[1]1890〜93頃、ロンドン時代のアルベニス( scanned from Clark's "Albeniz")
[2]Clark, p.5. `a Don Quixote with the manner of Sancho Panza'. 原典はドイツの音楽学者 Edgar Istel(1880-1948)による。
[3] Albenizは1860年生まれ。伝記は彼の誕生日の前に出版された。
[4]「(アルベニス、グラナドス、ファリャの)3人とも若い頃にフェリペ・ペドレル(1841-1922)の教えを受けているが、このペドレルは作曲家・音楽学者で、スペインにもたとえばロシアやチェコなどに匹敵する「国民学派」の音楽が早く定着し、すぐれた成果が生まれるよう、ことごとに力を尽くした先駆者であった」増田義郎監修, 『読んで旅する世界の歴史と文化・スペイン』(新潮社, 1992), p.230.
[5]1868年にプリム将軍ら自由主義者がクーデターを起こし、女王イサベル2世が亡命。こうして一旦王政は廃止されたが、翌年の選挙では王政支持派が勝ってしまうという皮肉な事態となった。こうした出来事は、後述されるようにアルベニスの人生にも少なからず影響を与えている。
[6]バスク語はスペイン語とは全く違う言語で、インド=ヨーロッパ語族にすら属していない。バスク地方は、ローマ人をはじめ、歴史上、イベリア半島にやってきたさまざまな外部勢力に対して頑強に抵抗し続け、言語のみならず独自の文化を保っているという。
[7]クラークの本では Dolors Pascual i Barderaは名前だけで表記されるとき、 Dolors ではなく、Doloresと書かれている。
[8]ということは、当時のスペインの学校が9月始まりだとして、68年9月に8歳で入学しているということだろうか。そして、父と別れて、それより以前にマドリードに来ていたと考えるべきだろうか。
[9]従って、"the flight from home"と言われてきたとクラークの本には書かれているが、日本語の文献では「音楽院の寮から抜け出した」という表現もしばしば見られる。例えば「はじめに」で引用した「音楽史ものしり事典」がそうである。
[10]立石博高ほか, 『スペインの歴史』(昭和堂, 1998)など
[11]本によっては第2次カルリスタ戦争と読んでいる。これは46〜49年におけるカルリスタの活動を数えないことからくる相違と思われる。ここでは出版年の新しい前掲書『スペインの歴史』に従った。
[12]共和国政府は、73年6月8日に連邦共和制宣言をしている。着任時点で連邦と呼んでいいかどうかは筆者には判らない。
[13]‘Father, will you not place here| something of your inspiration?| am I nothing to you?| --nothing without application.| If God gives us genius,| He also gives us free will;| Nobody gets to the capitol| By the path of emptiness.| Son, you are no longer so young| That you know not how to meditate.| When I see you surrendered,| To art with lively faith,| In careless metre,| I will dedicate verses to you.’
[14]サルスエラは、歌とセリフと踊りからなるスペイン固有のオペレッタ。軽い内容の1幕物が主で、19世紀後半にマドリードで大変流行った。「1856年に建った現存のサルスエラ劇場が大きな役割を果し、オペレッタ風の軽く身近なテーマを扱った、親しみやすい1幕物の名曲が多く書かれて19世紀末からしばらくサルスエラの黄金時代が到来した」増田義郎監修, 『読んで旅する世界の歴史と文化・スペイン』(新潮社, 1992), p.228.
[15]Guerra y Alarco(')nが想定しているアルベニスのライプチヒ留学期間は9ヵ月だった。
[16]しかし、アルベニスの退学が父の失業より2週間ほど早いのは何故だろうか? 6月24日から学校は夏休みに入り、夏休み中に退学を申請した場合は、書類上、前学期の最終日が退学日となるということだろうか。
[17]ラ・グランハは、セゴビアの近郊で、フェリペ5世(在位1700〜24)の建てた夏の離宮があるところ。
[18]Morphyは、アルベニスがブリュッセル留学を終えた後もずっと、彼に対して助言や援助を続けた。クラークの本を読んでいると、時折引用されるMorphyがアルベニスに言ったり書いたりした言葉に出会う。それらは本当に彼のためを思っての親身な助言のように思え、それらを読んでいると、利己的な実父アンヘルに対して、むしろ Morphyこそが、精神的には、良き父親の役目を果したのではないかと想像したくなる。
[19]クラークはこのコンテストに関する段落の次の段落で、'Albeniz terminated his studies at the conservatory'と書いている。このピアノコンテストが卒業試験に相当していたように思われるが、「卒業」とは明言されていない。
[20]ここには、ボヘミア人への親近感とともに、彼が3年間ともに過ごしたベルギーの人々への違和感が間接的に現われている。こうした感情は、のちに彼がパリで暮らすようになってから、よりはっきりと語られるようになる。「純血」であることに価値を置く考え方は、やがてコスモポリタンとしての経験を積むうちに訂正されるだろう。
ところで、ここでロシアの作曲家たちもまた、スペインやスペインの音楽に魅了されたことを思い起こすと面白い。ヨーロッパの両端で、アジアとブレンドされた文化が惹かれ合っていると言ったら乱暴だろうか。
[21]後に紹介するが、アルベニスはある時期から無神論者となり、それは死ぬまで変わらない。
[22]チップを払わなかったのは、アルベニスが経済的に厳しい状態にあったからだと想像することもできるが、クラークの伝記全体を通して、彼は一貫して他人に対して太っ腹である。むしろ、バルセロナでは、チップを払う習慣がなかったということが影響しているのかもしれない。
[23]1865年4月5日、53歳のリストは、バチカン宮殿で叙階を受け聖職者となっている。しかし彼は心を入れ替えて聖職者としての勤めに励んだわけではなく、相変わらず社交界に出入りしていた。やがて女性とのスキャンダルを起こし、74年には相手の女性に暴露本を出版されて話題を呼んだりしている。80年当時のアルベニスがピアニスト・リストに私淑していたとしても、”聖職者リスト”に対して共感していたとは限らないだろう。参考文献/エヴェレット・ヘルム「フランツ・リスト」(野本由紀夫訳、音楽の友社, 1996)
稲倉達