もうすぐ人口が60万になろうとしている神奈川県相模原市。
先日,世界の人口が60億を突破したというニュースがあったから,実に世界の1万人に1人が相模原市民というこの大都市の,それでは中心はどこでしょうか?
市役所のある相模原・中央地区?
確かに,官公署は集まっているけど,何かスカスカしてて...
じゃあ,市役所に最寄のJR相模原駅前は?
確かに,駅ビルもできてそれらしくはなってきたけど,それはほんの2年ほど前から。
小田急の相模大野駅の周辺もにぎやかになったけど,それもここ10年ほどの話。JR横浜線の橋本や淵野辺にいたっては寂れ気味(橋本は今年の春から再開発が始まったけど)。
これだけたくさんの人口をかかえながら,相模原市は昔から「へそのない都市」と言われてきました。
どの集落も決め手を欠く。
それより何より,お隣りの原町田(町田)の圧倒的な吸引力に太刀打ちできなかった,ということかもしれません。
でも,30年以上前なら,いちおう中心といえる集落がありました。
それが,上溝。
江戸時代末期以来,相模原というよりは旧高座(こうざ)郡北部(「高北地方」と呼ばれた)の中心として,中でも相模原一帯で生産される繭(まゆ)や生糸の集散地として発展しました。
1941(昭和16)年に高座郡北部の2町(上溝・座間)6村(相原・大沢・田名・麻溝[あさみぞ]・新磯[あらいそ]・大野)が陸軍の強い要請を背景に合併して相模原町が誕生したときも,すぐに役場が淵野辺から移転してきて以来,1954(昭和29)年の市制施行をはさんで,まさしくここが市の中心だったわけです(ただし,都市機能の中心は当初から現在の市役所周辺に作られることが予定されていました。何しろ,戦争に負けさえしなければ,旧満州の新京[中国東北地方・長春]ばりの大都市計画が実現するはずだったのだから。今の相模原市はその遺構の上に成り立っているようなものです)。
そんなわけで,この上溝こそが市内でもっともにぎやかな商店街であったのです(逆に言えば,それ以後は全然発展していない,ということかもしれませんね)。
で,これがその上溝駅。
東海道線の茅ヶ崎と横浜線の橋本を結ぶJR相模線の駅です。
線路は単線。土手の上にホームが1本という,いとも簡単な駅です。
何かサエないけれど,それはある意味で当然かもしれません。
なぜなら,この駅は本来の上溝駅ではないからです。
秘密はこの土手。ここは相模川左岸の段丘崖を登る坂の途中なのです。
当時相模鉄道といっていたこの鉄道(現在の相模鉄道とは違うような,違わないような... ちょっと複雑な事情があるので,詳細はこちらで)が厚木から伸びてきたのが1931(昭和6)年。
その時相模鉄道は,ここよりも1.5kmほど茅ヶ崎寄り,この登り坂の始まる手前に上溝駅を開設しました。
貨物も扱う駅を平坦地に作るのは常識です。
でも,こうして開設された上溝駅は,上溝市街からは余りにも遠い位置にありました。
車で運ぶ貨物ならともかく,自分の足で歩く旅客には不便。
そこで坂の途中,市街最寄りの地点に相模横山という旅客専用の停留所が設置されたのです。それがこの駅。
後に本上溝と改称され,さらにこちらが上溝駅となりました。
同時に,それまでの上溝駅は番田という駅名になっています。
ところで,ここで相模鉄道(相模線)が土手の上を通り,坂の途中に停留所が作られたのにはもう1つわけがあります。
それは,ここでもう1本別の鉄道と交差し,乗り換え駅ができるはずだった,ということ。その幻の鉄道が相武電気鉄道でした。
大正年代,従来の鉄道路線からはずれていた相模川中流域では最盛期を迎えていた生糸産業のためにも鉄道の開通が熱望されていました。
だから,相模川左岸に鉄道が建設されるという計画への沿線の期待は大きなものだったのです。
ところが,その相模鉄道は上溝から一路北へ,橋本へ向かうことになりました。
ルートから外れることになった田名村(現・相模原市)や川尻村(現・城山町)の人々の落胆は大きなものでした。
2つの村の人々はそれぞれ新たな鉄道の計画に期待をすることになります。
この田名村に相模川の対岸の湘南村(現・城山町)や高峰村(現・愛川町),そして溝村(上溝,現・相模原市)などの人々が中心になって設立されたのが相武電気鉄道株式会社でした。
しかし,出端を1923(大正12)年9月1日の関東大震災にくじかれ,設立が軌道に乗ったのは1925(大正14)年,そして会社が正式に設立されたのは1926(大正15)年8月21日のことでした。
このことは,後で考えるとどうも会社の将来を暗示する事柄でした。
それはともかく,この鉄道は東京府下の渋谷(豊多摩郡渋谷町:現渋谷区)から多摩川を渡って溝ノ口(神奈川県橘樹[たちばな]郡高津村:現川崎市),鶴川(東京府南多摩郡鶴川村:現町田市),淵野辺(神奈川県高座郡大野村:現相模原市),上溝(高座郡溝村:現相模原市),田名(高座郡田名村:現相模原市)を経て,愛甲郡愛川村(現愛川町)の田代へ至る路線として構想されました。
資金の問題もあって,さしあたり鶴川以西の区間から建設することとなり,第1期線として横浜線の淵野辺駅から田名村久所(ぐぞ)の相模河畔までの区間が着工されました。
鶴川−淵野辺間と相模河畔−田代間はそれに続く第2期線とされたわけです。
建設にあたって問題点がいくつかありました。
1つは,上溝市街のあたりで相模鉄道と交差することになるが,どこでどのように交差するかという点。
もう1つは,どうやって相模川に橋を架けるかという点。
そして恐らくは,地形的に田名原面(段丘中段)と呼ばれている平坦面から,相模河畔の久所河原(ぐぞがわら)まで段差40mの段丘崖をどのようにして降りるのか,というのも問題であったと思われます。
1つめの問題点は,交差点を当初の計画よりも南へ移し(相武電鉄が南へ迂回する),上を通る相模鉄道が土手をかさ上げすることで調整がつきました。
実は土手のかさ上げについては両社の話し合いがなかなかまとまらず,それが相模鉄道の橋本延長で最大のネックとなっていました。
ともかく,この結果として,現在の位置に上溝駅ができたのでした(前述の通り,当初は相模横山という駅名だった)。
こうして1927(昭和2)年末には第1期区間のうち,淵野辺から段丘上の田名四ツ谷(駅名仮称は田名石神平)までの区間の路盤工事が終わりレールが敷かれる状態にまで工事が進んだようです。
下の地図で赤い太線で書き込んだ線が,この時のおおよそのルートです(正確な地図があるわけではないので,ルートはあくまでもおおよその相対的なものとご理解ください)。
ここは国道16号の鹿沼台交差点(奥の信号のところ)。
もし相武電鉄が生き残っていたら,写真の真ん中付近に立っている看板のあたりでこの道路を横切っていたはずです。
もっとも,この道路は軍都計画の一環として相武電鉄よりも後に計画されたので,線路が残っていたならば,相模線との交差点がそうであるように,ここにも陸橋がつくられたかもしれません。
ところで,この写真ではわからないのですが,実は鹿沼台交差点はただの四つ辻ではなくロータリーとして設計されています。
現地へ行って立ってみるとわかるのですが,民有地との境界線,つまり交差点の輪郭が円形になっているのです。
今の交通量ではロータリーにするなど無理な話で,ただの交差点になってしまっているのですが。
この交差点に限らず,軍都計画区域内の主要交差点のいずれもがロータリーとして設計されていて,1940年代の都市プランの一端を感じさせてくれます。
そんなわけで,相武電鉄の遺構が残っているのは上溝周辺に限られるようなのです。
これは相模線の上溝駅をさっきの写真とは反対の市立上溝中学校の入り口から撮ったもの(ごめんなさい。光線がよくありませんね)。
相武電鉄の遺構中の遺構といえるのは何よりもこの,相模線の土手,県道をまたぐガード,上溝駅の3点セットでしょう。
どれも相武電鉄の存在を直接物語るものではないのですが。
なお,現在,この写真左手の交差点(淵野辺からの県道と,市役所通りとが交わる)の改修工事が続いています。で,ついでに上溝駅の土手下にバスロータリーが作られるのだそうです。完成の暁には上溝からのバス系統にも若干の変化があるのかも。
遺構その1。
上の撮影地点で左を向いて撮った写真です。
左手の丘の上にあるのが上溝中学校,写真から外れた右手正面の坂を上ると市役所から米軍相模原補給廠正門(帝国陸軍時代からの名残で西門と呼んでいます)を経てJR相模原駅へ,右手で合流する坂を上るのが淵野辺から渋谷へ至る例の県道になります。
で,段丘面に刻まれた谷戸(やと:このタイプの“谷”を呼ぶ武蔵・相模地方の方言。下総・上総では谷津[やつ]となる)の底を通る正面の道路。
いかにもそれらしいカーブをしているではありませんか。
昨年の国体に合わせてこの先の公園に屋内プールがつくられ,いっしょに道路改修もされてしまったので,ちょっと様子が変わってしまっているのですが。
実は,この道路そのものは例の軍都計画で引かれたものです(と言っても,この地区では軍都計画どおりの街路網は実現しなかったのですが)。
でもこのカーブは相武電鉄の線路敷をある程度受け継いだもののようです。
相模原市立博物館に展示されている1941(昭和16)年ごろの航空写真や当時の都市計画図からはバッチリと相武電鉄の線路敷がわかるのですが,そこにはここで相武電車が土手をつくって右手の台地の上へ上って行く様子が読み取れます。
そのカーブとこの道路とがよく一致するようなのです。
でも,この道路をそのまま進むと横山団地を抜けて県立相模原高校につきあたってしまいます(これはこれで,興味深いカーブをしているのですが)。
どこか適当なところで右手の台地上に上がらなくてはなりません。
ところが,それらしい土手跡も,切り取り跡も見当たりません。
だいたいこの写真のあたりで,上の台地に出ていたと思われるのですが。
台地上は完全に区画整理されていて,いかなる痕跡もみつかりません。
遺構その2。
おそらく,これが相武電鉄そのものとしては唯一の遺構かと思われます。
場所は,相模線のガードをくぐり上溝市街に入ったところの姥川という小さい川を渡る橋です。
相模鉄道(相模線)のガードをくぐった相武電鉄は右手にカーブをして県道から離れます。
今,ちょうどその敷地上にダイエーが建っているのですが,その裏手の駐車場の奥にこの橋があります。
その橋を手前から見てみました。
正面の塀でつきあたっているのがわかりますか。
手前のフェンスも,本来ならばここには切れ目がないはずの様子です。
要は,この橋が橋としての役割を全く果たしていないということです。
実は向うの塀にもほんの少しの隙間があって,地元の歩行者だけが近道として利用しています。
そう。この橋は道路ではないのです。
ほぼ確実に相武電鉄の橋だと思われます。
でも,正面奥の家の建てかたでわかるように,あの塀の向うからは再び相武電鉄の痕跡は姿を消してしまいます。
ところで,地図を見ればわかる通り,相武電鉄は上溝で大きく南に迂回し,それに合わせて相模線の上溝駅も現在位置にあるのですが,サトウ マコトさんの「幻の相武電車と南津電車」(230グループ,1999年)という本のp.58以下によれば,当初の計画では迂回をせずに淵野辺方面から田名方面へまっすぐに突っ切って,その交差点に相模鉄道(相模線)との乗り換え駅ができる予定だったようです。
それがそうならなかったのは,すぐ後のp.62の航空写真を見れば明らかなのですが,実はもしかしたらその予定の痕跡かもしれないものがあります。
それがここ。
さっきの上溝中学校とその裏手の横山公園との境界線が,問題の予定線と見事に一致するのです。
言うまでもなく新制中学校(“今さら”という表現ですね)の上溝中学校がここに建設されたのはもちろん戦後のことですが,ちょっとおもしろい話ですね。
ここで後ろを振り向くと,そこに相模線が。
当初の予定通りだったら,ここに上溝駅ができていたのかもしれません。
そうしたら,上溝の町並みも今とはだいぶ違っていたでしょうね。
もう1つの明らかな遺構,それがこの妙見橋。
さっきの姥川の1本西を流れる鳩川に架かる橋です。
もちろん,この橋自体は後から道路用に架け替えたものですが,この位置に相武電鉄の橋がありました。
写真は橋の西側(田名方)から東(淵野辺方)を見ているのですが,橋の向こう側に(仮称)浅間森駅と車庫が作られることになっていました。
このあたりがその駅予定地なのですが,今1つ様子がよくわかりません。
さて,第1期線の工事は田名村四ツ谷の(仮称)田名石神平駅まで進みました。
残念ながら,正確な地図がないので相武電鉄がどこを通って,どこまで延びて来たのかよくわかりません。
この写真は県道の田名四ツ谷交差点ですが,このあたりまで線路が延びていたのだと思われます。
この四ツ谷から,1つ先の上田名(うえだな)にかけての地区が旧田名村の中心でした(今もそう)。
線路はさらに,段丘上から久所河原(ぐぞがわら)に駆け降り,相模河畔へ,そして相模川を渡って愛川田代へ延びる計画でした。
これは上田名から久所(ぐぞ)集落を見下ろしている(上田名[うえだな]という地名の意味がよくわかりますね)のですが,私としてはこの崖をどうやって降りるつもりだったのかが疑問に思えてなりません。
いくつかの図には,大きく西(写真右手)へまわって降りていくように描かれているのですが,それにしても,いくら上り勾配に強い電車といえどもこの坂はきつすぎるような気がするのです。
愛川方面への第2期線最大のネックは相模川架橋問題でした。
結局は,木造だった高田橋の架け替えにあわせて鉄道・道路併用の永久橋にすることが決まったのです。
ところが,その頃から相武電鉄の経営が極端に悪化し,いつになるかわからない鉄道延長にしびれを切らした地元の人々は,鉄道抜きで高田橋を架けてしまいました。
たとえ,経営状況がそれほど悪くなくても相武電鉄に単独で橋を架ける力はありませんでした。
それは相武電鉄が相模川を渡ることが絶望的になったことを意味します。
もし当初の計画が実現していれば,多摩川の二子橋(玉電→東急大井町線),木曽川の犬山橋(名鉄犬山線),千曲川の村山橋(長野電鉄)とならぶ鉄道併用橋がここにもできていたはずなのですが,残念です(なお,二子橋と犬山橋は併用軌道,村山橋は橋は共用でも鉄道と道路が分離しています。二子橋はすでに35年ほど前に分離済み,犬山橋では道路専用橋,村山橋でも鉄道専用橋の工事が始まっています)。
いや,そんなことより,少なくとも相模川の対岸まで延びなければ,田名止りでは,やはり相武電鉄の将来はなかったでしょう(反対に,鶴川まで延びて小田急と接続していれば話は変わったかも)。
そうであるなら,相模川架橋の失敗が相武電鉄の息の根を止めたと言えるかもしれません。
同時にそれは,上溝乗り換え駅構想の挫折でもありました。
もし,相武電鉄が生き残り新宿から小田急を通って直通電車が乗り入れて来ていたら,上溝の運命もまた大きく変わっていたかもしれません。
少なくとも橋本との競争には,ぐんと有利になったであろうことが予想されます(横浜線の開業以来,上溝は橋本に負け続けている,と言えなくもありません。この辺の考察はまた今度)。
町や鉄道の運命というのは,ほんの紙一重の違いで決まるのかもしれませんね。
ところで,この相武電鉄に関連して,以前から気になることがあります。
縮尺の大きな地図(1万分の1以上の詳しい地図がよい)をよくみると,淵野辺・上溝間の県道に並行して,周囲の区画に調和しない,怪しい区画が延々とつづいています。
上の地図にも描き込んでおいたのですが,淵野辺本町2丁目3街区から始まって,淵野辺駅の東側を横切り,国道16号と“例の県道”が交差する淵野辺十字路を斜めに突っ切り,高根1丁目1街区からはその県道のすぐ南側に並行して陽光台1丁目5街区まで,ところどころ幅を変えながら,それでも他の区画よりはずっと狭い幅でずっと延びているのです。
左の写真は,弥栄(やえい)1丁目3街区なのですが,すぐ向こう側にも道路があるのがわかるでしょうか。
この区画は家1軒分の幅しかないのです。
考えようによっては,線路敷としてちょうどいい幅。
実は,私ははじめのうち,これが相武電鉄の線路跡だと思っていました。
でも,それは否定されたわけです。
では,これは何のための区画なのか。
特別な意図があるように思うのですが。
これがさしあたりの課題です。
<追記:99.11. 7>
相模原市にお住まいでこのページを読んでいただいた方から,
「上溝に近い陽光台や光が丘のあたりでは市街地の南縁を限る
防風林(の跡地)である考えられている」
という情報をお寄せいただきました。
確かに,この線を境に北側(旧“軍都”側)と南側とでは
街路網のパターンが違っていて,
市街地としては別々にできあがったように見えます
(現在の住居表示では一括して陽光台,光が丘,弥栄
などとなっているのですが)。
ただ,本来の防風林としては,風向きの点で“正解”ではないようにも思います。
どんなものでしょう。
参考文献: サトウ マコト「幻の相武電車と南津電車」230クラブ,1999年;
「相模原市史 第4巻」
結局は,相模原市立博物館にある航空写真と地図が相武電鉄の存在をもっとも明瞭に伝える証しと言えるかもしれません。
この博物館は,一般的な自然誌(地質・生物)や歴史(考古学および郷土史)分野だけでなく,地理分野にも意識的に重点を置いている点に特徴があります。
私は,館内の図書室に地理関係の資料が充実することを期待しています。
<追記 06.1.7>
相武電鉄をめぐり,非常に詳細な情報がこちらで紹介されています。
相武電鉄浅間森電車区付属資料館
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