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2004年11月28日(日) 18:30〜20:30BankART1929 馬車道ホール 「art live - sound+dance+visual vol.5」 さとうじゅんこ (sound)+ 永谷亜紀 (dance)+ michi (visual) 宮木朝子 (sound)+ 兼古昭彦 (visual):"Double absence" 種子田郷 (sound)+ JOU (dance)+ 田中孝 (visual)
歴史的建築空間をネガティブに利用する
ただし、問題点もあった。もともと劇場ではないから客入れがスムーズに出来ない。押し寄せた観客を入れるのに時間が掛かり、30分押しの開演となった。そして、舞台が見辛くなった。場内は超満員。フラットなフロアに椅子を並べて、四角く囲った一角が舞台となるのだが、満員になってしまうとダンサーは見え辛くなってしまう。特に横たわったりするとほとんどアウトだ。こうした会場で行う場合、客が大勢入れば主催側は嬉しいが、一方で会場としての環境は悪くなってしまうジレンマがある。「自由に動き回って見てください」というアナウンスもあったが、それは到底無理な相談。プロムナード形式でやる公演では、こういう問題がたびたび起こっている。予想できた事態と思う。
さて、最初のプログラム。michiの映像が印象的だった。多くのシーンで映像は、雪の降る空、無数に波紋の広がる水面などのように、全面にたくさんの相似的な運動を含む面として現れてくる。重なり合うように吊された幅の狭い4枚の紗幕が映像に立体感を作っている。映像は、いま説明のために書いたような自然現象を連想させることも多いが、もっと幾何学的というか抽象的なものである。見ているうちに、自然現象から数学的構造を取り出して作られた人工的環境−−つまり、バーチャルな世界に居るという意識が芽生えてくる。そうした人工的環境が、2台のプロジェクターを使って視界の全面に展開されるので、かなり自己主張の強いはずの建物空間は公演中はほぼ完全に消去される。「場を生かしていないのでは?」と一瞬思うがそうではない。これは、歴史的建造物の中にいるという状態を一時的に消去してみせるというネガティブな利用法なのだ。そのことは、公演が終わった瞬間の落差として実感される。バーチャル/歴史性のコントラストが面白いし、そもそも、この建物自体が、日本の歴史に強引に接ぎ木された歴史の産物だったのではないか、という批評性も含んでいるように思う。開演前は場内を明るくしておいて、室内の様子を印象づけておいたらより効果的だっただろう。
永谷亜紀はメガネを掛けて登場。静止して紗幕に顔をつけるようなポーズをとったり、紗幕の間を速いテンポで歩き回ったりしている。メガネはここが銀行であったことを意識してのことか。コミカルにタバコを吸ってみせたりするが、観客の心を掴むことはできなかったようだ。中盤、前面に出てきて、両腕で鳥の羽ばたき(バレエ「瀕死の白鳥」みたいな)を見せる。永谷は好きな振付家&ダンサーなのだが、残念ながら今回は映像のオマケにしか見えなかった。あとで本人に訊いたら、前日まで会場で練習できなかったのだそうだ。こうした特殊な会場で、会場での作品作りができないのはなかなか辛いことだろう。20分弱。
2つ目のプログラムは、映像と音楽のみ。映像は柱のそばに設置した2台のプロジェクターを使っており、プリズムを積み重ねたブロックをレンズの前に置いて、それを遠隔操作することで、四方の壁にプリズムで屈折させた映像を投影させる。アイデアだなと思ったけれど、屈折映像の動き方がつまらない。ブロック状の固まりとして、ビュ、ビュ、とリニアーに動くのだが、せっかくだから、不在のダンサーの代わりに、関数を経由させてもっと有機的な動きができたらよかった。音楽も場所への意識がありがちに思われて、正直、このプログラムは眠かった。
歴史的建築空間を現在の文脈の中に置く
静かなバックグラウンドノイズのような響きを別にすると、カスケード状の音響は間欠的に湧き起こる。やはりデジタルな雪崩のようでもある田中孝の映像も左右に大きく分かれて投影されている。そうして、センターはダンサーに素のままに明け渡されているのだ。最初のプログラムとは対照的だ。JOUの動きも、音や映像とは距離を取り、自分の時間と空間を確保するような毅然としたところがあり、映像と音によって与えられた環境の中に身を浸しているような永谷とは対照的だ。この種のコラボレーションは、じっくり時間を掛けてすりあわせていくか、それができないなら、J.ケージ式に、それぞれ独立に作って並置させるのが良いように思った。JOUが選択したのはきっと後者なのだろう。
JOUは1999年にセッションハウスの「シアターフェス21」で見たのが最初(当時はジョー高橋)。おぼろげな記憶だが、身体の動きが体操選手みたい、と思ったのだった。「体操」という言葉はダンスを評する時に使うと悪い意味として取られがちだが、そうではなくてニュートラルな意味でそう思った。一つには、ムーブメントの瞬間瞬間がすべてダンスであるという高密度な状態がダンサーのありうる一つの理想形であるとしたら、そこからは非常に遠いところにあって風通しの良い身体であること。もうひとつは、自分の身体に対してあたかも道具を扱うような、そんな不思議につきはなした感覚(醒めた態度)をもっているようであること。この2つの面で「体操選手みたい」と思ったのだった。最近の活躍は全然見ていないのだが、今回久しぶりに見て、基本的には最初に見た時の印象からそれほどズレていないと思った。
音楽、映像、ダンスを対等にコラボレートさせること。また、劇場ではない、それ自体が意味性を強く帯びている場所を生かしてパフォーマンスを行うこと。どちらも非常に難しい。どうであったら成功と言えるかは人によって感じ方も違ってくるだろうが、あまり成功したと思えるものにで出会ったことがないような気がする。今回見たプログラムは、それぞれにアプローチが考えられていて、いろいろやり方があるものだと感心させられた。
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