今年('06)の夏でホームページを公開しはじめて8年になろうとしている。これまで、コンテンポラリーダンスを中心に公演情報や公演評、ワークショップ体験記などを公開してきた。が、ここ数年は失速気味で、特にここ数ヶ月間に至っては、公演評を一度も発表しせずに過ぎてしまった。
端的に言って、忙しくなった。会社での仕事は波があって、時期によって、また年によって忙しかったりそうでもなかったりだが、家庭では子供が生まれて成長するにつれ、父として夫として過ごす時間が多くなっていった。それとともに、週末も以前ほどには公演に足げくは通えなくなったし、観た公演についてHPやブログ用に原稿を書いたりする時間も取りにくくなっている。
パワーダウンする中で、HPやブログに公演評を書くことの意味について悩むようになったことも、更新が途絶えてしまった理由の一つである(たまにしか更新できないんだったらやっていても仕方がないのじゃないか・・・そもそも、これに貴重な時間を割く目的は?)。
しかしよくよく考えてみれば、以前の状態の方が特別だったのだ。現在の私のような状態は、むしろごくふつうの観客の状態である。数多ある公演の中から、あれもこれもと出かけていくハードなシアターゴーアーや評論家と違い、仕事の都合、家庭の事情、その他諸事情で、あれもこれも断念して、限られた自由時間とお金を数少ない公演に投資しているのが一般の観客だ。
だから、私はこの状況を受け入れた上で開き直ろうと思う(「年間×××公演以上観ていない奴は黙るべし」といった声には耳を貸さないことにする)。この立場からの発言は決して軽視されるべきでないはずだ。だいたい、山ほど公演を観ている評論家たちは、私たち観客に「観た方がいいもの」と「観なくていいもの」を教えてくれるのが大事な役目の一つであるはずだが、彼らは「あれもいい、これも面白い」とやたら勧めるばかりで、ちっとも参考にならない。理由は明らかで、彼らが観客よりも業界(振興)の方を向いているからだ。やはり、観客は自分の目で確かめていくしかないのである。
そこで、自分がHPやブログで細々とした批評的活動を続けていく上での目的を、改めて設定し直すことにした。
どうあがいたところで、観客にとって芸術鑑賞という行為は、余暇活動であり、いわゆる「趣味」と呼ばれる範疇である。そして、「趣味」であると言うことは、この高度消費社会においては、だいたいの場合が消費行動になってしまいがちなのである。早い話がほとんどの場合、一時の気分転換に終わってしまうのだ。
無論、「一時の気分転換」だって必要だし、それが悪いということはない。けれども、<観客>という立ち位置での批評的発言は、芸術鑑賞を消費行動から救済しない限り危ういだろう。突き詰めていけば、発言の基盤は結局のところ「趣味の問題」にあり、それ以外の根拠を持とうとしても、それは偽装になってしまう可能性が高いからだ。
また、気になる構図がある。一方にそれを「一時の気分転換」とする大多数の観客がいて、もう一方にそれを「飯の種」とする一握りの評論家と芸術家の作る業界があって「消費−生産」の下部構造で芸術は動いている。ところが、後者の内部では「消費−生産」とは別の軸(美学や芸術の歴史)が温存され、称えられているという捻れた構図である。観客を排除するこの抑圧的な構図に否を唱えるためには、観客自らが消費行動としての芸術鑑賞から脱却することが必要だろう。
無論、観るという行為は基本的には受動的なものだから、その場ではまず何も生まないし、何も変えない。客席の多くが同じ反応を示せば、マスとして何か態度を舞台の上に返すということはあるかもしれないが、個人としては無理だろう。しかし、鑑賞行為をその場で終わらせないこともできるのだ。劇場を出ても、観たものについて考え続けることで、鑑賞行為は続く。その持続のなかで、観たことの意味は変わっていく。さらに考えたことを他者と交換することもできる。そうしたことが続き、影響の波紋が自分の意識や意見を交換した他者の意識の上に広がっていく限りにおいて、芸術は消費されてしまうことがない。そして、いつか私や他者の生活の中で何かが変わるのだ。
はなはだ観念的ではあるが、上記の実践がこれからこのHPやブログを続けていくことの目的となる。簡単に言い直せば、「生活の中でしつこく考え続けること」である。そして、このWebでの発信によって、脱消費の観客が増えていく、ということも夢想してみたい。
というわけで、平日は仕事をして日曜日に絵筆をとる「日曜画家」のように、空いた時間を使って批評的発言に取り組む「週末批評家」を宣言することにした。