ダンス鑑賞の感想 2003 10-12月
伊藤キム 上村なおか 櫻井郁也
October

10月24日(金) 20:00planB
櫻井郁也2年ぶりのソロ公演の初日

櫻井郁也[ 光年呆呆〜非暴力と不服従へのダンス第4番 ]
構成・振付・出演:櫻井郁也
美術・衣裳:櫻井恵美子
踊りへの愛に優る作品作りへの情熱
「9.11」を契機に始めたシリーズの第4弾。休憩を挟んで35分+40分の2部構成で、近頃には珍しく「言いたいことが山ほどあるのだ」と思わせる公演だった。全体を通して、絶え間なく流れる音楽と音響のコラージュがドラマを見事に形成し、長丁場の舞台を飽きさせない。空間の使い方も考え抜かれていて、決して広いとは言えないplanBの空間を見事に使い切っている。
第1部では、中央奥に帯状の白い布が天井より下がり、その下手前に水を張った四角い金属製の盆が置かれているのだが、櫻井はこの水盤の周りを反時計回りに巡って、再び反転するというシンプルな流れを立ち位置の骨格として採用した。このプランは成功していると思う。そして、観客の目前に立つときは一個の見捨てられたよるべない肉体と見え、水盤の向こうへ遠のくときはさまざまな無名の情念が生み出した幻影と見えるその様は、わずか5メートルもない舞台に深い奥行きを成立させた技のなすところだろう。第1部では水平面での移動が意識されていたのに対し、第2部では垂直方向が強調される。小石を途中に括り付けた数本の紐が天井から格子点を形成するように吊され、まったく異なる空間が立ち上がる。ダンサーの天井を仰ぐポーズも印象的。地上の煩悩にまみれた状況から、天上を志向する浄化された心境へ−−オーソドックスとすら言いたくなるような良くできた作品構成だ。

音楽・音響や空間の使い方など、作品構成において櫻井が手練の作家であることは間違いない−−もっとも、それが彼の掲げるテーマにおいて有効であるかどうかは別問題ではあるが。しかし、なにより問題なのは、最大の弱点が彼の身体であることだ。ほとんどそれだけで作品を作り上げてしまっているかのような音楽と音響のコラージュに気分を委ねてしまうのを抑制し、彼が意味ありげにやってみせる諸々の儀式的な行為−−ロウソクに火を点けて、水に浮かべる。天を仰ぐ、床にひれ伏す。などなど−−からも心理的な距離をとるとき、いったいどんな身体が見えてくるのか。
いや、ダンスに儀式的な動作があっても一向に構わないのだが、動きが十分に様式化されていないことが問題なのだ。彼のポーズやステップ自体には面白みがあるが、それを遂行する過程で現れる身体の動きそのものは実に普通である−−早い話が日常で見かける普通の身体なのだ。それは、彼が行為の意味性に強く囚われてしまっているからではないだろうか。例えば、両手を広げてみせるときは、両手を広げるという行為が暗示する意味性にもっぱら自分の表現を託してしまっているために、それを遂行する身体そのものが持ちうる可能性−−多義的な喚起力に対する注意が十分に払われていないように思われた。しかし、ダンスの力は後者にこそあるのであって、ダンスはさまざま行為を記号的に提出して意味伝達する場ではないだろう。
さらに言えば、下半身が踊りから取り残されてしまっているようなところも気になった。例えば第2部の後半で、延々と回り続けるシーンがあるが、その時の足さばきはダンサーのものとは思えないほど雑に見えた。ただ回るという行為がありさえすればよいのか。頭のてっぺんから爪先まで、身体の丸ごとが観客に提示されているのではないのか。これは推測だが、彼の場合、自分の身体を踊る身体として練り上げていくことよりも、作品を創ることへの熱意が先行してしまっているのではないか。持てる音楽や空間演出の豊かな才能がかえって災いしているのかもしれない。そんな気がしてならなかった。

(10月29日記)
November

11月7日(金) 19:30ベニサン・ピット
上村なおかソロ公演第3弾の初日

上村なおか[ 沈める珠 ]
構成・振付・出演:上村なおか
水底の舞姫は自分のタイミングで舞う方がよい
その安定感、その動きに対する美意識の所在に、バレエの出自が刻印されている。そこが彼女の美点なのだが、反面、その出自からの遠心力を志向する場合には、そこがブレーキとして作用してしまっている。言い換えると、何をやっても上品な印象があって好感が持てるのだが、そこはかとなく残るバレエ的美意識に抗して動こうとするとき、どうにも中途半端なものに留まってしまうのだ。[ 沈める珠 ] は長い暗転を挟んだ2部構成で60分強の作品。無音か無拍状態の音の流れている部分(A)と、音楽がビートを刻んでいる部分(B)が交互に現れる(最後だけ反転。A-B-A-B:A-B-B-A)のだが、自分のタイミングで動いている(A)パートの方が断然良い。

私が一番魅力的に思えたのは、冒頭の15分だ。赤いタートルネックのセーターに、緑色の柄の白いスカートを履いて、舞台の奥(*1)ら登場。じっと掌を見る、見えない髪を梳かす、などの情感を湛える仕草が現れては、それがどこか体操的なダンスの振りによって繰り返し掻き消されていく。あるいは、じっと耐えているような状況から、ひょいと外れて動き始める。その振幅を見ていると、即興性に富んだ随筆を読むような面白さが感じられる。こうして、手前のスペースへと活動の領域を徐々に広げていき、彼女の移動とともに寒々しかった暗い空間の中に暖かみも広がっていく。この間、ほとんど無音なのだが、頭上の方で時折、水中で聴く金属音のような、何かが擦れるような音がする。天井の高いベニサン・ピットのスペースの特徴をうまく使って、観客も彼女と一緒に水底に沈んでいるような気分にさせてくれる。彼女の捕らえても捕らえてもするりと逃れていくようなダンスは、深い水底の音のない世界、時間の円環する世界にとてもよく似合う。ただし、途中から入る青色の照明は駄目押しが過ぎて蛇足だと思う。
それに続く(B)パート、特にもっと後になって出てくるアップテンポでビートを刻むような曲の部分においては、彼女の動きのキレの悪さ、スピード感のなさがはっきりと出てしまい、残念に思われた。幻想的な導入部と終結部で縁取られた作品の中間部では、多彩なシーンを並べて変化に富ませたかったのだと思うが、今の彼女の場合、バラエティの豊さよりも、もっと自分の持ち味を徹底的に活かすことに重点をおいた方が良かったと思う。
長い暗転の間に、着替えて第2部が始まるのだが、ここはただずっと暗転している以外に、もっと別の気の利いたやり方はなかったのか。第1部の後半はセーターとスカートを脱ぎ捨て、黒のビキニスタイルになる。そして、第2部ではそれに黒いブラウスと、黒いシースルーのふわっと広がるスカートを纏う。シックな衣裳が似合う。観客を挑発したり、自分を押し出していくタイプのダンサーではない。床に這いつくばっても、美しく上品さを失わない。自分の持ち味をベースにしながら、どうやって変化に富んだシーンを開発していくか−−その辺が、ソロ第4弾への課題のように思われた。

(*1)ベニサン・ピットの舞台は、手前の広いスペース(この床の片側に客席が仮設されている)とその奥の1m位高くなった部屋のようなスペースの二段構造になっている。段のところの中央には柱があり、客席から見ると奥のスペースは二分割されて見える。客席を含む手前のスペースは、床面積の割に天井がもの凄く高い

(11月15日記)
December

12月6日(土) 14:30世田谷パブリックシアター
客席やホワイエを使った公演

伊藤キム+輝く未来[ 劇場遊園 ]
構成・演出・出演:伊藤キム
振付:伊藤キム+輝く未来
合唱曲作曲・指揮:足立智美
楽曲提供:齋藤マコトほか
バッド・ボーイの楽しい遊び
今回の作品は、世田谷パブリックシアターという上演スペースを、通常の使い方をせずに遊ぶというコンセプト。伊藤キムはプログラムに「もともと僕はダンスの世界では異端児であり、海外では「bad boy of BUTOH」などと呼ばれるが・・・」と書いている。一昨年の創設されたばかりの朝日舞台芸術賞での寺山修司賞受賞、昨年の「日韓・日韓中PAC2002」での国際コラボレーション作品振付など、いまや彼の活躍は、世代の中核的な存在と彼を呼ぶに相応しいものにしつつある。でも、伊藤自身はそんな自分にちょっと当惑しているのではないか。プログラムの文章には、「自分はセンターにいてシーンを牽引していくような柄ではない。むしろ周縁に居るトリックスターが本分なのだ」と言いたい気持ちが滲んでいるように思えてしまう。
今回の[ 劇場遊園 ] は、まさにそんな想いで作られた公演ではなかろうか。ここには特に問題提起を孕むような実験精神もなければ、志の高い戦略も見られない。自身のソロもなおざりだ。本当に遊んでいるだけなのだ。その遊びは実に楽しい時間を提供してくれたが、やはり物足りない。

ロビーやホワイエを上演スペースとした15分間の第1部は、「カラダ市場」などといった大層なネーミングが付けられていたりするのだが、実際にはただ、場所に関わらず彼らは同じことをやれるということを示したに過ぎなかった。ただし、4フロアで同時上演しているので、私が肝心なところを見逃しているのかもしれないが。それにスペースに対して観客が多すぎて、混雑して見づらく、移動しづらかった。この点、もっと企画段階で配慮されるべきだ。
ともあれ第1部は「ついで」で、メインは第2部(60分)だろう。20分の休憩時間があり、その間に観客は、舞台の上に設営された客席と、2階3階の両脇の席へ移動する。上演スペースは、劇場が本来備えている客席と、舞台と客席の間に位置するかまぼこ型の前舞台(の撤去されたスペース)になる。
包丁を逆手に持つような使用方法にも関わらず、音響と照明は良くできていた。相当の苦労と工夫がなされたのではないか。反対に、舞台に本来備わっている装置を利用して、舞台の上の観客にもっと働きかけても良かったのではないかと思った。あるいは、パフォーマンスを舞台の上にまで入り込ませても良かったのではないか。それ以外にも、上演を体制付ける劇場という装置への問いを発する試みを探ることがいろいろと出来たと思われるが、伊藤は、観客席をいわば舞台装置に見立てることに徹したかったようだ。
もしかすると、第2部の冒頭−−幕が上がったときに、舞台上の仮設席に座る観客が受けるショック、笑いを誘うような違和感に、彼はすべてを賭けたのかもしれない。幕が上がって薄暗い観客席の空間が視界に広がると、そこには、一人一人の足下からの照明で浮かび上る深紅のワンピースを着たパフォーマーたちが散在していて、彼らは速いテンポで両手を振り上げる動作を繰り返している。その時、びっしりと椅子の並ぶその空間が、なんとも奇妙な空間に見え、その奇妙さを成立させるに至った劇場一般の歴史というものを一瞬だけ考えさせられた。この効果は、上演された劇場がもっと古いものだったら一層高まっただろう。それにしても、コンテンポラリーダンスの公演に来て、プロセニアムの前(本当は背後だが)で幕が上がるのを待つなんていう体験は、久しくないような気がする。
私は[ 階段主義 ] (2003)を見ていないので、伊藤が33人もの出演者を使いこなして作品を作り上げられるようになったことに少なからず驚いた。バッド・ボーイとして振る舞いながら、遊びを通して彼は彼なりに成長しているのだろう。足立智美の指揮による即興的な合唱パフォーマンスの挿入も、彼の遊び心がもたらした収穫の一つだろう。ただ、今回は幕間の余興のような状態に留まった。足立の足下にうずくまっていた伊藤は、結局最後までピクリとも動かなかった。
前舞台で行われた伊藤のソロは、天を仰いだり、プロセニアムの壁をなで回したりして、劇場空間へ関わろうとする意志こそ感じられたが、発展性に乏しく、彼のソロにしては期待はずれのものだった。

構成面では、後半、客席を34人のパフォーマーが暴れ回り一旦カオティクになってしまうのだが、最後に冒頭のシーンへと戻っていくところが彼らしい。冒頭のブルックナーを連想させるトレモロに教会の鐘の音がかぶさるところとか、男女のデュオになってのパイプオルガンの音色(バッハのコラールで聴かれるようなストップ)のメロディーとか、音楽はクラシックな雰囲気が意識的に選択されている。彼のクラシック好みは今に始まったことではない。彼の出世作[ 生きたまま死んでいるヒトは死んだまま生きているのか? ] (1996)ではラヴェルのピアノコンチェルトだった。その時、股間を押さえる裸の男たちが背後に並んでいても、決してお下劣にはなってしまわないのは、彼が本来持っている品のなせる技だろう。伊藤は同世代の中ではかなり古風な美意識の持ち主で、彼の本来の資質は、決してアウトサイダー的なバッド・ボーイなどではない。
にもかかわらず、彼がダンスメーカーとしてバッド・ボーイ的に振る舞ってしまうところは、ダンサーとしての彼が持っている魅力(過剰な自意識から生まれるユーモア)と表裏一体の関係にある。そして、彼のしなやかでほっそりした身体が、彼に少年的なイメージを与え、その魅力を一つのキャラクターとして際立たせているのだ。そんな彼の少年的な魅力を愛しつつ、いつまでこのキャラでやるつもりなんだろうという不安がある。1965年生まれだから、実際にはもう40近い年齢だ。そろそろバッド・ボーイというセルフイメージから脱して、持てる才能と資質に対する責務を果たして欲しい。

(12月14日記)
ダンス鑑賞の感想 2003 10-12月
伊藤キム 上村なおか 櫻井郁也