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1月10日(土) 15:00横浜赤レンガ倉庫1号館
高野美和子[ 匿名トリップ ]
それに対して、後半2組の岡本真理子と小浜正寛は、既に確立している「ダンス」というジャンルに関心がない。どちらも自作をソロで演じているが、おそらくダンスを踊ることで勝負できるほどの身体も持ち合わせていないと思われる。むしろ、そんなことは「どうでもよい」というスタンスである。この「どうでもよい」というところが、最近の一つの傾向であると思う。バレエから見れば、コンテンポラリー自体「どうでもよい」路線だったのだが、さらにそれが先鋭化しているのだ。彼らは、これまでのモダン/コンテンポラリーダンスの経緯を踏まえて、それに異議を唱えたり、それを自分たちなりに拡張しようなどという意志はまったくなくて、前の世代に対して無関心なまま、「自分たちのやれること(ダンスの基礎的技術がマスターできていようといまいと気にしない)で、自分たちの面白いと思うことをやる」というスタンスである。どうやら今、そうした人々がどんどん出てきて、彼らに対してそれなりに観客が付いてきている、という状態が生まれてきているようなのだ。「コンテンポラリーダンスの大衆化」という事態であり、SSD国際振付賞の日本の最終選考にこの2組が選ばれたことは、今や評論家たちもこの事態を歓迎していることを象徴しているのだろう。
私もこうした人たちの登場を歓迎する。自分自身がパフォーマンスをする場合も、「自分たちのやれること(ダンスの基礎的技術がマスターできていようといまいと気にしない)で、自分たちの面白いと思うことをやる」というスタンスでやってきた(と言ってもたった2回だけど)。パフォーマンスとして面白いなら(笑えればではない、興味深ければという意味)、ダンスというジャンルに拘泥するものではない。ただし、国際振付賞(ランコントルとはいえ、賞と呼んで差し支えない機能のイベントには違いない)の名において評価することには抵抗がある。
こうした傾向の作品について、それをダンスとして論じることには、じつは余り意味はないのだと思う。小浜のパフォーマンスにダンス的なものを発見することは可能かもしれないが、彼のパフォーマンスの価値はそこにはない。例えば、腕時計を見るという動作を周知のダンスの動きに重ね合わせることで彼が提示するのは、日常動作のダンス的展開でもなければ、時間を気にし過ぎる現代人へのからかいでもなく、ただひたすらナンセンスな可笑しさであろう。そのことは、誰もがダンスらしいとすぐに察知できる動きが模写の対象として指示されていること、「足首に巻かれた腕時計を見る→背中に背負っている腕時計を見る」というナンセンスな展開の仕方から明らかだ。蟹を両手に持って、ディスコミュージックに合わせて振り回す最後のシーンも、スラップスティックな可笑しさが主眼であって、ダンスはそのための素材を提供しているに過ぎない。
ジャンルの定義は常に曖昧で、時代と共に再定義を繰り返していく宿命にある。だが、小浜のやっているようなことを振付賞で評価することは、ダンスを舞台芸術における演劇の補集合として扱う風潮を促すことにつながるような気がしてならないのだ。勘ぐりかもしれないが、「ダンスをやりたいから」というよりも「わりとすぐに舞台に立てる」という理由で、ダンス業界が用意した発表の場に表現者が押し寄せている、というのが実情ではないかと思えるのだ。きっかけはなんであれ、彼らは日本のコンテンポラリーダンスの活性化、大衆化に寄与するだろうし、その中からシーンを激しく揺さぶる震源地となるような才能が出てくるかもしれない。しかし、傾向全般をあまり真面目に受け止めても意味はないのではないか。もしも、どんどん出てくる補集合的なパフォーマンスを振付賞のような場でもてはやすことによって、ダンスのことを真剣に考えている才能が押しやられてしまったら、それは悲しいことだ。
残り3組について
高野が彼女以外の出演者(伊東歌織、河村篤則)に振り付ける動きは、メディアの中に現れる操作される身体を連想させる。いわゆる人形ぶり的なものだが、VJのスクラッチのようなギクシャクした反復、手描きアニメーションのような震えが特徴的だ。高野作品のポイントは、こうしたメディアに反映された視覚的イメージとしての身体に、触覚的な生理的な身体感覚を組み合わせたところにある。肌の表面をひっかいたり擦ったりするような仕草、客に背を向けて背中を丸めてなにやら下腹でやっている様子。わさわさした触感の喚起される小道具のウィッグ。そして、男性1名を混ぜた3名全員が同じウィッグをかむり、黒いゆったりした布で身体を包むことで体の線を隠し、まるで髪を生き物のように見せている。そうしたところに面白くなりそうな戦略が感じられるのだが、しかし、それで何をやろうとしているのかは、あまり伝わってこない。中間部の高野のソロが面白くないのも弱点だ。
岩淵作品は、男女の関係において、女性の心情や心理的距離感の移ろいをダンスで見事に描いた佳作(男性側は、女性の側から見た存在として一面的に描かれている)。幸福な関係を描いた最初のパートでは、ありがちな関係から生まれる掛け合いの中に、相手の力を利用したハっとさせる素早い動きを混ぜたりして、飽きさせない。大塚のスキンヘッドをうまく使って笑わせてもくれる。しかし、大塚が去ってから始まる太田のソロはどうだろう。垂れたお尻などボディラインの衰えを気にする仕草は良いが、それがモダンダンスのターンとつなぎ合わされた時、説明とクリシェの安易な結合を見てしまう。正座して向き合い、それから二人で互いに体重をシェアし合って客席に向かって歩くというラストも過剰に説明的だ。クオリティの高いデュオを紡ぎ出す才能はあるのだから、説明することからもっと自由になった方がよいと思う。
以上、初日の雑感。舞台を見たその日のうちにそれについて書いたり、それをすぐに公開することは基本的にしないのだが、今回はあえてそれをやって、推敲も出来ていないつたない文章を晒すことにした。
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1月11日(日) 15:00横浜赤レンガ倉庫1号館
岡登志子[ ECHO ]
2日目、最初の岡作品は、フォルクヴァング芸術大学舞踊科卒という彼女の出自をはっきりと感じさせる作品で、今回のラインナップの中で、前日の小浜とは別の方向性で異彩を放っていた。小浜が西欧のダンスの歴史など、もはや考慮する必要もなく、せいぜいおちょくりの対象でしかないというスタンスに立っているときに、岡は西欧のダンスの歴史の中に自らを投じ、その歴史を日本人であることを自覚しつつ継承する意志を示している。終演後にナショナル協議委員を代表して三浦雅士氏が述べた講評の中で、「もう一度60年代、70年代まで遡って考えているような・・・」というコメントは、そんな彼女に対する、敬意と懐疑の入り交じった感想のように私には聞こえた。
しかし、岡から小浜まで、このラインナップはなんだろう。私がこのイベントを見始めた98年も、現代舞踊協会系と勅使川原モドキが混在しているようなラインナップだった。このイベントの選出の基本方針が、「日本のダンスシーンのさまざまな位相からサンプルをピックアップしてきて、やってきたフランス人に見取り図を与える」ということだと理解すれば、6年間で、日本のダンスシーンがこれだけ多様化したということなのだろう。日本にいる私たちも、シーン全体の変化を大まかに感じとることができるという意味で、横浜プラットフォームのような場は貴重だと思った。選者の美的判断を停止して、岡から小浜までをラインナップに揃えるという芸当は、他の登竜門的イベントやコンテストではなかなかできないだろうからだ。
このような横浜プラットフォームの特徴が、世界中から特色のある上演作品をピックアップしてきて、一箇所に集めて見本市的なイベントを開催するというSDD国際振付賞の性質に対して、運営上整合性が取れていると思われる一方で、便乗して行われる「ナショナル協議員賞」なるものは、果たしてどれほどの価値のあるものなのか、大いに疑問だ。三浦氏は講評の冒頭で「議論が分かれて大変紛糾したが、とにかく選ばなければいけない」とやや弁解口調で語っていたが、こうした選抜のされ方の後で、一等賞を選ぶのが苦しくなってしまうのは当たり前だと思う。例えば、小浜と伊藤を比較して、伊藤を表彰するというプロセスに、いったいどんな意味があるのか。そこにメッセージを読むことさえためらわれるような曖昧な儀式である。いっそ、「三浦雅士賞」とか「榎本了壱賞」などいった名称でそれぞれが勝手に表彰すればいいと思う。そして、一番集客の見こめそうな公演に主催者サイドが「横浜市芸術文化財団賞」を贈り、来年の上演権を与えたらよいだろう。
2日目の3作品について
それはともかく、岡作品は私には退屈だった。それは、私が、そこに視覚的な面白さがあるにせよ、関係性の妙味があるにせよ、前提条件としてダンサーの身体的魅力−−運動が与える生理的な快感や美、あるいはフィジカルな個性や存在感、場合によっては形態的な面白さ−−がないと、ダンス鑑賞として満足できない人間だからだろう。岡の振付はそうしたものを徹底的にそぎ落としていき、観念的なポーズやムーブメントを提示しようとするものだった。そして、かなり一本調子なままに延々55分間続けられたものを忍耐強く見た後で、今このような身体が探求されている理由のヒントを見つけることは、私にはついに出来なかった。
伊藤のデュオ作品(伊藤とキム・ミヤ)は、最も好感の持てたパフォーマンスだった。とはいえ、彼女のデュオは短く、オリジナリティにも欠ける。映像をかなりうまく作り上げて、踊りと組み合わせることに成功しているが、彼女がドゥクフレの[ IRIS ] に参加したばかりであることをすぐに思い出させるような手法であった。彼女の作品の美学は、モダンバレエからモダンダンスを経由して外挿された地点に領域にやすやすと収まる。歴史を遡って異なる系譜を編み出そうとしたり、歴史の無効性を主張するような他のエントリー作品群の中にあって、そのおとなしい優等生ぶりが一際目立っている。それでもなお、私が彼女の[ a person ] に好感を持つのは、創作姿勢に伸びやかさと素直さが感じられるからだ。そして、私の偏見かもしれないが、成熟した芸術家であれば落第であろうが、出発点に立つ若者としてはむしろこういう方が信頼できると思ってしまうのだ。変に流行を気にしていないし、妙にキーワードに囚われて狙っているところもない。頭でっかちでなく、自分に忠実なのだ。・・・確かにこのまま平凡に終わってしまう可能性はある。だが、伸びやかさと素直さが、彼女はこれから出会うもの次第でどんどん変わっていけると感じさせる。環境次第で、自身の内からぐんぐん未知の姿を発現していけるような、そんな植物の成長点の柔らかさのようなものが彼女には感じられるのだ。もちろん、パフォーマーとしても、この日舞台に立ったダンサーの中で群を抜いていたことも大きなポイントだ。共演のキム・ミヤも良い。
続く康本作品もデュオ(康本と三浦宏之)だったが、伊藤とは対照的で、彼女の作品は結局のところ、アイデア一発勝負だ。「通信教育のビデオ講座という枠組みで見せる」というアイデアによって成立している舞台でしかない。はじめはパロディの対象として、次に虚構の関係性を成立させる枠組みとして機能するビデオ講座という設定は、パフォーマー2人が「脱心」するためのブースターのようなものなのか。ビデオから離脱した後は、ことさらに阿保っぽく歌われる「ぞうさん」などの童謡に合わせて踊り、最後は虫になって、スクリーンに投影された花の映像にへばりついて蜜を吸う。「脱心」には時間を要すると言うことなのかもしれないが、パロディの部分が長すぎる。そして、ビデオから離脱してからのパフォーマンスがお粗末すぎる。もしも、このバランスを逆転できたなら、この作品は、単なるアイデア一発勝負から離陸できただろう。ところで、昨年暮れの「踊りに行くぜ!! Vol.4」(スフィアメックス)で見た[ 夜泣き指ゅ ] と合わせて考えると、伊藤に比べるとずっとひねりが入っているものの、彼女の作る舞台にも、伊藤作品同様、作り手のパーソナルな世界に直接触れるような感覚を与えてくれるところがある。康本の評価できる点は、アイデアや彼女の身体的魅力よりも、その点に尽きる。
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