネギと唱えていた。藤原恒儀の本名は宿青鳥村の斧沢(小野沢)氏なり。アラハバキ条五項及び青鳥(おおとり)、斧沢、設楽、常木、恒木条参照。

経木 ツネギ 風土記稿比企郡別所村(都幾川村)条に「棟札あり。『奉建立剣大明神御宮殿・天正十六年十一月吉祥日・此明神経木前司吉信公現剣明神給也』と云し人の霊を祀りし由あり。此吉信が事蹟年代等詳ならず」と見ゆ。加藤条二百九十二項参照。

常木 ツネギ 埼玉郡常木村(羽生市)あり、世田谷区代沢町森厳寺鰐口に「宝徳二年八月日、武州太田庄恒木郷極楽寺、阿弥陀堂鰐口也」と銘あり。榛沢郡古寄居村字常木・末野村字常木(寄居町)は同所にて古の村名なり、町田日記に「氏邦妻宗栄尼公は正龍寺の巽に庵を結んで閑居す、黒沢帯刀に其辺に居宅を許し禅尼を守らせける」と、鉢形古城跡記に「奥方大福御前は常木村黒沢帯刀が屋敷跡庵立住まふが正龍寺にて自害す」と見ゆ。秩父郡山田村字常木(秩父市)は古の村名なり。同郡影森村字常木、薄村字常木あり。群馬県佐波郡赤堀村十七戸、新潟県豊栄市二十七戸あり。ツネキと称す。

一 桓武平氏常木氏 秩父郡山田村字常木より起る。坂東平氏一門(鏑木清春著)に「大内沢村登谷の山に長者屋敷あり。昔桓武天皇の皇子葛原親王の御子高見王の第二子恒望王は、武蔵国に遠流仰せ付けられ此の地に閑居せられしより武蔵の大内と号された。後に恒望王の御領地は恒望庄と云われる。恒望王は山田郷に十四年居城され此の地で逝去された。山田郷の人々は御遺命を奉じ御遺骸を大内沢の清地に埋葬した処が大河原御堂の地であると云う。山田に恒望明神の社祠が今尚存す。恒望王は山田郷新城に居館し、恒望王は恒儀と称されたと云う」と。大内沢村及び御堂村の恒木氏伝承か。

二 私市党常木氏 埼玉郡常木村より起る。武蔵志に「丹治系図。直季(天喜元年十月於武州大里郡領、故熊谷兵衛太郎と号す)―河原次郎直光―直則―太郎高信、弟次郎盛直。瀬山・河原・小久保・常木の祖」と。

三 鉢形城士の常木氏 鉢形分限帳に「本国常州笠間・小鹿野住・常木主馬之助、本国参州海塚・常木善九郎」あり。愛知県に海塚村は無し。茨城県笠間市に現存無し。分限帳の本国は信用できず。十四項参照。

四 比企郡石橋村(東松山市) 唐子神社忠魂碑に常木弥五郎あり。一戸現存す。恒儀条参照。

五 熊谷宿 百石組に「慶安元年、常木兵右衛門。宝暦十年、横町(鎌倉町)屋敷持主常木兵右衛門。嘉永元年、常木兵右衛門」。明治三十五年米穀商常木兵右衛門あり。一戸現存す。

六 男衾郡折原村(寄居町) 佐太彦神社嘉永二年御神燈に常木藤右衛門あり。一戸現存す。

七 榛沢郡桜沢村(寄居町) 用土村明治十三年仙元碑に桜沢村常木常行宣山・常木玲行友山あり。一戸存す。

八 同郡用土村(寄居町) 岡本氏系図に「寛永頃、当所常木与五右衛門あり」。明治十三年仙元碑に当村常木藤五郎・常木藤内・常木多市あり。八戸現存す。

九 本庄宿 白川家門人帳に文久二年本庄宿百姓常木七兵衛藤原正道。明治三十五年旅館七楼常木とも・質屋常木源平・紙商常木正太郎。昭和三年興信録に「本庄町・常木清・所得税五十円・営業税七十円、常木源平・所得税五十三円」あり。二戸現存す。

一〇 児玉郡新里村(神川町) 明治五年小前儀定書に常木瀬重郎・常木佐市・常木熊五郎・常木瀬兵あり。二戸現存す。

一一 那賀郡中里村(美里町) 当村元禄十三年庚申塔に常木源右衛門あり。現存無し。

一二 秩父郡井戸村(長瀞町) 宝登山神社明治七年格天井絵奉納に井戸村常木丑太郎あり。六戸現存す。

一三 同郡下吉田村 金剛院明治三十年筆子碑に常木庄蔵あり。二戸存す。

一四 同郡上小鹿野村 別本鉢形分限帳に「常木主馬之助・小鹿野住・新義真言宗常木山十輪寺開山主馬法印」と。子孫常木理助家一戸現存す。明治二十年春日一丁目常木佐作、上一丁目土木請負業常木猪之吉あり。

一五 同郡薄村(両神村) 中郷に小名常木あり。明治六年出浦文書に中郷穴部組常木伊三吉・常木文五郎、大平組常木馬吉・常木定吉あり。四戸現存す。繁木(しげき)条参照。

一六 同郡大滝村 明治十年大滝村屋番号に落合常木喜七あり。現存無し。

恒木 ツネギ 恒儀と書いて、ツネアリと読み、常在(つねあり)とも記す。

一 秩父郡御堂村(東秩父村) 松山城重臣大河原氏の本名なり。日蓮宗浄蓮寺恒儀皎墓地に「至徳四年丁卯十一月十八日、結衆在人、五十人敬白」の供養塔あり。是以前からの旧家なり。常在条参照。浄蓮寺過去帳に「慶長八年八月、武州松山城主滅亡之時、同家長臣佐渡守三男大河原氏、浄蓮寺日真上人と此亡後之帳を作る、則ち恒儀半右衛門尉也。表紙は常木半右衛門尉作之者也」と。大河原半右衛門尉恒儀とも記す。大河原条参照。川越日蓮宗行伝寺過去帳に「還性院日種・大河原ノ常木七兵衛・子年正月。妙行・大河原ノ七兵衛内・丑年十一月」。浄蓮寺過去帳に「春応院常林・常木七兵衛父・辛巳年正月。妙勝・常木七兵衛母・戌年十月。妙存・常木半衛門尉母・慶長十九甲寅年十一月。還性院日種・常木七兵衛・庚子年正月。龍正院妙行・常木七兵衛内儀・慶安二己丑年霜月。妙喜・常木七兵衛内ノ藤右衛門妻・寛文五乙巳年二月。妙久・常木七兵衛内ノ女尼。道種・御堂ノ常木源太父・寛文五乙巳年二月。妙順・常木九兵衛母・未年七月。下屋常松・常木作左衛門・亥年六月。常還・常木伝左衛門父・丑年正月十八日。法玄院覚了教信・常木平八・巳年正月。冷還・常木権四郎父・八月。本勝院蓮相・常木九郎右衛門・寅年十一月」。同寺寄進帳に天明三年・恒儀七兵衛印・大河原浄蓮寺印。安政二年・常木七兵衛・常木主水。同寺明治二十三年碑に恒木七平。大霊神社明治四十一年碑に大河原村恒儀隆治あり。恒木氏一戸現存す。

二 同郡大内沢村(東秩父村) 臨済宗正善寺過去帳に「幽心・恒木与想右衛門子・寛文七年二月。雨香秋霖・恒木金左衛門息女・元禄九年七月。妙林・恒木長右衛門下女・寛保二年十月。智性六部・馬太郎妻・嘉永二年八月、施主恒木栄助。清室寿栄・井戸・恒木新蔵妻・嘉永四年四月」。立原村吉定寺安永五年鐘銘に大内沢村恒儀長右衛門。明治九年副戸長恒木三郎平・天保十年生。明治十六年中耕地議定書に恒木重次郎・恒木永八・恒木関太郎・恒木唯平・恒木三郎平・恒木才三郎・恒木九平。大内神社前明治二十三年碑に恒木三郎平。御堂村浄蓮寺明治二十三年碑に恒儀久平。字井戸明治二十七年馬頭尊に恒木唯平あり。恒木氏十戸現存す。

三 比企郡志賀村(嵐山町) 広野村川島鬼鎮神社慶応二年筆子碑にシカ恒木七之助あり。三戸現存す。

常清 ツネキヨ 草加に存す。

常国 ツネクニ 浦和に存す。

恒崎 ツネザキ 富士見に存す。

経沢 ツネサワ 川口、越谷、吉川等に存す。

経島 ツネシマ 深谷・川越藩酒井讃岐守忠勝家臣にて、寛永十四年小浜藩分限帳に「二百二十石・経島兵右衛門」あり。

常住 ツネズミ 各市町村に存す。千葉県市原市四十戸、君津市十五戸あり。

常澄 ツネズミ 高僧心地房覚心(円明国師)は信濃国筑摩郡神林村(松本市)出身なり。武蔵志に「秩父郡本野上村臨済宗惣持寺開山法灯国師、生は信州神林、父常澄氏、戸隠山習読に附て十九剃髪、東大寺にて受戒。国師画像あり、永仁六年九月二十日・開山覚心印」と。元亨釈書卷六に「釈覚心は、姓常澄氏、信州神林県の人なり。母・戸隠山仏に祈りて子を求む。一夕の夢、仏・燈を以って手授す。年十五・神宮寺に投じ、仏書を読み、十九薙染、具を東大寺に受け高野山に上る云々。永仁六年十月十三日逝く、寿九十二」と見ゆ。当地方に現存無し。

経田 ツネダ 川越に存す。

常田 ツネダ 各市町村に存す。青森県南津軽郡浪岡町六十七戸あり。トキタ参照。

恒田 ツネダ 蓮田、熊谷、小川に存す。

常谷 ツネタニ 浦和、与野等に存す。

常塚 ツネヅカ 東松山に存す。

常次 ツネツギ 川越、飯能等に存す。

恒次 ツネツギ 川口、浦和、入間等に存す。

恒任 ツネトウ 志木、新座等に存す。

恒藤 ツネトウ 蕨、越谷、富士見等に存す。

恒遠 ツネトウ 飯能、本庄等に存す。

常富 ツネトミ 菖蒲、朝霞、和光、狭山等に存す。

常友 ツネトモ 大宮に存す。

恒良 ツネナガ 所沢に存す。正訓不詳。

恒成 ツネナリ 大宮、鴻巣、春日部、川越等に存す。

常西 ツネニシ 富士見に存す。

常野 ツネノ 川越藩松平大和守家臣にて、万延二年川越藩分限帳に「諸士惣領・常野五百之介」あり。

常葉 ツネハ 忍城士にて、成田分限帳に「十貫文・常葉孫十郎」。別本に常磐孫十郎と見ゆ。トキワなり。

常橋 ツネハシ 本庄に存す。

常林 ツネバヤシ 秩父郡下名栗村字常林あり、竜泉寺安永八年六地蔵に常林と見ゆ。

常久 ツネヒサ 越谷に存す。

恒久 ツネヒサ 大宮に存す。

常広 ツネヒロ 大宮、草加、所沢等に存す。

恒弘 ツネヒロ 入間郡越生郷恒弘名あり。報恩寺年譜に「応永三十二年、入西郡越生郷恒弘名鹿下高房」と、入間郡鹿ノ下村字高房(越生町)。堂山村最勝寺寄進状に「文安三年、入西郡越生郷恒弘名之内田代村菊万在家、同所中島在家」と、古池村字田代・同村字菊間、上谷村字中島。小杉村天神社棟札に「文明四年、入西郡越生郷恒弘名之内岩峯山安楽寺天神宮」と、安楽寺は天神社(梅園神社)の別当寺なり。

恒藤 ツネフヂ 浦和、越谷等に存す。

常政 ツネマサ 大里郡神社誌に「幡羅郡上増田村(深谷市)の諏訪山神社獅子頭の神事の起りは、人皇百五代後柏原院・永正飢饉に疫病流行す時に、虚空より獅子頭一つ降りくだれり。神職常政長富・七頭を作り正月十五日より十七日迄八つの獅子頭を舞し、疫神を切払ふ」と見ゆ。同誌に「榛沢郡血洗島村諏訪神社に於ける獅子舞の由来、伊勢国度会郡山田郷に祭る八社あり。八社各獅子頭合わせて八つあり、此の内一は虚空より降り、残り七つは常政長官(富カ)の作なり。里人の口碑に文明年中大飢饉あり、疫病はやりたれば獅子頭を作る」と見ゆ。山田郷(伊勢市)は伊勢神宮の外宮(豊受大神宮)の門前町として栄える。常政氏は幡羅郡及び伊勢に現存無し。

恒正 ツネマサ 熊谷家文書に「承久二年十二月二日、鶴岡八幡宮寺領大里郡熊谷郷内恒正名の名寄帳作成さる」と、西熊谷郷なり。熊谷条参照。

恒益 ツネマス 飯能に存す。

常松 ツネマツ 各市町村に存す。○福島県岩瀬郡鏡石町二十八戸、天栄村二十戸、須賀川市五十戸。○島根県(出雲国)簸川郡斐川町二十一戸、大原郡加茂町十五戸、松江市二十五戸、平田市八十八戸あり。

恒松 ツネマツ 大宮、越谷、草加、鷲宮、入間、狭山、鶴ヶ島、所沢等に存す。島根県大田市四十戸あり。

常見 ツネミ 群馬県新田郡笠懸町八戸、伊勢崎市三十戸、桐生市三十戸あり。

一 埼玉郡岩槻町 明治三十五年呉服商常見万蔵。昭和三年興信録に「岩槻町・常見磯五郎・所得税七十五円」あり。三戸現存す。

二 同郡閏戸村(蓮田市) 薬師寺嘉永元年六地蔵に中閏戸邑常見佐九兵衛・常見勇八あり。二戸現存す。

三 同郡安養寺村(鴻巣市) 箕田村嘉永六年増島俊輔筆子碑に安養寺村常見源之助。万延元年武術英名録に神道無念流武州安養寺村常見一郎。明治九年副戸長常見新助・弘化二年生(組頭)。八幡社明治三十九年碑に常見桂三郎・常見新助・常見トラ・常見啓助・常見藤八・常見辰三郎。上州榛名神社大正四年御神燈に埼玉郡安養寺村常見桂三郎・常見甚三郎。昭和三年興信録に「笠原村・常見桂三郎・所得税十三円」あり。五戸現存す。

四 同郡菖蒲町 菖蒲神社明治十年神道無念流奉納額に常見吉之輔あり。一戸現存す。他村住人か。

五 浦和町 昭和三年興信録に「常見謙三・所得税二十一円」あり。

六 大宮町 明治三十五年糸繭商常見惣太郎あり。

七 熊谷町 宝暦十年新町南屋敷(筑波町)持主常見利兵衛。明治十年熊谷駅議員常見半兵衛。明治三十五年荒物商常見春五郎あり。現存無し。

八 幡羅郡東別府村(熊谷市) 東別府神社文久二年御神燈に常見吉右衛門あり。二戸現存す。

九 同郡俵瀬村(妻沼町) 稲荷社正徳六年御神燈に常見次左衛門(追刻に子孫常見頴作)。酒巻村八幡社慶応三年八海山碑に俵瀬村常見喜平。明治九年副戸長常見治四郎・文政十年生あり。一戸現存す。

一〇 同郡男沼村(妻沼町) 小名常見あり、此氏の屋敷名なり。高橋条参照。上野国桐生氏家臣常見讃岐守は桐生氏没落後に金山城に仕へる。桐生市に多く存し、三ツ扇を家紋とす。義貞公六百年祭に新田氏遺臣末裔として当村に招待状が舞い込み常見一族を驚かせたという。上州常見氏とは関係無く、当村常見氏は五三の桐を家紋とす。慶長八年水帳に常見権兵衛。男沼村誌に「貞享以前よりの家、常見権兵衛(子孫常見徳雄)・常見惣兵衛。貞享元年以後新たに出来た家、常見作右衛門・常見源七・常見仁右衛門・常見権兵衛(子孫常見栄一)。安永四年名主常見源七.。寛政元年名主常見源右衛門。寛政七年組頭常見仁右衛門。寛政十二年名主常見権兵衛。天保八年名主常見源七.。明治四年人別帳に常見寅治郎・一町三反二畝歩、常見政八、常見源七、常見仲七、常見直吉、常見作平」と見ゆ。長勝寺天保九年棟札に常見栄次郎あり。八戸現存す。

一一 榛沢郡新戒村(深谷市) 大林寺文化四年蚕影山碑に常見喜右衛門・常見清吉、明治三十五年筆子碑に常見由十郎あり。一戸現存す。

一二 児玉郡沼和田村(本庄市) 飯玉神社明治二十一年富士碑に常見鷲次郎あり。現存無し。

常深 ツネミ 大宮に存す。

恒見 ツネミ 与野に存す。

常道 ツネミチ 飯能に存す。

常光 ツネミツ 浦和、戸田、新座、熊谷等に存す。ジョウコウ参照。

常宮 ツネミヤ 大宮に存す。

常村 ツネムラ 明治三十五年深谷町穀肥料商常村荘治郎。呑龍院明治四十五年馬頭尊に深谷町常村政治あり。現存無し。

恒持 ツネモチ 秩父郡恒持庄あり、大野原村・黒谷村・栃谷村・定峰村・山田村(以上秩父市)、皆谷村・白石村(東秩父村)の七ヶ村が唱える。秩父志に「恒持神社は山田村にあり、是れ庄司の霊社にして、此一庄の惣鎮守なりと云ふ」。風土記稿山田村条に「縁起に曰く、桓武天皇の子葛原親王の子高見王に御子高望、恒望の御兄弟あり、恒望王は武蔵国に左遷せ玉ふ云々」と見ゆ。此の説は附会なり。常木条一項参照。秩父神社元亨四年文書に恒用郷と見ゆ。

常本 ツネモト 川口、浦和、大宮、熊谷、鳩山等に存す。

恒元 ツネモト 戸田に存す。

恒本 ツネモト 戸田に存す。

常森 ツネモリ 狭山に存す。

恒屋 ツネヤ 本庄に存す。

一 忍藩阿部氏家臣 慶安年中忍藩分限帳に「御小姓頭・二百五十石・恒屋甚兵衛」。享保八年忍藩軍役帳に「四百石・恒屋甚兵衛」。文化四年忍藩分限帳に「御中老・四百石・恒屋甚兵衛」あり。

恒安 ツネヤス 春日部に存す。

常山 ツネヤマ 各市町村に存す。新潟県南魚沼郡塩沢町三十七戸、中頸城郡吉川町十二戸あり。トコヤマ参照。

常吉 ツネヨシ 越谷、入間等に存す。

恒吉 ツネヨシ 川口、大宮、越谷、入間、所沢等に存す。

角 ツノ 野(ノ)は怒(ぬ)と読まれ、角(つの)は都怒(つぬ)とも称す。周防国都濃郡(山口県徳山市)は、大化改新以前は都怒国、或は角国と称す。長門国豊浦郡都濃島(山口県豊北町角島)は延喜式に角島と見ゆ。石見国那賀郡都農郷(島根県江津市)は万葉集卷二に「石見の海、角の浦」と見ゆ。因幡国智頭郡津野村(鳥取県佐治村)は角と記す。また、出雲国飯石郡角井村(島根県頓原町)、石見国美濃郡角井村(島根県益田市)、因幡国法美郡津ノ井郷(鳥取市)あり。日本書紀・垂仁天皇二年条に「御間城天皇(崇神天皇)の世に、額(ぬか)に角有る人、一船に乗りて越国の笥飯浦に泊れり。故、其処を号けて角鹿と曰ふ。問ひて曰く、『何の国の人ぞ』といふ。対へて曰さく、『意富加羅国の王之子、名は都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)、亦の名は于斯岐阿利叱智干岐(うしきありしちかんき)と曰ふ。伝に、日本国に聖皇有すと聞りて帰化す。穴門(あなと)に到り、道路を知らずして島浦に留連し、北海より廻りて、出雲国を経て此間に至れり』とまをす。天皇、阿羅斯等に詔して曰はく、『汝が本国の名を改めて、追ひて御間城天皇の御名を負ひて、便ち汝が国の名とせよ』とのたまふ。仍りて赤織絹を以ちて阿羅斯等に給ひ、本土に返しつかはしたまふ。故、其の国を号けて弥摩那国(みまなのくに)と謂ふは、其れ是の縁なり。是に阿羅斯等、給はれる赤絹を以ちて、己が国の郡府に蔵む。新羅人聞きて、兵を起して至り、皆其の赤絹を奪ふ。是、二国の相怨むる始なりといふ」と見ゆ。意富加羅国(おおからのくに)は、新羅側では大加羅と言い、日本側では任那と言う。韓半島南部の伽耶諸国の一国である。都怒我(つぬが)は新羅国の最高官位『角干(つぬか)』の意味がある。或は、干、加は国、村の意味で角族の国を称す。干岐(かんき)は古代朝鮮の君長を表す語。大加羅から穴門国(山口県下関附近)に至り、北の海を廻って、出雲国を経て、越前国敦賀郡笥飯浦(けひのうら)に泊まる。そこを角鹿(つぬが)と名付けた。額に角有る人は角鹿に附会した描写で角額(つぬが)のこと。角鹿(つぬが)は敦賀(つるが)となり、敦賀市曙町の気比(けひ)神宮の境内に式内社の角鹿神社がある。海人族の奉斎神である。敦賀半島の白木浦に式内社の白城神社があり、敦賀湾沓浦に信露貴神社がある。新羅人の渡来地なり。角、津野、角井、津野井、角田等は大加羅国の新羅人角族の集落を称す。越谷、草加、三郷等に存す。カク、カド、スミ参照。

津野 ツノ 各市町村に存す。栃木県安蘇郡田沼町九戸、山梨県東山梨郡牧丘町十七戸、新潟県岩船郡関川村二十七戸、北蒲原郡中条町十三戸、新発田市二十四戸あり。

一 忍藩松平下総守(奥平)家臣 明治四年忍藩士族名簿に「八人扶持・津野田郎兵衛」あり。

津埜 ツノ 川口に存す。

都野 ツノ 各市町村に存す。

角井 ツノイ 足立郡大宮氷川神社の神職角井氏は、武蔵国造の祖出雲臣と一緒に武蔵足立郡へ移住す。出雲国飯石郡角井村より起るか。また、国造本紀に「相武国造、成務朝、武刺国造の祖・神伊勢都彦命三世の孫・弟彦命を国造に定め賜ふ」とあり。神奈川県横須賀市に角井氏百五十戸現存し、出雲臣と一緒に移住するか。出雲国には角(すみ)姓が多く存す。神職家角井氏は明治元年に東角井、西角井と名乗る。カクイ、カドイ、スミイ参照。

一 大宮宿の角井氏 元禄七年高鼻村検地帳に「神主角井豊之助・三町二反七畝歩」。上信日記に「本庄宿名主森田豊香は、文政二年閏四月一日に江戸をたち、大宮氷川の神主角井茂臣が次郎なる茂雄を伴ひ三日に本庄宿へ帰る」と。明治三十五年に角井幸太郎。昭和三年興信録・所得税に「大宮町・角井武・六十八円、角井佐吉・十二円」あり。角井氏九戸現存す。

二 神職東角井氏 物部福臣家系に「天照国照彦火明櫛玉饒速日命の男・宇麻摩遅命胤。成臣以前代々記録之儀、永禄五年北条氏康、武州岩槻責之節、成臣並神人等岩槻寿能両城為加勢、農民数千駈催及出陣、得勝利候処、其後小田原より大勢出陣乱妨、社頭居宅尽焼払、社記家書紛失、古代之儀難相分七十五代物部良臣応永三十四年卒去、又采女正物部晴臣杯名前有之候得共不相分、依之現然相分候処を相記候。物部成臣―角井式部少輔(天正十五年卒)―采女正敏臣(慶長十三年卒)―式部少輔幾臣(寛永十二年卒)―治部少輔久臣(慶安元年卒)―式部少輔高臣(寛文二年卒)―采女正清臣(寛文十二年卒)―采女正輝光(延宝三年卒)―式部少輔勝臣(元禄六年卒)―主膳正重臣(初メ五兵衛、西角井之祖也)―采女正武臣(元文四年卒)―駿河守義臣(宝暦十三年卒)―采女正直臣(天明六年卒)―安房惟臣(天保五年卒)―駿河信正(嘉永五年卒)―駿河周臣(元治元年卒)―駿河福臣(右福臣迄数代神主職相勤候処、明治元年十月補禰宜職、以来東角井と可称旨被仰渡候)」と見ゆ。風土記稿に「神職角井駿河、二鳥居を入りて東側に住す、物部姓とのみ伝へて由緒詳ならず。土人、此の家を小祝の屋敷と称すといへり」と見ゆ。東角井氏二戸現存す。

三 神職西角井氏 物部忠正家系に「内倉修理行久(宝永四年病死断)―角井主膳重臣(五兵衛、在職六年、内倉修理菅原行久旧幕府寺社奉行にて故障有之糺守、宝永四年中・年四十四歳にて病死絶職跡、同勤角井采女物部武臣後見叔父物部重臣以上命右神主家跡職相続、此代より苗字姓改。正徳二年卒)―保次(母は寺沢志摩守士三宅氏女にて菅原行久姪)―出雲守監物正臣(実佐野氏男、宝暦九年卒)―出雲守監物貞臣(文化八年卒)―主膳茂臣(文政五年卒)―監物治臣(文政七年卒)―出雲忠正(右忠正迄数代神主職相続候処、明治元年十月補禰宜職叙従五位下候以来、西角井と可称旨被仰渡候)と見ゆ。風土記稿に「神職角井監物は二鳥居を入りて西側に住す。此の監物が家は、後年駿河の家より分れたるものと云ふ」と見ゆ。西角井氏二戸現存す。内倉、武蔵条参照。

津之浦 ツノウラ 和光に存す。

角尾 ツノオ 北本、入間等に存す。スミオ参照。

津野尾 ツノオ 幸手に存す。

角岡 ツノオカ 川口、大宮、加須、北川辺等に存す。カドオカ参照。

角折 ツノオリ 児玉郡都島村(本庄市)鎮守角折神社、真言宗角折山正観寺あり。島根県(出雲国)飯石郡三刀屋町十戸あり。

角鹿 ツノガ 岩槻、草加、八潮、鷲宮等に存す。青森県上北郡野辺地町十九戸あり。

角皆 ツノカイ 浦和に存す。

角貝 ツノガイ 入間、鶴ヶ島等に存す。群馬県群馬郡榛名町六戸、倉渕村八戸あり。

角替 ツノガエ 上尾に存す。

角掛 ツノカケ 川口、浦和、狭山、花園等に存す。岩手県和賀郡東和町七戸、岩手郡滝沢村百三十九戸あり。

角川 ツノカワ 各市町村に存す。山形県西村山郡河北町五十戸あり。カクカワ、カドカワ、スミカワ参照。

角木 ツノキ 入間郡市場村字角木。

角国 ツノクニ 菖蒲、春日部等に存す。

津国 ツノクニ 新座に存す。

角熊 ツノクマ 与野に存す。

津隅 ツノクマ 入間に存す。

角崎 ツノザキ 戸田に存す。秋田県南秋田郡若美町十戸あり。

角澤 ツノサワ 桶川に存す。

津野瀬 ツノセ 与野に存す。

角田 ツノダ 大加羅国の角族集落を角田と称す。田は郡県・村の意味。角条参照。○群馬県利根郡川場村六十六戸、昭和村三十三戸、白沢村四十戸、利根村二十八戸、吾妻郡吾妻町四十七戸、中之条町四十六戸、東村三十一戸、勢多郡赤城村二百二十戸、富士見村七十戸、群馬郡群馬町二十三戸、佐波郡玉村町二十戸、沼田市百八十六戸、渋川市八十戸、伊勢崎市五十戸、高崎市百十戸、前橋市四百戸。○千葉県安房郡三芳村二十戸。○神奈川県三浦郡葉山町百戸。○山梨県東八代郡中道町二十二戸、御坂町二十二戸、八代町二十二戸、境川村五十八戸、東山梨郡三富村二十戸、甲府市百十戸。○長野県佐久市八十六戸。○福島県東白川郡棚倉町三十二戸、西白河郡矢吹町二十戸、表郷村四十四戸、東村二十戸、大沼郡金山町二十七戸、三島町四十一戸、河沼郡会津坂下町二十七戸、南会津郡只見町二十九戸、会津若松市六十二戸。○宮城県宮城郡松島町四十六戸、志田郡鹿島台町二十戸、松山町二十八戸。○島根県松江市六十七戸。○鳥取県西伯郡名和町六十三戸あり。カクタ、カドタ、スミダ参照。

一 野与党角田氏 中興武家諸系図に「角田。鬼窪氏同流、モン角丸内九曜」と見ゆ。角田(すみだ)条参照。

二 秩父氏流角田氏 紀州那智山潮崎文書に「延文元年十二月八日、那智山旦那職、武蔵国河越殿・角田殿ツノダ・江戸殿」と見ゆ。隅田(すみだ)条参照。

三 忍城士の角田氏 成田分限帳に「十五貫文・角田助三郎」あり。

四 鉢形城士の角田氏 鉢形分限帳に「本国勢州三重・角田兵部」あり。三重県三重郡に現存無し。

五 川越藩松平大和守家臣 万延二年川越藩分限帳に「御馬廻・二百石・角田武左衛門」あり。

六 石戸領牧野氏家臣 牧野家文書に「角田茂右衛門、大坂陣御供歩行衆、百七十石、子無く断絶」と見ゆ。

七 幸手町 幸宮神社明治三十三年幟碑に角田善助。明治三十五年桶職角田次郎吉あり。八戸現存す。

八 埼玉郡樋遣川村(加須市) 不動岡村不動堂文化五年算額に埼玉郡・角田浅之丞邦実。明治十三年矢口文書に角田嘉兵衛・角田市兵衛。昭和三年興信録に「樋遣川村・角田理作・所得税十円」あり。三戸現存す。

九 足立郡大宮町 昭和三年興信録に「大宮町・角田米吉・所得税二十一円・営業税四十二円、角田真平・所得税十五円」あり。

一〇 足立郡中丸村(北本市) 深井村寿明院寛政九年寄付帳に下中丸村角田安兵衛。加納村天神社明治二十五年碑に中丸角田芳三郎あり。五戸現存す。

一一 同郡箕田村(鴻巣市) 宝持寺延享五年供養塔に角田左門あり。現存無し。

一二 入間郡入間川町(狭山市) 明治三十五年白魚子織製造業角田三右衛門あり。

一三 大里郡熊谷町 明治三十五年荒物商角田ツマ・下駄商角田幸之助。

一四 同郡広瀬村(熊谷市) 文久元年秋山翁碑に角田紋三郎・角田金次郎・角田善三郎・角田権次郎。富士浅間社慶応三年小御嶽碑に当所角田紋三郎あり。四戸現存す。

一五 幡羅郡田島村(妻沼町) 慈眼寺文化九年地蔵尊に角田新平。当村明治八年富士嶽碑に当所角田久次郎あり。一戸現存す。

一六 同郡葛和田村(妻沼町) 神明宮明治十一年御嶽碑に角田嘉吉あり。三戸現存す。

一七 榛沢郡小和瀬村(本庄市) 稲荷社明治四十四年碑に角田周蔵・角田来太郎あり。二戸現存す。

一八 同郡後榛沢村(岡部町) 当村に此氏多く存す。古代以来の土着者なり。角田本尊観世音菩薩之記(角田保治所蔵)に「武内宿祢之苗裔、紀古佐美十五世孫・紀八郎貞頼、常陸国信太郡を賜り信太荘司と称す。紀党は姓を角田に改め、清党は芳賀を称す。芳賀角田両党都合八百余騎は、武蔵苦林野に於て足利基氏と戦ひ、敗軍し、角田党は児玉郡に走る。角田三郎は志渡川之深淵(今称白鹿毛淵之)に落ち入る。子孫綿々世を嗣き相伝して三郎兵衛に至り、天文十六年九月死す。三郎兵衛に兵庫、道慶生る、天正十年七月十日道慶死す」と見ゆ。諸書より引用し、かなり混同している。宇都宮興廃記に「大納言紀古佐美卿の末葉、紀八郎貞頼・常陸国信太郡の郡司と成って下向したるが、其の孫権守正隆が女を粟田少将兼仲朝臣に嫁して、宗綱を生む。正隆・益子の城主と成って、下野に移住す」と。下野国芳賀郡益子城主益子系図に「紀古佐美卿十五世・常陸国信太郡司紀八郎貞頼嫡孫・紀八郎益子権守正隆―女子(粟田左少将藤原兼仲の室、宇都宮宗綱の母)」とあり。粟田を角田に仮冒す。また、太平記卷二十九に「観応二年、高越後守師泰・石見国より引っ返す事。美作国の住人、芳賀・角田の者ども相集まって七百余騎」とあり。岡山県久米郡垪和の菅原姓芳賀・角田両氏なり。卷三十九に「正平十八年、芳賀兵衛入道軍の事。芳賀禅可は、嫡子伊賀守高貞・次男駿河守に八百余騎を差しそへて、武蔵国苦林野にぞ着きにける」とあり。下野国の角田氏の名は見えず。美作と下野の芳賀氏を混同す。また、角田家文書に「観音様は熊谷次郎直実が信仰していたもので、直実と縁類の紀ノ三郎忠綱が浄土宗信者となって一善と称した頃、直実に頼まれて武蔵国後榛沢村に安置し奉り、この地に土着し、一善は紀の姓を角田と改めた。紀ノ一善から二十五代目角田治郎兵衛、其子長重、其子保治、現当主二十九代角田興一」と見ゆ。私(き)姓熊谷氏同族説による紀姓は附会なり。私(きさい)党は丹治党とも称し、紀姓角田氏は丹治党榛沢氏の本名であろうか。榛沢氏は後榛沢村に居住し、鍛冶師支配頭なり。鍛冶師は観音様を守り本尊としている。青木、榛沢条参照。名主角田治郎右衛門は明和一揆に参加し牢死す。寛政十年名主角田治郎右衛門。古郡村安光寺嘉永元年地蔵尊に後榛沢村角田次郎右衛門。東光寺嘉永二年二十三夜塔に角田勘平・角田駒市・角田弥平治・角田啓吉・角田瀧五.。嘉永三年春山文書に酒造業後榛沢村角田治郎右衛門。榛沢村経蔵寺文久二年筆子碑に後榛沢村角田文平。明治九年副戸長角田治郎兵衛・天保七年生、副戸長角田歌治郎・天保十三年生、副戸長角田喜太郎・天保十一年生。用土村明治十三年仙元碑に後榛沢村角田英六・角田啓吉。初代榛沢村長角田治郎兵衛の孫保治・明治十六年生は、大正四年県会議員調に国税二百四十三円。角田覚造の子栄太郎(神奈川県副知事、昭和二十七年没)は、学友尾崎士郎著「人生劇場の青成瓢吉」のモデルとなる。昭和三年興信録・所得税に「榛沢村・角田保治・百十一円、角田助次郎・十四円」あり。

一九 那賀郡駒衣村(美里町) 古代以来の土着者なり。児玉記考に「○旧家角田慶之助、先代を庄兵衛と通称し、地頭松平大和守所領の名主役を勤む。○旧家角田清吉、先代を権次、或は富蔵と云ひ、数代代官支配の名主役を勤続せり。○旧家角田吉松、先代を仲右衛門と通称し、名主組頭役を勤めたり」と見ゆ。秋山村十二天宮寛政七年建立覚書に駒衣村名主角田富蔵、文政十二年世話人角田庄兵衛・角田富蔵。川越藩文政十年松平大和守家記録に駒衣村名主角田富蔵。明治九年副戸長角田仲次郎・天保三年生、副戸長角田正平・天保八年生。明治十六年県会議員調に角田正平・田畑十一町四反歩所有。大仏村羽黒社明治二十一年富士碑にコマキヌ角田仲次郎・角田長三郎。稲荷社明治三十年碑に当字・角田慶之助・角田浦吉・角田由松・角田佐吉・角田安太郎・角田友太郎・角田和吉・角田弁蔵・角田菊次郎・角田勘次郎・角田留吉・角田喜平・角田かね・角田長吉・角田富蔵。児玉町八幡社明治三十五年碑に駒衣角田広久あり。十七戸現存す。

二〇 賀美郡七本木村(上里町) 本庄宿石川剣道場門下生に寛政五年・七本木村角田文之丞あり。九戸現存す。

二一 同郡大御堂村(上里町) 吉祥院天保五年供養塔に当所角田又兵衛・角田孫左衛門。西大御堂村年不詳庚申塔に角田忠治郎あり。三戸現存す。

津野田 ツノダ 浦和、大宮、与野、伊奈、幸手、入間等に存す。栃木県下都賀郡石橋町十戸、河内郡上三川町二十戸あり。

津之地 ツノチ 蓮田、川越、東松山等に存す。

津野地 ツノチ 荒川に存す。

角津 ツノツ 新座、所沢等に存す。

津戸 ツノト 埼玉郡下忍村字角戸(吹上町)は津ノ戸とも記す、古の村名にて、三ツ木村輪光院天保五年馬頭尊に角戸と見ゆ。

一 児玉党津戸氏 埼玉郡下忍村字津ノ戸より起る。風土記稿下忍村条に「小名津ノ戸ありて、昔津戸三郎が住せし所と云伝ふ。此説うけがたし、多摩郡上谷保村に三郎為守が城跡あり」と。三郎為守は附会なり。小代系図(肥後古記集覧)に「小代八郎行平が曽祖父児玉の有大夫弘行の所領武蔵一ヶ国の分には、児玉、入西両郡并に久下、村岡、中条、忍、津戸、野村、広田、崛須、小見野、三尾乃野、弘行の所領也」と見ゆ。

二 菅原姓津戸氏 多摩郡津戸郷より起る。地名辞書に「津戸は谷保の旧名にやあらん」と。谷保天満宮(国立市)は府中本宿にあったものを、後此地に遷せりと云う。谷保村は栗原郷を唱え、東の本宿(府中の別村)附近を津戸郷と唱えたか。武蔵名勝図会に「多摩郡府中領本宿村弥勒寺(府中市本町)の旧地あたりの塚より堀り出したる古碑当寺にあり。津戸三郎為守は武蔵国の住人にて、この辺に住す。この規継はその末孫なり。古碑に『延文五年七月十日、津戸勘解由左衛門尉菅原規継』と長さ二尺余、幅一尺三寸なり。谷保村天満宮は菅原道真三男道武・当所に配流せられ僅か八歳になり給う。成長の後、貞盛が娘に嫁して一男子を儲け給いけるが、貞盛が嫡子修理大夫盛嗣が義子として、その後菅原道英と号す。この末裔なる津戸次郎為広の三男三郎為守は養和元年当社を建立す。按ずるに、平貞盛の息男に盛嗣というは見えず。道武というも菅公の男子に見えず。この為守が遠裔のもの津戸氏を称し略系をもてり。その記を閲するに、為守が父を津戸次郎為広と云。その為広が父は菅原孝標常陸介にて東国へ下向す。武蔵国秩父権守平重綱が女に嫁して一男を儲く。これを次郎為広と号す。父孝標帰京の後、外祖父重綱が許に長じて、信州筑摩郡津戸郷に住居せしが、地の名津戸を以って氏と称す。按ずるに信州筑摩郡の内に津戸郷見えず。又一説筑摩郡松川村の辺に津戸郷ある由をいえども、いまは悉く原野の地なり。為守の嫡男津戸民部大夫守朝、守朝の嫡男新民部丞為忠なり」と見ゆ。規継の古碑は現在谷保天満宮が所蔵す。谷保城跡に現住する三田氏所蔵の万治二年の古絵図に津戸三郎為守の城跡とあり。古代氏族系譜集成に「壬生吉志貞盛(三田領主、谷保県主、延喜十五年多摩郡栗原郷に住す)―谷保大夫貞重(妹は菅原道武妻、道英母)―貞政―重行―三田大夫重貞―重信―右馬允重久―女子(津戸二郎菅原為広妻)」と。津之戸系図に「秩父権守重綱娘は菅原孝標妻となり、津之戸為広を生む。其子三郎為守なり」と。古代氏族系譜集成に「菅原三郎道武―武英(又、道英。母谷保県主壬生吉志貞盛女)―行俊―行基(源頼義随兵)―行秀―□□―津戸二郎為広(住多摩郡津戸邑)―三郎為守(母三田右馬允重久女。法名蓮実、法然上人弟子、奉仕鎌倉右大将)―民部大夫朝守(建長五年十一月二十一日卒)―新民部丞為忠(東鑑、正嘉二年)―右近将監為規(弟に帯刀左衛門尉為時)―右近大夫為行―刑部丞為武(弟は宝持寺仲尊)―右近将監為英―民部大夫為連―右近将監為国。為行の弟勘解由左衛門尉規継―出羽権守六郎規縄(室町幕府右筆方奉行人、建武元年入道蓮光)―淡路守太郎規栄(弟に民部左衛門尉五郎規元)―規遠―規兼―規友―規親、弟氏規」。「為守の兄津戸太郎為長(石橋山有功、一谷合戦蒙疵)―小太郎為方、弟三郎兵衛尉為邦、其の弟黒須五郎左衛門尉為定(入間郡黒須庄)、其の弟六郎為和」と見ゆ。但し、石橋合戦に津戸氏の名は見えず。中条(ちゅうじょう)参照。

三 津戸氏の名は、法然上人絵伝に「武蔵国の御家人・津の戸の三郎為守は、生年十八歳にして、治承四年八月に幕下将軍石橋の合戦のとき、武蔵国より馳まいる。為守は法然上人に帰して、津戸郷に念仏所を建立す。出家して尊願と号す。寛元元年、尊願は子息の民部大夫守朝を呼びて、腹を切りて往生す」。吾妻鑑卷四十八に「正嘉二年正月一日、年始の儀、津戸新民部丞」。典籍古文書に「建治元年五月、武蔵国・津戸入道跡三貫を京都六条八幡宮の造営役に負担す」。高野山文書に「乾元二年閏四月、奉行津戸出羽入道尊円は、紀伊国那賀郡阿弖川庄(和歌山県有田郡清水町)を沙汰す」。北条貞時十三年忌供養記に「元亨三年十月二十七日、津戸兵庫入道は、銀を献ず」。御的日記に「嘉暦三年正月九日、津戸彦三郎為景は弓射をつとむ」。「元徳二年正月十四日、津戸彦三郎為重は弓射をつとむ」。賢俊僧正日記に「貞和二年五月十三日、津戸は、幕府の恩賞沙汰の奉行をつとむ」。野辺古文書に「貞和五年十二月八日、武蔵国榛沢郡野辺郷地頭野辺盛忠の恩賞を、津戸出羽入道が奉行す」と見ゆ。下って、北条氏邦印判状写に「天正十七年己丑極月二十二日、十六貫三百文・津戸分・秋山之内(児玉町)を香下源左衛門尉に宛行ふ」と見ゆ。

四 上野国の津戸氏 上野国志に「緑野郡藤岡村一行寺は藤岡山尊願院と称し、開山開基は、仁治元年武蔵国津戸三郎為守入道尊願」と見ゆ。浄土宗藤岡山尊願院一行寺は、本動堂村(藤岡市)に仁治元年尊願法師が開山し専修山一向院と称した。天正十九年藤岡城主芦田氏の祈請により藤岡村へ移転す。

五 岩附城士の津戸氏 幕臣伏見家譜に「その先菅原氏にして、津戸(つのと)と称す。山城守為長武蔵国に住し、北条十郎に仕ふ。其男山城守為次とし、為次が男為則・伏見金右衛門長景に養はれ、其家督を継、伏見と称す。千石。家紋、丸に梅鉢、丸にむかひ合蝶、梅鉢は津戸の紋なり」と見ゆ。

六 津戸氏の後裔 国立市谷保に神主津戸氏(つど)一戸存す。菅原姓津戸氏とは別流にて在名を名乗るか。また、武蔵志に「多摩郡八王子駅。大善寺は横丁と云に在、本堂の裏に津戸三郎入道尊願追福の塔あり。彼為守入道尊願が苗裔、八王子町民に在り」と、現存無し。

角淵 ツノブチ 上野国世良田村長楽寺文書に「元徳三年七月十二日、平時雄が田在家注文書に、男衾郡小泉郷内、一宇一貫文・角ふち入道・町屋」と見ゆ。男衾郡今市村(寄居町)の児泉神社の門前なり。平条十四項参照。現存無し。

角巻 ツノマキ 上尾に存す。

角町 ツノマチ 吹上に存す。

津野見 ツノミ 忍城士にて、成田分限帳に「三十人扶持・津野見道楽」。

都宮 ツノミヤ 大宮に存す。

角村 ツノムラ 大宮、志木、狭山、日高等に存す。カクムラ参照。

一 本庄町 明治四年諸井文書に仲町角村金吉あり。現存無し。

角森 ツノモリ 上尾に存す。島根県(出雲国)簸川郡佐田町十四戸、安来市三十二戸、出雲市二十三戸あり。

都野守 ツノモリ 川越に存す。島根県(石見国)益田市五戸あり。

角谷 ツノヤ 児玉に存す。カクヤ、カドヤ、スミヤ参照。

角山 ツノヤマ 比企郡角山村(小川町)あり、今はカクヤマと称す。川口、蕨、草加、杉戸、新座、狭山、鶴ヶ島、所沢等に存す。新潟県刈羽郡小国町三十九戸あり。カクヤマ、カドヤマ、スミヤマ参照。

一 日蓮宗信徒 比企郡角山村住人にて苗字にあらず。秩父郡御堂村浄蓮寺過去帳に「宗源・角山・蓮樹坊旦那・承応三年正月。源得・蓮樹旦那・角山六左衛門・寛文三年八月。妙宗・角山与五兵衛母・寛文六年十月」あり。

鍔 ツバ 大井、三芳等に存す。

津波 ツバ 草加、富士見等に存す。

津梅 ツバイ 川口、新座、所沢、羽生等に存す。

椿井 ツバイ 大宮、鴻巣等に存す。

椿 ツバキ 葛飾郡椿村(杉戸町)、足立郡大和田村字椿、秩父郡大内沢村字椿あり。各市町村に存す。○群馬県太田市二十三戸。○栃木県真岡市十五戸。○茨城県稲敷郡東町十二戸、河内町七戸。○千葉県香取郡神崎町五十四戸、下総町三十六戸、大栄町三十四戸、佐原市八十戸、八日市場市三十八戸。○新潟県南蒲原郡田上町十六戸、北魚沼郡守門村四十四戸、栃尾市四十五戸。○島根県鹿足郡津和野町十三戸、邑智郡石見町二十四戸、簸川郡大社町二十四戸、能義郡広瀬町二十戸。○鳥取県東伯郡羽合町十六戸、北条町十一戸、気高郡気高町十二戸、倉吉市二十三戸あり。

一 桶川町 明治三十五年菓子商椿徳次郎あり。現存無し。

椿内 ツバキウチ 春日部、草加、富士見等に存す。

椿久保 ツバキクボ 入間郡上野村字椿久保あり。

椿沢 ツバキサワ 川口、大宮、川越等に存す。

椿下 ツバキシタ 埼玉郡国納村字椿ノ下、足立郡下野田村字椿下あり。

椿田 ツバキダ 朝霞、新座、所沢、東松山等に存す。

一 埼玉郡小針村(行田市) 神仙寺寛政十一年供養塔に椿田清六あり。現存無し。

椿野 ツバキノ 鳩ヶ谷、上里に存す。

椿原 ツバキハラ 川口、松伏、朝霞、川越、大井、寄居、秩父等に存す。

椿峯 ツバキミネ 入間郡北野村字椿峯、堀ノ内村字椿峯あり。

椿本 ツバキモト 上尾、与野、蕨、毛呂山、深谷、妻沼等に存す。

椿谷 ツバキヤ 浦和、上尾、蓮田、幸手、富士見等に存す。秋田県大館市十六戸あり。

椿山 ツバキヤマ 埼玉郡黒浜村字椿山、足立郡吉野領本郷村字椿山、高麗郡五味ヶ谷村字椿山あり。川口、浦和、岩槻、草加、三郷、鳩ヶ谷等に存す。

燕昇司 ツバクロショウジ 所沢に存す。正訓不詳。

津波古 ツバコ 上尾に存す。

鍔田 ツバタ 大宮、三郷、八潮に存す。

津端 ツバタ 各市町村に存す。新潟県中魚沼郡津南町四十一戸あり。

津畑 ツバタ 越谷、草加、松伏、狭山、富士見等に存す。新潟県十日町市十八戸あり。

津幡 ツバタ 各市町村に存す。新潟県東頸城郡安塚町十戸あり。

一 川口町 明治三十五年筆製造津幡亀吉あり。一戸現存す。

二 榛沢郡内ヶ島村(深谷市) 永光寺明治四十年碑に津幡勘四郎あり。一戸現存す。

津羽田 ツバタ 川口町善光寺嘉永六年庚申塔に当所津羽田音次郎あり。現存無し。

津花 ツバナ 浦和、桶川、越谷等に存す。青森県むつ市五戸あり。

椿原 ツバハラ 川口に存す。

燕 ツバメ 北本、越谷、飯能等に存す。新潟県三島郡三島町十戸あり。

鍔本 ツバモト 川越、所沢等に存す。千葉県香取郡神崎町七戸あり。

津葉本 ツバモト 北川辺に存す。

鍔屋 ツバヤ 川口、蕨等に存す。

津原 ツハラ 川口、蕨、大宮、越谷、三芳、所沢等に存す。

一 忍城士の津原氏 成田分限帳に「十貫文・津原弥五右衛門」あり。

二 入間郡北永井村(三芳町) 明治六年願書に津原福三郎あり。一戸存す。

三 川越町 喜多院明治三十四年水鉢に下駄職津原忠蔵あり。津ヶ原なり。

対比地 ツヒヂ 大宮に存す。

津部 ツブ 秩父郡下田野村字津部ノ沢あり。

津武 ツブ 川口に存す。

津吹 ツブキ 各市町村に存す。栃木県鹿沼市二十戸あり。

粒木 ツブキ 菖蒲に存す。

津吹 ツフク 鹿沼市四十七戸あり。

津布工 ツフク 群馬県館林市十六戸。

津布久 ツフク 各市町村に存す。栃木県安蘇郡田沼町四十一戸、下都賀郡大平町六戸、佐野市二十戸あり。