日々のメモ
2004
2004年のメモ(2)
7月6日(火) ブログっていいかも

月に観劇して、拙HPに感想を書いたエドワード・オールビー「山羊 −シルビアってだれ?−」に関して、最近、「てつかの日記」というブログで行われている議論に参加している。手塚さんが私の感想に言及しつつ、感想を書いたのがきっかけで、それに貝さんという時々「えんぺ」の一行レビューに登場する方がコメントを加えることで、3者の議論になっている。

こちらのサイトだけを閲覧している方にはこのことは全く見えないのは残念だと思ってここに記すのだけど、こうしてみると、なるほどブログって便利だなと思う。コメントも記事と同じ画面から書き込めて、書き込んだコメントは各記事とダイレクトにリンクされる。いまの拙HPのような構造だとそうはいかない。BBSは用意しているけれど、各記事へのコメントのしやすさは、ブログには負ける。やっぱり、ブログか・・・

でも、ブログをどう取り入れるかで、まだ悩んでいる。すべての記事がいっしょくたに時系列で並ぶ(野口悠紀雄の「超整理法」みたい)のもいいけれど、それとは別に、内容で分類されたアーカイブももちたい。しかもサーバと同等のものをローカルにももっていたい。その辺、二度手間にならずにやるにはどうしたらいいんだろう。 (7月6日記)

6月17日(木) 高見広春『バトル・ロワイヤル』はどういう本か?

じクラスの中学三年生が教師の強制の下、最後の一人になるまで殺し合う殺人ゲームを繰り広げる−−という概要だけを聞いて、きっとサディスティックな満足を与えるための小説だと思っていた。でも読んでみたら、全然違っていた。

日常から切り離されて限定された空間と時間内で、限定されたメンバーがある条件下で生き残りを賭けて戦うこの小説の設定は、まさにゲームそのもの。本の見返しに掲載された島(戦場となる瀬戸内海の小島・沖木島)の地図や、本文の前に載っているクラス名簿、各章の終わりに必ず表示される残存プレイヤー数を示すカウンターが、ますます小説=ゲームの印象を高める。実際、プレイヤーの心理描写や回想も含めれば、小説の9割以上はゲームがどのようにプレイされたかの記述だと言ってもよい。

なるほど、殺人ゲームだから壮絶な殺人シーンが沢山出てくる。しかし、著者の書きぶりは、そうしたシーンそのものへの猟奇的興味より、極限状況に置かれた生徒たちの心理に焦点が置かれている。42人の生徒のうち、殺人ゲームに自ら積極的に参加する(”やる気になっている”)のは、脳の障害により感情が欠落している少年(桐山和雄)と、度重なる虐待経験により他者への共感性を押し殺してしまった少女(相馬光子)の二人だけで、あとは恐怖のあまり半狂乱になってしまったり、過剰防衛に走ってしまった生徒たちが引き起こす殺人がほとんどである。

この小説に対する世間の風当たりが強くなってしまったのは、最初にエクスキューズがはっきりと与えられていないからだと思う。普通バイオレンスをウリにしたエンターテインメントでは、バイオレンスを正当化するようなエクスキューズ(例えば、凶悪犯を倒すための正義の戦いとして提示されるとか)が読者に与えられるものだが、この小説ではそれがとても弱く、むしろ後半でやっと見えてくる。そのために、ただ第三者(小説内ではゲームの運営者、現実には読者)の楽しみのためにのみ殺し合いが行われているような印象を与えかねないきらいがある。

でもやはり、この小説において残虐シーンは興味の本質ではなく、スパイスなのだと思う。極限状況を意識することを除けば、生徒たちの胸に去来するのは、クラスメイトへの恋心だったり、ライバル意識だったり、あるいはイジメや仲間はずれに対する恐れや、クラス対抗のスポーツの試合の思い出など、ごく普通の中学生の学校生活の心象風景だ。そうした学校生活の日常が、彼らの目の前に死が迫っていることで、かけがえのない大切なものとして輝くことになる。

そうした中で、主人公(七原秋也)はスポーツが得意で女子にモテモテの少年であり、彼と行動を共にする副主人公(川田章吾)はオトナ顔負けの知識・技能・判断力の持ち主だ。彼らのそばには主人公に恋するヒロイン(中川典子)がいる。また、ほとんどの生徒間の信頼関係が崩れてしまう中で、秋也と彼の親友の二人の少年(やはりモテて運動神経も頭も良い)の信頼関係はまったく揺らぐことがなく、読者に安心をもたらす。そんなわけで、これはきわめてヒロイックな青春小説でもあるのだ。著者は主人公たちの熱いスピリットを、ブルース・スプリングスティーンなどのロックミュージックで伴奏する。(蛇足ながら、この点は明らかに著者の年代の感性であり、文章のタッチや内容が現在のティーンエイジに標準を合わせていることと解離していると思う。)

小説のゲーム的性格を一旦脇におき、こうした学園ドラマ的側面に注目して見直せば、島という閉じられた空間で極度の緊張を強いられながら生きる生徒たちの姿は、実は現実の学校生活をデフォルメしたものであることに気がつく。学校の管理体制下でティーンエイジが形成してしまう息苦しい学級という小社会は、まさに彼らの沖木島なのだ。何故中学三年生に設定されているのかといえば、それは国家によって義務づけれた教育の範囲内で最年長だからだろう。こうしたアナロジーが暗に成り立つからこそ、実際に学校で抑圧を味わっているティーンエイジがこの小説に強く共振するのだと思う。

そして、このアナロジーを踏まえれば、小説から「毎日が息苦しいからって、クラスメイトをイジメたりするな。君たちの本当の敵はクラスメイトじゃない。君たちを管理している体制なのだ」というメッセージを受け取ることだって出来るだろう。ただし、そういう読みが出来るにはある程度の成熟が必要だ。ローティーンには厳しいかもしれない。クラスメイトが殺し合うというプレイそのものに目が眩んでしまい、小説から距離を取ることが出来ない可能性があるし、むろん、「大東亜共和国(日本を指す小説内での国名)は南鮮共和国(北朝鮮を暗示)と同じ成功したファシズムの国だ」などという揶揄も判らないだろう。

そういう意味では、私はこの小説をエンターテインメントとして高く評価するけれど、小学生がバランス感覚のない状態−−いろいろな小説を読む中にこれが一冊混ざっているのならいいだろうが、こういうものばかりに夢中になってしまう状態−−で、これを読むというのはけっこう危険だろうな。 (6月17日記)

5月28日(金) ピナ・バウシュ新作の評

玉との共同制作ということで、やっぱり気になるバウシュの新作が今月8日にヴッパタールで初演された。いったい、どんな舞台だったのだろうか。ヨッヘン・シュミットの評がWebで読めるが、ドイツ語だ。Wohlgeformt: Pina Bausch wandelt in Wuppertal auf dem Wasser
情けない話だが、大学では第二外国語はドイツ語を履修していたにもかかわらず、全くと言っていいほど読めないので、翻訳サイトに流し込んで英訳してみる。変換されない単語があったり、なんかへんな英語なのだが、それから朧気ながらわかったことは・・・

  1. 振付と舞台装置は、これまでの作品と比べても出色の出来ばえらしい。
  2. 舞台装置−−舞台上手には、舞台の下に潜り込んだ巨大な青いクジラの尾びれが置かれ、その背後には小さな背びれや背中の曲面のようなものが小島のように見えるらしい。
  3. 衣装はいつものような感じで、女性はぞろっとしたイブニングドレス、男性はダークスーツで決めているらしい。
  4. 日本的な要素は目立たないが、グロスマンがお馴染みのだみ声で、芸者、富士山、腹切りなどを話題にするらしい(嗚呼)。(ヴッパタール舞踊団のHPを見ると、使う音楽のリストが載っていて、日本人では、喜納昌吉や森山良子、鼓童、Yas-Kazの名前がある)
  5. 作品はヤルフィのソロで始まるらしい。男女間の対立のようなものは見られないのだが、人々は基本的に孤独であるらしい。
「誰か、ちゃんと和訳してくれませんか?」とお願いしたい・・・気もするけど、まあ、無理して情報をあつめることもなさそうだ。日本公演の当日を楽しみにしていればよい感じだ。 (5月28日記)
4月9日(金) 映画[ エレファント ]の美しさ

開中の映画[ エレファント ] (ガス・ヴァン・サント監督)を見た。予告編が終わると、両側のカーテンが動いて画面の両端を隠す。すっかりワイド(1:85)に慣れているので、スタンダード(1:33)になると視界が狭く限られた感じがして、見えない部分に対する不安が生じる。これは「見せない」ことによって不安であり、「見ない」ことによって美しい映画だ。

吉田修一がプログラムで書いていたけれど、1999年4月20日にコロンバイン高校で起きた事件の時にTVに映されたおびえる生徒たちは、アメリカの青春ドラマを見慣れていた人にはびっくりするほどダサかったという。アメリカの青春ドラマに暗い私にも、だらしなくトレーナーを着込んだ肥満した子たちや、日本の高校生たちに比べておよそしゃれっ気のない彼らの格好に驚いた記憶がある。

だから吉田の指摘にとても同意するのだが、その後の論旨が反対に別れる。彼は、美しいとはいえない生身の若者たちが、実は美しいことを示す映画だというのだが、私の印象は全く逆である。ミッシェルを除いて、カメラが注目する男女の生徒たちの役にはみんな美しい少年・少女たちがオーディションで選ばれている。ちょい役の生徒たちもみんな小ぎれいな子ばかりだ。

冒頭や最後にたっぷりと映される微速度撮影された空模様の詩的な映像。美しく整備された緑豊かな住宅街、見苦しい落書きの散乱など見られない美しい学校。終始滑らかに流れるように移動するカメラ(トリアーの手持ちカメラとはまったく異なる質感)・・・この憂いを含んだ叙情的な物腰。そして、静かに流れるベートーヴェンの「月光」第1楽章。ここからは醜いものや醜い様子は、意図的に限りなく排除されている。酔っぱらっているというジョンの父親は、外見からは酔っぱらいらしさがあまり窺えないので、ジョンが指摘するまでそうは見えなかったくらいだ。殺人のシーンでも血こそ映るものの、「同性・異性愛会」クラスから廊下に出た少年など、腹を撃たれ後、もがき苦しむこともなく静かに居眠りでもしているようにただ横たわる。傷口も見えず僅かばかりの血が床を汚すだけだ。

そう、ドキュメンタリー風と言われたりするけれど、この映画はおよそリアリズムではない。この世界の美しい面だけを見ていたい、表面的な美しさに心を委ねたい、そうした意志に貫かれている。そこへ、そうした意志には全く理解不能なこととして銃乱射事件が唐突に起こる。そして、にもかかわらずカメラは事件の結末を見ずに現場を去ってしまい、再び美しい秋の空を映して終わるのだ。なんと皮肉な映画だろう。監督の意図にかかわらず、ここには、9.11が生じたときに「どうして我々が憎まれるのか理解できない」と言ったアメリカ人の問題が、別な形で表現されている。「エレファント」と言うタイトルは、「理解不能なのではなく、理解したくないだけだ」と指摘しているように思えてならない。

そのことを示唆するのが、事件のあった時刻に「同性・異性愛会」が行われていたという設定だ。同性愛の問題のように社会的に認知された事柄については、公平でありたいと考える彼ら(舞台となっている学校に子供を通わせるような層)の姿勢が現れている。彼らの倫理観の限界はきわめて素朴に限定されていて、それは彼らが想像力を及ばせる範囲内である。

一方で、無関心でいられる事柄については、無いものとして振る舞おうとするのだ。そちらの面は、この映画では直接的には映し出されないが、彼ら自身の精神的荒廃や、彼らの生活の豊かさが自分たちの社会の外に強いている犠牲などといった事柄への抑圧的な無関心は、この映画の撮り方そのものに現れている。

[ エレファント ] が美しいのは、実際に高校生たちが美しいからだと考えるスタンスは、イラクの人々の生活を破壊しながら、「彼らを自由にしてやるためにやっている」と平気で思える人々(勿論アメリカでもある層の人々だろうが)のスタンスにつながっている。そうした態度に激しく苛立って、彼らに自分たちイラク人が置かれている現実をしっかりと考えさせる手段として、テロに走る人々がいるとしても不思議ではないように思う。わたしたちは[ エレファント ] の美しさに見惚れると同時に、そこから排除されているもののことを考えて戦慄するべきなのだ。

ところで、プログラムではアレックスとエリックの関係は親友と言うことになっているが、彼らは兄弟ではないのだろうか? 彼らは一緒に朝食を採りながら、自分たちの両親をこっそりと嘲っていたように見えた。 (4月13日記)

4月5日(月) エネルギーの使い道

近、忙しい季節をくぐり抜けた解放感から、手近なところで芝居を2本見た。まず、先週末J2FACTORYという小屋で見たのは、バカラボという劇団の[ FAMILY ] という「家族愛」をテーマにした、コントとウェルメイドの中間ぐらいを狙ったと思われる芝居。全員20代の役者たちは先月末に見たOM-2の演劇より100倍滑舌が良くて、一人一人のセリフが耳がキンキンするほどよく届いて、舞台は元気で明るいエネルギーに満ちあふれていた。でも、脚本がげんなりするくらいステレオタイプで、テーマに対する掘り下げもゼロ。これを見て家族について改めてなにか考えるとか、気がついたりする観客は一人もいないだろう。わざわざ舞台にする意味もない内容。なのに役者はみんな元気一杯、発声・滑舌バッチリなのだ。自分にはどうしてか、このことが酷くショックだった。「何も考える必要はない、とにかくポジティブに頑張りさえすれば道は拓けるのだ!」というオーラがびんびんと伝わってくる。「バカラボ」という劇団名も痛い。やっていることが基本的に「いい子」なだけに尚更。

一方、OM-2は、麻布die pratzeで上演された[ 作品No.2-Q : Hamletmachine?- ] で、こちらはまだ演劇的に意味のあるエネルギーの使われ方をしていた。「自己を規定したい/しなければならない」という欲求とも強迫観念ともつかない抑圧状態に対する激しい苛立ちを、佐々木敦の暴力的なパフォーマンスから感じることが出来たからだ。佐々木の身体から発せられるエネルギーはすざましく、演出が纏わせる紋切り型の記号群や説明的な構図をふっ切って揺さぶる力がある。そう、ここでも問題は作・演出。その硬直ぶりは、この芝居に誘ってくれた門さんが「小劇場が伝統芸能化する事例の中でも最も頭の悪いバージョン」と書いているように、前述のバカラボといい勝負だった。事前にテスト問題を観客に配って、答のヒントを芝居の中にちりばめるやり方で、演劇を見る姿勢から問題を解く姿勢へと観客を誘う仕掛けがある。誘っておいて、最後にうっちゃろうという魂胆ははじめからミエミエ。こういうスタンスは傲慢だ。「世界を理解しようとすることは、問題を解くこととは違う」とでも言いたいのだろう。こうした仕掛けといい、佐々木のパフォーマンスといい、20年くらい前の観客に向けたら、"メンタリー・ショッキング"足り得ているだろうに。たとえば、[ ニッポン・ウォーズ ] (84年初演)と同時期にこれが発表されていたら良かったのにと思うのだ。 (4月5日記)

2月23日(月) アリとナシ

かい情報を2つ。

  1. 23日付け朝日新聞の夕刊に安藤洋子の記事アリ。それによれば[ Wear ] では、フォーサイスが客席からリアルタイムで指示を出して、それに合わせて動きを変えていくのだとか。好意的に考えれば安藤がコメントしているように「ジャズのセッションみたい」ということになるが、「任せておけない」ということでは?と、ちょっと勘ぐりたくもなる。ともあれ、まもなく開演だ。楽しみ。
  2. 知人が横浜市芸術文化振興財団から聞いた、先月行われた「ランコントル・コレグラフィック・アンテルナショナル・ドゥ・セーヌ・サン・ドニ」横浜プラットフォームの結果。結局、今回はフランス行きの該当者ナシとの結果が出たとか。それでいいんじゃないですかね。今の段階で、無理してあれらを海外の人に見て貰いたいとは思わない。
(2月24日記)
2月19日(木) nest:デジタル化する空虚な身体

nestの[ ana(log) ] という公演を見に行った。会場は東京シネマ倶楽部という鶯谷にあるグランドキャバレーだった場所。3階吹き抜けて、ステージを見下ろすバルコニー席もあるのだが、観客は皆、下のフロアへと案内された。四角く出っ張ったステージを囲んでのスタンティングである。ドリンク片手にこの場所に相応しいキッチュなショウをマッタリと楽しむことになるのか? それとも、観客も一緒に踊り出してしまうようなグルービーなパフォーマンスになるのか?
・・・と期待したのだが、待っていたのは苛立たしいほどに弛緩したパフォーマンスにだった。退屈の余り、周囲の観客の様子を観察してみたが、みんな身を強ばらせて、醒めた視線を舞台に送っている。「プリミティブな<力>と<スピード>」(チラシの宣伝文句)を感じている様子には到底見えなかった。音楽や照明が煽りまくるにも関わらず、この救いがたい弛緩ぶりはなんなのか? それはやはり彼らの身体の問題だろう。
「ステージを歩く。片腕を垂直に上げる。前傾姿勢で足踏みをする。助け起こした相手に頷く。回し蹴りをする・・・」。nestのパフォーマーたちがステージでやっているほとんどの身体表現は、こんな風に言葉で簡単に説明できる。身体表現なのに、ほとんど言葉で言い尽くせてしまうのだ。「言葉では言い当て難い何か」がどこにも見当たらない。振付が単純だということもあるが、それ以上に彼らの身体が空虚だということなのだと思う。虚ろな身体がその虚ろさ故に、言葉という単位でデジタル化した動作に身を明け渡しているのだ。後半、動くスピードは増していくのだが、デジタル化した動作の単位でみれば相変わらずトロいままなので、弛緩した時間の流れは最後まで変わることがない。
自分の身体に対する想像力と身体から生まれるはずの創造力が恐ろしく欠落したパフォーマーたち。彼らが、サイケデリックに色彩を変える照明や目まぐるしいCG、大音量でビートを刻む音楽に晒されながら、そうした環境を空気のように受け入れているさまは、今らしい身体の表象と言えば言えるのだろうが、やはりこれも「踊りに行くぜ!! Vol.4」同様、状況への意思表示ではなく、症例でしかない。 (2月20日記)

2月8日(日) [ Wear ] :安藤洋子のためのフォーサイス作品

TBSテレビ「情熱大陸」で、フランクフルトでフォーサイスの新作に挑戦する安藤洋子が紹介されていた。プールに行って、水中に浮きながら骨格について考察するとか、フォーサイスとのレッスンを納めたDVDを渡されて、安藤がノートPCでそれを見ながら復習する様子とか、「日本的なものを取り入れよう」というアイデアのもと、書道の筆の動きをヒントに足の動きを考えたりするところなど、なかなか興味深かった。
ただ、Ballett Frankfurt に引き入れるほどの魅力が彼女のどこにあるのかは、あの番組からはよく分からなかった。私は彼女のソロ公演を一度だけ2000年にシアタートラムで見ている。良く覚えていないのだが、その時のメモを引っ張り出してみると、「意識がブツブツと途切れる」とか「腕の動きが棒のようで魅力に乏しい」といった否定的なことしか書いていない。だから、番組で彼女の大躍進を納得させてくれることを期待していたのだが。
番組では、TAT での初演当日になって、彼女のための舞台(今月世田谷パブリックシアター で上演されるもの)が大幅に意匠変えされるといういきさつが紹介された。前日のゲネプロではソロだった作品に二人の男性ダンサーが追加され、衣装も美術も変えらえた。「Financial Times」1月28日号に掲載された評(James Woodall執筆)をネットで見つけたので、そこから彼女のための新作[ Wear ] (2004)についての記述を参考までに引用しておこう:

Forsythe's latest piece, Wear, is danced to a score played live by the strings of Frankfurt's excellent Ensemble Modern. It's a gnomic half-hour of outright Tanztheater, leaving one with a sense of a joke too far and virtually no moving or memorable images.

Two characters in anoraks stumble around what could be an igloo, a mountainside bivouac, or even a shack for the homeless. Another sports an enormous Afro wig. She turns out to be Yoko Ando, who soon enough, enters the shack and re-emerges in a flimsy dress. The boys, Amancio Gonzalez and Ander Zabala, strip to their underpants.

The trio is finally entangled in a rope. Ando is caught in a loop while the boys shuffle into darkness with each end wound inside their crotches - a striking image indeed, but which, alas, reminded me once again of mountaineering.
Woodallはこの舞台をあまり良くは思っていないが、あからさまに批判することは慎んでいる様子が窺える。ともあれ、フォーサイスはこの変更によってある何かを救済したのだ。世田谷で見るときは更に変貌を遂げているかもしれない。 (2月10日記)
1月15日(木) フォーサイスとフランクフルト市、やっと決着

昨日届いた「Newsletter BalletTanz - Jan 13, 2004」によると、フランクフルト市とフォーサイスは13日に契約を交わし、フランクフルト市がヘッセン州とテューリンゲン州、ドレスデン市と共同でフォーサイスのバレエ・アンサンブルを存続させる道が開けたそうだ。これによって、2004年シーズン終了をもって、Ballett Frankfurtとしては解消し、代わりに新しい独立したアンサンブルとして存続することになると言う。いまのアンサンブルが失われてしまわずに、しかもフォーサイスがこれからはより自由に活躍できるということであれば、かなり好ましい結論に落ち着いたと言えそうだ。
ところで、ついでに私的なことを付記すると、12日、横浜赤レンガ倉庫からの帰り道に風邪の症状が悪化してしまい、辛い状況で仕事(出張取材など)をこなす日々が続いている。そんなわけで「ランコントル・・・」の初日については拙サイトに書いたものの、2日目がいまだ書けずにいる。風邪、私の周囲でかなり流行っています。皆さんもお気を付けて。 (1月15日記)

1月5日(月) フォーサイス近況続報

覧有り難うございます。本年もよろしくお願いします。今年最初の更新は、昨日届いた「Newsletter BalletTanz - Jan 3, 2004」に基づくフォーサイス情報です。ネットでちょっとだけ調べて、少し情報を付加・修正しています。
フランクフルト市議会が多州にまたがる財政調整を拒否する一方で、隣接するオッフェンバッハ市がフォーサイスにオファー。彼がそれを受け入れると、同市から年間20万ユーロが提供されて、現在のフォーサイスのアンサンブル(バレエ・フランクフルト)は、ヘッセン州(フランクフルト市とオッフェンバッハ市のある州)とテューリンゲン州、ドレスデン市とオッフェンバッハ市の共同によって、プロジェクトベースでの存続が可能になるという。これに加えて、ミュンヘンも名乗りを上げている。
一方、フォーサイスは、リオデジャネイロのカンパニーDeAnima Balletと"artistic consultant"の契約を結んだ。すでに"Forsythe@DeAnima"という公演が昨年11月に行われている。この公演はまず、福祉プログラム(ダンスの才能はあるけれど貧しい子どもたちにプロになるための教育機会を与えるといった内容だと思う)のもと、彼が青少年たちと一緒に作った作品[ 9.AllStars ] で始まり、続いてフォーサイスの2つのデュオ( [ Slingerland ] と[ Herman Schmerman ] )がカンパニーによって上演され、最後に、カンパニーのチーフ・コレオグラファーのRoberto de Oliveiraによる[ A Week with Billy ] の初演で締めくくられた。参考:DeAnima Balletの
HP(1月5日記)

2003年のメモ