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ご法話聴聞の基礎資料 |
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不幸になりたい人は、一人もいないでしょう。すべての人は、幸福を願って生きています。にもかかわらず、現実には、「幸せだな〜」なんて実感している人は少ないようです。
「人の一生は重荷を背負うて遠き道を行くが如し」(徳川家康) 幸福感をたとえ味わうことがあっても、それはしばらくの間に過ぎません。ある人は金を儲けさえすれば幸せになると思い、ある人は一家団欒こそ幸福だと思っています。 「達者なのだけ、喜んでおります と言われるお年寄りは、健康をもっとも大事にしているのでしょう。はては、珍しい宗教に熱心な人まで、幸福になれると信じて一生懸命ですが、思い通りに世の中は回らないようです。 投資を惜しまなかった金の亡者が、一転バブルが弾けて、借金を重ねる結果になったり、幸せな家庭を望みながら、子供の非行や登校拒否に悩まされ、あるいは不倫から離婚に至る熟年夫婦が激増している現実もあります。 どれほど健康に心がけていても、体は年々衰え、知らない間にガンが進行しているかもしれません。交通事故にでも遭えば、昨日までの健康は吹き飛んでしまいます。 「達者なのだけ・・・・・」 といっている年寄りの健康ほど、不確かなものはないでしょう。すべては続かない幸福なのです。 仏教用語ではありませんが、「運命」という言葉をあえて用いるならば、幸福とはよい運命、不幸は悪い運命です。私たちは果たして、何を信じれば、よい運命に恵まれるのでしょうか。悪い運命を避けるには、どうすればよいのでしょうか。「偶然だから、どうしょうもないよ」とか、「それは神さまが決めることだから、神を信じなきゃダメだ」 という人もあります。それでは、私たちの努力すべてを否定することになりますが、それでよいでしょうか。 運命はどのように決まるのか、法則があるのです。それを教えられたのが、約二千六百年前、インドにお生まれになったお釈迦様でした。「因果の道理」こそがそれです。 |
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●仏教の根幹「因果の道理」 因果の道理は仏教の根幹といわれます。根幹とは、木でいえば根や幹のこと。根っこがなければ木は枯れ、幹を切ったら倒れてしまう。因果の道理が分からねば、仏教は一切分からなくなってしまうのです。 仏教は、七千巻余りもの一切経にすべて書き残されていますが、それら一切経を貫いている教えが、因果の道理です。 ●道理 まず「道理」とは、仏教で「三世十方を貫くもの」をいわれます。 いつの時代でも、どこへ行っても正しいこと、変わらない事実を、「道理」といいます。 ●因果 「因果」とは、原因と結果のこと。 例えば、飛行機が海に墜落すると、多額の費用がかかっても、機体を引き上げ、原因を調査します。原因なしに墜落することはありえませんし、その原因を
墜落や事故などの物理的な因果関係もありますが、仏法では、私たちが何よりも知りたい、幸福や不幸の原因と結果の関係が教えられています。
善因善果(ぜんいんぜんか)
次に「自因自果」とは、自分のまいた種は、自分が刈り取らなければならない、ということです。 自分が勉強すれば自分の成績が上がるのであって、友達の成績が上がると思ったら、だれも一生懸命努力する人はいないでしょう。 ここでお釈迦さまが「因」と説かれているのは「行為」のことであり、「結果」とは「運命」のことです。 善いのも悪いのも、自分の運命のすべては、自分のまいた種が生み出したものですよ、と仏教では教えられています。 私の運命のすべては、私のやった行為が生み出したものであり、それは万に一つも例外はないのだよ、と教えられているのが仏教であり、親鸞聖人なのです。
世の中には一見すると、自因自果とは思えないことがあるのも事実です。 しかし、まかぬ種は生えません。奥さんの受ける結果のすべては、奥さん自身のまいた種に間違いはないのです。なぜそういえるのでしょうか。 それは、この奥さんが、この男と結婚したからでしょう。結婚さえしなければ、今の苦しみはなかったはず。適齢期の男性は星の数ほどあったのに、どうし
では、夫は悪くないのか、無関係か、と疑問が起きるでしょう。これは仏教では縁といわれます。
因果の道理は、正確には因縁果の道理といいます。まかぬ種は生えませんが、因だけではまた、結果を生じないのです。 米はモミ種から作られますから、米の因はモミ種です。 これを因縁果の道理といい、因果の道理は縁を因に含んだいい方であることが分かります。
では、どうして行いが運命を生み出すのでしょうか。 行為のことを、仏教では業といいます。私たちのやった行為は、業力という目に見えない力となって残り、決してなくなりません。 アラヤとは昔のインドの言葉で蔵のこと。 五十年や百年の生死間は、永遠の生命の流れから見れば、とうとうと流れる大河の水面にポツンと生じ、やがてパッと消え去る水泡のようなものでしかありません。 その阿頼耶識は”暴流のごとし“と教えられます。暴流とは激しい流れのことで、滝のようなものです。 ●身口意の三業 行いには、身、口、意の三業があります。 ●目に見えない業力が、 こんな歌があります。 ●縄を恨む泥棒 ところが私たちは、幸せな運命がやってきた時には、善因善果、自因自果と認められますが、悪い運命がやってきた時には、自分の過去の行いの結果だとは、なかなか思えません。あいつが悪い、こいつのせいだと、他人のせいにしてはいないでしょうか。 「縄を恨む泥棒」 しかし、この泥棒を笑える人がいるでしょうか。 「火の車 造る大工は なけれども 歴然として私がない、この因果の大道理を信じれば、悪を恐れ、善を求める気持ちが強くなります。 |