県歌・信濃の国

みなさんは,自分の住んでいる県,あるいは出身県の県歌をごぞんじでしょうか。

私はこれまで住んだことのある千葉県東京都神奈川県のどれも知りません。 一応,神奈川県の公務員ということになっているのに, そんなもの聞いたこともない。
小学生だった1973(昭和48)年千葉国体(わかしお国体)が開かれたときに 学校で習志野市歌を教わりましたが (たしか習志野市はボクシングの会場で,家のそばの市立体育館へ試合を見に行った), 県歌なんて教わったことなどありません。
全国47都道府県,いろいろ批判もありながら国体などが開かれるせいもあって, どの県にも県歌県旗が決められているようです。 でも,そんなもの,普通の住民には全くどうでもいい存在であって, きわめてまれに目に入ることがないでもないはともかく, 演奏される機会など普通は決してあり得ない県歌なんて 誰も知らないのが普通です。

ところが,そんな中で県歌の知名度が際立って高い県が1つあります。 それが長野県
県歌「信濃の国」を知らない長野県民はほとんどいないとまで言われています。
1998年2月長野冬季オリンピック開会式をご記憶でしょうか。 いや,あの「小林幸子」...もとい,伊藤みどり選手ではなくて...  日本選手団が入場するとき会場で湧き起こった大合唱。 あれが演出なのか,それとも自然発生なのかどうか, テレビで見ていた私にはわからないのですが, そのとき合唱されたのが,県歌・信濃の国です。

そのたぐいまれ県歌の世界をのぞいてみましょう。
まずは,歌詞をどうぞ。

>> 「信濃の国」歌詞   >> MIDIファイル1番4番のみ; MS IE4.0 以上推奨)

県旗 長野県旗 (1967年制定)


「信濃の国」の出自

ところで,この「信濃の国」という歌が長野県歌に制定されたのは, 意外なことに戦後もだいぶたった1968(昭和43)年5月のこと。 実は,この歌は「県歌」という“お墨付き”があって県民に広まったのではないのです。 当初は小学校唱歌として1899(明治32)年に発表されました。
作詞者は当時長野県師範学校(現:信州大学教育学部)の教諭であった 浅井洌(れつ,きよし)。 県内の学校教員の団体である信濃教育会(現在もあります)の委嘱を受けたものでした。 信濃教育会がこのような委嘱をした背景について, 市川健夫・小林英一 編著「県歌・信濃の国」(銀河書房,1984年)では 以下のような解説をしています。
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この作詞は,信濃教育会の事業としてなされた。 その前,日清戦争中に軍歌が大流行し,国家主義からの唱歌教育の価値を一挙に認識させたが, 敵がい心をむき出しにした軍歌(打てやこらせや清国を……などの歌詞)では, 条約改正を国民的課題としていた当時,戦後の社会にはそぐわないとの主張が現れてきた。 (同書 p.24)
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はじめ,この歌詞には,同じ師範学校の教諭であった依田(よだ)弁之助が 曲をつけたのですが,これはあまり歌われませんでした。 この歌詞に,現在までつづく生命を吹き込んだのは, 依田の後任として師範学校に赴任してきた北村季晴(すえはる)だったのです。
北村の作曲した新しい「信濃の国」は, 1900(明治33)年秋の師範学校の運動会で女子部生徒の遊戯用 (今の中学校運動会のダンスに相当するのでしょうね)として発表されました。 それが,たちまち県内に普及したのです。
それはもちろん,師範学校を卒業して県内各地の小学校に赴任した教員たちが “最新の音楽教材”として赴任校に持ち込み,生徒に教えたからですね。 そして,この曲が師範学校の運動会で発表されたように, 県内の小学校の運動会では必ず演奏される歌となりました。
考えてみれば,昔の小学校の運動会といえば, ただの学校行事ではなくて“地域社会全体のお祭り”という 位置づけがありましたから,テレビはもちろんラジオもなく, 蓄音機が日本国内の地方都市に現れるのにさえまだ時間のあった当時, 最高の紹介方法ですよね。 おそらくは,このようにして小学校生徒だけでなく, 全県民にあまねく知れ渡るようになったのだと思います。

でも,それだけなら他の小学校唱歌と何も違いがありません。 もちろん,小学校唱歌の中には「故郷」(作詞:高野辰之,作曲:岡野貞一。 ちなみに作詞の高野は長野県の現・下水内郡豊田村の出身)のように優れた詞曲で 広く一般に普及して,現代まで歌いつがれているものも少なくないのですが, 「信濃の国」という唱歌がこれほどまでに県民に強くアピールし, 発表から70年近くも経過してから県歌にまでなりおおせた背景には, 長野県独特の事情があるようです。


みすずかる 信濃の国

「みすずかる」とは「信濃」にかかる枕詞ですが, 岩波書店(創業者は長野県出身)の古語辞典によると “みすず”というのはシノダケ(篠竹)のことだそうです。 そのようなタケササの生い茂る 山国というほどの意味でしょうか。 万葉集「東歌」(あずまうた)の1つとして収録されている 次の有名な歌も,信濃の国のイメージづくりに貢献したことでしょう。

  信濃路は今の墾道(はりみち) 刈株(かりばね)に足踏ましむな  沓(くつ)はけ わが背 (3399)

現在の長野県,つまり信濃国がどのような位置にあるのか。 それは県歌・信濃の国に登場するこんな言葉が明確に物語っています。

  「十州に境連ぬる国」,「海こそなけれ」,「流れ淀まずゆく水」, 「山河の秀いでたる国」

中部地方(というのは,明治中期以降,まずはじめに学校の地理教育のために 導入された地方区分であるようですが)のそのまた中央に位置する内陸県。 最も多くの国(県)と境を接し,日本の屋根として3本の大河 (千曲川・犀川 → 信濃川,木曽川,天竜川)の源となる(他に,姫川の水源でもある)。 陸奥・出羽といった例外的大国を除けば 江戸時代以前の六十余州の中で最大, 現在の都道府県の中でも北海道,岩手県,福島県についで 第4位の広がりをもつ領域。
ところが,これだけの広さを持つ信濃国明治以前, 全域が統一された政治権力の下に入ったことは実はほとんどありまでんでした

8世紀律令制が整備される中で,信濃国も設置されました。 小県(ちいさがた),今の上田市に置かれた国府 (のちに筑摩郡[現:松本市]に移転)には から役人が派遣され,天皇を頂点とする中央集権体制の中に 組み込まれたわけです。 とは言っても,“国”の下の区画にあたる“郡”以下になると, 一応は律令制の枠の中に再編されてはいても 現実には伝統的な豪族支配の影響も強いものでした。 安曇(あずみ)地方諏訪(すわ)地方のように, 独自の文化的伝統を持つ地域もあったでしょう。 諏訪の場合(たぶん,伊那谷も), ごく短期間ではありますが信濃から分離して 単独の国(諏方国)となったこともあります。
平安中期に入ると,律令制そして国府による支配が形骸化し, 荘園制の時代になりました。 信濃国全域が統一して支配されることは,なおさらなくなったのです。
源平交替期源(木曽)義仲信濃を本拠地に西上して 平氏京都から追い落したり(一般には評判の芳しくない義仲ですが, 信州では英雄という意識があるようです), 鎌倉時代執権北条氏の拠点の1つとなったりしても, 大勢力は成長しない室町時代松本平南部を支配した名族小笠原氏守護となっても,たとえば隣国・甲斐の武田氏のように 全域を支配する守護大名には成長できなかった...  すべてが甲府盆地に集中する甲斐とは違って, 信濃の場合には各地域の自立性があまりにも高かったのでしょうね。
戦国時代後半に入ってようやく,諏訪氏小笠原氏, 安曇郡北部の仁科氏や北信濃の村上氏などを滅ぼしたり 乗っ取ったりして武田信玄が隣国から信濃の大部分を支配下におさめたけど, 結局は数度の川中島の合戦のすえ,犀川以北の善光寺平は 越後の上杉氏の領地として固定してしまいました。 やがて,武田氏が滅亡すると,もとの分裂状態にもどってしまうわけです。

江戸時代信濃国徳川政権によって, 徹底的に分割統治されました。 国内の大名配置がおおよそ確定した享保年間(18世紀前半)以降の 段階の配置は以下の通りです。 さらに幕末には,1万6千石の領地をもつ松平(大給:おぎゅう)三河から信濃国内の佐久郡田野口(現:臼田町)に本拠を移して 国内11藩となりました。 田野口藩(のち竜岡藩と改称)の場合は 移転前から佐久に領地を持っていたものですが, 同様に木曽は国外の尾張徳川家の領地でした。 木曽の森林は尾張(名古屋)の強力な統制により維持管理されたものです。 このように,国外の藩の飛び地も多く散在していたし, 伊那谷善光寺平には幕府直轄領(天領)も分布していました。 その上,善光寺戸隠神社諏訪大社などの領地もあったので, 信濃国は本当にモザイク状に細分されていたのです。
これが幕府の政策であるのはもちろんなのですが, それ以前の条件として,統一されたことがないという 信州の歴史も無視はできないと思います。
こうして信州は廃藩置県をむかえ,いよいよ長野県の登場となるのです。

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1999. 9.12
ISIDA Satosi