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October
10月24日(金) 20:00planB
櫻井郁也[ 光年呆呆〜非暴力と不服従へのダンス第4番 ]
音楽・音響や空間の使い方など、作品構成において櫻井が手練の作家であることは間違いない−−もっとも、それが彼の掲げるテーマにおいて有効であるかどうかは別問題ではあるが。しかし、なにより問題なのは、最大の弱点が彼の身体であることだ。ほとんどそれだけで作品を作り上げてしまっているかのような音楽と音響のコラージュに気分を委ねてしまうのを抑制し、彼が意味ありげにやってみせる諸々の儀式的な行為−−ロウソクに火を点けて、水に浮かべる。天を仰ぐ、床にひれ伏す。などなど−−からも心理的な距離をとるとき、いったいどんな身体が見えてくるのか。
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November
11月7日(金) 19:30ベニサン・ピット
上村なおか[ 沈める珠 ]
私が一番魅力的に思えたのは、冒頭の15分だ。赤いタートルネックのセーターに、緑色の柄の白いスカートを履いて、舞台の奥(*1)から登場。じっと掌を見る、見えない髪を梳かす、などの情感を湛える仕草が現れては、それがどこか体操的なダンスの振りによって繰り返し掻き消されていく。あるいは、じっと耐えているような状況から、ひょいと外れて動き始める。その振幅を見ていると、即興性に富んだ随筆を読むような面白さが感じられる。こうして、手前のスペースへと活動の領域を徐々に広げていき、彼女の移動とともに寒々しかった暗い空間の中に暖かみも広がっていく。この間、ほとんど無音なのだが、頭上の方で時折、水中で聴く金属音のような、何かが擦れるような音がする。天井の高いベニサン・ピットのスペースの特徴をうまく使って、観客も彼女と一緒に水底に沈んでいるような気分にさせてくれる。彼女の捕らえても捕らえてもするりと逃れていくようなダンスは、深い水底の音のない世界、時間の円環する世界にとてもよく似合う。ただし、途中から入る青色の照明は駄目押しが過ぎて蛇足だと思う。
(*1)ベニサン・ピットの舞台は、手前の広いスペース(この床の片側に客席が仮設されている)とその奥の1m位高くなった部屋のようなスペースの二段構造になっている。段のところの中央には柱があり、客席から見ると奥のスペースは二分割されて見える。客席を含む手前のスペースは、床面積の割に天井がもの凄く高い。
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December
12月6日(土) 14:30世田谷パブリックシアター
伊藤キム+輝く未来[ 劇場遊園 ]
ロビーやホワイエを上演スペースとした15分間の第1部は、「カラダ市場」などといった大層なネーミングが付けられていたりするのだが、実際にはただ、場所に関わらず彼らは同じことをやれるということを示したに過ぎなかった。ただし、4フロアで同時上演しているので、私が肝心なところを見逃しているのかもしれないが。それにスペースに対して観客が多すぎて、混雑して見づらく、移動しづらかった。この点、もっと企画段階で配慮されるべきだ。
構成面では、後半、客席を34人のパフォーマーが暴れ回り一旦カオティクになってしまうのだが、最後に冒頭のシーンへと戻っていくところが彼らしい。冒頭のブルックナーを連想させるトレモロに教会の鐘の音がかぶさるところとか、男女のデュオになってのパイプオルガンの音色(バッハのコラールで聴かれるようなストップ)のメロディーとか、音楽はクラシックな雰囲気が意識的に選択されている。彼のクラシック好みは今に始まったことではない。彼の出世作[ 生きたまま死んでいるヒトは死んだまま生きているのか? ] (1996)ではラヴェルのピアノコンチェルトだった。その時、股間を押さえる裸の男たちが背後に並んでいても、決してお下劣にはなってしまわないのは、彼が本来持っている品のなせる技だろう。伊藤は同世代の中ではかなり古風な美意識の持ち主で、彼の本来の資質は、決してアウトサイダー的なバッド・ボーイなどではない。
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