宮古島


 宮古島には98年と2000年に、那覇・石垣間のフェリーで途中下車したときに訪れた。どちらも数時間しかなかったので、平良市街地を歩いてまわっただけである。


下から見た仲宗根豊見親の墓
仲宗根豊見親は15世紀から16世紀初めにかけて宮古を支配していた。
墓の構造は、宮古在来の「みゃーか」の形式と、
沖縄本島の形式を取り入れた折衷の形となっている。
仲宗根豊見親は1500年、
八重山のオヤケ・アカハチの乱の鎮圧に首里王府軍の先導をつとめ、
また島内においては井戸、道路、橋梁などの開削を進めたことでも知られる。

上から見た仲宗根豊見親の墓

知利真良豊見親の墓
仲宗根豊見親の三男。
知利真良豊見親は1500年のオヤケ・アカハチの乱に父とともに従軍、
のち次兄祭金が4年在勤した後の八重山頭職となり、その地で没したと伝えられる。
この墓も宮古在来の「みゃーか」から横穴式にうつる中間形式を示している。
この墓は平良頭職をつとめ、杣山惣主取でもあった宮金氏寛富が
1750年ごろ築造したと伝えられる。
その子孫は宮古では宮金氏、八重山では長栄氏と称している。


人頭税石(にんとうぜいせき)
1637年、琉球王府は先島(宮古・八重山)に人頭税制を施行した。
この税制は頭数(人口)を基準に税(粟・織物)を賦課するもので、
役人の見立てにより税を納めさせられたが、
1659年には頭数の増減に関係なく「定額人頭税」制となり、
1710年には年齢(15〜50才)を基準として、
税(男は穀物、女は織物)の賦課が行われるようになった。
この人頭税制は1903年(明治36年)の新税法施行に伴って廃止された。
なぜ、この石柱が「ふばかり石=人頭税石」と呼ばれたのか定かではないが、
人頭税が年齢制になる以前、役人の見立てで税を賦課されていた頃、
あるいはそれ以前に、「あの石の高さ程になると、税を賦課される」という
目安のようなものであったかもしれない。
今日、この石柱については「人頭税石」のほか多くの説がある。



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