鍛えて最強馬をつくる〜ミホノブルボン〜


平成4年。第59回日本ダービー18頭がスタートした。私の信念、理論、技術、愛情、期待 といったものの塊であるミホノブルボンと小島貞博騎手が、先頭に飛び出している。 枠順も位置どりも関係ない。自分のペースで力の限り走ればいい。そうすれば必ず勝てる。 愛馬を見守る戸山師には確固たる自信があった。

ミホノブルボンはたった700万円の安馬だった。血統的にも良血と言うわけでもなく、 まったくどこにでもいる平凡な馬だった。しかし戸山為夫調教師が、そのスピードを見出し、 鍛えに鍛えて最強馬に育て上げたのだ。

ミホノブルボンは北海道、門別の原口牧場で生まれ、(有)ミホノインターナショナルが約700万円で 購買し、平成3年栗東の戸山為夫厩舎に入厩した。ミホノブルボンを担当したのは厩務員になってから まだ3年目の安永調教助手。安永助手は2年間戸山調教師のもとで、7頭の馬を担当したが、その7頭の 馬で2勝しかできなかった。戸山流のハードトレーニングに馬たちが耐え切れず、故障が続出して しまったのだ。そんな安永助手が、ミホノブルボンを担当することになった。

安永助手はミホノブルボンにも今までと同様にハードトレーニングを行った。ミホノブルボンが ほかの馬と違っていたのは、見事にハード調教に耐え抜き、見る見るうちに力をつけていったところ だった。
8月初旬、9月の新馬戦にむけて坂路調教の初めての追い切りで、ミホノブルボンの能力の一端が 示された。当時の坂路コースは500Mで、一流のオープン馬でも30秒以上のタイムがかかっていた。 しかしミホノブルボンはデビュー前に、その500Mの坂路コースを29秒9という信じられないタイム で駆け抜けたのだ。その場に居合わせた人は皆、時計が壊れたのかと思ったという。

そのような経緯もあり、ミホノブルボンはデビュー前から評判が高く、9月7日デビューの新馬戦 (中京競馬場 芝1000M)では、圧倒的な1番人気となった。
しかしレースでは、ミホノブルボンはスタートで1頭だけ大出遅れ、ほとんど勝利は絶望と思われたが 中京競馬場の200Mの短い直線で、12頭をゴボウ抜き。58秒1のレコードタイムで優勝した。
次の11月の500万下(東京競馬場 芝1600M)も6馬身差で圧勝し、12月の朝日杯3歳S(中山競馬場 芝1600M) もヤマニンミラクルを鼻差しりぞけ、最優秀3歳牡馬に選ばれる。

ミホノブルボンを語るには、やはり戸山調教師の存在が欠かせない。戸山調教師は騎手から調教師に なった人だが、騎手時代は体重が重かったため、いつも減量に苦しみ、思うような結果が出せな かった。しかし調教師になってからは、常に新しいことに挑戦し、実績を作り上げてきた。持論は 「競馬はスポーツである以上、鍛えることによって、より強い馬を作ることができる」というものだった。 そしてその持論のもとにミホノブルボンに毎日5本の坂路調教(他の厩舎は通常1本か2本)を行った。 戸山調教師は、坂路調教のパイオニアでもあった。最初、栗東トレーニングセンターに坂路コースができたとき、 ほとんどの調教師は、よくわからない方法で馬の調整に失敗してはいけないと思い、坂路コースで調教する 馬はほとんどいなかった。しかし、戸山調教師を含め、数人の調教師は坂路調教で確実に成果をあげていった。 これが後の関西馬旋風の大きな原因になるのである。

あけ4歳になったブルボンは、1月に腰をひねってしまい、再度調整のしなおしを余儀なくされ、4歳の 最初にレースは、3月の中山のスプリングS(1800M、GU)となった。この頃、戸山調教師はマスコミにミホノブルボンの 距離適正を問われると決まって「ミホノブルボンはスプリンターである。」と発言していた。確かに現状では 距離の短いレースでしか実績を上げていないし、競走馬の本質はスプリンターであるという、戸山師の持論の 上での発言であり、戸山師自身は、「鍛えれば距離はこなせるようになる」というもう一方の持論も、言外に 含んでいたと考えられるが、マスコミは戸山師の言葉を額面どおり受け止め、「ミホノブルボン距離不安」説が この頃から引退まで、ミホノブルボンの生涯つきまとうことになる。

スプリングS当日。1番人気に推されたのは、3歳王者のミホノブルボンではなく、暮れのラジオ短波杯3歳Sを楽勝して ここに駒を進めてきたノーザンコンダクトだった。鞍上は弱冠23歳にして、この頃すでに天才の名をほしいままにしていた 武豊。対するミホノブルボンの鞍上は、不惑の小島貞博40歳。
小島貞博騎手は有名な騎手ではない。これまでに目立った実績もない。正直、ミホノブルボンの鞍上としては 役不足の感すらある。しかし戸山師は小島騎手を乗せつづけてきた。もちろんこれには理由がある。それは戸山師の 信念とも言えるものである。というのは、戸山厩舎は基本的に、戸山師の弟子である小島貞博、小谷内秀夫、両騎手以外の 騎手に騎乗依頼はしないのである。どんなに将来有望な馬であろうと、弟子の小島、小谷内騎手をさしおいて、武豊や、岡部幸雄 を乗せることはないのだ。つまり馬を預ける馬主の側から見れば、戸山厩舎に馬を預けたが最後、馬が引退するまで小島、 小谷内両騎手が手綱を取りつづけ、武豊が騎乗することはありえないのだ。
もちろんこのようなことにすべての馬主が納得するわけではない。だから戸山師は最初に馬を預かる際に、きちんと宣言する のだ。
「私の思うとおりに鍛え、騎手はずっとうちの弟子の小島か小谷内を乗せますよ。それでよければうちに馬を置いてください。」
もちろんこのような取り決めに納得してくれる馬主はそうはいない。大馬主になればなおさらだ。だから必然的に戸山厩舎には 高馬は集まってこない。どちらかというと中ぐらいから、安物の間の馬が多くなる。しかし戸山師はそんなことを気にする 風もない。これが俺の信念だと言わんばかりに平然としていた。

スプリングSは不良馬場で行われた。スタートしてすぐにミホノブルボンが先頭に立つ。このとき最初ダッシュよく先頭に 立とうとしたのは、後の名スプリンター、サクラバクシンオー(5歳、6歳時、スプリンターズS連覇。中山芝1200Mのレコード ホルダー)だったが、そのサクラバクシンオーが先頭に立てなかったレースというのは生涯でこのレースくらいではなかろうか。 逆にいえば、ミホノブルボンはそれぐらい天才的なスプリンターだったといえる。
ミホノブルボンが終始先頭で進み、人気のノーザンコンダクトは中団から後方を進む。第4コーナーをカーブして直線コース。 ミホノブルボンの脚色は全く衰えない。逆にノーザンコンダクトのほうは、不良馬場に脚を取られたか、馬群に沈んで行く。 ミホノブルボンは直線で後続を突き放し、結局7馬身差で楽勝した。11着に惨敗したノーザンコンダクトは、このレースのあと 脚を痛め、クラシック戦線から離脱していった。

TOPページにもどる