ダンス鑑賞の感想 2004 1-3月
ランコントル NIPAF'04 安藤洋子×フォーサイス
January

1月10日(土) 15:00横浜赤レンガ倉庫1号館
ランコントル・コレグラフィック・アンテルナショナル・ドゥ・セーヌ・サン・ドニ2004
横浜プラットフォーム(旧バニョレ国際振付賞)第1日

高野美和子[ 匿名トリップ ]
岩淵多喜子[ Be ](完成版)
岡本真理子[ ききみみ塔 ]
小浜正寛[ BOKUDEX ]

1月11日(日) 15:00横浜赤レンガ倉庫1号館
ランコントル・コレグラフィック・アンテルナショナル・ドゥ・セーヌ・サン・ドニ2004
横浜プラットフォーム(旧バニョレ国際振付賞)第2日

岡登志子[ ECHO ]
伊藤郁女[ a person ]
康本雅子[ 脱心講座〜昆虫編〜 ]
上記の2日に渡る公演についてはこちらのページにまとめました。

February

2月23日(月) 19:00die pratze神楽坂
NIPAF'04
東京公演・第1日

スヤマフサヱ 霜田誠二 柴田玲
ヨゼフ・チェレシュ( Jozef Cseres ) ツイ・シウウェン( Cui Xiuwen )
梅村軍司  岡田ユミ子 ビクトール・スルサー( Victor Sulser )

NIPAFは仲間内の交流会
7、8年ぶりにNIPAF( Nippon International Performance Art Festival )へ出掛けていった。NIPAFというのは、事実上、パフォーマンス・アーティストの交流会のようなものらしい。観客席に集まってきたアーティストたちが大勢いる。他の日に自分の順番が回ってくる人もいれば、今日が出演日で衣装のある人はすでに衣装を着て座っている。彼らは、思い思いに他の出演者のパフォーマンスをビデオやカメラで撮影する。従って、せいぜい10数分のパフォーマンスの間、ウィーンウィーンというズームミングのモーター音やら、メニュー設定確認のピコピコ電子音やらがあちこちから響き、パシャパシャとシャッターが切られる。照明を落としてのパフォーマンスでは容赦なくパフォーマーにターゲットレーザーの赤い線が投影され、フラッシュがこれでもかと光る。ツイ・シウウェンのパフォーマンスなんて、「紙の破られる音を観客は暗闇の中で耳を澄ます」というのが想定された状態だったと思う−−実際にそんな風にして彼女のパフォーマンスを体験することが出来たら、きっと素敵だっただろうと想像する−−のだが、相次ぐレーザーとフラッシュで台無しになっていた。
こんな状態でもパフォーマーたちが不快感を示さないのはお互い様だからで、この場が各地から集まってきた彼らが互いにやっていることを見せ合う場として認識されているからだろう。一般客は\2,800払って、そこに混ぜさせて貰っているわけだ(だから、特定のパフォーマーの知り合いでもなかったりすると尊大な口調で住所氏名連絡先を書くように指示されてしまうのだろう)。

パフォーマンス・アートの夢は悪夢
まあ、NIPAFがそういう場であるなら、勝手に交流していればいいと思うのだが、気になるのは、果たして、それではこの日の上演(パフォーマンス)は、仲間内の交流会だから本来の姿ではないと考えるべきなのか、それとも、パフォーマンス・アートのあり方自体が変質してきているのか、ということだ。というのも、多数のビデオやカメラが発する電子音や光は、「仲間たちの暖かい眼差し」の実体化であり、実体化された眼差しを場全体が許容することで、die pratze神楽坂の中は「この場では何をやってもみんな暖かく見守ってあげるよ」という空気で満たされていたからである。
3人の観客(そのうち少なくとも1人は他のパフォーマー)から集めた唾液を自分の脛に塗りつけていた柴田玲のパフォーマンスは、こうした場の雰囲気の中では連帯の確認行為のようにすら見えてしまっていたが、これを屋外で通りすがりの観客を相手にやったら、かなりのインパクトを持つものになったのかも知れない。実際に、彼女がそのような形でパフォーマンスをやったりするのどうか、私は知らない。ただ私の理解していたパフォーマンス・アートとは、そういうものだった。ダンスなどとは違って、社会的コードから外れたところにある行為、あるいは観客自身が社会的コードに沿った視線から脱しないと受け止められない行為を、社会的存在としての自己を担保にして行うこと。そして、それによって世に問いたいことを問うものだと思っていた。
しかし、いまのパフォーマンス・アーティストたちは、そんな風には考えていないのかもしれない。少なくともNIPAFに参加している人々は。NIPAF代表の霜田誠二は終演後に観客席にこう呼びかけた。「本当は皆さんにもやってもらいたいんです。多くの人がやればそれだけいろいろなものが見られる。街のあちこちでいろいろな人が突然変なことをやり始める。そんな時代がくればいい」(大意)。つまり、誰もがWebにホームページを持って、思い思いのことを書く。それと同じような状況がパフォーマンス・アートという手段でも生じればいいということだろう。パフォーマンス・アートが人々の表現手段として日常化する時、突然、他人の唾液を集めて自分の身体に塗り始める人がいて、それに対して「ああ、いま、彼女はそういう気分なのね」と受け入れてしまうような社会が出現する。それは一見寛容で優しい社会のようにも思えるが、実は、すべてが了解されて制度の中に回収されてしまう、恐ろしいほどに息苦しい社会なのではないか。

梅村軍司のパフォーマンスが示唆すること
ところで、梅村軍司のパフォーマンスは、この日最もウケたものだった。ロビーでコーヒー豆を曳いて口に含み、客席の一人ずつに順番に正対して、用意したテキストを短く区切って語っていくというもので、観客は自分の番が回ってくると、彼の口から放たれるコーヒーの濃厚な匂いを嗅ぐことになる。自らの口から直接、観客一人ひとりに匂いを届けるというこのパフォーマンスには、シンプルで意表を突いていて、それこそ<プリミティブな力>がある。
そして、問題にすべきは、彼が選んだテキストである。WHO憲章の健康の定義「健康とは、身体的・精神的及び社会的に完全に良好な状態であって、単に病気や虚弱でないというだけではない」と、おそらく彼自身が考えた「パフォーマンスとは舞台でやるものとは限らない。観客は客席にただ座ってみていればいいというわけではない。自由に動き回ってよい」(大意)といった内容の2つのテキストが語られた。彼の意図がどうであれ、私にはこれは、まさにこの日私が体験的に知ることとなったNIPAFの現状へ疑問符を突きつけるものと受け取れた。この日の梅村以外の7人のパフォーマーは皆、当たり前のように与えられた舞台で上演した。そして、梅村が「動くときは階段などの段差に気をつけて」とまで示唆したのに、観客はついに上演中に客席を離れることはなかった。あの狭いdie pratze神楽坂のひな壇状の客席にびっしり人が詰まっている状態では、そんなことは到底期待できないのは、彼にも良く分かっていたことだろう。つまり、梅村のテキストは、小さな芝居小屋に寄り集まって従順に交流会を開いている人々、そこに参加している人々への批判である。
彼は下半身はブリーフ一丁の下着姿だった。それに対して、「これはパフォーマンス・アートなんだから別に構わないだろう」というのが、この場の了解である。着メロすら許されていた客席で、誰も非難めいた声など漏らさなかった(少なくとも私には聞こえなかった)。ズボンを履いていないことよりも、むしろ彼のよくしまった色黒の両脚のもつ健康美の方が強く認識されていたのではないか。つまり、NIPAFという場によって、ブリーフ姿の彼は「社会的に完全な良好な状態」も保障されて、WHO憲章的に「健康」にさせられたのだと言える。
彼の提出したテキストをこのように捉えてこそ、彼が行ったパフォーマンス・アートの原図を示唆するような行為−−逸脱した行動によって、自らの口から直接、観客一人ひとりに匂いを届けることを実践する−−の価値を受け取ることが出来るのだと思う(曳いたコーヒー豆を大量に口に含んで、それを飲み下して健康に良いわけがないという点にも注意したい)。あの場に居合わせたパフォーマンス・アーティストたちは、彼のパフォーマンスをどう受け止めたのか。私の理解とは裏腹に、彼のパフォーマンスは、むしろ場の雰囲気をますますほぐして、連帯感を高める方向に作用したように感じた。その後に上演された岡田ユミ子のパフォーマンスは、この日最初に上演されたスヤマフサヱよりも格段に大きな暖かい拍手を貰っていたが、私にはその反応の違いは梅村によってもたらされたとしか思えなかった(ちなみに順番はくじ引きで決めるのだそうだ)。WHO憲章的「健康」に狎れたパフォーマンス・アーティストたちは、寄り集まって互いに慰め合っていれば良い−−終演早々に打ち上げの相談を始めた彼らを後に、私は足早に会場を立ち去るしかなかった。

(2月24日記)
2月26日(木) 19:00世田谷パブリックシアター
フォーサイス・バレエの5年ぶりの来日上演

「安藤洋子×W.フォーサイス」
[ Wear ] (2004)振付:William Forsythe
出演:安藤洋子、Amencio Gonzalez、Ander Zabala
[ (N.N.N.N.) ] (2002)振付:Forsythe
出演:Cyril Baldy、Gonzalez、Georg Reischl、Zabala(この4人を前提に作られている)
[ Quintett ] (1993)振付:Forsythe + D.Caspersen、S.Galloway、J.Godani、T.McManus、J.S.Martin
出演:安藤、Demond Hart、Jone San Martin、Fabrice Mazliah、Zabala
「フランクフルト・バレエ以後」に向かうフォーサイス
「日々のメモ」の書き込みなどでお判りのように、私は今回の公演に非常に期待してきた人間ではある。しかしながら、フォーサイスがやることならなんでも有り難がるような贔屓ではないし、「一見、テキトーっぽいが、彼がやることだから深遠な意味があるはずだ」などと懸命に好意的に解釈する気もない。

新作[ Wear ] はどう見てもやっつけ仕事でしかないし、[ Quintett ] は、10年前の傑作をまた見ることが出来て嬉しかったが、それでもフランクフルト・バレエに期待される水準を示すような上演からはほど遠かった。キャストに難がある。でも、そもそも今回の公演を、1999年の新国立劇場での来日公演や、それ以前のフランクフルト・バレエの来日公演と同列に考えてはいけない。公演名は「安藤洋子×W.フォーサイス」だ。「安藤洋子とフランクフルトのお友達」みたいなものなのだ。そう考えれば、[ Quintett ] でダナ・カスパーセンのパートを安藤が踊るという事態も、まあ、仕方がないのかと思えてくる。

[ Wear ] の上演分析をするよりも、今回のような公演が成立したこと自体を考えた方がフォーサイスの今を捉える手がかりとなるように思った。フォーサイスが「フランクフルト・バレエ以後」を迎えつつあること、そして、新しい活動スタイルを模索している段階にあり、未だに彼の才能を活かし切るだけの「フランクフルト・バレエ以後」の道を見いだせていないことが、そこから読みとれるのではないか。

[ Quintett ] と[ (N.N.N.N.) ] を比較すれば(その先に[ Wear ] をとりあえず置いてもいい)、彼が脱バレエを図ろうとしている様子がうかがえる。[ Quintett ] は5人のダンサーがバレエのパを完璧に消化していて、リフトも自在にできることを前提とした作品である。この作品が美しさは、ムーブメントやそれを助けるコーディネーションの部分部分に備わる均整美によって保証されているのだ。だから安藤の登用はどう考えても妥協の産物としか思えない。何故なら彼女の異質な身体の導入は、いわば絵の具の澄んだ色だけを使って描かれた抽象画のうちの一本の線をマジックペンかなにかで置き換えることで生じるような、作品全体に対する強い違和感を導入するのだが、彼女の受け持つパートは、もともとそうした企みに相応しいものとして作品の中に配置されていないからだ。

もし、そうした効果を有効に生んでいるダンサーがいるとしたら、それは、これがバレエダンサーかと驚くほどに重量感が際立っていたDemond Hartではないか。彼の存在は[ Quintett ] をなにか違う作品にしている−−と言って大袈裟なら、コミカルな方向へシフトさせているように感じた。初めて聴いたときは衝撃的だったギャビン・ブライヤーズの「Jesus' Blood Never...」が、流行によって耳タコ状態を経て今や萎びた曲としてしか響かないように、そして、終末感を演出すること自体が滑稽な身振りにしかなりえない状況を迎えている2004年の現在において、もはやこの作品を93年時点のようなトーンで上演することは不可能であろう。となれば、微笑を誘うような作品として上演するのは、むしろ正しいセンスと言えるかもしれない。ただ、繰り返しになるが、安藤の起用は、そうした演出からすらも脱線させてしまっていると思う。

[ (N.N.N.N.) ] には、フォーサイスの脱バレエの意志が現れていると思う。[ Wear ] と違ってこれはインプロの作品ではないが、CD-ROMが発売されて私たちも知ることができるようになった、"Improvisation Technologies"で解説された身体と空間に対する考え方の延長上で作られた作品のように見えた。あの考え方はバレエからスタートしているのだとしても、バレエとは関係ない形で使うことが可能な技法である。これは、身体をあくまでフィジカル(運動機能的)な視点から捉える立場に立ち、尚かつムーブメントを見せることに主眼をおく場合に、舞台装置や映像などの助けを一切借りずに(音楽にTom Willemsのクレジットがあったのに無音であった)何が出来るか、という設問に対する、一つの洗練された回答であろう。しかし、こうした限定的なジャンルの保守性のなかに、果たしてまだまだ鉱脈が潜在しているのか、はなはだ怪しい気がした。素の舞台に立つ4人の男たちはどんなに忙しく動き回っても自分たちの存在で舞台の空間を支配することができず、どこか頼りなげな印象が絶えず伴って見える。バレエという土壌から離脱したときに、フォーサイスは依然として輝きを持続させることが出来るのか、不安にさせる作品だ。希望としては、これは一つのテクニカルな予備実験でしかなく、これからダンサーに対しても舞台に対しても様々な要素が加わって、ダンスの新局面が誕生していくということであってほしい。

余談だが、マギー・マラン[ 「拍手は食べられない」 ] を連想させるシーンがあった。下手の手前で2人のダンサーが絡んでいると、下手からダンサー2人が歩調を揃えて並んで登場し、既に舞台にいるダンサーたちと鉢合わせて、そのまま退場していくというシーンだ。[ (N.N.N.N.) ] の初演が[ 「拍手は食べられない」 ] の初演の2カ月後だから、これはフォーサイスの茶目っ気なのかもしれない。

[ Wear ] は[ (N.N.N.N.) ] とは別の意味でフォーサイスの今後に不安を抱かせる作品だった。フォーサイスがアフタートークで行った説明によると、南極点到達をアムンゼンに先を越され、引き返す途中で遭難してしまったイギリスの探検家ロバート・スコットを題材にした作品だという。彼はこのシリーズを20年作り続けていて、8作目に当たる今回の作品が終章なのだそうだ。「freeze」が貫くテーマで、客席に設置されたコンソールに陣取ったフォーサイスが、リアルタイムで舞台の上のダンサーたちに無線で指示を出す。ダンサーたちはそのたびに今やっている行為を中断させられる。見ていて度重なるダンサーたちの唐突な静止に、まるで「だるまさんが転んだ」をやっているみたいだと思ったが、後から聞いたこの説明で仕掛けが判った。インプロ集団を外部から操作するプロンプター?・・こんな仕掛けって、今さらどうなんだろう? フォーサイスはもはや過去の人になりつつあるのではないか、という疑惑が首をもたげる。

この作品で安藤は、巨大なアフロヘアーのウィッグを被り、ぶかぶかのアノラックに身を包んで登場する。まるで3等身の着ぐるみ人形のようだった。その姿は、細くて硬い棒のごとき四肢が暴走しているような、彼女の独特な身体の動きにとてもよく似合っていた(アフタートークで野田秀樹は「痙攣する身体」と評していた)。フランクフルト・バレエや日本に来日するようなヨーロッパのバレエ団では決してお目にかかれない身体だ。そんな彼女を見ていると、この作品には彼女が必要であることが感じられなくもない。それは、フォーサイスが彼女の生かし方を知っていたということだろう。けれども、私にはよく判らないのは、おそらく世界中からダンサーをハンティングできるポジションにいるフォーサイスがバレエダンサーとは異質な身体を求めたときに、何故彼女でなければいけなかったのか、ということだ。[ (N.N.N.N.) ] が一つのテクニカルな予備実験なのかもしれないように、安藤の起用も、「フランクフルト・バレエ以後」を模索する、一つの予備実験であるのかもしれない。

(3月20日記)
ダンス鑑賞の感想 2004 1-3月
ランコントル NIPAF'04 安藤洋子×フォーサイス